◎国内の新しい動き


さいはての地、酪農にかける夢

農政評論家 板橋守邦


さいはての地、酪農にかける夢

 当レポートは、過酷な条件下で、81頭の乳用牛を飼育し、低コスト化を図る北
海道・稚内市の高橋夫婦の経営をルポ願ったものである。

苛烈な気象条件
  さいはての町、稚内。鉛色の雲の合間をぬって飛行場がみえてきたとき、明るい
道南や、道東とはっきり違う荒涼とした光景が展開されていた。晴れた日には40
キロ沖に、サハリンが見えるというが、ガスがかかって何も三重内。海際にばらば
らに這いつくばっているのが稚内市の中心街だ。

  市内とはいうが、上豊別はなだらかな丘陵をいくつもこえた酪農郷である。正確
にいうと中心街から南へ6キロ、海の街稚内を感じさせない避地でもある。どの丘
も、上から下まで牧草地で、視界に入るのは、ただ一軒の酪農家だけ。つぎの農家
をみようと視線を180度回しても、ほとんど見えないという広莫としたところだ。

  この上豊別の酪農家高橋和男(35)かよ子(33)夫婦を訪問したのは、稚内
空港に着いた翌日の10月13日である。前日とうって変って青い空が見え、海の
法家らわいてくる羊雲がつぎからつぎへと走り、牧草地はそのつど、緑色に、黄色
に輝いている。

  「これが最後だべな」和男さんは秋の日のぬくもりを浴びながらいう。ことしの
草の収穫も終って、冬ごもりを待つ。そんな感慨がこめられている。秋も深まると
農家の主人は恐らく同じような気持ちになると思われるが、ここ稚内では、もっと
痛切なのだ。変りやすい海洋性気候の影響で、10月末になると、すぐミゾレやア
ラレが降る。そして粉雪が散らつき、12月から2月、3月までやたらブリザード
が吹き荒れるからだ。

  厳冬の季節にはマイナス30度まで下ることもあるという。夏から初秋までの爽
快な気分が一転、人間を閉じこめる寒冷の“檻”に変るのである。ことしも無事に
終ったという満足感は、高橋夫婦にとって殊更の重みをもつ。それほどに、この土
地の条件は苛烈なのだろう。

父母とともに入植
  高橋和男さんは、8人兄弟の末っ子で、生まれるとすぐ父母とともに、この地へ
入植してきた。25ヘクタールという土地は、内地からみると羨しいほどの広さだ
が、重粘土の褐色の土地はやせており、おまけに乳牛の数も少ないから、子沢山の
家族を養えない。父は屋根ふきの仕事をし、母が乳をしぼるという苦しい暮らしだ
った。兄姉はつぎつぎと外へ出るなかで、気がつくと和男さんは母とともに10頭
の牛を世話する酪農が天職となっていたのである。

  おだやかな高橋少年は、無口で働きものの牛が何よりも好きだった。母の手伝い
をしているうちに、牛から離れられない自分を認識すると黙々として仕事に打ち込
んだ。はたからみると、親の手伝いをよくする孝行息子ととられるかもしれないが、
おかげてよその家によくある反抗期もなく、母も息子の天性を理解し、経営をまか
せたことが、素質を大きく伸ばす原動力となっている。

奥さんは大学出
  和男さんは、4Hクラブや酪農青年会に積極的に参加し、地域でもしっかりした
考えをもつ青年として知られるようになる。他人の話もよく聞くし、無口だが、シ
ンの強い性格が、自然に信頼を集めたものだろう。こうした地道な活動を通じ、こ
の地域では珍らしい大学出のお嫁さんを手に入れるのである。

  かよ子さんも天塩生まれの酪農家の娘である。酪農家同志の結婚なら、何の不自
然もないとみられるかもしれない。だが彼女の場合、実家の酪農が嫌いで家を出る
という屈折した過程がからんでいる。かよ子さんの父は、戦後シベリアに抑留され、
昭和30年に帰国した。天塩原野の開拓のさい最初の入植者となったが、酪農政策
以前の段階であるから、高橋さんの家族と同様、塗炭の苦しみを嘗めたことはまち
がいない。

  彼女はとくに母の苦労をみるにつけ、どうしても「性に合わない」と思いこむ。
地元の高校を卒業し、東京農大栄養短大に合格したのを機に家を飛び出す。実家に
もそれほど余裕はないから、新聞の奨学生となった。そして新聞の朝刊、夕刊を配
達しながら自活する。実家の酪農もつらい仕事であったが、新聞配達も楽なもので
はない。

  がんばり屋の彼女は2年間辛抱して卒業にこぎつける。ここでえた教訓は、せせ
こましい大都会の生活では生きていけないことと、人に使われる生活では希望がな
いということである。気候がどんなに厳しくとも、降るように星が輝く故郷に帰ろ
う、という決心をして、実家に戻った。20歳のときである。

  かわいい子には旅をさせるべきである。彼女は家で目の色を変えて酪農の仕事に
取り組んだ。そして4Hクラブなど地域の活動にも参加したことはいうまでもない。
そして実家の知り合いの紹介で和男さんと知り合ったという。婚約時代は100キ
ロも離れた道を相互に頻船に往復し、結婚にこぎつけた。

農地面積を50ヘクタールに倍増
  かよ子さんは「親にたより切っている青年ばかりのなかで、23.4歳で独立し
ているのは彼だけだった」と述懐する。やる気十分の奥さんと結ばれた和男さんは、
本格的な規模拡大に乗り出す。近所の離農跡地を購入して交換し、農地面積は50
ヘクタールに倍増した。牛もメスが比較的多く生まれたこともあって順調に拡大し
ていく。形だけは規模拡大に向っていたが、厳密に損益計算してみると、さっぱり
利益が出ない。その最大の理由が、500万円を上回る負債の償還金であり、購入
飼料費などさまざまな費目が積り積って“利益なき繁忙”につながっていたのだ。

  若い夫婦はがく然として、いまのことばでいう減量経営の戦略に取り組む。無理、
ムダはないか。それこそ、骨までけずる経営建て直しの検討が行われた。その基本
的な考え方は、借金経営にたよる「希望のなさ」を克服するにはどうしたらよいか、
が眼目であった。規模拡大に伴って、経営基盤につながる土地購入費や、大型機械
の購入費などは必要で不可欠である。

夫婦で完全分業体制
  それ以外のものは、徹底的にぜい肉を落とそうというのが夫婦の合意だった。二
人は、それぞれの担当をきめ、その分野では責任をもって事態を改善することを誓
いあった。これが和男さんのいう「主任制」で、かよ子さんは搾乳、乳牛管理、ご
主人は土地、土壌など外の仕事の管理である。恐らくどこの酪農家も、主人がすべ
ての采配を振い、主婦は経営者の指示に従って働くのが通例だろう。ところが、こ
の夫婦は完全分業体制を確立し、対等の立場で経営を論じあったのである。

  仲のよい夫婦といっても、それぞれ個性があるし、まして子供をかかえ、主婦も
兼業するわけだから、経営論理と家庭の立場は混線しやすい。エキサイトすること
も再三あったが、和男さんは経営再建の基本線は譲らないものの、妻の主張の大筋
を認めた。こうして完全分業体制は、着々と成果をあげていくのである。

質素な住宅、畜舎
  二人の努力がいかにモーレツであったかは、周辺の酪農家と比べるとよくわかる。
住宅の近くに傾きかけた家があったので、離農農家の住宅かとたずねると、かつて
義母と住んでいた家であるという。高橋さん夫婦のいまの住宅もペンキが剥げて、
これが粗収益何千万円もあげる地域有数の酪農家の住宅とはとても思えない。畜舎
も、育成舎も、かなり古色蒼然としたものだ。子牛を育てるカウハッチも、古材を
つなぎ合わせた不揃いなもので掘立て小舎と変らない。

  酪農家の冬の生命線にもたとえられるサイロも、根釧地方にみられるタワーはな
く、手作りのトレンチ式が並んでいるにすぎない。その代り、パワーシャベル、大
型トラクター、ダンプカーなど必要機械は、ピカピカして格納庫に鎮座している。
失礼かもしれないが、青、赤、緑などカラフルな、ヨーロッパ風のいかにも格好の
よい酪農家がこの辺では多いなかで、高橋さんの本拠が一番質素に思えたのである。

100キログラム当たり生産費は4860円
  必要なものにお金をかけるのはやむをえないが、不必要なものは一切排除すると
いう二人の合理的な経営が実は結びはじめたのは昭和60年前後からである。乳牛
飼養頭数81頭(成牛換算62頭)、農業所得率32%、100キロ当り一次生産
費4,863円、総生産量335トン、一頭当たり乳量7,802キロというのが
61年の経営実績である。

草作りは和男さん
  高橋さん夫婦の成果を、宗谷北部地区農業改良普及所稚内駐在斎藤悟郎主任は
「乳牛の飼養に関係する技術的な面と経営的な部門が見事に連動した結果である」
と総括する。まず技術面では、自給飼料はチモシー主体で、マメ科はカリフォルニ
ア・ラジノクローバをつくっている。チモシーは管理しやすく、生育も早く、オー
チャードより乳牛の嗜好性もよいからだ。かつてこの地方でもトウモロコシのサイ
レージが盛んだったが、早霜の被害にあうことが多く、いまではごく一部にしかつ
くられていない。

早刈りによる良質牧草の収穫、調整
  この分野は和男さんが担当しているが、牧草の乾草とサイレジーの二種だけをつ
くる。自給飼料生産のポイントは早刈りで、乾草、サイレージともに栄養価の高い
良質なものを確保している。この地方は7月ごろに雨が多く、刈り取ったあとの乾
燥がなかなかうまくいかない。そこでカビや熱の発生させることが多い。牛はこう
いう草を食べないし、結果として泌乳量を落とすことになる。

豊富な粗飼料生産地帯
  そこで乾草つくりには、とくに念を入れている。しかし飼育頭数が増えてくるか
ら、どうしても乾草が不足する。そこでロール百個をこの年は購入し、若干、乾乳
牛に使用してきた。和男さんによると、牧草地の面積を増やすより、購入した方が
効率がよいという。というのは、この地方は乾草に余裕があり、「買った方がよい
ものを選べる」からで、将来は300個くらい買うようになるだろうという。

早めの草地更新
  こういう具合だから、自給飼料つくりには非常に気をつかう。飼料畑はどれも5
年以内に更新しているし、投入される肥料の量も年々上昇している。牧草の収量も
10アール当たり4.5トンと目にみえて増えている。損益計算書によると購入飼
料費は、粗収益の23.5%とやや高目に出ているが、成牛一頭当たりの飼料作面
積が80アール、経産牛一頭当たり乳量7,800キロであることを勘案すると、
それほど高いとはいえない。これは裏を返せば、自給粗飼料の品質がよいことを物
語る。

乳牛管理はかよ子さん
  乳牛の管理は、かよ子さんの分野だが、飼料給与の年間計画(61年)は5月か
ら9月まで5カ月間は放牧、舎飼の時期は乾草毎日5キロを給与している。グラス
サイレージは年間を通じ毎日30キロ、このほか配合飼料7.5キロを与え、12
月から7月までビートパルプを2キロずつを給与したという。

  総乾物量(DM)は体重を平均650キロとして2.9%程度、泌乳初期には約
3.7%でTDNは75%となっている。一言でいえば良質の乾草、サイレージを
ふんだんに与え、この土地と牛の生理にあった飼料体系を確立したといえるだろう。
このほか乳牛の選択については、初産で6トン以下、経産で8トン以下を淘汰の対
象とし、乳牛全体の能力向上につとめている。これらのキメ細かな係数管理は、か
よ子さんの得意な部門で、草づくり主任の和男さんと、ことある毎に話しあって改
善、改良を重ねた結果である。

  和男さんは「どこの家でも、親方は全体のことはわかっても、個々の作業の中味
をよく知らない、しかし、うちはおかあちゃんの方が何でもよく知っている」とい
う。デリケートな雌牛の生理をよく知り、さらに経営管理の細部まで数字を詰める
から、管理者としては、わが妻とはいえ、なかなか手きびしい存在であることがわ
かる。こうしたお互いの気質を認めあって、とことん論じ合うことによってトータ
ルな経営成果が生まれるのであろう。

課題は借入金の返済
  経営再建はたしかに軌道に乗った。だが夫婦の夢を阻んでいるのが、高額の償還
金の重みである。二人はもう一段経営の改善を進めなければならない。「資金が足
りないとき、貸してくれるからといって安易に借金を重ねたが、あとでツケが回っ
てくることは考えなかった」(和男さん)「年間500万円の償還金といえば、考
えるほどこわいものですね」(かよ子さん)ということばに、企業感覚にめざめた
経営の実感があふれている。

  生乳生産量、年間450トンが目標
  トラクター(105馬力)、ロールベーラー、収穫作業機など主要な機械は揃っ
たし、育成舎など施設も大体整備がすんだ。もう特別新しい機械・施設は当分必要
ない。あとはこれらを大事に使って、農業収入をあげることだ。さしあたって牛乳
生産量を450トンにあげること、そのために飼料畑の収量を10アール当たり5
トンまで引き上げることが、短期の目標であるという。そして、「増やした農業所
得を償還金に繰上げに回し、10年かかる返済を3〜5年に短縮すれば、もっと気
分的に楽に仕事ができる」とかよ子さんはいう。

  二人が経営安定を急ぐのは、長男の和寛君(8)に酪農の楽しさを教え、後継者
にすることを期待しているからだ。ただあくせく働くだけの生活では、後継者は育
たない。借金の重みから開放されて、ゆとりのある生活をしてはじめてこどもが親
の生活をいいものだと認める。そのためにかよ子さんは「40までしぼれるだけし
ぼりたい」という。

牛のことを思うと経営は他人にまかせられず
  研究熱心な二人は、よりよい経営を求めてどこへでも出かけていきたい。たとえ
ば、かよ子さんはこの週改良普及所斎藤主任の紹介で、十勝の中札内の酪農家を訪
ねている。稚内よりはるかに自然条件、土地条件のよい十勝の酪農家を語る彼女に、
「なんでも人のものがよく見える」と夫は笑いながら応じ、「周囲の環境だけはき
れいにしたいな」と、とるべきはとる。

  本当は二人でじっくりすぐれた経営を見て歩きたいのだが、80頭以上の牛が残
っている以上、動きがとれないのである。この地方には冠婚葬祭のさいなど、お互
いにヘルパーをしあう慣習がある。しかし、万一乳牛に事故があっては取り返しが
つかない。責任感旺盛な二人は軌道に乗った経営を他人まかせにできないのだ。和
男さんは、米国の大規模経営を見てくるのが念願だが、目下の状況ではメドがつか
ない。本当は農協がこの種の問題でリーダーシップをとるのがスジであろう。が、
ここでは農協問題を論ずる場所ではないから、これ以上はふれない。

酪農は楽な仕事だ、そして夢がある
  牧草の仕事もすべて終り、広大な牧草は3月まで冬の季節に入る。牛肉自由化ス
ケジュール決定に続き、これから酪農製品への外圧が強まるだろう。順調な経営再
建に、さらに生産過剰やコストダウンの圧力がかかっている。自信をつけた二人は、
さしあたり若牛を売って、精鋭の経産牛によるフル生産をめざすという。長い冬ご
もりは、夫婦の未来への設計の季節なのだ。「酪農は楽な仕事だ。そして夢がある」
つぶやくように語る二人のことばが、耳にやきついて離れなかった。


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