★巻頭言


いわゆる消費者ニーズと川下からの発想について

農業総合研究所経済政策部長 小野寺 義幸


事業団への提言

 こうした論稿の常套スタイルには反するが、本紙(つまり畜産振興事業団)に対
するお願いと言うか、提言めいたことから始めて、以下、順次その理由を明らかに
する形で表題の問題に関わって研究者の端くれとして日頃考えていることを述べて
みたい。

 先ず、本事業団独自の「畜産物消費動態統計調査」のようなものの実施を提案し
たい。その最大の理由は、旧態依然たる公式統計のアベイラビリティ(有効性)の
低下にある。農業も消費者ニーズへの対応が必要だと言われ、或は川下からの発想
が大切だと言われるようになって久しい。が、いっこうに羅針盤らしきものが開発
されない。発見されない。それはそうだ。経済社会構造がこれだけ変わってしまっ
たのに、指定統計類の仕組み(制度)は全然変わっていないのだから。例えば、現
在、百貨店の売上げもチェーンストアの売上げも実質ベースで好調に伸びており、
新車登録にいたっては前年を3割も上回っているのに、『家系調査』の実質消費支
出の伸びはと言えば前年比マイナスを続けている。マクロ的には「いざなぎ景気」
にも迫ろうかという内需中心の息の長い景気拡大が続いており、それは実質賃金の
堅調な伸びとしてミクロ経済にも反映されているのだから。『家系調査』の数値は
明らかにおかしい。企業の交際費の支出伝々と言うのは詭弁に過ぎない。

 いろいろと言われているが、「戸」から「個」へと消費の主体が変わっているに
もかかわらず、いまだに「家計」という虚構の消費主体にしがみついていることが、
『家系調査』のアベイラビリティを低下させている最大の原因であることは疑う余
地がない。シングルズ(結婚しない男女)が増えているばかりでない。いまや一つ
の世帯でも財布が二つと言うのは常識で、なかには三つ以上と言うのも珍しくない。
2〜3回に一回は外でメシを食うと言うのも常識で、家の中で家族揃ってテーブル
を囲むなどというのは、タケシやタモリのオチョクリ番組の好餌でしかないのであ
る。これらの事情は、畜産物(同加工品)の家計での消費動向と、実需者(メーカ
ー、外食産業等)サイドでの供給動向との齟齬としても日常的に観察されていると
ころである。

あえかな消費者ニーズ

  さて、農業者であろうが、商工業者であろうが、モノを作る側(或は供給者)が、
いま一番困っているのは、消費者ニーズの捉えどころのなさであろう。なかには、
流通業者などによって創られた彼らの経営上のニーズ(フィクション)を、消費者
ニーズとして押し付けられている面も見受けられる。だから、消費者ニーズとは何
かと言う以前に、先ずもってその情報が何処から発せられているのかを見極めるこ
とが重要となっている。

  実際問題として、細やかに需要が発見できるのは、企業とりわけ流通業者や外食
業者といった消費者に近いところにいる者である。生産者から見ればその生産物を
買ってくれる人、つまり実需者なわけである。とりあえずこの情報を速やかにフィ
ードバックして貰うだけでも、生産の現場(農畜産業及び食品メーカー)ではかな
り貴重である。そこで第二の提案が「畜産物の実需者動向調査」の実施である。

  下の表は、食品メーカー500社ほどから回答頂いた「輸入原料を使用する理由」
である。そこには、価格の問題とともに、国産原料のないことがクローズアップさ
れている。だが、この中には、どうやら情報のフィードバック機構が存在しないこ
とも含まれているようである。
輸入原料を使用する理由 優先順1位(%) 優先順2位(%) 総合順位(%)
価格が安いから 27.1 13.0 30.4
価格が安定しているから 2.1 4.9 4.2
安定した数量が入手出来るから 13.9 25.4 24.2
品質が良く安定しているから 3.6 8.3 7.0
国産原料は殆ど無いから 26.7 12.4 19.7
その他 2.7 4.7 4.5
不明 23.9 31.3
  ところで、いわゆる消費者団体なるものの存在も、消費者ニーズの把握にかかわ
っては厄介な問題である。彼ら(彼女たち)の母集団としての曖昧さ(偏頗さ)は、
時として消費者ニーズを或種のイデオロギー化さえしてしまうことがある。特定の
農畜産物以外は食料として認めないとか、価格のバロメーター機能を完全否定する
とか、自家撞着に満ちた栽培(飼養)方法の強制などなどである。これらは客観的
にみて(善悪好嫌の別において)、決して現代日本人の食に対するニーズを現わす
ものではない。

  所詮、人間と言うのは、欲望と情道の動物でしかない。理性などと言うのは近代
ヨーロッパ社会が生み出した自己強制以外のなにものでもないのだ。かく考えれば、
合理的に行動する経済人の存在などというのは、例え教科書上の仮定と言えども怪
しく覚えて来る。いわんや食い物の世界に於ておや。

食のトレンド
  我々も、食生活や食料消費の動向については、その構造的側面を含めて、多面的
にアプローチしている。既存の統計の塊集、解析はもとより、アンケート調査、ヒ
アリング調査などなどである。しかし、いま一つの消費者の実像が掴みかねている。

  そこで大胆に、経済学的アプローチ以外のところに踏み出す試みも行っている。
特に一昨年来、牛肉輸入の自由化がらみで、関係業界や若いマーケッターの方々か
ら、最近の食生活の動向や消費トレンドについて広範に意見を伺う機会があった。
そこでの印象を雑感的に羅列すれば、現在の食生活、食文化、食マーケットは以下
のように動いているらしい。

  先ず、いまや主婦と呼ばれる人々にとって、食事の材料を買いに行くことさえも
苦痛になっているらしい。もとより若い主婦は和風惣菜など作れない。つまり「ケ」
の料理が作れない人が増えている。だから、半加工業、惣菜業が隆盛なのである。
またCVSやSM等の冷蔵庫化が進んでいる(即ちすぐ使える、すぐ食べられるも
のが売れ筋となる傾向にある)。これに外食というものが加われば「漂流キッチン」
という言葉も宜なるかなと思われる。どうやら、いままで主として食事作りに当た
っていた人(つまり主婦)のノウハウが、そのまま企業のビジネスチャンスになっ
ている。

  一方、ヤングの調理や食事はかなりイノベティブである。だいいち彼らの食機会
はセブンイレブン化(午前7時から午後11時迄の16時間化)している。昼はジ
ーパン姿でハンバーグを食べているかと思えば、夜はタキシードに着替えて一流レ
ストランに現れる。こだわりと手抜きの使い分けが、それだけ上手になっている。
また調理が嫌いな若者でも、労いをかける人がいてくれたり、イベント、レジャー
の場面となれば別らしい。つまり「ハレ」が日常化しているから、食うことに「わ
け」や「意味」が必要となっているらしいのである。「頭で食う時代」と言われる
ゆえんである。どうやら食うことにもストーリー性が必要であり、食事が若者の生
活編集の一部になりつつあるらしい。

    さらに「素食革命」とでも呼べるものが進んでいる。現代人にとっては、精白
されたコメでさえも、所詮は原料の範疇である。炊いたゴハンとなって初めて食の
範疇に入る。従ってコメより誰かが炊いてくれたゴハンが利便性に叶うとなれば、
ゴハンの外部化につながる。また食文化はホスピタリー(もてなし)の時代へ入っ
ており、単にガツガツとモノを食う時代は終わった。若者の食行動調査によれば、
コメの登場場面に利便性やホスピタリーといった記号が見えない。これは、今後の
コメの消費動向に関わって決定的である。

  最後に、今後、牛肉の消費がどうなるかについては、輸入牛肉の増加によって多
様な選択肢が生まれるところまではどうやら分かった。味、価格、食場面による使
い分けが可能となるからである。それとともに、一般に旧人類は霜降り志向が強く、
新人類は脱脂肪傾向にあることも分かった。つまり、あらゆる種類の牛肉が望まれ
るらしいのである。問題はどの様なテンポで、どの程度まで牛肉の消費が増えるか
である。この点に関しては、かかって売り方(メニューの提供の仕方)如何にある
と考えられる。とりわけKDDT(ケータリング、デリカテッセン、デリバリー、
テイクアウト)などの中間食の分野は、仕掛け方次第では最も需要創造の期待でき
るところである。

研究者としての自戒

  残念ながら、以上のようなことは、既存の統計類からは殆ど浮かび上がってこな
い。既存統計の多くは、かっての物量動員時代のままに、いまだに量(クオッンテ
ィティ)の把握に重点が置かれているからである。しかも発表が遅い。

  いま必要なのは、日本人が人類史上初めて食うに困らない段階に達したという事
実の認識である。人間が生きていくうえで不可欠な衣・食・住という一次的欲求を
満たし、さらには快適・利便性という第二次欲求も満たしつつある。日本人の欲求
レベルは、「花より団子」から「花も団子も」へと高まっている。花とは美しい・
楽しい・本物であること。団子とは安全・健康・新鮮・簡便である。こうした時代
的背景を考えるなら、量の把握もさりながら。消費の質(クオリティ)の把握の方
が(即ち大きなトレンドの把握が)より大切である。だから、例えばBSI(ビジ
ネスサーベイインデックス)やDI(ディフュージョンインデックス)程度のもの
でも構わない。より迅速に、より「個」の質的側面に重点を置いた統計が望まれる
のである。アベラビリティの高い統計があれば、我々研究サイドとしても協力でき
る場面が広がる。

  とかくこの国では、サンプリング等の統計制度の精密さと、出来上がった数値の
アベイラリビティ(有効性)とが混同される。実は、統計学の立派さと、統計結果
の立派さとは別ものなのである。それらの数値を用いた、弾性値などといった経済
学の常套ツールにも問題が在し、同じ説明変数と被説明変数を使っても、期間を変
えただけでプラス・マイナスがひっくり返るなどと言うのは、明らかにその限界を
示している。従って二重の意味で誤りを犯す危険がある。

  同様に、計量モデルの数値を過信してはならない。理論レベルの精密さ(ときと
してそれは方程式の数の多さ以外の何物でもないことがあるが)を、観測(予測)
された数値の絶対性と誤解してはならない。本来それは予測を目的としないし、過
去の構造並びに因果連鎖を明らかにしているだけに過ぎない。こんごもそれらが継
続するとは、神ならぬ身のあずかり知らぬところである。計量モデルの予測がせい
ぜい耐えうるのは5年と言うのがエコノメトリシァンの間の通説(俗説?)である。
政府、民間シンクタンク挙げての経済予測が、1年先もまともに当てられないこと
が何よりの証明である。計量モデルにより示された予測数値は、とりあえず判断の
参考にする程度にとどめて貰いたいと言うのが、実際にそれをよくする者の偽らざ
る心情である。

ラチェット・エフェクト

  たしか1985年秋のことであったと記憶する。本事業団が『乳業合理化調査委
員会』というのを設けられた際、委員の端に加えさせて貰ったことがある。その席
上、多分に私流のカンピューターとメナトリックスによる推定ではあったが、牛乳
の消費回復を予言して失笑を買った記憶がある。それはそうだ。1979年以降、
限度数量の厳守と計画生産に取り組んで来たにもかかわらず余乳の発生は止まず、
86年度からの計画減産が取り沙汰されていた時期に、牛乳・乳製品の需要拡大を
予測したのだから。もっとも年率3%内外の伸びとしたのであり、昨今のように二
桁近くも搾乳してもよいということではなかった。事後的に見れば私の“占い”が
当たったわけだが、その原因については巷間言われていることとは若干違って(特
に飲用牛乳が伸びているのは)、スーパーを始めとする販売サイドが本気になって
売ってくれているからであると私は判断する。つまりニーズは創れるのである。

  ところが、コメにしても畜産品にしてもそうだが、販売促進(セールスプロモー
ション)という視点を、生産者(そして生産者団体)は殆ど持たない。それでいて
売れ出せば、我も我もと増産に走る。そうした行き過ぎを経済学的にはRatch
et  Effectと呼ぶのだが、現在の和牛生産者や酪農家にその典型を見る。
確かに我々は、短期的には和牛の製品差別化が成功するとの予測を示した。しかし、
だからと言って、70万円も80万円もする素牛価格が肯定されるわけではない。
それらの肥育が終了する時点が、どのような時期かを思い起こして貰えばおのずと
分かるはずである。

供給が需要を創る時代

  我々の見るところ、消費者が望んでいるのは、何よりも<選択の自由>なのであ
る。多分それこそが消費者ニーズのコアの部分なのである。国の内外を問わず、商
品の種類の如何を問わず、選択が制限されていることが彼らは許せないのである。
だから決して輸入牛肉だけを食いたいわけでもないし、和牛だけを食いたいわけで
もない。牛乳にしても、北海道のものも内地のものも、自由に手に入るようになっ
て欲しいのである。また値段が安いに越したことはないが、安・美・楽・本が満た
されるなら高いものでも構わないのである。そこを見誤ってはならない。

  もっとも、だからと言って、確実に買ってくれるという保証のないのが、現在の
消費者像のあやふやで頼りのないところでもある。だからもし、需要(消費)が創
れるものなら、そしてそれが実需者の戦略でもあれば、これに乗った方が得策とい
う場面も有り得る。

  何故なら、先にみた第二次欲求を満たした人々の欲求は、あてどなくさまよいつ
つあるからである。自分が何を望んでいて、何が不足、不満なのかも分からない。
そこで供給者サイドのプレゼンテーションが大切となってくる。それはややオーバ
ーなくらいがよい。多分これからは、供給が需要を創る時代なのだから。


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