★ 国内現地の新しい動き


見直されるジャージー牛

農政評論家 山本文二郎


回復に転じたジャージー牛

  “草から乳を搾る経済的な乳牛”をキャッチフレーズに、小型のジャージー牛が
期待を担ってさっそうと登場したのは40年ほど前の1953年(昭和28年)であった。
“乳牛山に登る”といわれながら飼養頭数が増え続け、'65年頃は3万頭近くに達し
た。それをピークに大型ホルスタインに押されて衰退の一路をたどり、'85年には
遂に4000頭を割り込むまでに落ち込んでしまった。

  だが、日本人の食生活がぜいたくになるにしたがって、牛乳、乳製品にも脂肪分
の少ないもの、濃いもの、コクのあるものなど、消費者の需要が多様化し、それに
伴ってジャージーは再び脚光を浴びるようになってきた。ジャージー乳牛が導入さ
れて以来、ジャージー牛を守り続けてきた岩手県の奥中山農協、秋田県の矢島町、
岡山県の蒜山原、熊本県の小国町などは飼養頭数が増え始めており、香川県大川町
ではホルスタインからジャージーに一挙に切り替えて、ここ2、3年の間に200頭以
上も新たに導入したところもでるなど、ジャージー牛はようやく復活し始めてきた。

  こうしたことから、全国のジャージー牛の飼養頭数は'86年の3,858頭を底に'89
年には5,877頭へと、わずか3年の間に2,000頭も増えている。'90年には6,000頭を
ゆうに突破しているだろう。もちろん最盛期の'64年の28,815頭に比べればまだま
だ少ないが、その回復力は目覚ましい。今年3月に農林水産省の岩手種畜牧場でジ
ャージー・セミナーが開かれた。当初、50人くらいの参加を予定していたが、その
3倍くらいになり、宿舎の手当てに困ったというほど、ジャージー熱が高まってき
ている。

  そこでジャージーの受難期にもめげず、ジャージー牛の孤塁を守り続けてきた代
表的な酪農地帯・熊本県の小国町と岡山県の蒜山原に、最近のジャージー酪農はど
うなっているかを尋ねてみた。

  ところで、現地の話に入る前に、ジャージー牛の来歴や特性、戦後のジャージー
導入の歩みを簡単にたどってみよう。

ジャージー牛の来歴と特性

  ジャージー牛の原産地はイギリスのジャージー島である。イギリス海峡の南に位
置するチャンネル諸島の中でも、ジャージー島はフランスのノルマンジー地方とは
目と鼻の先にある。この島はメキシコ湾流に洗われる温暖なところで、昔から酪農
や野菜、果樹などの生産が盛んなところであった。フランスから入った乳牛を18世
紀に改良・固定化したのがジャージーだった。

  ジャージーは淡褐色で、特性は雌が体重400キロ弱で、ホルスタインの四分の三
くらい。背の高さも1.22メートルと小振りで痩せている。性質は活発で身軽に運動
し、急傾斜地でもよく歩く。ホルスタインよりも腸が長くて彩食能力に優れ、よく
粗飼料を食べて消化し、管理の行き届いた牧野で好成績を出す。ジャージーは体が
小さいので飼料給与量がホルスタインの7割くらい、このため飼料給与の中の粗飼
料比率が高くなりやすい。乳飼比がホルスタインの40〜45%に比べジャージーは35
%くらいとなっている。それだけコストを下げやすい。性質はやや神経質なので、
日常管理を丁寧にするとなついて扱い易くなる。特に雌は人に危害を加えることは
まずないとされている。しかも、厚さに強く、早熟、連産、長命で不思議なほどに
難産が少ない。

  ジャージーの何よりの特徴は乳質が優れていることだ。乳量は体が小さいので4,
000キロ前後と、ホルスタインの6,000キロ前後に比べると3割ほど少ない。だが、
牛乳の成分は脂肪分が多く、乳脂率は5%前後でホルスタインの3.6%〜3.7%より
はるかに高い。蛋白質や乳糖、ミネラルなど無脂固形も9.3%前後とホルスタイン
の8.6%前後に比べて大変に高い。ジャージー牛乳はよく高脂肪といわれるが、高
脂肪というより高成分といったほうがよい。

  ジャージー種の世界的な分布は、アメリカが一番多くざっと130万頭、次いでイ
ンドが約100万頭、オーストラリアが95万頭、ニュージーランド58万頭、デンマー
ク27万頭などとなっている。乳牛全体に占めるジャージーの比率はアメリカで14%、
オーストラリア45%、ニュージーランド40%、デンマーク16%となっている。日本
は先に述べたように、ジャージーは約6,000頭、乳牛の全飼養頭数が昨年で約203万
頭であるから、ジャージーの比率は0.3%に過ぎない。

  ジャージー以外のガンジー、エアーシャー、ブラウンスイスなどは20〜100頭と
数えるほどしかいない。日本は余りにも大型のホルスタイン一辺倒になっている。
牛乳や乳製品の需要が近年著しく多様化している。乳牛もいろいろ特徴のある牛が
いる。需要に合わせてもう少し多様に乳牛を飼育してもよいのではないか。

昭和20年代後半から大量輸入

  日本にジャージーが最初に輸入されたのは1877年(明治10年)頃とされている。
ジャージーは乳量の多いホルスタインに圧倒されて、戦前は群馬県の新津牧場に細
々と飼われていたに過ぎなかった。

  第二次大戦後は日本人の体位向上や農業の近代化を図るために、コメと並んで酪
農が農業の二大基幹作目に位置づけられた。政府は'52年に第二次畜産振興計画を
作成、このとき「拾・百・千計画」と呼ばれる乳牛増殖計画が立てられ、拾年後に
百万頭、牛乳壱千万石の達成が計画されたのである。我が国は欧米などと異なって
平坦地が少なく山が多い。未利用地の活用を図りながら酪農を振興しようと選ばれ
たのが、粗飼料の利用効率の高いジャージーであった。

  '53年には集約酪農地域建設が決まり、北海道日高・根釧、青森十和田、岩手山
麓、秋田北部鳥海、群馬浅間、長野・山梨八ヶ岳、静岡富士、岡山美作、佐賀天山、
熊本阿蘇、宮崎霧島など12地域が指定され、1地域にジャージー牛600頭の導入を目
標に進められることになった。当初、国が貸付制度をつくって'53〜'56年にかけて
集約酪農地域の農家にジャージー牛4,658頭が貸与されていった。'56年から'60年
にかけては世界銀行からの低利融資に切り替えられて7,776頭のジャージーが農家
に配布されていった。合計12,434頭に達したのである。これを基礎にジャージーの
増殖が続き、'64年には28,815頭のピークを迎えたのである。

  ジャージーの輸入先は輸送に便利なオーストラリア、ニュージーランド、アメリ
カと太平洋地域が選ばれた。ところがアメリカのジャージーは体が大きく、乳量も
多いが、当時アメリカでのジャージー価格が高く、輸送費もかさむところから500
頭弱で2年目に打切りとなった。また、ニュージーランドのジャージーは体型、資
質、能力ともに優れていたが、当時ニュージーランドは世界銀行に加入していなか
ったために輸入頭数は1,000頭をわずか上回る程度で、これまた2年目で打切りとな
った。このため輸入頭数の90%弱がオーストラリア産のジャージー牛となったので
ある。

  輸入先の集中によって、ジャージー牛の体型、資質、能力を厳密に選ぶ余裕がな
かった。選定は相手任せで1群をまとめて買うなど、輸入された牛の中には能力の
ひどく劣るものが入っていたのである。アメリカのジャージーは乳脂率では見劣り
するが、乳量ではオーストラリア産に比べはるかに高い。この乳量が少ないオース
トラリア産が後でホルスタインに押されて衰退する大きな要因ともなった。またジ
ャージー牛改良にも問題を残すことになったのである。

昭和40年代に入って有利性の薄らいだジャージー

  こうして草地酪農の期待を担って登場したジャージーは昭和30年代は順調に伸び
ていった。だが、昭和40年代に入るとともに急速にしぼんでいったのである。昭和
30年代後半から昭和40年代前半にかけては経済の高度成長に伴って国民所得も伸び、
食生活の向上と変化が著しく進んで牛乳需要が急増していった時期である。このた
め乳業会社は質よりも量の確保に追われる。

  当時はいまのように無調整牛乳は出回っておらず、乳脂肪3.2%の牛乳が圧倒的
だった。乳業会社はジャージー牛乳のような高脂肪よりもホルスタインのような乳
量の多いものを求めたのである。基本乳価と脂肪スライドの関係を見ても、基本乳
価は'60年頃の1キロ30円くらいから'80年代には110円台に上昇したが、脂肪スライ
ドは0.1%で80銭くらいに固定化されたままになった。このため'60年前後にはジャ
ージーのスライド価格が基本乳価の3割もあったのに、'80年頃には1割程度に落ち
込んでいる。

  そればかりか一定以上の脂肪は価格にスライドしないとか、乳量を確保するため
に奨励金を出してジャージーからホルスタインへ切り替えを奨めるなど、ホルスタ
イン優遇策をとっていった。ホルスタインに比べて乳量が3割も低いジャージーは
高脂肪の特性が評価されず、酪農家はジャージーへの魅力を急速に失っていったの
である。

  '65年を頂点に全国のジャージー飼養頭数はツルベ落としに減少していった。'69
年には2万頭を割り込み、'74年には1万頭を下回るひどさであった。そして'86年に
は遂に4,000頭さえ割り込んだ。飼養頭数が1,000頭前後、或はそれを上回るのは岡
山、熊本両県のみで、あとは秋田県の鳥海山麓の北側に広がる矢島町に比較的まと
まって細々と飼い続けられている程度。かつて脚光を浴びたジャージーの集約酪農
地帯は見る影もなく衰退し、ジャージーは消えてしまったのかと、心配された。

孤塁を守り続けた阿蘇小国、岡山蒜山

  こうしたジャージーの浮き沈みのなかでジャージーをかたくなに守り続けてきた
のは熊本県阿蘇郡小国町、またホルスタインと共存しながらジャージーの振興に努
めてきたのは岡山県の県北に広がる蒜山原の川上・八束の両村であった。ジャージ
ーの孤塁を守り続けるには、農家、農協、町・村のそれなりの苦闘があった。牛乳
・乳製品需要の多様化の波に乗って過去の苦労がようやく報われるときがきたが、
両地域ともこれを機会にジャージー酪農の一層の発展と安定に積極的に取り組もう
としている。

  小国町は大分県日田市から筑後川の源流杖立川に沿って傾斜の厳しい道を一時間
ほど走る。一村一品運動で有名な大山町、杖立温泉を通ると、小国の盆地が開けて
くる。三方を大分県に囲まれ、南だけが熊本県の阿蘇地方につながっている。標高
400〜700メートルの準高冷地で、杉などの林業が盛んなところである。農家戸数は
約1,100戸、平均耕作反別は1ヘクタール、コメの他にダイコンなどの野菜、茸類、
畜産としては酪農、肉用牛、肉豚が盛ん。かつては肥後の赤牛が広く飼われていた。

写真
広大な牧野に放牧されているジャージー、後にみえるのは大山
(岡山県真庭郡川上村の中国四国酪農大学で)

  一方、蒜山原は岡山県の最北端、1,000メートル級の上、中、下の蒜山三山の南
側に緩やかに広がる。蒜山を北へ越えれば鳥取県の東伯町などに連なり、すぐ日本
海となる。ここもまた標高450〜600メートルの高原で、西北に大山がそびえ、西の
軽井沢とも呼ばれている。川上、八束の両村の農家の耕作反別は小国と同じように
ほぼ1ヘクタール、かつてはコメの他に和牛が飼われ野菜などが細々と作られてい
た。いまは酪農と並んで西日本ではダイコンの有名な産地となっている。

  酪農経験のまったくなかった小国、蒜山に乳牛が初めて入ったのはジャージーの
集約酪農地帯に指定された'55年前後からである。その出発点にはそれぞれにまつ
わるエピソードがある。

ジャージー導入のいきさつ

  小国のジャージーは河津寅雄元町長の功績が大きい。河津町長は同町切っての山
地主、農協長や森林組合長も兼ねたばかりか、自民党熊本県連会長や全国町村会長
を長く務めた実力者である。給与や会議出席の報酬は一切懐にせず、町の振興に充
てたという高潔な人だ。いまの政治家が少しは見習って欲しいと思うほどである。
河津町長は一つの事業を始めるのには、自分の持つ広い情報源をフルに活用して、
納得ゆくまで徹底的に調べて実行に移す。実行に移したら、他人が何をいおうとテ
コでも動かない頑固さを持っている。

  小国は耕地が狭いが山に囲まれていて昔から肥後の赤牛に親しんできた。河津町
長は県や国の試験場などと意見を交わしながら、狭い耕地のなかで経験の乏しい酪
農に取り組むには、赤牛と似ているジャージーが好ましい、また山村で山の草に恵
まれており、生産費を節約するにもってこいだと考えた。集落酪農地帯の指定を受
けて'57年に初めてジャージーがオーストラリアから到着した。河津町長のツルの
一声で町会議員、農協の理事も皆んなジャージーを飼ったという。

  蒜山へのジャージーの導入にもエピソードがある。全酪連の現大坪会長が畜産局
長だった'53年に三木元岡山県知事に依頼されて、中国地方視察の途中、飛行機で
空から岡山県北部を見て回った。県北は急傾斜の山地である。大坪局長は歴代局長
のなかでも超大物、一説では蒜山原も周辺の山村も同じように険しい山村に見えた
のだろうという。山地ならジャージーに限るというわけで、早速、受け入れ体制が
準備された。ジャージー第一号が蒜山原に到着したのは翌'54年9月、小国より3年
前であった。'55年3月には早くも第一号の子牛が生まれ、その年の暮れには集約酪
農地帯に指定された。

導入後のジャージー盛衰

  こうしてジャージーの集約酪農地帯としてスタートした小国、蒜山の両地域は全
国的な酪農の成長に歩調を合わせるように、'65年頃にかけて順調に伸びていった。
農家戸数では'63年が全国とほぼ同じようにピークに達するが、飼養頭数では12ヵ
月以上のジャージーで938頭と最高になる。一方、蒜山では農家戸数で'64年が425
戸と最高へ、ジャージーの全頭数が'68年に2,000頭を越えて'71年に2,291頭とピー
クに達する。

  だが、'65年前後からジャージー牛の受難期が始まる。先に述べたように、乳業
会社が乳量確保に重点を置くようになって、ジャージー本来の特徴である高脂肪の
メリットがいかされなくなってきたのである。基本乳価は順調に引き上げられてい
ったが、脂肪スライド価格はほとんど据え置きとなり、農家のジャージー飼養の魅
力が薄らいできたのである。

  そうした中で、ジャージー導入時の禍根が表面化してくるのだ。日、米、オース
トラリア、ニュージーランドのジャージー牛の乳量成績の比較は大変難しいが、例
えば'75年の日本の牛群検定成績では1頭平均で3,700キロ強、'70年のアメリカが4,
300キロ強、ニュージーランドがほぼ同じ頃で2,700キロ前後で、国による差が大き
い。

  先述のように、乳量の多いアメリカのジャージーは導入当時、高価格のため輸入
が途中で打ち切られ、乳量の少ないオーストラリア産に集中した。しかも、輸入先
がオーストラリアに集中しただけではなく、短期間に大量のジャージー牛が輸入さ
れたために、牛の選定が粗雑になった。小国では乳量が1,000キロに達しない粗悪
なジャージーが混じっていたという。また、日本の乳牛の主流が圧倒的にホルスタ
インであったため、乳牛改良もホルスタイン重点に進められた。このためジャージ
ーの改良が遅れ、ホルスタインとの乳量格差が一段と開く結果になった。これが全
国的なジャージーの衰退となり、小国や蒜山を除いた他の集約酪農地帯は次々に衰
退して消え去るか、細々とジャージーの飼養を続ける程度になってしまった。

ジャージー牛のみの小国、ホルスタインとの共存の蒜山

  ジャージー酪農地帯として孤塁を守った小国、蒜山はそれぞれ別々の形でジャー
ジーの振興に取り組む。小国はあくまでジャージーに固執し、蒜山はジャージーと
ホルスタインの共存で危機を切り抜けていく。その背後には、阿蘇小国農協、蒜山
酪農協や町、村をあげてジャージー牛乳の市場開拓など苦闘があった。

  小国では、農家から乳量の上がらないジャージーに見切りをつけ、ホルスタイン
に転換を求める声が高まってきた。全国的にもこうした動きがででいたのを考えれ
ば当然であった。それを断固反対したのは河津町長であった。小国のような山村で
は、つくりやすく、また豊富にある粗飼料を有効利用できる小型のジャージーに限
ると、信念を押し通したのである。頑固一徹、しかも緻密に調べる町長に反論する
ものがなく、ツルの一声で全国一のジャージーの酪農地帯として残ったのである。
小国にはいまでも1頭のホルスタインもいない。だが、大きな流れには抗しえず、
酪農家戸数は減少をたどって'85年には46戸へと激減、ピーク時に比べ八分の一に
減っている。しかし、他の酪農地帯に比べれば減少率は極めて少なく、異色の酪農
地帯として残ったのである。

  一方、蒜山はジャージーを残しながら、ホルスタインを導入し、両者の特徴を生
かして酪農を発展させていった。乳量の少ないジャージーにあきたらず、'67年に
川上村に初めてホルスタイン1頭が入った。'75年前後から川上村を中心にホルスタ
インが増え始めていく。これと反比例してジャージーが減っていったのである。

  '90年6月現在の両村の乳牛頭数は2,861頭となっているが、その内訳をみるとジ
ャージーが1,296頭、ホルスタインが1,565頭となっていて、ジャージーは半分を下
回っている。だが、もう少し細かく村別にみると川上村がホルスタインが1,203頭、
ジャージーが511頭で、一方、八束村はジャージーが785頭、ホルスタイン362頭、
川上村はホルスタイン中心、八束村はジャージー中心となっているといえる。

  また農家別にみると、ジャージー専業が48戸、ホルスタイン専業5戸、残り39戸
はジャージーとホルスタインの複合となっている。蒜山ではホルスタインの頭数が
ジャージーを上回ったとはいえ、農家経営からみるとジャージーに大きな比重がか
かっているのだ。蒜山原はジャージー一辺倒を貫いてきた小国、ジャージーの減少
とともに衰退していった他の集約酪農地帯とは異なった道を歩んだのである。

  小国や蒜山原がこのようにジャージーを守り続け得たのは、町や村、県などの大
きなバックアップがあったことはもちろんだが、阿蘇小国農協や蒜山酪農農協など
の積極的な取り組みがあった。ジャージー牛乳が評価の低かったころの市場開拓は
大変だった。

写真
平和共存するジャージー(左側)とホルスタイン(右側)
(岡山県真庭郡八束村で)

独自の製品で市場開拓

  小国のジャージー牛乳はホルスタイン牛乳とは質も違い、生産量も少ないとあっ
て、熊本県酪連に相手にされず、アウトサイダーとして自ら市場の開拓に取り組ま
ざるを得なかった。河津町長の方針もあって、地元の需要を掘り起こせばかなりの
消費があるはずで、それが地元の振興や住民の健康増進にもつながるとして、地元
販売に力を入れてきた。大消費地への出荷は大きな需要が見込めるが、流通業者に
利益を取られ、それだけ生産者への利益配分が少なくなる。それも地元優先の大き
な理由であった。

  ジャージー牛乳は脂肪や無脂固形の含有率が高いので、甘みがあってコクがある。
飲み慣れると他の牛乳ではもの足りなくなる。小国に務めていたある先生が転勤し
た後、子供がジャージー牛乳を欲しがり、その先生はいまでもジャージー牛乳を買
いにくるという。小国地域はホルスタイン牛乳はほとんど入っておらず、ジャージ
ー牛乳一色になっている。

  '78年になると新しく紙パック詰めの加工場が完成した。これまで余乳は乳業会
社に販売していたが、加工場で全量処理するようになったのである。ちょうどその
ころから全国的に生乳が余りだし、乳業も引取りを渋るようになって、工場の完成
は小国にとって幸いだったのだ。

写真
88年に完成した小国町の乳製品工場
ここでジャージーのバター、チーズなどがつくられ、隣接する物産館で売られてい
く。
(熊本県阿蘇郡小国町で)

  小国は福岡からの阿蘇観光の道筋にあって町内には杖立温泉もあり年間60万人く
らいの観光客が入る。温泉の朝食に出された牛乳にはジャージーのいわれの説明書
がついていた。それほどジャージーの販売に努力している。地元はもちろん観光客
目当てにバターやエダム、チェダーのナチュラル・チーズなどのジャージー乳製品
にも力を入れている。

  '85年には「手造り館」が完成、乳製品やハムなどの試作を手懸け、メドがつい
て'88年には「ぴらみっど」と名づけられた小国町物産館がオープン、それと隣接
して乳製品加工場が建てられた。そこで生産された乳製品を物産館や地元で販売し
ている。物産館への入場者は年間6万人近くに達している。牛乳の需要に生産が追
いつ付かず、2、3年の継続事業で牛乳処理工場やハム工場の新設が進められている。

写真
88年に完成した小国町物産館「ぴらみっど」
ここへ年間6万人の観光客が訪れ、ジャージー乳製品などを買っていく。
(熊本県阿蘇郡小国町で)

  こうした販売努力があって、現在1日の飲用乳の生産量は200CCが3,500本、500
CCが1,200本、1 が4,200本となっている。昨年の集乳量は2,246トンで、90%が
飲用向け、10%弱がバターやチーズなど乳製品に向けられている。飲用乳の31%が
地元の小国町、12%が阿蘇郡、30%が熊本市内、27%が福岡市内で消費されている。
地元の消費者もナチュラルチーズを食べ慣れ、地元でかなり消費されるようになっ
た。

  蒜山酪農協も苦労を重ねている。津山市にある上部団体のホクラクに生乳を一端
出荷して、そのうちジャージー乳は蒜山酪農協に配分されてくる。蒜山酪農協は農
家から生乳を集荷する際に、集乳車のタンクの中がジャージーとホルスタイン用と
に分かれていて、ジャージー乳は蒜山酪農協で処理される仕組みになっているのだ。
現在、集乳量は約1万トン、このうち4,000トンがジャージー乳となっている。

  蒜山酪農協は創設以来、地元向けのビン詰めのジャージー牛乳の生産・販売に取
り組んできた。蒜山や小国と同様に観光地で、それなりの需要があるが、地元消費
だけでは相当に余乳がでる。'70年には第二次構造改善事業で牛乳の処理工場を建
て、積極的に販売を進めていくことになった。ジャージー牛乳は消費者が限られ、
1ヵ所で集中的にさばききれない。購入者が分散しているので、岡山県内はもちろ
ん販路を京阪神にまで広げ、需要開拓にあたっている。発足当時1日180CCで500
本程度に過ぎなかった売上げが、昨年は5万5000本に拡大している。

  小国と同様に、飲用乳ばかりではなく乳製品の生産・販売も手懸けていく。ジャ
ージーのバターは黄色が濃く味にコクがある。一般消費者だけでなく、高級菓子な
どに特殊な需要があって、京阪神の製菓会社に安定した需要先を開拓している。

  チーズもカマンベールとゴーダを手懸けており、カマンベールの技術習得のため
に職員をフランスに研修に派遣するほどの熱の入れ方である。アイスクリーム、ヨ
ーグルトの生産も取り組んでいて、今年に入って乳製品工場が完成した。

  消費者の需要に対応するため上述のように商品の多様化を図るとともに、牛乳で
も脂肪分1.5%のローファットミルクを生産している。低脂肪はジャージーの本来
の姿からすれば一見、矛盾する。脂肪は少ない方がよいが、ジャージーの味と無脂
固形の高成分を求める消費者もある。そうした消費者にキメ細かく対応しているの
だ。

  さらに宅急便を利用しての販売拡大にも努めている。40センチ角の発砲スチロー
ルに牛乳、ヨーグルト、アイスクリーム、チーズなどを客の注文に応じて詰めて発
送している。多い日には40〜50個にも達し、発送先は北海道から沖縄までに及んで
いる。

差別化に成功し、需要が増加

  こうした両産地とも市場開拓が軌道に乗りだしたところへ、食生活の多様化が重
なってきたのである。日本人の生活が所得の増加と円高によって向上しているが、
それに伴って牛乳・乳製品の需要も多様化してきた。牛乳でも健康のために低脂肪
を求めるものもあれば、コクのあるものを求める消費者も増えてきた。高級菓子の
消費が増加するに伴って、特徴のあるジャージーのバターの需要が増えてきたので
ある。

  '87年に生乳の取引基準が改訂され、脂肪率3.2%から3.5%へ引き上げられた。
3.5%を達成するため脂肪分の濃いジャージー乳を入れることで、基準をクリアし
ようとしたことがジャージーの増頭の要因になっているという意見もある。それも
ジャージー見直しの一因にはなっているが、主な要因は消費の高級化と多様化にあ
る。商品の差別化が難しいとされる牛乳・乳製品にも、ジャージーが差別化に利用
されてきているのである。

  こうした需要の増加に対して、ジャージーの飼養頭数が余りにも減ってしまって
いた。このため両地域とも需要に供給が追いつかない状態が続いている。これが生
乳の価格にも反映してきている。国際化の進展に伴って原料乳保証価格はこのとこ
ろ毎年引き下げられ、飲用向けもそれに追随しているが、ジャージー乳は乳価全体
の動きとは別の価格形成となっている。

有利な価格形成

  まず小国からみる。一般の乳価が下げられる中で、小国の乳価は引き上げられて
いる。基準となる4.7%のジャージー牛乳で農協の買入価格は1キロ当たり139円20
銭、一昨年に比べると1円20銭も引き上げられている。一般乳価がピークになった
'82年ころに比べると、飲用向けが8円強も下がっているのに小国の乳価は7円弱も
上がっている。しかも、脂肪スライドした価格をはるかに上回る乳価となっている
のだ。

  蒜山でも有利な価格になっている。脂肪率3.5%の昨年の乳価は約99円で、ジャ
ージーの乳価は脂肪スライドした4.7%で110円ほどになるが、その乳価の上に23円
のジャージー乳生産奨励金が上乗せられている。小国の乳価にほぼ匹敵している。

  こうした乳価形成は、例えば飲用乳価格が一般牛乳とは別個の価格で売ることが
できるからだ。普通牛乳なら1リットルで200円前後だが、小国のジャージー乳は地
元で260円、熊本、福岡市内で298円で有利に売られている。蒜山では卸し価格は一
定となっているが、小売り価格は地域で卸がそれぞれ決めている。小国や蒜山とも
に酪農の全般の動向に左右されることなく、ジャージーの強みを生かして独自の価
格を決めており、また需給関係からそうした価格を決めることができるのだ。ジャ
ージーの受難時代に耐えて、ジャージーを守り続けきた成果がようやく実ってきた
といえよう。食生活の今後の一層の多様化とジャージーの飼養状況を考えると、こ
こ当分有利な情勢が続くと予想されている。

  こうしたところから、農協も町もジャージーの増頭に積極的に取り組むようにな
ってきた。阿蘇小国農協は今年6月に平成10年を目標とした酪農改善計画を立てた。
酪農家42戸の全調査を実施したが、後継者がいないのは3戸だけ、中には3代目に入
っている農家もあって、3戸を除いて増頭計画を作成したのである。12ヵ月以上の
ジャージー頭数を昨年の626頭から目標年次には1,036頭へ65%の拡大計画を立てて
いる。いまのジャージーの収益状況からすると、ほぼ目標達成は間違いないと自信
を深めている。

  蒜山酪農協でも積極的だ。ジャージー一辺倒の小国と異なって、蒜山はホルスタ
インとの関係があってや微妙なところがある。それでも、乳価で優遇するだけでな
く、増頭奨励制度を設けて農家に規模拡大を奨めている。'86年以降の最大規模頭
数を基準として農家が経産牛を増頭したとき、1頭当たり10万円の助成をする。ま
た、規模拡大のためにジャージー牛を導入したときは購入価格の半分(約25万円)
を補助する、などの対策を取り始めたのである。蒜山では飼養頭数が'86年を底に
今年まで300頭弱も増えてきている。その勢いを加速化できると期待しているので
ある。

写真
ジャージーに乾草を与える万庭正勝さんの奥さん。
(岡山県真庭郡八束村で)

改良にも意欲的

  小国、蒜山はこのようにジャージーの増頭に意欲を盛り上がらせているだけでな
く、ジャージーの改良にも積極的に取り組んでいる。日本の乳牛の主流、それも圧
倒的な頭数を持つのはホルスタインで、これまでの乳牛改良もホルスタイン中心に
進められてきた。ジャージーは衰退をたどったこともあって改良が遅れている。

  先にも述べた通りに、ジャージーの導入の経緯からオーストラリアのジャージー
が主体となった。しかも、能力の選定が不十分だったため、質的に劣る牛がかなり
含まれていた。しかも、血が濃くなって、一部には体格や乳量、繁殖力の低下など
の退化もみられたという。

  いまの改良はアメリカ・ジャージーに比重が置かれるようになってきている。例
えば、小国では'87年以降、330頭のジャージーが輸入されているが、このうち270
頭がニュージーランドからだが、今年だけをみるとアメリカとニュージーランドが
同数となっている。また、'72年までは農協が種雄牛を持ってタネ付けをしていた
が、同年から凍結精液に切り替えられた。'85年ころからは、アメリカ・ジャージ
ーの凍結精液を直接輸入するようになった。アメリカの凍結精液は1本5,000円くら
いで、日本産の3〜10倍もするという。

  日本のジャージーの牛群検定成績をみると、'88年には乳量が4,670キロ、同じ年
アメリカの成績では6,200キロとなっていて、その差が大きい。ただ、乳脂率にな
ると日本が5%、アメリカが4.7%と低い。また、アメリカのジャージーの体重は50
0キロを超えるのに、オーストラリア系は400キロ前後と小さい。

  これら地域のいまの改良方向は多少乳脂率が落ちても、乳量の増大を図ろうとし
ているようだ。しかし、中にはジャージーの特性を発揮するために、乳脂率が6%
を超えるデンマークのジャージーを輸入してはという声もでているという。

  蒜山では'76年から乳用牛群改良推進事業に取り組み始めた。小国ではかなり遅
れて'88年頃から牛群改良に取り組み始めている。アメリカからの凍結精液やジャ
ージーの輸入が本格化してきたのは最近である。その成果がようやく現れてきた。
乳用牛群改良推進事業によると、蒜山の検定成績は1頭当たりの平均乳量が急速に
上向いてきている。'88年ころはまだ4,000キロ弱だったが、'86年には4,500キロ弱
へ、89年には5,200キロ弱と5,000キロ台に入った。平均脂肪率も4.96%と従来と変
わらない高い水準を維持している。中には8,000キロ台に乗せた優良牛もでてきて
いる。

  小国でも経産牛1頭当たりの平均乳量は4,000キロ水準に達してきており、将来計
画として4,500への引き上げを目指している。すでに1搾乳期に7,000キロを超えた
牛もでている。これからの改良の大きな課題は乳量を増大させながら、乳脂率や無
脂固形の維持をいかに図っていくかにある。

基礎固めのチャンス

  小国や蒜山のジャージー酪農は食生活の多様化、高級化の波に乗って、いまや冬
の時代から春を迎えようとしている。過去の牛乳販売の努力か実って、いまのとこ
ろ全体の牛乳の重要関係や国際化の進展に患わされることなく、独自の道を歩んで
いる。高乳価や農協の助成措置もあって農家の増頭意欲も高まりつつある。

  たが、両地域ともまだ規模の小さい農家もある。小国の平均規模は12ヵ月以上の
乳牛で15頭強に過ぎない。これから規模の拡大や牛群の一層の改良や管理技術の向
上、特に良質粗飼料生産、そのための土づくりに力を入れるなど酪農経営の一層の
充実が求められている。ジャージー酪農の基礎固めにとって、いまはまたとないチ
ャンスかも知れない。


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