★ 国内現地の新しい動き


究極のLISA型畜産を訪ねて−隠岐の和牛放牧−

日本農業研究所 研究員 赤嶋 昌夫


成長優先からサスティナブルへ

 地球規模で環境問題や資源問題が深刻化し、対応を迫られるにいたった。これに
ともないアメリカでもEC諸国でも、LISA(Low Input and Sustainable Agri
culture,低投入・持続的農業)を掲げる主張が台頭し、従来の工業的農業路線の
軌道修正を求める動きが目立ってきた。

 もともと農業は、別名“天地化育の業”といわれてきたように、地域ごとの自然
生態系の循環に依存する営みである。農業がそのような本来の特質に忠実な営みで
あるかぎり、自然環境を破壊することなく、むしろ積極的に生態系を維持し環境を
保全する役割を果たしていた。ところが高度成長以来の農業発展の方向は、天地化
育の業としての農業本来の特質を無視した生産性向上の道を追求してきた。化石エ
ネルギーの大量投入を前提とする生産技術の機械化と化学化、そして経営の専門化
と大型化がそれである。その課程で、農業は環境保全型産業から環境破壊型産業に
は体質転換しつつある。農業の各分野を通じてそうであるが、とりわけ畜産の現状
はそのような傾向が著しい。

 すでに一部の西欧諸国では、環境破壊的性格の強い工業的畜産を環境にやさしい
LISA型畜産に誘導する行政対応がみられはじめてもいる。硝酸塩などによる地
下水汚染問題が深刻なドイツやオランダなどでは、工業的畜産に一定の規制を加え
るとともに、LISA型畜産に転換するための助成措置を講じている。農民的な放
牧畜産が伝統的な観光資源でもあるスイスで、昨年農民団体の請求によって「家畜
工場」を保護農政の対象から外すことの是非を問う国民投票が行われた。投票の結
果は、僅少の票差で農民団体の主張は容れられなかったが、国民世論が急速に工業
的畜産を否定する方向に傾いているのはたしかだ。

 わが国でも、従来のハイインプットの工業的農業化路線を見直し、LISAの方
向への軌道修正を図る必要性の認識が高まっている。今年8月、東京で国際農業経
済学会議が開かれたが、そのメインテーマがSustainable Agricultural Developme
ntだった。アクセントはディベロップメントではなくサスティナブルにある。また
農水省でも、今年5月に事務次官を長とする「新政策本部」を設け、来年3月を目
途に農基法農政見直しの検討作業に入った。そしてその基本課題6項目のひとつに
は、「環境保全に資する農業の確立」がうたわれている。生産性向上を主眼として
きた基本法農政の基調に変化の兆しがうかがわれる。

 だが、LISAへの道は言うは易く行うは難しい。なにぶんにも過去の近代化農
政のもとで、わが国農業はすっかり工業的農業に体質変化してしまった感が深い。
とりわけ畜産部門はそうだ。そうではあるが、全国の畜産のすべてが工業的畜産一
色に塗りつぶされてしまっているわけではない。地域ごとの風土に密着してLIS
A型畜産が息吹いている事例が、全体からすればごく少数派ではあるが各地に生き
残っている。ここに紹介する隠岐の放牧畜産は、その貴重な1事例といっていい。
現地に足を運んでその実態と存立条件に学び、牛飼い農家の方々と膝を交えて、そ
の風土に溶け込むようにして生きる暮らしのたてかたと生活哲学をおうかがいした。


島の暮しの立てかたと変容

 隠岐は島根半島の沖合40〜50キロほどに位置する日本海中の群島である。4
つの主島と180余りの小島からなり、総面積は約346平方キロ、4島あわせて
も鹿児島県の種子島に及ばない。4島を大別して島前、島後と称し、本土に近い島
前は知夫里島(知夫村)、西ノ島(西ノ島町)、中ノ島(海士町)の3島からなり、
島後(西郷町ほか3か村)は島前の東北18キロに位置する隠岐最大の島で島根県
の隠岐支庁は西郷町におかれている。隠岐・本土間の交通は、隠岐各港と島根県の
七類、鳥取県の境港の間をフェリーと高速旅客船が就航しているほか、空路は出雲
空港と米子空港から島後の隠岐空港への便がある。

 初めて訪れた隠岐の気候風土は、予想に反してマイルトだった。年平均気温15.
3度、対馬暖流の影響を受けて、月平均気温は冬でも3度を下らず、夏でも26度
以下の暖冬涼夏型の恵まれた気候である。降水量は年平均1,923ミリだが、比
較的に年間フラットに降っている。積雪も少ない。難をいえば冬期間に西風が強い
ことぐらいだが、まず放牧畜産に好適した気象条件とみられる。

図.隠岐位置図

 隠岐全島が地質的には朝鮮の白頭山系の火山島であるため、地形は急峻な山地が
ほとんどを占めており、平地はごく少なく。ただ相対的に島前の三島ことに西ノ島
と知夫里島の山地はなだらかで、この両島が隠岐黒牛の放牧畜産の主産地を形成し
ている。

 隠岐の人口は、昭和25年の約4万5千人をピークとして減少を続けており、平
成3年3月現在で約2万7千人に落ち込んでいる。なかでも島前の知夫村の人口減
は著しく、昭和33年当時の2,219人が、今年10月現在で871人にまで激
減している。若者の島外への流出にともなう人口の高齢かが顕著で、昭和63年に
おける65歳以上の老齢人口割合は隠岐全体21.6%、知夫村では実に35%に
達している。ちなみに、知夫村の昭和30年国勢調査時点と63年3月現在の人口
ピラミッドを対比して掲げておこう。過去約30年間に、知夫村の人口ピウラミド
は逆立ちに近い大転換ぶりを見せるにいたっていうのである。

図.知夫村の人口ピラミッドの変化

 その背景として、とくに高度成長このかたの就業構造、ライフサイクルのパター
ンの変化が指摘されよう。隠岐はもともと「老人と女・子供の島」というイメージ
が強かった。島には半農半漁の性格が濃い農林漁業のほかには、とりたててこれと
いった2次3次産業はみられない。あえて活気が感じられる産業部門をあげれば、
離島振興関係の公共事業に支えられた建設業くらいのものだ。元年度の事業費ベー
スの実績は約130億円にのぼる。これは、農業総粗生産額の10倍近い金額であ
る。大山隠岐国立公園の域内でもあるから、近代的工業の立地条件に欠けるし、ゴ
ルフ場やリゾートマンションの建設ブームもここは圏外である。観光客数は昭和4
9年の19万8千人をピークに漸減傾向を辿り、近年は年間15、6万人で低迷し
ていた。ただ今年は、NHK大河テレビドラマ「太平記」の余慶で、隠岐史跡巡り
の団体ツアーが押しかけており、年間20万人を越える見込みだという。

 隠岐の住民は、このような自然的・社会的風土のもとで、これにマッチした独自
の暮らしの立てかたを編み出して、それなりに安らぎの里を形成してきた。山の自
然条件をフルに生かした古来の「牧畑」のシステムは、絶妙な島の住民の知恵の結
晶であった。最低限の衣食住の充足は、半農半漁でことたりる。それを超える必要
な資金源は島外出稼ぎに依存せざるをえない。そこで高度経済成長期以前の隠岐の
男の人たちの普遍的なライフサイクルとしては、成人したら島外に通年出稼に出る。
通年出稼ぎは伝統的に船乗りさんが多かったようさ。昭和30年代初めに中学出た
西ノ島の浦郷農協組合長中上良英氏の回顧するところによれば、クラスメート36
人のなかで卒業してすぐ家業の農業をついだのは中上さん1人だけだったそうだ。
結局、男達は結婚しても青壮年時代は通年出稼で家郷を離れており、老人と女・子
供が半農半漁を営みながら島の家を守っている、というパターンが伝統として根づ
いてきていたのである。そのことは、さきに掲げた知夫村の30年当時の人口ピラ
ミッドにおける青壮年層のくびれかたに明瞭に反映してもいる。

 ところが、昭和40年代ごろから、この伝統のパターンに変化が生れた。かつて
の単身通年出稼が、恒常的勤務の都会暮しとなり、都会で核家族を営むようになっ
た。その傾向が進んで、かつての「老人と女・子供の島」から「老人ばかりの島」
になりかねない様相を呈しているわけだ。しかし島の暮しの立てかたの基本に変化
はない。悠揚とした老後の安らぎの島の印象が強かった。


市場で高値を呼ぶ隠岐牛

 隠岐の農業に占める畜産の比重は平成元年度の粗生産額ベースで29%、その約
9割は黒毛和種の肉用子牛である。島前の西ノ島町と知夫村では、農業粗生産額の
91%までが肉用牛で占められたいる。平成3年2月現在の全島の飼養農家煤は3
50戸、飼養頭数は2,127頭(うち子取用雌牛1,426頭)、1戸平均約6
頭(成雌牛4頭)である。過去20年来の推移を見ると、飼養戸数、頭数とも漸減
傾向を辿ってきたが、ここ3年来戸数は微減を続けながらも総頭数は下げとまって、
若干ながら上向きの気配を示している。ここ数年例の黒毛和種子牛の持続的高値の
市場動向が、農家の生産意欲を刺激している。

 子牛の家畜市場は、島後に1か所、島前に4か所、計5か所あって、それぞれ年
3回開催されている。平均取引価格は昭和62年度に30万円台を超え、高原状態
で推移している。昨年の平均価格は40万1千円(平均222キロ、キロ当たり1,
808円)だったが、今年はキロ当たり2千円、1頭平均50万円ラインに乗せら
れそうだ、と関係者は見ている。お会いした牛飼い農家の方たちの顔は明るかった。

 現地をご案内いただいた隠岐支庁農林部の畜産係長多久和正氏が試算されている
標準的な1頭当たりの生産コスト(労働費を除く)は15万円、うち濃厚飼料代は
5万円程度である。放牧に依存する度合の高い西の島、知夫里島では、生産コスト
はさらに低くなる。「こんなにもうかっていいものか、先がおそろしい」ともらす
農家もあった。島根県の黒毛和種は全国的にみてもトップクラスの優良血統牛に位
置づけられている。隠岐の子牛は放牧依存度が高いから本土のそれに比べて小ぶり
ではあるが、丈夫で病気(ピロプラズマ)に強く飼いやすい、という声価が高まっ
てもいる。とりわけ知夫里島の牛は、昭和30年代から全島をあげて血統改良運動
を進めてきた成果が近年現れて、市場でのキロ当たり単価は島内の他市場に比べて
1割以上の高値を呼んでいるという。


「牧畑」の伝統を生かした放牧

 牧畑は歴史の古い隠岐固有の伝統農法であった『吾妻鏡』(1188年)にも、
隠岐の牧畑制度の記録がある由だ。

 牧畑というのは、ある一定の仕切られた土地を1年のうち定めたれたある時期は
麦・大小豆・雑穀類の畑地として利用し、その時期が過ぎると休閑放牧地として利
用する、といった隠岐独特の穀草式農法である。牧畑の土地全体が穀作の種類や放
牧期間の長さを変えた4つの土地利用タイプの地区に区分され、4年間で4つの土
地利用タイプが一巡する仕組みがとられていた。その作付順序では、とくに地力消
耗的な麦っを作付ける前には、地力の回復をはかるため1年間の放牧期間が設定さ
れていた。穀作跡地への放牧は、雑草を飼料として有効利用するとともに、牛の糞
を通じて牧区内の林地から畑地への地力の地目間移転の意味合いもあった。地力維
持に配慮が行き届いたシステムである。かつては隠岐全島で普遍的に牧畑が行われ
ていたが、昭和30年前後から衰退し、いまでは島前の西ノ島と知夫里島の両島で
牧畑に利用されていた区域をそのまま、古来の入会権を生かした放牧専用地として
利用している。

 牧畑の仕組みには、日本海の孤島で食糧の自給自足をはかる島民の知恵の結晶と
いっていい合理性が感じられる。牧畑方式は、一見原始的農法であるかにみえて、
じつは精緻なサスティナブル・アグリカルチュアの営農方式であった。

図.かつての牧畑の輪換方式(西ノ島浦郷地区)

 戦後島内に水田開発が進み、また本土との経済交流が深まるにつれて、牧畑の古
来の形は崩れた。しかしこのユニークな土地利用方式を支える入会慣行の精神的支
柱は脈々として今日に受けつがれている。牧畑の土地は、所有権はめいめいにあっ
て、穀作に定めたれた時期は各戸の個別耕作に委ねたれるが、放牧期間に定めたれ
た時期にはだれでも放牧することができる。牧道や牧柵や水飲場など牧区の協同利
用施設の維持管理は、かつては選挙で選ばれた牧司の指示による全員の協同作業で
行われてきた。現在は農協が牧司の役割を果している。

 高度成長期以前の島の生活では、牛馬は島の住民にとって必要不可欠の生活手段
だった。山の畑に通作するにも、薪や下肥を運ぶのにも、これなくしては叶わない。
その意味において、牛馬はたんなる経済的動物でなく、公共性に色どられた生活手
段としての共通認識があった。その島民みんなのコンセンサスを基盤として、牧畑
における入会慣行が数百年来生き続けてきた、とみてよかろう。


牛のイヤカタの主力は老年Uターン

 隠岐黒牛の主産地西ノ島と知夫里島を訪れた。まず、西ノ島では同島浦郷農協で
中上組合長から概況のご説明を受けたあと、牧畑の現地をご案内いただいた。浦郷
地区は西ノ島の西部地区であるが、地区全面積のおよそ8割に相当する1,120
haに19の牧区が設定されている。畜産農家は約50戸、放牧の黒牛は約400
頭、ほかに馬が約120頭、合計約520頭である。牧道はよく整備されていて、
車で各牧区を見廻ることができる。展望のよい場所で中上組合長が車を止めた。
「あれは、うちの牛です。」と中上さんが指さした。3、4頭の親牛が子連れでこ
ちらをじっと見ている。「自動車のエンジンの音を聞きわけて、うちの牛が寄って
くるのです。」と。中上さんはさらに、「モオッ、モオッ」と一風変わった抑揚の
喜び声を掛けた。すると谷の斜面の方から何組もの子連れ牛が、のそりのそりと道
端まで登ってそばに寄ってきた。北大農学部出で獣医師の経験を積んでいる隠岐支
庁の多久和さんのお見立てによれば、島前の牛は歳よりもずっと若く見えるという。
「牛飼いの人間もそうですよ」と中上さん。17歳でまだ子牛を取っている不老長
寿の牛がいるそうだ。西ノ島の牛飼いの最高齢者は84歳のおばあさんで、毎日、
山道を登って子牛たちに"ベントウ"(濃厚飼料)を届けているという。
さきごろ、浦郷農協で"牛のオヤカタ"の平均年齢を調べたら、64歳だ
った由である。牛もオヤカタも健康で長寿の土地柄であるらしい。ほのぼのした気
分を胸に抱いて山を下りた。

 西ノ島から連絡船で知夫里島に渡る。知夫村では、島の牛飼いを代表する三名の
オヤカタ衆、崎本太郎氏(82歳)、井尻恒教氏(75歳)、仲瀬武夫氏(65歳)、
それに知夫村農協組合長の高田武氏と隠岐支庁の多久和畜産係長、東京からきた私
と同行の畜産振興事業団企画情報部の堤知博氏といった面々が加わって、牧畑山の
展望のよい草原で青空座談会を催した。場所は、知夫里島切っての景勝の地アカハ
ゲ山(標高324m)の展望台近くの陽だまりだった。アカハゲ山は、島の西部一
円の大半を占める3つの牧畑計約520haのほぼ中央に位置する。ここからは、
島前島後の島々はもとより、遠く島根半島まで一望におさめることができる。緑な
す丘陵の草原には、ここかしこに点々と黒牛が散在し、それに数頭ずつの馬の群が
交っているのが眼に鮮やかだ。まさに牧歌的景観の粋を見るおもいだった。

 牛飼いのオヤカタの最長老は82歳の崎本氏だが、かくしゃくたるものだ。繁殖
用雌牛4頭のオヤカタで、昨年まで知夫村農協組合長だった。この山の上までバイ
クでおいでになっていた。崎本さんは開口一番、「これまで畜産振興といえば規模
拡大一辺倒だった。牛肉自由化対策でさらにその路線が強調されてきたが、この島
にはあてはまらない。規模拡大よりも中以下の層を厚くする行き方が基本ではない
か。」と問題提起をされた。崎本さんはじめ3名のオヤカタは、いずれも壮年時代
までは他産業で働いてきた老年Uターン組である。井尻さんは建設会社、仲瀬さん
は海運会社を定年まで勤めあげてから島に落ちついて、牛飼いを始めた。高田組合
長も昨年まで島の郵便局勤めだった。知夫里島の牛飼いのオヤカタ51人の圧倒的
大多数は老年Uターン組なのだ。平均年齢は西ノ島とほとんど同じだというから、
65歳前後、子取用雌牛の平均飼養頭数は6頭である。冬場の4か月を除く1年の
大半を放牧しているのだから、無理もない飼養規模だ。生産コストは他所では考え
られない低さだから、いまの子牛の市場価格の動向からすれば、老後の現金収入源
として公的年金をも上回るほどのものがあろう。井尻さんは、牛15頭、馬3頭の
大オヤカタだ。「年金は国に返してやるぐらいの気構えで牛飼いをやっているんで
すよ。」と鼻息があらい。また、「都会のような豊かさではないが、いまの暮し方
が幸せだと思う。」と語った。野菜はみなさん家庭菜園で自賄い、ミソは“手前ミ
ソ”だそうだ。


見直されてきた野芝

 私たちが車座になって腰を下した牧畑の草原は、10月下旬だったが草生は青々
としていた。そしてその草は在来の野芝(ニホンシバ)だった。ところどころに、
かつて播種されたと覚しきクローバーや禾本科牧草などの残党がみられる。オヤカ
タたちの見るところ、「牛は草地改良で播いた牧草よりも野芝のほうが好きのよう
だ。まず、野芝のほうに寄ってくるよ。」と。ひところは野芝を牧草に転換する方
針で草地改良事業が進めたれていたが、近来ここを訪れる草地の研究者からは、古
来の野芝が島の風土にいちばん適している。のだから、これを大事にしなさい、ア
ドバイスする向が目立つという。

 しかしながら、放牧地の現状は、そのまま手を加えないで自然にゆだねておいて
いいわけではけっしてない。アカハゲ山にいたる牧道の途次見かけた牧畑のかつて
の耕作地の跡は、松の木を植林したまま間伐もしないで放置されたままになってい
るのが目立った。マツクイムシにやられて赤く染った松の木が随所に立ったままで
ある。野芝以外の雑草のなかには、カヤ、クズ、ヨモギといった牛の嗜好性の高い
野草が多いが、近来牛の食べないギシギシ草がはびこってきたという。老年Uター
ン組主体の牛飼いだから、広い牧野の良好な維持管理を図るのは容易ではあるまい。
これからのひとつの大きな課題であろう。

 知夫里島の牧畑面積は、西部のアカハゲ山を中心とする3牧520haと東部の
東牧約130haをあわせて全島で約650ha、島の総面積の約半分を占めてい
る。これにたいして家畜の総頭数は子取用雌牛約300頭、子牛が150頭、馬が
5、60頭の約500頭である。昭和30年当時の統計をみても、牛445頭、馬
50頭計495頭とあって、オヤカタの数は250人から50人に大幅に減ってい
るものの牛馬の総頭数は安定的に推移してきた。つまり、牧野650haに大家畜
500頭、牧野の荒地部分を割引いて考えれば、1ha1頭のバランスが長期安定
的に維持されてきた感がある。西ノ島の中上浦郷農協組合長も、「放牧の適正密度
は、まず1ha1頭といったところでしょう。」と語っていた。古来の経験に根ざ
すこのバランス感覚は大切に守らなければなるまい。せっかちな多頭飼養化を推し
進めるのでなく、牧野管理をよくし、そして草資源のレベルアップに応じた増頭に
とどめる節度が求められよう。


命の綱の慣行入会権

 島前の放牧畜産にとって、豊かな草資源とならんで、その永続性を保障する命の
綱ともいうべき社会的存立基盤は、1千年来の慣行入会権である。崎本さんは、
「入会権は絶対にこわしてはダメ、これはわしの遺言だ。」とまで言い切った。あ
とで立ち寄ってお話をうかがった知夫村役場の鹿島誠産業経済課長も同意見だった。
悠揚せまらぬ広大な放牧地にたいして、「最近ヨソからチョッカイを出す」動きが
みられるともいう。リゾート開発や島外の企業的大型畜産を志向する向には、アカ
ハゲ山を中心とする牧畑地区は垂涎のターゲットと目に映ることだろう。崎本さん
が主張されるように、古来の入会権がこわれたら、これらの「チョッカイ」を防ぎ
ようがない。また、慣行入会権を大切に守り続けてゆくためにも、畜産農家は少数
の多頭飼養タイプではなく、なるべく多数の村民が参加する“層の厚い牛飼い”タ
イプが望ましい、という論理になるわけだ。

 鹿島課長は、慣行入会権をただ守るばかりでなく、積極的に入会権をテコとして
牧畑の新しい計画的利用方式を編み出す工夫の必要性を説いていた。放牧畜産のネ
ックのひとつは冬場の粗飼料源をどう確保するかだ。知夫村には水田がないため、
従来お隣りの中ノ島の水稲ワラに依存するところが大きかった。現在は各牧区とも
全面放牧しているが、牧区の一部を仕切って放牧をやめ、冬場対策の採草地として
利用する仕組みを導入できないものか、といった提案である。入会権がしっかりと
島の社会のサスティナブルなコンセンサスとして確立しているかぎり、さまざまな
新工夫の余地も開けてくるにちがいない。

 慣行入会権の持続性にとっての不安材料のひとつは、牧畑の土地所有者の不在地
主化が進んでいる点である。西ノ島でもそうであったが、知夫里島の牧畑の土地所
有者のおそらく5割は不在地主になっているでしょう、と鹿島課長は語った。西ノ
島の浦郷地区では約800人の地主のうち不在は300人ていどと中上組合長は推
定していた。これでは、牧野改良をはじめ牧畑の利用方式の改善対策を講ずるうえ
に、さまざまな支障が生ずるのではないかと懸念された。しかしこの点について車
座の面々はさして問題にしていなかった。不在地主の承諾がなくても松の木ぐらい
切ってもかまわない、という。また、どうしても不在地主のハンコが必要なばあい、
親戚から申し入れるようにすれば、けっして異議申し立てしないのが島の流儀だ、
ともいう。放牧料は年間1頭2千円であるが、土地所有者に支払われるのでなく、
牧畑を維持管理する共通経費にあてられる。入会権は慣行に支えられた権利である
けれども、現状では土地所有権に充分に対抗できる強力な力を保っているかにみえ
る。しかし、一方において牛飼い農家はかつては村民の大多数であったのに、いま
では一部の農民の業となっている。そして他方島の暮しと縁が切れた不在地主が急
速に増えつつある。慣行入会権の社会的基盤が弱体化しつつあるのは否めない大勢
であろう。崎本さんの“遺言”は重い課題とうべきだろう。


究極の畜産の息吹き

 アカハゲ山の青空座談会で最後に話題になったのが、アトトリのUターン対策で
ある。平均65歳の牛飼いのオヤカタたちは、自分たちと同じように、都会に出て
いるアトトリの息子も、定年後にはかならず島に帰っていまの自分たちの暮しの立
てかたを引き継ぐであろうことを固く信じて疑わない。息子たちは、学卒年令まで
島の暮しのたれかたになじんで過している。イエ意識ムラ意識も身にしみついてい
る。子の代のUターンは問題ない、と一同が口をそろえておっしゃる。問題は孫の
代のUターンをどうやって確実なものにするか、だという。先ざきのことを皆さん
案じていらっしゃる。しかしそれも無理からぬ心配の種ではある。単身の通年出稼
タイプだった自分たちの代とちがって、子の代は都会で一家を構え、孫は都会育ち
なのだ。だから子の代にたいする特別の教育の必要なないが、都会育ちの孫に島の
暮らしのたてかたとその生活哲学をどう教育し、身につけさせるかは、島の年寄に
課せられた大きな課題だ、という共通認識なのである。そのために、オヤカタたち
はいろいろ苦心していらっしゃる趣だった。学校の夏休期間をはじめ、なるべくた
びたび孫を島に寄こせといっている、と。車座のメンバーのなかで、孫の教育にか
けては“優等生”だと一座から指さされた井尻さんは、孫が帰ってきたら、つかま
えて「牧場めぐり」をするのに余念がないのだそうだ。井尻さんは、孫の代まで大
丈夫と胸を張っていた。老年Uターン型の牛飼いが、しぶとううけつがれていく展
望は、こんにちの世間の時流からすれば困難でなるけれども、望みなきにあらず、
と感じた。

 西ノ島と知夫里島の調査を終えて、帰りの船を待つ港の喫茶店で隠岐支庁の多久
和さんがぽつりと洩らした行政サイドからの所見が印象深かった。「こちらに赴任
するまで北海道の大型畜産が相手でしたから、赴任して1年目は懸命に北海道流の
畜産の近代化を指導してきました。2年目で隠岐の畜産の実情がわかり、近代化路
線とのジレンマに悩みました。いま3年目ですが、むしろこのままの姿のほうがよ
いのではないかと感じています。」と。また、帰京する前に表敬訪問した島根県庁
畜産課長松本昇三氏の一言も忘れ難い。「和牛農家は先細りの傾向ですが、隠岐の
牛飼いは最後まで生き残る究極の畜産といっていいのではないでしょうか。」と。
同感である。隠岐には、究極のLISA型畜産にふさわしい物心両面の諸要素が、
風雪に耐えて息吹いている感が深かった。


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