★巻頭言


必要な畜産業の安全性・環境志向への転換

OECD代表部参事官 篠原 孝


 世界の農業は、今やウルグアイラウンド(UR)一色に塗り潰された感がある。
貿易の自由化という大義を掲げ、既に4年も会議を続けている。しかし、なかなか
まとまらず、今も(5月15日現在)その成行は、超大国アメリカの議会がファー
スト・トラック(一括迅速審議)の権限を行政府に与えるかどうかにかかっている。
農業交渉グループでは、昨年12月のブラッセル閣僚会議の後、形式的には月1回
のジュネーブにおける会合が開かれてはいるが、ほとんど実質的進展がなく、実質
的議論は6月上旬のOECD閣僚理事会と7月のサミットにおいて再開されること
になろう。

 一方では、URに代表されるように、従来の価値観の延長線上で、生産性の向上、
貿易の自由化等が声高に叫ばれているが、他方では、安全性と環境を重視する全く
新しい動きも生じつつある。ところが、後者の動きが意外と看過ごされてしまって
いるのが現状である。表面的には、URがいかにも大切のように考えられているが、
もう既に貿易の自由化は、我が国に限らず少なくとも先進国間では相当進んでおり、
今後、大幅に関税が引下げられたところで、その影響はさほどではなかろう。それ
に対し、エコロジー志向こそ、今後の農業あるいは、食生活の方向に重大な影響を
与えてくるものと思われる。

<米・EC間の成長ホルモン牛肉論争の意義>
 畜産関係で、後者の例を挙げるとすれば、例の成長ホルモン牛肉をめぐる米・E
Cの対立が典型例となる。

 ECとしては、URの最中に何も米国と事を荒立てたくはなかったはずである。
しかし、成長ホルモンの人体への影響を危惧する消費者は、生半可なことは許され
なかったようだ。そして、ECは、成長ホルモン使用をやめない米国産牛肉の輸入
禁止に踏み切り、米国は、報復関税という具合で泥試合になった。日本の主要各紙
は、このような揉め事が好きなはずなのになぜかほとんど大きく扱わず、従って、
我が国の消費者の感心もさほど呼ばなかった。

 しかし、そこは多様性に富んだ国、アメリカである。ブッシュ大統領のお膝元テ
キサス州のハイタワー農務省長官は、テキサス州では成長ホルモンの使用を禁止す
るから、テキサスの牛肉は安心して輸出できる、と言い出し、ヤイター農務長官を
激怒させてしまった。ハイタワー・テキサス州農務長官は、家族農場の熱心な擁護
論者であり、かつ、有機農業の信奉者でもあり、14州の州知事を集めて、URの
米国提案に反対したりしている強者だという。

 米国は、科学的根拠がない云々と反論をしたが、結局折れて米国政府が、成長ホ
ルモンを使用していない証明書を添付することで決着した。

 我々が、気をつけなければいけないことは、この一件でも明らかなように、安全
性は、貿易の自由化よりも優先されるという事実である。URのまっただ中で、ガ
ットパネルに持ち込まれもしたが、安全性が勝利を収めたのだ。

<我が国の有機農産物志向と畜産物への影響>
 米国は、この動きが日本に波及することを極度に恐れている。ECは1億ドルに
すぎないのに対し、日本は20億ドルになんなんとする最大の市場であることから、
米国の心配も当然のことである。ところが、OPPやTBZ、そしてEDBにと極
端な拒否反応を示した我が国の消費者が、成長ホルモンについては、ほとんど目立
った動きを示していない。しかし、エンゲル係数が20を割った今、消費者の関心
が「安価」から「安全性」に完全に移行しはじめている。これは、先進国共通の現
象であり、エンゲル係数が30を割ると、消費者は価格よりも質に、そして、質の
中でも特に安全性に関心を持ちはじめるといわれている。日本も、まさに急速にそ
の時代に突入したのである。

 我が国では、やはり畜産物よりも穀物や野菜や果物に先にこの傾向が表れる。築
地市場の界隈に、何らかの形で「有機農産物」といった表示があるといわれており、
食管制度においても有機米の産直が特別栽培米として認められるに至っている。そ
して、農蚕園芸局に、有機農業対策室も誕生し、有機農業に行政としても本格的に
取り組み始めている。農薬、肥料、食品添加物と、ことごとく消費者の監視の目が
光り出したのだ。これが、畜産物にも顕在化してくるのは、もはや時間の問題であ
り、その時は、成長ホルモンや抗生物質の多投が問題視されるに違いない。

 さて、今後の我が国の畜産業の発展を考えた場合に、こうした動きに敏感に反応
できるかどうかが重要な鍵を握ることになる。成長ホルモンの例えでいえば、我が
国は米国とECの中間に位置し、人工の成長ホルモンは使用を禁止し、天然ものは
使用を許している。天然と人工を分けるのは、食品添加物にも見られる例であるが、
食品添加物の場合米国からは、その区別をなくせと迫られて、応じざるを得なくな
ってしまっている。ECはすべてを禁止しているので、内外無差別の原則にのっと
り、外国の成長ホルモンを使用した牛肉の輸入を禁止したまでのことであり、極め
て理に適っている。つまり、自国の生産者に使用を許さずにいるので、外国の使用
を許されている有利な生産者からは輸入できない、といういわばガット11条2項
に似た理由(国内で生産制限しているので、外国からの輸入も制限してよい)によ
るものである。

 今、日本で成長ホルモンの使用を禁止したら、肥育期間が3〜5ケ月多くかかり、
飼料代や労賃のコストは増加することは確実であり、ただでさえ生産費が多くかか
るのに、ますます内外価格差が増してしまうことは目に見えている。しかし、長期
的にみたら、どのような方向に進べきかは誰の目にも明らかである。消費者は、安
いものよりも質のよいもの、すなわち安全なものやおいしいものを求め出し、そう
した質のよさ(安全性・味)を作り出すコストは、当然負担するという態度に変わ
っている。15年前は、おしゃもじデモで農産物の自由化を唱えていた消費者グル
ープが、国内の信用のおける生産者が作ったものを食べたいとして10年ほど前か
ら農産物の自由化反対を主張し出しているし、有機農産物は少々高くとも飛ぶよう
に売れている。味の面でいえば牛肉自由化後も、高級牛肉の需要は相変わらず堅調
である。つまり、質のよい物を生産している限り、1億2千万人の巨大な市場を抱
える我が国の農業は安泰であるということだ。

 食生活における、健康志向、自然志向、本物志向等、どれをみても、国内生産物
が有利のはずである。その場でできたものをその場で食べる「地産地消」が、食べ
物については原則であることを知らず知らずのうちに身につけてきたのである。日
本人の新鮮さへのこだわりの理由もこの辺にあることになる。

 こうした傾向を反映して、生産現場では野菜や果物は、有機栽培、減農薬と工夫
がなされはじめており、加工食品の表示も、原材料、添加物、製造年月日、賞味期
間等の表示で、消費者向けの工夫がいろいろなされている。こうした中で、最も、
安全性への配慮に駆けているのが、畜産業の生産現場であるような気がする。我が
国の生産者が、安全性への配慮を怠った場合には、我が国の消費者は、国内の生産
物に見切りをつけ、米国やECの有機農産物(畜産物)基準をクリアーした米国産、
EC産の食料を輸入しだす事態となろう。米国は、既に28州において有機農産物
基準が作成されており、更に1990年農業法により1993年を目処に、連邦政
府が基準作りに乗り出しているし、ECも基準作りを開始している。ここで、我が
国が出遅れたりすると、それこそ取り返しのつかないことになってしまう。

<いずれ米国をしのぐ肥満大国・日本量よりも質(安全性)へ>
 かっての量や安い価格といったものから安全性を中心とした質志向への転換を図
らなければならないもう一つの理由は、畜産物の需要も、従来のようには伸びず、
むしろ減少する可能性さえあることにある。米国が、我が国に牛肉の自由化を迫っ
た際に、米国らしい天動説めいた主張をしたことがある。米国人が1人当たり年間
50sの牛肉を消費しているのだから、5sしか消費していない日本人の今後の需
要増は膨大であり、いくら輸入を自由化したところで、供給が追いつかず、国内の
生産者を圧迫することはない、というものである。しかし、その本家の牛肉消費量
は、肥満、脂肪過多、コレステロール過多への危惧から、今や35sに激減してし
まっている。米国は、多量の安価な牛肉が入手できるようになれば、スキヤキやし
ゃぶしゃぶでなくステーキで牛肉を食べるようになり、急激に消費量が増えるはず
だと期待したが、そうはなっていない。少量のおいしいものを食べるという傾向に
は、ほとんど変化がみられないし、このほうが体にもよいことは明らかなのだ。

 いくら日本人の舶来信仰が強く、食生活の欧風化がいともたやすく行われている
とはいえ、やはり味や舌は保守的である。食生活は風土や民族の歴史に根ざしたも
のであり、そう簡単に変わるものではない。いわば「ないものねだり」で、牛肉が
ありがたく思われた時もあったが、今後は数多い食材の一つにすぎなくなっており、
今後は、もはや大幅需要増は見込めないだろう。

 米国では、マクバガン委員会の食生活に関する報告以降、健康志向が完全に定着
し、肥満に対する異様な嫌悪感もあり、肉全体の消費も落ち込んでいる。加えて、
大腸ガンと赤肉の相関関係等、脂肪のとりすぎによる成人病の増大が明らかになる
につれ、ますます畜産物消費は頭打ち状態となっているようだ。

 米国に起きた社会現象は、何年か後にはほぼ確実に日本でも起きてくる。いや今
や、同時併行して起きているものもある。

 これを畜産物関係でみると、驚くべきことに、23才未満の日本人は、米国人よ
りもコレストテロール値が高くなり、同時併行どころではなく、先行してしまって
いるのだ。米国は、長年の肥満への苦しみから、相当な努力が払われだしたが、我
が国は後発国である故に、その認識は甘い。西丸震哉氏の40才寿命説による警告
もあるが、このままだと21世紀の初頭には、日本は米国を凌ぐ肥満国となり、成
人病大国となってしまう恐れがある。

 旨味は、脂肪にある。上トロにしろ、霜降り肉にしろ、脂肪である。かっては、
こんなものはおいそれと手に入らなかったが、今は金さえ出せば、毎日でも食べら
れる。放っておけば、日本人のほうが脂肪過多になるのは目に見えており、小学生
の5人に1人は肥満児になっているのが現実である。他にも、アトピー性皮膚炎は、
根本にはタンパク質の取り過ぎがあると言われ始めており、日本でも、脂肪やタン
パク質の取り過ぎが問題視され出すのは時間の問題である。

 こうしたことからも、畜産業は、量よりも質、特に、安全性や健康に重点を置い
た生産にシフトせざるをえないであろう。

<表面化する環境問題>
 もう一つの新しい問題として、環境問題がある。1989年のアルシュ・サミッ
トは、「環境サミット」と位置づけられ、地球温暖化、オゾン層の破壊、熱帯雨林
の減少等に焦点が当てられたが、サッチャー首相の強い要請により地下水の汚染や
土壌の流出問題の項目も加えられた。URでも、先のブラッセル閣僚会議において
北欧より、「貿易と環境」の問題を扱うよう提案があり、遅ればせながら会合が持
たれている。これより先、UECDでは農業と環境の関係が議論され、今後も続け
られることになっており、もはや具体的対応が求められだしている。

 日本ではそれほど騒がれていないが、硝酸塩や家畜糞尿による地下水汚染は、欧
米諸国では深刻な問題となりつつある。窒素肥料の多投と家畜の過密飼育により、
地下水が飲めなくなっているからだ。日本と異なり、年間降雨量はそれほど多くな
く、せいぜい700〜800oである。地形も、ECの条件不利地域といっても日
本の感覚からすると単なる丘にすぎない。そのため、大量の雨によりさっと流され
るということがない。

 こうした事態に対処すべくECは、粗放型農業への転換を打ち出している。ドイ
ツでは、1ha当たりの家畜の飼育頭数を制限し、イギリスでは、平地林・生垣を復
活させ小動物や小鳥の生育地を意識的に造り出すことまでしている。ライン川の下
流、平地ばかりのオランダは、地下水もさることながら、水の汚染はより深刻であ
る。過激な経済学者は、我が国でもオランダ型農業に転換すべし−すなわち、競争
力のない土地利用型農業を捨て、競争力のある加工畜産や園芸に特化すべきだ、と
主張する。

 しかし、これまた本家のオランダは、危うい状態になりつつある。長年の集約型
農業のなれの果てに、土も水も疲れ、国土全体が汚れてしまったのだ。オランダは、
時によってはどこへ行っても、ある独特の堆肥の臭いのする国になってしまったの
だ。こうしたことから、オランダでは、環境問題が最大の問題となり、1989年
末の総選挙は、環境保全派が勝利を収めている。そして、打ち出されたのが、生産
性を押さえても、国土の健康を取り戻すことであり、特に家畜の糞尿の処理が問題
視されだした。オランダが反捕鯨運動の急先鋒であり、また一連の環境会議のホス
ト国を努めているのは、まさに深刻な環境問題、特に水の汚れの故である。(同様
の動きは、米国のLISA(Low Input Sustainable Agriculture:低投入持続型
農業)にもみられるが、紙面の都合で割愛する。)

 この点では、日本はまだ恵まれている。確かに都市均衡からは畜産農家が悪臭の
苦情により追い出されているが、過疎地はいくらでもある。急峻な地形と年間1,
800oの降雨量が問題を少なくしてくれる。しかし、毎年2,000万トンを超
える飼料穀物を輸入し、それを日本で使用しているのだから、オランダと同じ問題
が生じてくる可能性は多分にある。既に、場所によっては、硝酸塩やし尿による地
下水の汚染が問題にされつつある。我が国のみが安閑としておれない重大な問題で
ある。世界は、地球にやさしい生き方を求められており、政府も企業も環境問題へ
の取り組みが、評価の一つのメルクマールにされつつあり、我が国の畜産業界も真
剣な取り組みが必要となりつつある。

 我が国の畜産業界は、ここ10年ぐらい自由化問題ばかりが宣伝されてきたし、
その対応に明け暮れてきた感がある。しかし、今後は、1億2千万人の巨大な市場
を抱える有利性を活かしつつ、安全性や環境重視という世界の潮流を見失うことな
く、機敏な対応が望まれるところである。


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