★ 巻頭言


国境のない世界に住みはじめた我等

(社)国際農業交流基金会長 吉岡 裕


最近の旅の記録

 今年9月、すでに荒涼とした冬景色に変ったオランダ北海海岸のホテルで開かれ
た「農業・環境と貿易」を討議するためのオランダ農務省と国際農業・貿易政策協
議会共催のある国際会議に出た。畜産振興事業団のブラッセル駐在代表の塚田さん
とも一緒だった。その後で久しぶりのボンを訪ね、週末にかけた小春日和の数日間
を、ライン河に向うホテルで過ごした。河を上り下りする河舟と同じようにゆっく
り時間が流れるそのホテルで、対岸の教会の搭を眺めながら、欧州事情に詳しく、
岩波からいくつかの著書も出ている笹本駿二さん夫妻とランチをともにした。

 その後、これまで越えたことのない大西洋をフランクフルトからニューヨークに
飛び、カーネギー・カウンシルの人と会って10月東京で共催する日米バイテク会議
の相談をし、すぐにエア・シャトルでワシントンに移り、何人かのコンサルタント
やエコノミストに会った。そこから最後の訪問地ケベックにボストン経由で着き、
馬事文化財団がメンバーになっている世界博物館協議会(ICOM)の総会に数日間出
席した。フランス語しか使わず、独立の気運すら濃厚なこの州都で、何人かの博物
館、美術館の人々と知合いになった。やっとトロント、バンクーバー経由で成田に
帰ったときには、この旅は20日間という長いものになっていた。

 これで今年も終りと思っていたら、11月半ばの1週間、急にワシントンに出かけ
る用事ができ、一晩泊りでアーカンソー州のストゥットガルトという小さな町の農
協会社の社長さんにも会いに行くことになった。ことのついでに、クリントン知事
が新民主党大統領をめざして選挙戦を始めた州都リトル・ロックの選挙事務所にも
飛込み、キャンペーン・グッヅのバックルを記念に買うというハプニングまで経験
する羽目になった。時差の克服は、年齢とともに時間のかかる厄介な海外旅行後遺
症だし、旅行の前後の事務量も馬鹿にならない負担である。しかし、この国のなか
だけでは得られないような何かを得て、今は結構機嫌よく師走を迎えることになっ
た。


国境なき世界のはじまり

 他人の旅行記録を聞かされても、普通面白くもなんともない。その我慢を強いた
のは、この小文を読んでくださる方に、一応私の旅程と同じ海外旅行をしていただ
き、私とその心理状況を共通にして欲しいという願いからである。

 われわれはごく最近まで、確かに国境というものを強く意識した。パスポートや
ヴィザの取得は、その都度大層手間暇かかったし、支度金とか餞別まで貰って日本
を飛び立った。いま日本人は、国内旅行とほとんど同じ感覚で成田を発つ。出国手
続も、入国手続や通関手続もほとんど苦にならなくなった。普通の人の場合、手荷
物を開ける先進国の税関はまずない。今の日本人にとって国境、とくに先進国の国
境は、ほとんど意味をもたなくなった。日本のなかで国境を痛切に感じている人が
いるとすれば、とくに開発途上国の人々である。


海を渡りはじめた日本文化

 長い日本の歴史のなかで、中国、朝鮮などの先進文化を受入れ、さらにシルクロ
ード経由で中近東文化の影響すら日本人は受けてきたといわれてきた。日本は外の
世界、とくに先進西欧社会からの一方的な情報文化の受け手で、外の世界には情報
文化の発信をしてこなかった、という日本人の思い入れは強く、これが私どもを長
い間苦しめてきた。しかし、いま事態は変ってきた。冷戦が終息した今日、生活と
経済が世界の国民の関心の的となった。日本はいま、世界三極の一極を占める経済
大国であるうえに、世界の日常的消費に向けられる工業製品の目ぼしいもののほと
んどを供給している。例えばニューヨークの街をちょっと歩いてみれば、それがす
ぐわかる。

 かってシルクロードの隊商がイランや印度の文物を中国に運び、絹織物や陶器を
欧州にもたらしたように、文化の運び手は通商であり、経済行為であった。案の定、
日本経済の膨脹とともに、非常な勢いで日本文化の影響が海外に浸透し始めたのが
実感できる。


ハイテクノロジーと日本文化

 ニンテンドウ(ファミコン)、セガ、NEC(PCエンジン)などというパソコ
ンゲーム機は、いまアメリカの子供文化そのものである。日本のアニメーションは、
関連する映画、ヴィデオ、雑誌、オモチャなどを含めて、欧米の子供、若者文化の
重要な一部となった。日本の工業テクノロジー製品がハード、ソフト一体となって
輸出され、こうして外国に定着した。ちょうど徳川時代の末期に、正統派日本画壇
から外れた町人文化として発展し、これが海外に流出して、フランス印象派画家に
強烈な印象を与えた背後には、日本の高い版画技術文化があったが、その商業的意
味は、現代の版画ともいうべきアニメ、テレビゲームの比ではない。膨大な規模の
貿易量によって、この現代浮世絵は、西欧先進国の子供や若者を魅了した。

 私はこれを日本のアニメーション文化の普及と名付けたいが、アニメーションは
オペラの現代版ともいうべき要素を備えており、絵画、音楽、映画、演劇などの総
合的文物である。例えばアメリカの青少年が惹かれる日本のアニメには、物語にも
絵にも主題歌にも、米国製にはない日本的な「優しさ」や「こまやかさ」や「几帳
面さ」がある。彼らはアメリカにはない、こうした日本的要素に強く惹かれている
ように私には思われる。もしそうした日本的資質が日本的技術で具象化されている
とすれば、アニメ文化こそ日本文化の精髄を示すものだといえないだろうか。

 これまでのエコノミック・アニマルというレッテルが、日本から完全に剥げ落ち
たわけではないが、日本という国をより中立的に理解しようという態度が、いま国
際社会のなかで確実にみられるようになった。その良い例がある。数年前日本で先
進国首脳会議が開かれたとき、ミッテラン・フランス大統領が会議の後で京都、奈
良をはじめて訪れた。そして帰国前に「日本の高度のテクノロジー開発能力の理由
が京都、奈良をみてはじめて分った。」という感想を洩した。日本の近代技術の発
展を西欧の単なる模倣と見たがるのが西欧指導者の通弊だが、すぐれたインテリで
あるミッテランは、日本人の文化的源流を自分の目で確かめたとき、その日本人観
は基本的に変わらざるを得なかったのであろう。


日本食文化の普及と貿易摩擦

 明治開国による西欧文明の到来とともに、西欧の食品あるいは料理法が日本人の
食生活にさまざまな形で浸透したように、いま日本食文化の西欧への波及はめざま
しい。「スシ」は、とくにアメリカの都会では、完全にアメリカ人の食物として定
着した。ニューヨークでは街角ごとに「スシバー(寿司屋)」があると感じたし、
知合いのデール・ハザウエイ(元農務次官)などは、家の近くでスシの折詰を買っ
て帰る由。だから大阪の業者が売名半分で始めた冷凍寿司事件は、たちまちアメリ
カのおもな全国紙に報道されて、ワシントン、ニューヨークといった主要都市で評
判になるといった事象には、こうした背景があるからである。

 このような日本的コメ食品がアメリカで一般化していれば、「コメ」が日本閉鎖
市場のシンボル商品になるのは、容易に理解できる。アメリカ人が、ほかでもない
自分が発明し、発展させ、これなしでは暮せない自動車の輸入と国際競争でこれだ
け日本に譲ったのに、日本人のほうが、自分たちに一番大事な産物だから指一本触
れさせない、と主張するのには我慢ならない、という論調は、アメリカ人の心の琴
線にきわめて触れやすい議論なのである。

 スシだけではない。アメリカ人が、スシと一緒に結構さまになる格好でサケを飲
み、ミソスープを啜るのは、いまどこでも見られる風景であり、アメリカでは結構
トレンディな風俗なのである。20年まえ、「味噌というこのもつとも日本的で、ア
メリカ人が一番嫌いという調味料を、なんとかしてアメリカ人に食べさせたい、こ
れが私の人生の目標なのです」と言って、カリフオルニアにはじめての工場を建て
たのは、信州味噌の社長さんだったと思うが、この社長さんの願いはとうに達成さ
れた。 


日本文化の世界化

 最近、日本の縄文時代の古代文化遺跡と食器などを含むその出土品が、ボストン
博物館ではじめて展示され、ニューヨーク・タイムスも報道して、米国人の間でち
ょっとした問題になっているという。200年の歴史しか持たぬ米国人にとって、日
本古代人が持つ高い文化と技術に、ミッテランが奈良、京都で感じた驚きをさらに
遡って感じている様子が伺える。

 ひとつの文化が他の文化圏に波及するとき、かならず摩擦を生む。そして次第に
同化する。そうした文化波及の担い手は経済であり、貿易である。いまわれわれの
日本文化は、そうした世界化の過程にあるようだ。


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