躍進する鹿児島黒牛
−進む肉質改良−

(財)農政調査委員会専門調査員 山本 文二郎


全共で総理大臣賞に輝く

 「めざそう国際競争に打ち勝つ和牛生産」をテーマに第六回全国和牛能力共進会
が10月上旬、大分県湯布院町で開かれた。島根県大会から5年目になる。鹿児島県
は11部門全部で優等賞を獲得、3つの部門で農林水産大臣賞を、中でも薩摩郡和牛
育種組合から出品した祁答院町の4頭は総理大臣賞に輝いた。日本一の和牛県の面
目躍如たるものがあった。

 鹿児島県は前々回の福島大会で肥育部門に出品した1頭が初めて総理大臣賞を獲
得、それ以来10年ぶりのことだ。だが、この総理大臣賞の牛は父牛が兵庫から入れ
た種雄牛で、いわば鹿児島生まれの但馬牛だった。今回は父牛、母牛ともに鹿児島
生まれである。鹿児島県は中国地方や但馬の優良種雄牛に依存しながら改良に取り
組み始めてもう30年、ようやく自分の足で立てるようになった点で、第六回大会は
画期的な意義がある。

 鹿児島県の和牛もかつては但馬や鳥取などと同じように、それぞれの地域に特徴
のある系統が形成されていた。薩摩半島には池田牛、加世田牛、大隅半島には曽於
郡の梶ケ野牛、佐多町の辺塚牛、島には大島牛、種子島牛などがあった。だが、ど
れも背の高さは1.2メートル、体重は300キロ前後の小柄なものであった。明治には
外国種と交配されて改良が手掛けられている。1950年ころまでは背の高さが120セ
ンチ、体長136センチ、体重400キロと、現在の牛に比べるといかにも小振りであっ
た。


50年代後半、鳥取牛で改良始まる

 鹿児島県が和牛の改良に本格的に取り組み始めるのは50年代後半。鳥取牛は肉質
で劣るが体積に富み、発育成績が優れている。まず体格の改良に鳥取牛を積極的に
導入する。タネ付けに供与された種雄牛を産地別にみると、50年代前半は大方自県
産だったが、後半には80%が鳥取県産となっている。いかに鳥取一辺倒だったか、
鹿児島和牛は鳥取牛によって塗り替えられ始めたといってよい。

 60年に農業基本法が制定されて、農業近代化へ大きく踏み出し、呼び方も役用牛
から肉用牛へと変わり、肉用としての側面が重視されるようになった。県職員とし
て和牛改良一筋に歩んだ曽於郡種雄牛農協の安田三郎常務は「昔は鞍を乗せるため
牛の背が狭く尖っていた。農耕に使うので前躯がかっしりして後躯が弱く、これで
はロースが小さく肉量が少ない。背中と後躯の充実を図ることが何よりも必要にな
っていた」という。

 このため県では、肉質は抜群だが発育が遅い但馬牛よりも、大型で発育成績のよ
い鳥取や岡山、広島などに種雄牛を求めていった。60年代前半には鳥取のほかに広
島の比婆郡、岡山の阿哲郡からも種雄牛が導入されている。種雄牛が多様化し、一
時混乱状態となった中で、岡山系は体長が十分でなく、広島系は肢蹄が弱いなどか
ら、60年代後半に入ると鳥取系に絞られるようになってきた。

 当時、和牛改良の権威者であった羽部義孝氏から「鳥取系によって鹿児島牛の体
型を変えることが先決で、相当の年月がかかるが、まずそれを固定化し、その後、
但馬系を入れて肉質の改良に取り組んだ方がよい」とアドバイスされ、いままで一
貫してその方針によって改良を進めてきた。


改良基礎牛は西伯郡生まれの「栄光」

 鳥取県の和牛主産地は東の八頭郡、西の日野郡だ。八頭郡は氷ノ山を境に但馬牛
の古里の美方郡と背中合わせ、日野郡も道後山を境に、これまた広島の比婆郡、岡
山の阿哲郡、島根県の仁多郡と背中合わせになっている。それぞれ特徴ある系統が
つくられていた。

 だが、鹿児島和牛の改良の土台となったのは西伯郡の牛だった。大山の北に広が
る西伯郡はいまでは二十世紀梨やそ菜の産地となっている。西伯は日野、八頭に比
べて和牛の改良では遅れていたが、終戦の前年に生まれた「栄光」が発育や体型、
遺伝力で抜群に優れ、一挙に西伯の牛の名声を高めた。鹿児島県の技師が栄光に魅
せられて、栄光系によって鹿児島県の和牛は改良されていった。

 改良の核となったのは栄光の子で佐多町で飼われた「第五栄光」である。いまの
種雄牛は大方この血を引いている。66年に第五栄光から「金水九」という種雄牛が
生まれた。一方、栄光の分系として鳥取で生まれた「気高」が鹿児島に導入され、
74年に第20平茂が、さらに第5気高、第15気高など優れた種雄牛が生まれた。第15
気高はいま22歳、人間でいえば110歳を超え、改良に尽くした功績から曽於郡種雄
農協の牛舎で余生を送っている。

 栄光は改良に大きな功績を残したとして、14歳の高齢になってから祁答院町の萩
原三笠さんが鳥取から引き取った。萩原さんは後に全国和牛登録協会の会長になる
が、今回総理大臣賞を受賞した薩摩郡和牛育種組合の4頭のうち2頭は三笠さんの
息子さんが、もう1頭は三笠さんに牛飼いの手ほどきを受けた千竈節子さんが育成
した牛だ。千竈さんはまだ中学生である。牛の改良はこうした牛好きによって時間
をかけて進められてきた。


一変した鹿児島黒牛の体型

 鹿児島の和牛改良の歩みは50年代の栄光系の導入期、60年代前半の広島、岡山系
の導入による混乱期をへて、60年代後半に体型が固定するようになった。改良には
優良形質の遺伝力の強い繁殖メス牛が土台となる。県下には子取り用メス牛がざっ
と11万頭ほどいる。この中から血統や産子成績、発育状況、肉質の優れたメス牛を
1000頭ほど選定して指定母牛とし、それに種雄牛のタネを計画的に交配していった。
出荷された肉牛の発育や肉質成績をフィードバックしてもらい、母牛の選定の資料
としている。鹿児島は肥育が盛んなので、成績を収集しやすい。この指定母牛から
生まれた優良子牛を年間に40頭ほど買い上げ、さらに3、4頭に絞って種雄牛候補
としている。

 その成果が顕著に現れてきた。月齢23カ月の牛を60年前後と75年ころと比べると、
体高で123センチから126センチへ、体長が143センチから151センチへ、胸囲が175
センチから194センチへと大きくなった。繁殖メス牛の体重も420キロ前後から500
キロまでに増えている。昔は19〜20カ月齢でタネ付けしたが、いまでは14〜15カ月
齢で可能だ。現在の鹿児島和牛は在来の鹿児島牛とは異質なものになってしまった
のである。

 こうした中で、種雄牛の県内自給体制が整えられていった。産地別の供与種雄牛
をみると、60年代前半は自県産が全体の20%前後、鳥取産が60%を占めていた。和
牛の飼養頭数では全国一を誇りながら、他県の遺伝子に大きく依存せざるをえなか
った。だが、77年ころになると、60%前後が自県産になり、鳥取は30%を割ってく
る。だんだん自分の足で立てるようになってきた。


70年代後半から但馬牛で肉質改良へ

 70年代後半に肉用牛の改良面で再び転機が訪れてきた。サシの入った高級肉への
需要が増える一方で、米国から牛肉の市場開放圧力が強まり、肉質の向上が強く求
められるようになってきた。鳥取系は脂肪交雑が入りにくい。体型面の改良がよう
やく一段落した矢先、肉質面を重視した改良に取り組まざるをえなくなってきた。
県も体型の改良が一段落した後、肉質改良に取り組む計画を立てていたので、時期
的にも一致したといえる。

 そこで種雄牛として当然登場してくるのは但馬牛である。70年代の前半まで供与
された但馬系の種雄牛は1年に数頭程度、鳥取系の100頭前後に比べるとものの数
ではなかった。70年代後半になると組織的に導入され始め、80年代初めに鳥取系を
上回ってくる。

 鹿児島和牛の肉質改良に大きな功績を残したのは茂金波と忠福であった。但馬の
里は山深い。氷ノ山からの水系に沿って「つる」と呼ばれる系統が形成されてきた。
中でも優れたつるは岸田川に沿った温泉町の熊波系と、矢田川の美方町の中土井系
であった。両系統とも肉質の優秀さでは際立っているが、但馬系では、中土井系は
増体成績でやや劣るが肉質に優れ、熊波系は増体性はよいがやや肉質で劣るという
差がある。

 鹿児島がまず導入したのは熊波系の茂金波で、後に乳頭不足の不良形質がでた。
但馬は閉鎖育種で近親交配による欠陥がでやすい。茂金波を打ち切って、中土井系
の忠福を入れた。兵庫県では、種雄牛候補として将来性のある子牛を県が20頭優先
的に先買いし、その残りを他の県が買い付ける。親や外形では本当に優れたタネ牛
になるか判定が難しい。忠福は「残り物に福がある。二束三文で買ったかのが大当
たりになった」といわれる代物であった。宝くじを当てたようなもので、種雄牛買
付けはなんともいえない面白味があるそうだ。

 この忠福を栄光系の宝徳の子にかけて生まれたのが、いま凍結精液が取り合いに
なっている神高福である。新高福の兄牛が82年に第四回全共の肉牛の部で総理大臣
賞に輝いた。610万円の驚くほどの高値で引き取られていった。鹿児島和牛はよう
やく肉質でもトップクラスがでるまでになってきた。この兄弟牛2頭がともにA−
5の最高をとっている。肉質改良面でも成果が上がってきたのである。


種雄牛の自給体制進む

 鹿児島和牛は増体量で優るが肉質の面で劣るというのが、和牛界の通念であった。
中には薩摩芋をもじって「いも牛」と陰口をたたくものもいた。それを破ったのが
忠福で、肉質が抜群、しかも遺伝力が強い。こうして改良が進み、92年から鹿児島
黒牛と呼ぶようになり、黒豚と並んで“黒”で肉質を強調するようになった。忠福
は17歳、人間でいえば80歳を超えた。種牛としての使命を終え、県の中央種畜管理
センターで余生を送っている。

 体型重視から肉質の改良を加えたこの系統間交配期になると、87年の供用種雄牛
では鳥取系がわずか5頭に激減、代わって但馬系が20頭へ、鳥取と但馬が完全に入
れ替わった。しかも、全体では但馬系が19%、鳥取系が5%で、自県産が77%と圧
倒的な地位を占めるまでに変わってきたのである。

 鹿児島県はもう他県から種雄牛を購入しなくても済むようになったきた。鳥取、
但馬の遺伝子を自県産の種雄牛に取り込んでしまった。鹿児島に種雄牛を求めよう
とする県まで現れるようになってきた。第四回福島大会の総理大臣賞の肥育牛は鹿
児島生まれの但馬牛だったが、今回は両親ともに鹿児島生まれである。この10年の
間に、鹿児島和牛は肉質面で大きな質的変化が進んだのである。

 成果は出荷成績に現れている。鹿児島経済連扱いの去勢和牛枝肉の格付をみると、
81年は上物12.9%、中物58.4%、並物28.7%で、87年には14.0%、64.9%、21.1%
へと中上物比率が上がった。ちなみに同年の全国平均が上物24.1%、中物46.9%、
並物27.9%であった。新格付になった89年以降をみると、同年には4以上が75.6%
だったが、91年には78.5%へと上昇している。91年の全国平均の4以上60.1%を大
きく上回るまでになった。

 子牛価格にも反映されるようになった。80年度の全国指定市場の子牛価格は1頭
当たり総平均37万5200円に対して、鹿児島県は36万3500円だった。89年には鹿児島
が50万9300円と全国平均の48万500円を上回り、90年には49万8500円と全国平均の
45万8800円と差がさらに開くようになってきた。


これからの課題は肉質のバラつきの解消

 ところで、改良の成果が現れてきたとはいえ、但馬や岐阜、島根などに比べると
まだ評価で低い。牛によって肉質にバラ付きがでるからだ。和牛改良に取り組む技
術者も、農協関係者、農家も異口同音にその欠陥を指摘する。バラつき克服が鹿児
島県の和牛改良の一番大きな課題になってきた。

 同県は全国一の和牛県で、中でも曽於郡は鹿児島一だ。一郡で兵庫県を超える牛
が飼われている。曽於郡畜産農協連の百武輝彦副会長は戦後、和牛振興一筋に歩ん
できた指導者だが、「昔に比べると肉質や体型の改良が進んだが、まだどうしても
肉質にバラつきがでる。自由化対策として肉質や発育の斉一性で一層の改良が必要
だ」という。

 末吉町は同郡の中でも一番頭数の多い町だ。飼養頭数は1万4000頭弱で、この1
町にも満たない都府県が11もある。ここで30年も繁殖牛を飼い続ける長野実幸さん
は60歳を超えた。15頭のメス牛の世話に余念のない日々だが、「よい子牛を生産す
るため優良系統の母牛をそろえたいが、神忠福などの精液が手に入らない。子牛に
まだまだバラつきがでる」という。同町で40頭ほど肥育する八木定行さんも「牛肉
の自由化でA−3以下の牛を肥育していたのでは生活ができない。子牛を購入する
ときは必ず血統を買おうとすると、なかなか手に入らない。タネ牛が多すぎる。も
っと種雄牛を絞っていく必要がある」と望んでいた。鹿児島県の種雄牛育成の特徴
は県と民間とが競り合っていることだ。薩摩、姶良、曽於、胆属の4郡が主産地で、
薩摩、胆属は民間育種業者の勢力が強い。今回の総理大臣賞は民間のタネがつけら
れた牛であった。県有と民有の種雄牛は100頭を超え、これが混乱の原因となって
いる。

 県と民間が競合することは競争原理が働いて活力を生む。農家が購入したタネの
成績が悪ければ、そこから買わなくなるだろう。民間の育種業者は優良種雄牛の育
成に真剣になるが、収益面から市場評価の高い系統の育成に偏りがちになる。だが、
目先の利益を追い過ぎると、特定の遺伝子に偏ってしまう恐れがある。

 但馬でもいま肉質のよい中土井系の種雄牛に傾斜して、増体性の熊波系が軽視さ
れるようになっている。熊波系は中土井系と同じように長い歴史の中で今日の立派
な系統ができた。いずれの日にかまた増体性が見直されるだろう。ある遺伝子を繰
り返し使うと、遺伝力が衰え欠陥がでやすくなる。熊波系の遺伝子が保存されてい
ないと、改良面で取り返しがつかないことになる。兵庫県では計画的に熊波系の維
持、振興に乗り出しており、育種を民間だけに任せられないのはここからだ。鹿児
島県でも県有種雄牛の造成に全力投球しており、その成果が凍結精液の利用率に現
れている。現在では県下の凍結精液の65%が県雄牛、35%が民間となってきた。


改良目標は一層の体型改良と肉質向上

 県は肉用牛改良基本方針を立てて遺伝能力の改良に積極的に取り組んでいる。同
県の改良のねらいは、あくまで増体能力を維持しながら肉質の向上を図ることに置
いている。目標として@産肉能力で1日増体量を現在の0.89キロから0.95キロへ、
ロース芯の断面積を48.4センチから50.0センチへA体高を127センチから129センチ、
体重480キロから520キロへB分娩間隔を平均15〜16カ月から14カ月へ短縮する、と
なっている。

 県畜産試験場ではこうした育種目標を達成するためにバイテクを利用した育種改
良を積極的に進めている。その代表が授精卵移植による育種期間の短縮である。従
来は基礎雌牛群に優良種雄牛のタネを計画交配して、生まれた子牛36頭を選んで発
育成績を直接検定し、種雄牛候補として育て、その中からさらに8頭を選抜する。
そのタネを一般農家の雌牛に試験種付して、生まれた子牛8頭を選んで育成し、間
接検定して成績がよければ種雄牛として供用を始める。この方式では種雄牛として
使えるまでに50カ月以上もかかる。


授精卵・分割卵移植の応用も軌道に

 82年ころから授精卵移植が使われるようになってきた。種雄牛の精液を供卵牛の
メス牛につけ、そこから授精卵を取り出して、一般農家の牛を借り腹として移植す
る。母牛は異なっても、子牛の両親は同じだ。直接検定しながら2頭を選抜して候
補牛として育成する。一方で、兄弟牛の肉質を調査し成績がよければ種雄牛になる。
この授精卵移植を応用すれば、生まれて20カ月で種雄牛として利用できるようにな
り、育成期間が在来方式の半分以下に短縮される。

 授精卵移植第一号として59年から60年にかけて生まれたのが金徳、富金、金澄の
三兄弟である。父牛は金水九、母牛はこれまた優秀な第20平茂系である。富金の間
接検定によると1日増体量が1.00キロ、等級がA5、ロース芯面積48平方センチと
抜群の成績を挙げている。三兄弟はそれぞれ二つの県センターと曽於郡種雄牛農協
に配置されて、神高福の後継牛として活躍している。また気高系の種雄牛の宝政は
間接検定で1日増体量1.11キロを記録、外国種に匹敵する成果を挙げた。このほか
に間接検定などを待っている種雄牛候補が続いている。

 一方で、分割卵移植も手掛け始めている。授精卵移植では子牛は兄弟だが、遺伝
子が同一ではない。授精卵の分割卵なら遺伝子が全く同じで、これを一般農家の牛
を借り腹として移植すれば、生まれた子牛は遺伝子が全く同じだ。種雄牛候補を残
して、他の牛の肉質を検定すれば、候補牛の肉質が確実に分かる。分割卵移植によ
って種雄牛造成が飛躍的に向上する。分割卵技術では大分県畜産試験場が進んでい
るが、鹿児島県でも昨年分割卵を移植、来年には兄弟検定を始める予定だ。まだ本
格的に利用できるまでに技術が整備されていないが、だんだん軌道に乗るだろう。

 鹿児島県の和牛は鳥取系によって改良が始められて体型、増体などで優れた成績
を挙げ、固定化するまでに20年近くかかった。次の肉質改良に取り組み始めて、も
う10年以上になる。これまでの技術では新たに種雄牛を造成するのに最低5年はか
かる。それでも和牛の改良のテンポからすればかなり早い。和牛改良とはそうした
ものである。

 だが悠長なことをいっておれない。牛肉の自由化が実施され、関税率の引き下げ
や円高などが重なって、輸入牛肉は国産牛肉を上回るまでになってきた。和牛が生
き残るために肉質の改良とコストの徹底した引き下げとが強く求められている。経
済的要請から求められる改良のテンポと、牛の特性からくる改良のテンポとは食い
違う。和牛改良を少しでも早めないと、和牛の将来が心配される。

 県としては急速に進歩してきたバイテク技術をフルに活用して、体型の一層の向
上と、特に肉質の改良を進めようとしている。しかも民間と違って、多様な特性を
持った遺伝子をバランスよく維持していかなければならない。それが公共機関とし
ての使命でもある。このため、県では曽於郡の大隅町に新しい肉用牛改良研究所の
建設に取り掛かっている。93年には一部が、94年には全面オープンし、畜産試験場
の肉用牛改良部と中央種畜管理センターが移転する。県雄の種雄牛は全部ここに集
められて、近代施設で組織的な種雄牛の造成を進める計画となっている。

 鹿児島県は和牛の飼養農家数が高齢化で漸減しているが、飼養頭数では92年につ
いに30万頭を超え、年間の子牛の生産頭数も8万3000頭と全国で飛び抜けている。
飼養頭数も子牛生産頭数も自由化にもかかわらず、ここ2、3年毎年3〜6%のテ
ンポで伸びている。全国の頂点に立つ鹿児島県の生産意欲が日本の和牛を引っ張っ
ていくのである。ある県の指導者が「鹿児島が元気がなくなってきたときは日本の
和牛は衰退する」といっていたが、名実ともに“日本一の和牛県”となるために和
牛改良をさらに進め、自由化を乗り切る先頭に立ってもらいたい。いまはその重要
な時期にきているように思われる。


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