★ 事業団の歴史


酪農振興基金の思い出

(社)日本食肉加工協会専務理事 宇田 信夫


 このシリーズは、当事業団のOBの方から、事業団の業務の変遷、在職中の思い出等について投稿していただいたものです。第1回目として、今回は、元当事業団理事(現(社)日本食肉加工協会専務理事)宇田信夫さんから、当事業団の前身である酪農振興基金の設立当初の様子を書いていただきました。

農林省の地下室時代

 酪農振興基金の発足当時の事務所は、農林省の地下の一室であった。狭いところ
に理事長以下役職員が同居する状態で、我々は会議用テーブルに向い合って坐り、
すぐ前に理事長の机があった。

 私が昭和33年11月にはじめて出勤したときは、理事として農林省出身の三宅三郎
さん、農林中金出身の斎藤一郎さんがおられ、課長として農林省から藤井啓治さん
(総務課長)、阿部辰彦さん(業務課長)がおられた。12月になって大蔵省出身の
慶徳庄意さんが監事としてこられた。私が出勤したときは伊藤さん、青田さんの2
人がすでに来ており、しばらくして東北開発会社からの人を含め6人が入って来て
職員は9名となった。

 役員、課長は忙しくしていたが、我々はあまり仕事はなく法律や業務方法書を黙
々と読んでいて一日が大変長く感じられた。1週間ぐらいたった頃、度のきつい眼
鏡をかけ、ステッキを持った痩身の人が入ってくると、皆が席を立って行ってステ
ッキや帽子などを受取っているのをびっくりして眺めていたら、その方が蓮池理事
長であった。暫くして課長から呼ばれ、理事長の前に立つと理事長は「君は大学を
出て度々職を変えているが、今度は辛抱して勤められるか」といわれ「辞めろと云
われるまで勤めます」と答えたら「それなら辞令を渡す」といわれ辞令を渡された
のを覚えている。

 雑談も出来ず私用の電話が友人などからかかってくると、すぐ切って外に出てか
け直すことも度々あった。12月になって私は予算の手伝いを命ぜられ残業も多くな
って来た。

 昭和34年2月末に虎ノ門の日本消防会館に移るまでの約3ヶ月、農林省の地下室
にいた。


総裁選挙

 昭和34年1月に自民党の総裁選挙があった。その日に理事長に呼ばれ「忙しいの
で代りにテレビを見て結果を教えてくれ」といわれた。売店でテレビを見ていると
12時にテレビを消されたので、あわてて外に出て虎ノ門のコーヒー店に飛び込んで
テレビのチャンネルを変えて総裁選挙を出し、お客のびっくりした視線が集まって
閉口したが、岸信介氏が松村謙三氏らを破って当選したのを見て、票数をメモして
帰りについた。

 途中、ふと何故こんなことを私に頼んだのだろうかという疑問がわいて来て、総
裁選挙の規則のあらましを知っておく必要があると思い、私の友人が郷土の大先輩
の重政誠之代議士の秘書をしていたのでそれに電話して調べてもらい、教わって急
いで帰り、結果を理事長に報告すると、早速「岸謙三」という票はどうなるのか等
いろいろ聞かれ、調べておいてよかったと思ったことがあった。


議事録

 非常勤理事を含めた最初の理事会が開かれたとき、理事長から伊藤君(現在の事
業団助成部長)と一緒に議事の内容を記録するよう命ぜられたことがあった。議事
録は要点だけ書けばよいと思ったが、出来るだけメモして帰り忘れぬうちにと思い、
家で整理し翌日課長に提出した。

 課長から予算の説明を農林省にするので一緒に来いといわれ、農林省に行ってい
たら「理事長が呼んでいる」と呼びに来たので、理事長のところに行くと「君は一
つの仕事を仕上げずに次の仕事に移るとは何事だ。この議事録には重要なことが落
ちている」といわれ議事録をつき返された。

 伊藤さんにも相談しいろいろ考え抜いたが、一つだけ、ある非常勤理事の方が少
しおくれて来られ「創業費の500万円は何か」との質問があり、理事長が「それは5
0万円ですよ」というやりとりがあり、これは議事録に書く必要はないと思い書か
なかった。これしかないと思い、その旨申出ると「それだ」といわれ追加して提出
した。暫くして理事長に呼ばれ「三宅さんからも話しがあり議事録から除くことと
した」と、にこっと笑われ決裁をしていただいたことがあった。

 自分で判断して削除したのであれば、前もってそれを説明して提出すべきであっ
たと反省した。


約定書

 債務保証業務を開始するに当っては、金融機関との間で保証についての約定書を
締結することがまず必要であったが、斎藤理事や阿部課長が農林省、銀行協会等と
打合せをすすめておられた。

 ある日突然、理事長から基金が将来取得するであろう求償債権を担保するための
抵当権設定のための登記申請書をつくり、各法務局で受付けられるフォームにしろ
と命ぜられた。将来の債権の担保のための抵当権の知識もなかったので困ったが、
法務省の民事局の方を紹介してもらって教わった。将来の求償権の額をどう定める
か問題であったが、根抵当権を設定する案でまとめたと記憶している。その時、民
事局ですゝめられ、当時民事局参事官の香川保一氏の書かれた「担保」という本を
買って大変興奮して読んだことを思い出す。しかし、約定書では、担保は貸付時に
金融機関で設定し代位弁済の時に抵当権の移転登記をすることとなった。

 約定書の締結は昭和33年12月から始まったが、締結の第一号は根津支店が日本製
酪協同組合との取引があった関係もあって第一信託銀行であったと思う。当時の第
一信託銀行の代表取締役社長は曽志崎誠二氏であった。

 後年、岩波の小林勇氏の本で曽志崎さんは、勤めていた第一銀行の明石頭取が岩
波茂雄の友人で、その頭取の依頼で岩波書店の大福帳式の帳簿を新しい組織にする
指導をし、戦後岩波書店を会社組織とする際に顧問格でいろいろ指図されたこと、
少年の日に渋沢栄一に手紙を書いて認められ、第一銀行に入り学歴がなく重役にな
った実力家で、銀行家としての力量が抜群であったのみならず、ひろい教養をもっ
た人であることを読んであの曽志崎さんかと思った。


出資の払込

 酪農振興基金は当初政府出資5億円、乳業者等からの民間出資5億円の10億円で
発足し、基金の債務保証限度額を50億円とする構想であったが、民間出資5億円が
集まらず、結局政府出資5億円、民間出資1億450万円(うち払込済み5,235万円)
で発足した。未払込の5,215万円は昭和34年7月までに払込が完了したが、出資を
した人の中には、基金に出資すれば10倍まで無条件に銀行から保証付融資が受けら
れると考えていた人もいて、後の半分の払込をしぶる人があった。

 その一つに、大津のある乳業会社があった。この会社に行って払込むようにして
こいと出張を命ぜられた。朝10時頃社長の自宅に行った。この社長は、タクシー会
社の社長もかねていて虎の毛皮の上にどんと坐っていた。出資すれば10倍まですぐ
借りられると聞いて出資したが「滋賀銀行に話しても手続が面倒だ。重役を集めて
いるのでよく説明してくれ」ということで会社に行った。資金の内容等説明してく
れれば当方で銀行に話して借入れられる様にすることを何回も説明したが話合はつ
かなかった。基金の方に連絡すると話しがつくまで頑張れとのことであった。

 県の畜産課の人の応援も頼んで必死で頼み、三日目にやっと払込みを了承してく
れた。帰ってからも払込まれるまでは心配した。

 設立当初の未払込の出資は昭和34年7月までに払込が完了したと記憶している。
保証依頼の資金でも、れん乳から粉乳への転換や工場への新増設の設備資金は内容
がはっきりしたが、運転資金は後向きの資金もあって簡単ではなかった。

 確かに融資をあてにして出資した者が、借入れが仲々進まぬことにいらだつこと
はよく理解できた。基金の役割は通常の融資と異なり、国や地方の酪農政策にそっ
た資金調達や生乳取引合理化の促進という面があることは勿論であるが、私は私の
経験からいって、中小企業の人は金融機関から借入れをする場合、融資を止められ
ることを心配する余り、仲々本当のことを打ち明けることができない悩みがあり、
このため生きた資金が借りられず、疵キズを大きくする場合が多いのではないかと
考えた。出資者には、基金に対してはそういう心配はいらないので困っていること
はかくさず申出てもらって対策を一緒に考えることをすゝめ、それが基金の利用効
果であることを理解してもらうことに努めた。融通手形等で当面を糊塗していたの
を保証付融資に切替えて経営改善をはかってもらい喜んでもらったこともあった。

 民間出資の増加につとめたが、基金解散時は2億4,600万円で5億円に達しなか
ったが中小乳業関係の有力なものの大部分は出資者となったと思う。


蓮池公咲理事長の思い出

 酪農振興基金の思い出の中で最も強烈な思い出は、何といっても蓮池公咲理事長
から薫陶を受けたことである。酪農振興基金発足当時、農林省の地下の一室で理事
長と同じ部屋で3ヶ月ばかりの期間を過ごし、窮屈な面もあったが色々の話しが聞
けて大変勉強になったし、直接仕事を命ぜられ苦労もしたが大変勉強になり貴重な
経験も得た。簡単な表でも何の目的の表であるかよく考えて作成しないと仲々OK
はでなかった。安直アンチョクは駄目で自分でよく勉強してよくこなしてから処理
しないと駄目であった。乳業会社の調査のため出張しても必ず調査報告書の提出を
命ぜられ、いい加減の報告では駄目であった。出張を喜ぶ者はいなかった。

 富山の乳業会社の調査に一週間ばかり出張し、丁度旧盆の終りで立ちどおしで、
朝早く東京に着き、その日は総務課長に連絡して休暇をとったことがあった。翌日
出勤すると、理事長が怒っていると聞いて早速謝りに行くと、理事長は「君を怒っ
たのではない。総務課長が夜行で帰り疲れたので休んだといったから怒ったのだ。
総務課長たるものは、そういう時は自宅で調査結果を整理していると云うべきだ」
といわれた。

 理事長の指導で昭和36年5月頃、日本飲用牛乳協同組合が設立され、事業の一つ
として組合員の必要資金の転貸業務を行うこととなった。これは、組合内に乳業協
力機構をつくり、組合員がこの機構に一定額を拠出し、これを商工中金に預託し、
拠出金の10倍を限度とし組合が商工中金から借入れ、組合員に転貸しようとするも
のであったと思う。組合の正木専務が私のところにみえて、機構の規約を理事長に
見てもらったら「宇田君に渡してみてもらえ」ということでしたといって規約案を
置いていかれた。これでよいと思って理事長のところにもって行くと「これでは駄
目だ。脱退によって拠出金が減らない様にせよ」と云われた。正木さんに電話する
と明後日の総会でこの案を付議することになっているとのことで、組合の浅井理事
長に連絡すると「自分たちの拠出金について基金の方であれこれ云われても困る」
との返事であった。

 理事長に報告すると「総会に出席して善処して来い」ということになった。考え
抜いた末、脱退払戻しは三分の二以上の特別決議にする案で規約をつくり持参した。
組合の吉田副理事長に話すと「俺に任せ」ということで会議が始まった。冒頭、吉
田さんは、「只今配布の資料にはミスプリントがあったので差し替える」と発言し、
私の持参した案と差し替え、私の持参した案で決定した。帰り、理事長には加入脱
退の自由を全く奪うことは出来ないので、特別決議を要することで総会の了承を取
った旨を文書にして了承してもらったことがあった。

 理事長は農林省在官中、産業組合の本も書かれ、協同組合には一家言を持ってお
られ「日本飲用牛乳協同組合の設立総会でのあいさつは名文であった」と組合の人
から度々聞いた。

 理事長は「俺が叱らなくなったら、俺以上になったか、いくら鍛えても駄目だと
あきらめたかどちらかだ。叱るのはまだ鍛え甲斐があると思うからだ」と云われた
ことがあった。私もずいぶん叱られたがまだ見捨てられていないと考え頑張った。

 理事長は畜産局長、官選、民選の秋田県知事、東北開発会社総裁を経て来られ、
直接鍛えて戴き、薫陶を受けたことは大変幸せであったし、後年私には大変役に立
ったと思う。

 理事長は、胃の手術をされてからは酒をやめておられたが、麻雀はお好きで正月
にご自宅で麻雀をして戴いたことがあった。

 昭和42年に阿部辰彦さんが畜産振興事業団の役員になられ、私が事業団の業務部
長になったとき、二人であいさつに御自宅に伺ったのが蓮池理事長にお会いした最
後であった。


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