★ 事業団の歴史V


昭和三十年代の出来事と思い出

よつ葉乳業且謦役 井上 圭二


事業団事務所三遷の思い出

1.消防会館の時代

 現在畜産振興事業団の本部は東京タワーの近く港区麻布台の見晴らしの良い高台
のオフィスビルの中にある。昭和36年の設立時には営団地下鉄虎ノ門駅から徒歩で
数分の明舟町に建てられた消防会館にあった。この建物の持主は日本消防協会で自
民党の大野伴睦氏が会長であった。長方形をした4階か5階建のさっぱりした感じ
のオフィスビルでその3階のフロアの半分、80坪程のスペースを借り受けていた酪
農振興基金の事務所がそっくり事業団事務所としして引き継がれた。

 基金時代は職員の数が30名足らずであり丁度手頃の広さの事務所であったが、事
業団に変わって新らたに乳製品、豚肉の売買などの畜産物価格安定業務が加わり、
業務の範囲が大きく拡大した状況のもとでは手狭となり、もっと広いスペースのオ
フィスへ早晩引越しせざるを得ないというとは目に見えていた。

2.田村町会館の時代

 事業団の収入支出予算は法律で農林水産大臣の認可事項であり、大蔵省で予算査
定を受ける仕組になっている。したがって事務所を引越しするにしても、その費用
はもちろん事業団役職員数に見合った一定の広さと坪当たり賃借料について予算で
金額が定められており、しかも霞が関の農林省までの距離が現在使用している事務
所より遠くでない場所であることが新事務所探しの基本であった。

 昨今のような貸しビル入居事情と違い、予算の範囲内で前述の地理的条件でのオ
フィス探しは非常に難かしかった。事業団が発足して3年目に、預金取引先の富士
銀行の斡旋で、港区芝田村町に新築された田村町会館ビルディングの5階、6階延
208坪の貸室について、東京建物と転貸借契約を結び昭和38年10月同ビルに移転し
た。

3.麻布台ビルの時代

 関係者の努力によりようやく入居することとなった田村町会館ビルにそう長くお
り続けることができない事態が起きた。事業団が設立された時、農林大臣であった
河野一郎氏が関係する企業が、狸穴のソ連大使館裏の一角に建設中のビルのテナン
トを募集していた。しかし、入居希望者が少なく河野さんの息のかかった企業を含
めてもオフィスビルを満室にする見込みが立たなかった。

 そしてある日事業団に対しこのビルに引越しするようにとの要請が河野さんの筋
から突然下りてきた。これは天の声とでもいうべきものでこの呪縛から逃れること
はできなかった。

 唐突な話ではあったが、場所が現事務所にくらべ相当不便となる点の問題はあっ
たものの、賃貸条件についてみてみると事業団にとって不利なものではなかった。
とにかく使用面積は現事務所にくらべ2割程広く、家賃のほか敷金保証金は現事務
所に納付しているものと同じでよいということであり、さらに周辺環境に恵まれて
いることが付言されていた。

 結局、田村町会館には僅か1年2カ月居ただけで契約を解約し、同39年12月、麻
布台ビル3階の現在事務所に移ることとなった。3年間で3度目の引越であった。

 3番目の事業団事務所となった麻布台ビルは1階が共通、2階から上が別棟のツ
インタワービルで、入居した頃はこの一帯は高い建物がほとんどなくて、かなり遠
くからでもビルの外観を眺めることができた。つまり、それくらい都心の田舎然と
したところであった。

 オフィスビルとして収容スペースの割りにテナントの数が多く、事業団が移転し
た後もビル内で空き室が散見された。入居後何度か他のオフィスビルへの移転話が
出てきてもそれが実現しないで、今日まで29年近く麻布台に根を下ろす遠因がこの
辺りにあった。

 昭和41年度以降輸入乳製品、輸入牛肉の売買で業容が次々と拡大していったが、
丁度それに符合するように、麻布台ビルの中では他のテナントの転出があって、そ
れによって空いた部屋を事業団が借り増しし、なんとか業務の円滑運営に対応する
ことができたのである。ちなみに、現在の事務所のスペースは1、2、3階の一部
に及んでいる。

債務保証業務の思い出

 事業団のルーツは昭和33年11月に設立された酪農振興基金であり、その基金の役
割りは乳業専門の保証機関であった。この業務はいまでも事業団の主要業務の一つ
であるが、最近この事業の利用状況を見ると非常に低調であり関心のある人が少な
い。

 事業団の歴史において、かつて業界の発展のため寄与していたことをいま一度想
い起こしてみたい。

 債務保証業務が中小乳業を中心に最も利用されたのは昭和38年頃である。この時
代は牛乳の消費が毎年10数パーセント増えていたし、ビタミン牛乳だとかコーヒー
牛乳、フルーツ牛乳あるいは関西市場中心にチョコレート牛乳といった表示の乳飲
料が爆発的に売れ、飲用乳業界は活気に満ちていた。日本の天気が西から変わって
くるように牛乳類に対する嗜好の変化も関西から始まるという話が大阪の業界で耳
にしたのもこの頃のことであった。

 当時牛乳の容器は壜が使用されていた。容量は1合(180t)が大半を占め、毎
朝牛乳屋さんが家庭に配達をしていた。30年代半ば、中小乳業の多くは牛乳生産行
程が現在みられるようにオートメ化されていなかった。最大のネックは洗壜部門で
あった。電動式回転ブラシで手で洗うやり方であった。

 国産で外国製より安価な自動先壜機が開発されると中小プラントは一斉に市乳処
理ラインのオートメ化、能力アップに動いた。設備投資や経営拡大に伴う増加運転
資金の資金需要がきわめて旺盛であった。しかし銀行などからの資金調達の壁は厚
かった。 

 北海道から九州にかけて各地の有力中小乳業から事業団に対し保証付融資の申込
が増えた。その数は70数社に達した。全国を区域とする中小企業等協同組合の構成
員である乳業者の利用が増加した。政府系金融機関である商工中金の取扱いが増え
たことが大きかった。

 その蔭には昭和36年4月設立された中小市乳プラントの全国団体である日本飲用
牛乳協同組合(日飲組合)の存在があった。日飲組合の商工中金加入で、事業協同
組合がない地域の市乳処理業者に商工中金から構成員貸付けの途が開かれたからで
ある。

 なお、日飲組合は大阪の市乳処理業者を中心にして設立され、その後事務所を大
阪から東京に移転し、行政との連絡を密に取りながら、事業団との間は構成員の融
資保証、指定乳製品の放出で29年間事業活動を行なった後、平成2年5月事業目的
を達成したとして解散した。


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