★ 事業団の歴史


シドニー駐在時代の思い出

全国乳業協同組合連合会 専務理事 菅原 修三


 私は、昭和36年12月、畜産振興事業団の設立以来平成2年5月まで、約29年間勤
務しましたが、その中でも特にシドニー駐在時代は、やはり印象深いものがありま
すので、その思い出を書いてみたいと思います。

シドニー駐在事務所

 当時の事業団は、輸入牛肉の取扱量が増大しただけでなく、需給及び価格動向に
即応した小刻みな買入れ、売渡しを行うこととなったため、従来のような商社等を
通ずる間接的な情報のみでは不十分となり、絶えず産地の的確な需給や価格の動向
を直接把握する必要が生じました。このため、牛肉の主要な輸出国であるオースト
ラリアのシドニーに昭和48年2月、事業団に最初の海外駐在事務所を開設されしま
した。

 当時の駐在員の予算定員は一名のみで、農林省から出向された故森田邦治さん
(元(財)日本食肉生産技術開発センター専務理事) が初代の駐在員として赴任さ
れていましたが、外地にただ一人で新しい事務所を開設するということは大変なこ
とで、森田さんのご苦労が偲ばれるところです。

 その後、乳製品の輸入・売渡業務も増大してきたことから、昭和49年度において
海外駐在員の機能強化を図ることが認められ、駐在員一名が増員されることとなり
ました。

シドニー駐在事務所への赴任

 昭和49年5月下旬、当時の宇田総務部長に呼ばれ、シドニーに行ってくれとの話
があり、私は英語に自信がある方ではなかったが、昭和45年、当時の保坂総務担当
理事とオーストラリア及びニュージーランドへ出張した際の印象がすばらしかった
こともあり、英語も現地で努力すれば何とかなるのではないかとの思いから、あり
がたくお受けする旨返答したわけです。

 6月1日海外駐在員の辞令をいただき、早速英会話の研修、国際テレックスの研
修、自動車の免許取得と毎日忙しい日々を過ごしている間に赴任の日が来てしまい、
11月5日羽田空港で岡田覚夫理事長始め多くの方々のお見送りをいただきながら、
私たち家族は期待そして不安を抱きながら機中の人となった。

 翌朝シドニー空港で森田さんの暖かいお出迎えを受け、早速森田さんに探して頂
いていた家に向け出発した。当日のシドニーは、真っ青な青空が広がるすばらしい
天気で、空港から家に向かう途中の風景もすばらしく、今でもその時の印象が鮮明
に残っています。

 事務所は、当時シドニーで最も高い円筒型の48階建てのシドニー・タワー・ビル
デングの24階にあり、見晴らしのすばらしいところでした。事務所には、森田さん
が採用されたミス・リン・ネルソンがいましたが、ネルソンさんは、英国の秘書学
校を卒業し、日本の某商社に勤務した経験もある人柄の良い非常に優秀な方で、私
たちは何かにつけ大変助かった次第です。

 本年10月オーストラリア、ニュージーランドに出張する機会を得、シドニーの事
務所を訪問しました。事務所の場所は変わっていたが、ネルソンさんがまだ元気で
働いている姿に接し、しばらくぶりの懐かしい対面に感激しました。

 私が3年間駐在する中で、前半は森田さんと、後半は森田さんの後任としてやは
り農水省から出向された故上田敬介さん (元群馬畜産加工販売農業協同組合連合会
専務理事) と一緒に仕事をしたが、お二人とも農水省畜産局でも有能な方でしたの
で、二人との仕事を通じて色々なことを学ぶことも多く、大変勉強になり感謝して
いるところです。

 私が赴任した当時は、オイルショックにより牛肉の輸入を凍結していた時期で、
当地において激しい対日批判が起きており、事務所にも訪問、電話による問い合わ
せ、苦情が来て、駐在員はその対応に忙しい毎日を過ごしていました。

シドニー駐在事務所での業務

 私は、3年間を通じて、主として酪農乳業関係を担当していましたが、丁度その
期間は我が国の乳製品の需給が逼迫し、事業団による乳製品の輸入が行われていた
時期でした。現地乳業関係者と接触する機会も多く、知人もできてよい時期に駐在
したなあと思っています。このことは、その後、乳製品課長、乳業部長として業務
を行ううえで大変役立ったところです。 

 当時のオーストラリアの酪農業界は、国内需要に対し生乳の生産量が多く、海外
依存度が高かったのですが、乳製品の海外市場価格が低かったため、乳製品向け生
乳の生産者乳価は低く、生産者は政府からの補助金があるから継続できるというよ
うな状況でした。他産業からは酪農産業に対する補助金が多過ぎるというような反
発もあり、利益性の少ない海外依存度を低下させるための生乳の減産、構造改善等
が大きな話題となっていたときでした。

 それから約20年たちましたが、1992/93年度の生乳生産量は、天候に恵まれたこ
と、飼料の給与が増えたことにより、7,327百万リットルと過去20年来の高水準と
なっています。海外輸出も好調だったことから、酪農業者は、この数年来で最も好
況を満喫しているということであり、また、州政府の統制下にある飲用牛乳流通制
度についても、ここ数年後には自由化されるということで、現在乳業メーカー間の
合併が盛んに行われている等、オーストラリアの酪農産業は大きく変化していまし
た。

 ニュージーランドにおいても、1980年代当時の労働党政権が経済自由化政策を打
ち出して以来、各分野での自由化が進められており、飲用牛乳流通制度については
1993年3月末に自由化され、飲用牛乳の流通に対する規制はまったくなくなってい
ました。

 駐在員業務のうち来豪者のお世話をすることも大切な業務の一つでした。特に印
象に残っているのは、私が駐在してしばらく経ったとき、事業団の元副理事長であ
りました故田中良男さんが出張で来られ、シドニーのホームブッシュ食肉市場に案
内することになりました。田中副理事長は、英会話が達者だと聞いていたので、当
然自分で直接応答するものと思っていたところ、今日は君の英会話がどの程度のも
のか見たいので君が通訳してくれと云われ、冷や汗をかきながら通訳したことが懐
かしく思い出されます。

日常生活

 日本では、仕事が終った後は仲間とマージャンをするか、一杯飲んで帰るかでし
たが、シドニーでは余り飲む所も無かったので毎日仕事が終わった後はまっすぐ帰
る生活でした。その代わり、週末には自分の趣味を十分楽しんでいました。そうい
う面では、非常に健康的な生活をしていたということです。

 日本人会や政府関係機関の職員で作っているグループのゴルフコンペに参加した
り、森田さん夫婦と森田さんの住居の近くのゴードンゴルフ場で早朝ゴルフを楽し
んだものです。また、森田さんが日本人会の釣り部会の会長をしていたこともあり、
釣り大会に参加し、鯵、鯛、纏鯛等を釣ったことが懐かしく思い出されます。

 上田さんは、よく現地の方や駐在員の方々を呼んでホームパーテイをやっておら
れましたが、私の家族もよく声をかけて頂きご馳走にあやかったものです。

終わりに

 シドニーでの3年間を改めて振り返ってみると、仕事の面ではもちろん私生活の
面でも、現地の方々から一度として不愉快な思いをさせられたことは無く、皆さん
から親切な対応を受け、楽しく過ごさせていただき、まさに良き時代と言えるかも
しれませんが、私ども一家はすっかりオセアニア党になってしまいました。森田さ
ん、上田さんとも不幸にして今は亡く、思い出を語り合えることができなくなった
ことは誠に残念で寂しいことです。


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