★ 事業団の歴史U


事業団創設期の思い出

元畜産振興事業団監事 藤田 昭


牛乳の需要増進業務の思い出

 私が農林省から酪農振興基金にお世話になることとなったのは、昭和34年8月で
した。そして配属された部署は調査第二課(課長は大蔵省出身の磯部清雄さん)で
した。当課の主要業務は、牛乳の需要増進に関するものでした。

 その需要増進事業の一環として、確か昭和36年の5月か6月だったと記憶してお
りますが、日本橋の三越百貨店の屋上に簡易な乳牛の牧場を設営し、乳牛の飼養管
理や搾乳の実演及びパネルを展示し、一般の消費者に牛乳の PR をしようという計
画が持ち上がりました。三越側との基本的な折衝は農林省の方で行い、その後の実
務は酪農振興基金が行うことになり、その直接の担当者に私が命ぜられました。

 展示、実演に供する乳牛二頭と牧夫さんは日本大学の藤沢の農場から提供される
ことに決まりました。しかし、羊や兎のような中小動物ならいざ知らず乳牛を本当
に屋上にあげられることができるのだろうか。あげるにしてはエレベーターを利用
せざるを得ないが、乳牛がエレベーターに収容できるのだろうかと考え、三越に赴
きエレベーターの実測をしたりしました。その結果を藤沢の農場の方に連絡をとり
ましたところ、比較的小型の牛なら斜めに入れれば大丈夫だということで悩みの一
つは解消したわけです。また、三越の建物の入口からエレベーターの前まで通路の
両側に高級品を陳列しているショーケースが併列しており、牛がその間をおとなし
く歩いてくれるだろうかなど、色々心配事がありました。

 いよいよ三越の休業日の午後、二頭の乳牛、飼料等を積んだトラックが三越前に
到着し、一頭ずつ二人の牧夫さんの誘導によりトラックから入口へ、入口からエレ
ベーターへ、そしてエレベーターで屋上へと運びました。二頭とも特に暴れること
なく無事初期の難関は突破することができました。それから一週間乳牛二頭の屋上
生活が続き、二人の牧夫さんの昼夜のご苦労により事故もなく、特に最終日の日曜
日には子供連れの家族も多く、また常陸宮殿下もご来場されました。翌月曜日の三
越の休業日に乳牛を無事下界におろし、トラックに乗せ三越前を離れた時は安堵の
感ひとしおでした。

貴重な豚肉買入れの体験

 昭和36年12月7日に畜産振興事業団が設立され、私は業務部食肉課に配属されま
した(課長は農林省出身の末永隆一さん)。

 37年1月に農林省は余剰豚肉の緊急買入れを根幹とする豚価安定緊急対策を発表、
ついで、2月21日付けをもって、36年度の指定食肉の安定基準価格が告示され、豚
肉の買入れの諸準備のため、農林省を始めとして業界関係団体と昼夜を問わず協議、
打合せが行われました。何分にも本邦初公開の大きな業務のため、また、事業団設
立後の日が浅く、予備知識もなく、生物を扱う仕事ということで、我々職員はとま
どいの連続でした。しかし、どうにか諸準備も整い、3月7日より全国6食肉中央
卸売市場を皮切りに買入れを開始することとなり、職員が各市場に出かけ、買入れ
業務に係る事務処理の指導、打合せ、また、他の買参人に対しての事業団の買入れ
の仕組み等の説明、了解をとりつけました。私は、福岡市場に行きましたが、福岡
市場のせりは札ぜりという方式がとられていたのには奇異を感じました。札ぜりと
はせり場に買参人各自が B5版の半分くらいの黒板(買参番号記入)と白墨をもっ
て参集し、枝肉一頭づつせり人が規格、重量を呼称後、「さあいくら」と声をかけ
ると買参人は黒板に値を書き、せり人に一斉に提示し、最高値をつけた者がせり落
とすという方法で、せり上っていく方法ではありません。

 ちなみに事業団の委託買参人は、自分のと事業団の黒板を持って参加していまし
た。 

 この第一回目の買入れ、保管、売渡し業務は、初めての制度に対し、関係方面の
よき協力が得られ、大きな問題もなく、38年5月を持って全量の売渡しを完了しま
した。買入れの期間が3月から6月とはいうものの市場で買入れた枝肉を部分肉の
加工場まで普通トラックに枝肉を積み、その上にシートをかぶせて運搬する方法を
とったことは、今日では考えられないことでした。

 第二回目の買入れは、41年3月から翌年の7月までの1年4ヶ月も続き、買入場
所、委託加工場、保管冷蔵庫の数も第一回目の時の何倍にも達し、豚が何処から湧
き出て来るのだろうかと感じながらの毎日でした。買入場所、委託加工場、冷蔵庫
から提出されてくる書類の審査、検算、またそれぞれの関連が適正かどうかをチェ
ックする作業が毎日の連続でした。当時、コンピューターは勿論、電卓もなく、足
し算、引き算はソロバン、掛け算、割り算は手廻しのタイガー計算機によるという
具合で、他課から応援してもらってもさばききれなくなり、ソロバンの達人の女性
のアルバイト数人を採用してもらい大変戦力になり大いに助かりました。事業団の
アルバイトの採用はこの時が最初でした。

 このような状況でありながら、誰一人として病気になることもなかったことが何
よりのことだったと当時のことを思い出します。

突然の海外出張命令

 38年5月末を持って最初の指定食肉(豚肉)の売渡しが完了し、職員にとっては
言いようによっては物足りない、また反面気楽な時期でした。

 そんな時、38年の10月20日頃と思いますが、蓮池理事長がお呼びだとの連絡があ
り、「決裁文書も上げていないし、お叱りを受けることもないのに何事か」と理事
長室に入りました。すると三宅理事も同席されており、お二人の表情から叱られる
という懸念は消えました。着席しますと理事長から「君に11月3日からニュージラ
ンドで行われる第48回の国際酪農連盟の年次会議に出席してもらいたい」と言われ
ました。現在、乳製品の市況からみて乳製品課の職員を出すことはできないのでぜ
ひ頼むとのことでした。私はそれまで酪農連盟そのものも知らず、また、英語もダ
メなので、辞退の意を申し上げると、理事長は「堅苦しく考えないでよい。年次会
議の幾つかの委員会に出席し、そのあと君は食肉課の職員だから一ヵ月の出張期間
の後半の二週間ぐらいはオーストラリアの食肉事情を見てこい」といわれ、命を受
けることにしました。

 さて、出発までの余裕は十日ほどしかなくその準備に追われたのも大変でした。
この会議に出席される他の方々は先に出発されるとのことで、一人旅ということが
さらに気を重くさせました。10月31日、役職員のお見送り(今では考えられません)
を受け、カンタス航空の機上の人となりました。どこを見ても外国人で日本人は皆
無でした。

 シドニーまでの間、香港・マニラで給油のため、全員が降ろされ、保税の待合室
で待機させられるのですが、我々の飛行機以外の客も混っており、出発の合図も英
語の放送だけで、放送のあるたびごとにフライトナンバーの聞取り、一緒の便に乗
っていた特徴のある外人の動向を見て行動し、シドニー空港に着きましたが、そこ
で難問にぶつかりました。羽田出発の際にどなたかに塩煎餅をいただきそれをかば
んに入れておきましたところ税関で「これは何か」と質問され、日本名で答えるわ
けにもいかず、しばらく考えてでまかせに「ジャパニーズドライケーキ」と答え、
さらに「原料は何か」というような質問があり「ライス」と答え、どうにかパスさ
せてもらい、先発されていた方達と顔を合わせることができましたがさらに、シド
ニーからウエリントンに飛び、空港で数時間待機し、バスでようやくパーマストン
ノース市の目的地に着いたという次第です。会場のマッセイ農科大学で、一週間、
幾つかの委員会に出席しました。委員会の議事の内容は、乳業に関する試験研究事
項が大部分で、英語、ドイツ語、フランス語の通訳が拡声機を持って内容を同時に
流したため、会場から聞きづらいという非難が多くありました。

 年次会議終了後、ニュージランドのディリーボードが日本の代表一行を一週間の
日程で北島の乳業工場や農家等を案内してくれるということで私も加わりましたが、
3日目の夕方、「シドニーに戻り、日本からの食肉視察団に合流されたい」との事
業団からの電報を受け、翌日、シドニーに行くと、農林省の田口博信技官、高崎ハ
ムの関口六二参事、広島食肉荷受の福原留次社長という親しい方々が待ち受けてお
られました。その方々と一緒にシドニー、ブリスベン、メルボルンの主要都市を拠
点として、肉牛、綿羊の牧場、主要な食肉関係施設を連日視察しました。お三方は
メルボルンからニュージーランドに向かわれるため、そこで別れ、私はシドニー経
由で一ヵ月振りに帰国しました。 

 旅の前半は不安の連続でしたが、後半は簡単な会話には事欠くこともほとんどな
くなり、楽しい日々でした。

留意事項

 輸入乳製品の買入れ、売渡しの結果により生じた補給金勘定の積立金が、昭和41
年度末に42億円余に達し、その80パーセント相当額を暫定措置法の一部改正により
助成勘定に繰り入れられることとなり、これを財源として、42年8月1日より酪農
振興特別助成事業が行なわれることになりました。この事業の内容は、「酪農振興
のための融資に対する利子補給事業」、「小団地草地改良事業」、「乳用牛の凍結
精液流通組織整備事業」など6つの事業のメニュー方式によるもので、補助の相手
先は全国各県の指定生乳生産者団体でありました。

 この事業の実施に当り、事業団は助成実施要綱の制定、各事業ごとの実施要領例
を作成し、各指定団体に示し、指定団体では実施しようとする事業の実施要領を制
定し、それを事業団が承認するという方式をとりました。各指定団体が採択した事
業は、利子補給事業(利子補給期間三年間、その財源はディスカウントして前渡し)
で、全体の事業費の約9割相当の29億円に達しました。

 翌年4月から、会計検査院が地方の検査に入り、利子補給事業を主体に適正を欠
く事例が意外に多く指摘されるところとなりました。例えば、乳牛の購入時期が事
業開始以前のものに利子補給されている、家畜商の領収書はあるが購入資金の支出
の証明がないのに利子補給されている、一定期間子牛の育成がされていないのに利
子補給されている等で、指定団体の単協への指導の不徹底もあったかと思いますが、
単協の担当者の事業の理解不足や単純な事務のミスによるものでした。

 このような状況に対し、当時の助成部担当理事の村井国彦さん(大蔵省出身)か
ら「今後も検査は続けて行われることだし、43年度もこの事業が実施されるので、
早急に対策をたて、今後の指摘を防止しなければならない。それには、各事業の実
施要領をさらにかみ砕き、中学生が読んでも理解できるような内容の注意文書を作
成する必要がある」との意見が出されました。そこで武井幸雄さん(農林省より出
向)と私で四苦八苦して教科書を作り、助成部長の平野祥治さん(農林省出身)、
助成課長の野上学さん(農林省出身)と検討のうえ、村井理事の了解を得て「○○
事業に関する留意事項」として各指定団体に通知し、指定団体から単協に流しても
らいました。この結果、42年度の事業については、その後の検査でも指摘は受けま
したが、43年度の事業については留意事項の効果が大いにあったように記憶してお
ります。

 現在も事業団の助成事業の実施に当たり、留意事項を作っていると思いますが、
留意事項という言葉の始りは、この酪農振興特別助成事業によるものでした。


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