◎巻頭言


酪農生産と市場メカニズム

東京大学農学部 教授 生源寺 真一












アメリカ酪農の政策転換

 アメリカ酪農の鼻息が荒い。 ガットの義務免除条項 (ウェーバー) に守られ、 
ウルグアイラウンドをめぐっても、 むしろ保護主義的な姿勢に終始していた昨日
までのアメリカ酪農が、 まるでうそのようである。 

 4月4日に成立した96年アメリカ農業法のもとで、 酪農についても思い切った
政策転換がはかられることになった。 ひとことで言うならば、 海外のマーケット
に積極果敢に挑戦する市場志向型酪農政策への転換である。 商品金融公社の買入
れによる価格支持からの脱却をはかる新たな政策は、 国際市場における価格競争
力の強化をねらっている。 

 成長するアジア。 アメリカ酪農のターゲットのひとつがアジアの乳製品市場で
あることは、 間違いない。 例えば中国人の乳製品の消費量は、 今のところ日本人
の10分の1である。 お隣りの韓国ですら3割にすぎない。 経済の成長つまり所得
水準の上昇が順調に続くとすれば、 アジアの人々の乳製品消費が飛躍的に伸びる
ことは確実である。 日本にしても、 欧米先進国と比べれば、 いまなお3分の1以
下の消費にとどまっている。 

さらに強まる市場開放圧力

 アメリカの攻撃的な姿勢に対しては、 輸出の実績を持つ国々を中心に、 世界の
乳製品市場はそれほど甘くないとの冷ややかな見方がある。 長いあいだに培われ
た輸入国と輸出国の関係は、 多少の価格競争力さえあれば簡単に割り込むことが
できるほど、 もろいものではないという自負の表明でもある。 また、 最大の輸出
実績を誇りながら、 これまでのところ守勢に回りがちであったEU諸国も、 アメリ
カの市場参入を手をこまねいて眺めているほど、 お人好しというわけでもあるま
い。 アメリカン・ドリームの行方については、 なお予断を許さないと言わなけれ
ばならない。 

 けれども、 次のラウンドに向けて、 アメリカ酪農がすでに関税化されている国
境障壁のさらなる引き下げを強く要求するであろうこと、 これだけは疑いをいれ
ない。 ウルグアイラウンドではどちらかと言えば及び腰であったアメリカ酪農が、 
市場開放陣営の隊列に胸を張って加わることになる。 わが国酪農にとって、 ウル
グアイラウンド以上にタフな交渉となることも想像に難くない。 

市場機能の意義と限界

 酪農に限ったことではないが、 市場開放陣営のよりどころは自由貿易の利益で
ある。 もちろん、 市場の開放を叫ぶ国々は、 自由貿易の利益を標榜しつつも、 自
国産業の利益の確保に汲々としているというのが実状である。 こういった態度に
対して、 建て前ではきれいごとを並べ立てながら、 本音のところでは結局エゴイ
ズムだなどと批判しても、 それは当たらない。 私利・私欲の追求が見えざる手に
導かれて豊かな社会につながると説く市場経済論の国際版、 これが自由貿易論だ
からである。 

 市場経済の果実を満喫しながら、 自由貿易を批判することは難しい。 けれども、 
自由貿易は万能ではない。 市場の機能は重大な欠陥を有しているのである。 市場
メカニズムは資源や財の配分をつかさどる精巧かつ巨大な計算機である。 けれど
も、 この計算機は酪農が支えているコミュニティの価値を評価することができな
い。 酪農の持つプラス・マイナスの環境要素をカウントすることもできない。 

 われわれは知っている。 ヨーロッパの美しい農村景観が、 市場メカニズムにむ
しろ逆行する条件不利地域政策によって支えられていることを。 われわれは知っ
ている。 農業による環境汚染に対して市場メカニズムが無力であり、 ときには汚
染を助長する役割を果たしてきたことを。 

市場の操縦

 だからと言って、 市場という計算機を捨ててはならない。 市場に代わって人間
が計算するんだと意気込んだ社会主義の実験は、 壮大な失敗に終わっている。 大
切なのは、 欠陥を補いながら、 このかけがえのない計算機を人知をもって操縦す
ることである。 

 市場メカニズムの操縦に不可欠なのは、 明瞭に指示された行き先である。 生産
の効率に加えて、 景観・環境・コミュニティなどの非市場的要素を十分に考慮し
たとき、 日本酪農の姿はいかにあるべきか。 このようなビジョンが明示されては
じめて、 市場のコントロールに、 したがって、 自由貿易のコントロールにも確固
たる羅針盤が与えられることになる。

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