◎巻頭言


消費者の意識と畜産

日本経済新聞社 論説委員 岸  康 彦







尋常でない減り方
 仲良くしている農家が養豚をやめ、 豚舎の跡地を売ることになった。 まだ45歳、 肉質のいい豚を育てていたのだが、 どうあがいても展望が開けないのだという。 彼の苦渋の決断に 「若いのだから、 頑張って続けろ」 と言う勇気は私にはなかっ た。 それどころか周辺の農家の間では、 借金を残さないでやめられただけ幸いだ ったという空気らしい。  養豚農家の減り方はすさまじいとしか言いようがない。 統計を調べると、 1990 〜95年のわずか5年間に57%の減少である。 年平均で11%余りが見切りをつける という状態は尋常ではない。 中には養豚団地に1人だけ残ってしまい、 「おまえ が廃業しないと土地が処分できないから」 と、 無理やりやめさせられるケースす らあると聞いた。  畜産経営の減少はもちろん養豚だけのことではない。 何しろ年間取扱高300億 円という大手商社系ブロイラー会社ですら、 輸入肉に押されて撤退する時代であ る。 減り方の最も少ない肉用牛でも5年間に27%減だった。 その分、 規模拡大も 急ピッチなことは確かで、 マクロ的には畜産の構造改善が進んでいるということ になるのだろうが、 一方で総頭羽数も95年には全畜種で減ったことを見逃すこと ができない (91年の輸入自由化以後増えていた肉用牛も95年には若干下向いてい る)。 楽観的すぎる長期見通し
 昨年12月に閣議決定された 「農産物の需要と生産の長期見通し」 (2005年度見 通し) によると、 畜産物に関しては国内生産量がいずれも伸びるのに対し、 自給 率は鶏卵が横ばいのほかはいずれも下がるという対照的な数値になっている。 例 えば牛肉は93年度の国内生産量60万トンが2005年度には80万トンに増えるものの、 自給率は44%から40%に下がる。 豚肉は同じ期間に国内生産量が144万トンから1 45万トンへ微増となるが、 自給率は逆に69%から67%に低下するといった具合で ある。 伸びる需要をまかなうために国内生産も増えるが、 それ以上に輸入の増加 が大きいというのである。  しかし、 常識的にみて生産量、 自給率とも、 「見通し」 は楽観的すぎるのでは なかろうか。 同時に公表された2005年度のすう勢値によると、 鶏卵以外は生産量 が 「見通し」 よりかなり少なく、 中でも豚肉、 鶏肉は93年度実績を下回る。 自給 率も鶏卵以外は 「見通し」 よりずっと低い。 多分このすう勢値の方が、 関係者の 実感に近いだろう。  輸入品の増加にはセーフガードという手段があり、 既に一定の効果を上げてい る。 しかし、 毎度セーフガードに頼るのでは食品産業や輸出国をイライラさせる ばかりだし、 だいいち畜産農家が元気を出せない。 やはり日本の消費者に選ばれ るものを提供することにしか生き残りの道はあるまい。 飽食・グルメから健康・安全へ
 いま日本の消費者は何を求めているのだろうか。 おおざっぱに言えば1980年代 は飽食・グルメが全盛だった。 いわゆるオバタリアンたちを先頭に、 おいしいも のを食べたくて産地へ買い物ツアーをし、 果ては外国まで出掛けて食べ歩きをす る消費者がたくさんいた。 しかし現在は、 同じようにおいしいものを求めるにし ても、 それだけでは消費者は満足しない。 何より健康・安全が重視されるのが90 年代である。  日本テレビで32年間、 1万回以上も家庭料理番組 「3分クッキング」 を担当し た中村壽美子さんが、 近著 「おかずは曼陀羅の如く」 (日本テレビ刊) で、 「20世 紀はエネルギーの世紀だったが、 21世紀はアレルギーの世紀になるだろう」 と、 気味悪い予想をしている。 そうならないためにはどうするか。 「日本人の体質(気 候・風土) に合った食生活に戻るべきだ」 と中村さんは言う。  最近、 ファーストフードの大手が新聞で大々的に 「国産の鶏肉」 を宣伝してい た。 企業にとって 「国産」 が売り物になる時代である。 そう言えば、 国産の有機 野菜を使うと宣言するレストランやファーストフード店も増えている。 日本農業 にとってはこのうえなくありがたい味方であり、 そこにはまぎれもなく、 先に述 べたような消費者意識の変化が反映している。 日本農業は果たしてこうした消費 者の変化に敏感にこたえているだろうか。 近代科学の落とし穴?
 世界中をさんざん騒がせた狂牛病について、 モンゴルから来日して早大大学院 に在籍中のボルジギン・ブレンサイン氏が新聞に投稿していた。 その中でボルジ ギン氏は狂牛病がなぜ先進国に発生し、 技術や獣医学に恵まれないモンゴルなど に起きないのか、 と問い掛けている。 それは、 自然の一部である家畜を人間が建 物や柵の中に閉じ込め、 もともと草食動物が食べない骨や魚などで作られた飼料 まで与えるようになったからではないのか、 というのである。 ちなみに狂牛病の 原因は、 牛の飼料に含まれていた羊の内臓ではないかとされている。  ボルジギン氏の問い掛けはまさに現代農業の根源に関わることだと思う。 人間 は飢えから逃れ、 さらに豊かな食を求めて努力を重ねてきた。 その結果が健康・ 安全をおびやかす狂牛病を生んだのだとしたら、 進歩とはいったい何なのか――。 などと考え込むまでもなく、 科学技術の発展は常にそういう落とし穴を抱え込む 可能性をもつ、 ということだろう。  中村さんの予感とボルジギン氏の問い掛けには、 どこかでつながるものがある。

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