★ 農林水産省から


クローン技術と受精卵クローン牛の出荷について

畜産局 家畜生産課 課長補佐 高橋 博人




はじめに

 1997(平成9)年の英国における体細胞クローン羊ドリーの誕生、そして98年
7月のわが国における、世界初の成体体細胞クローン牛(のと、かが)の誕生は、
畜産関係者のみならず、一般国民からも大きな注目を浴びた。それは、今まで不
可能と思われていた分化した細胞(体細胞)から個体が作出できた驚きであり、
畜産関係者にとっては、現存家畜のコピーの作出が可能となる、まさに夢の技術
としての期待であった。一方、この事実が明らかになると、世界中において、ク
ローン研究のヒトへの応用についての激しい議論が巻き起こったことは記憶に新
しい。しかし、これが決して対岸の火事ではなかったことを我々畜産技術者は現
在身にしみて感じている。ご存じの「クローン牛出荷問題」である。ここに、こ
れまでの経緯について述べるとともに、我々に今まで欠けていた「消費者の視点」
について考えてみたい。


クローン研究をめぐる状況

 クローン(核移植)技術は、ドナー細胞の種類により、受精卵クローンと体細
胞クローンの2つに大別することができる。紙面の都合により、ここでは技術的
な話は省略し、クローン研究の歴史的な経緯と研究をめぐる状況を簡潔に記す。

 初期受精卵(16〜32細胞程度)をドナー細胞とする受精卵クローン技術を用い
て、世界初のクローン家畜の生産に成功したのは、86(昭和61)年の英国、ウィ
ラードセンの羊によるものである。その後、技術の改善に伴い欧米を中心に実績
が積み重ねられ、世界中で現在までに数万頭の受精卵クローン家畜が生産されて
いるとの報告がある。米国においては、1卵性の11子(牛)の生産にも成功し、
一時は受精卵移植関連企業がこぞって研究に着手した。今、その熱気は体細胞ク
ローン技術やES細胞樹立に向けられているようであるが、種雄牛及び搾乳牛とし
てコマーシャルベースで活躍している受精卵クローン牛も現存している。これら
の家畜(牛)からの生産物について、食品としての安全性に関して問題となった
という報告は無く、それらの流通についての規制がある国も我々の現在までの調
査では見いだし得ていない。

 体細胞クローン家畜の生産については、上述の通り、97(平成9)年の英国、
ドリーが世界初の成功例である。現在までに、米、英、仏、ニュージーランド等
の国において体細胞クローン家畜の生産に成功している。わが国においては、平
成11年8月末現在で、86頭の体細胞クローン牛の生産(うち53頭が生存)が報告
されている。

 一方、ドリー誕生の報道以降、クローン技術のヒトへの応用についての激しい
議論が世界各国において巻き起こった。ヒトクローンの作出については、世界各
国で何らかの規制が必要であるという方向で進んでいるようである。事実、ヨー
ロッパの国々は、既存の法律においてヒト胚の操作について一定の規制を設けて
いる場合があり、それをもってヒトクローンの作出を禁止している国がある(英、
仏、独)。一方、米国は、連邦予算の執行停止を早々と決定し、法律での規制を
検討中である。

 わが国においても、クローン技術のヒトへの応用に対する懸念がエスカレート
し、クローン技術そのものが危険であるかのような報道もあって、農林水産省に
おいても試験研究機関における家畜のクローン研究を一時的に中止する事態にも
発展した。これは、個人的には、家畜におけるクローン研究の内容およびその価
値を正当に評価しない、過剰反応であったと思うが、その後、内閣総理大臣の諮
問機関である科学技術会議においてこの問題について検討した結果、9年8月に
「ライフサイエンスに関する研究開発基本計画」の中で、「ヒトのクローン個体
の作製は実施すべきではないが、動物のクローン個体の作製は、畜産、科学研究、
希少種の保護等において、大きな意義を有する一方で、人間の倫理の問題等に直
接触れるものではないことから、情報公開を進めつつ適宜推進する」との総理大
臣決定がなされた。それを受けて、わが国における家畜の体細胞クローン研究が
再開され、これまでの体外培養や受精卵核移植技術の蓄積により、世界が目を見
張る成果(多数の体細胞クローン牛の生産)が出てきているのである。付け加え
ると、わが国におけるヒトクローン研究についての規制の在り方については、現
在も科学技術会議において検討中であり、その結論は出ていない。


受精卵クローン牛の出荷問題の経緯

 4月14日、日本経済新聞朝刊において、「研究機関が作ったクローン牛が市場
流通しており、農林水産省は科学技術会議の見解に抵触するとして厚生省と協議
して出荷中止などを検討するとともに、全国の研究施設にクローン牛の処分状況
を調査し、その結果を踏まえ、安全性に関する試験を実施するかどうか検討する
としている」との報道があった。

 畜産局は、同日、この報道に対して、農林水産省として、@受精卵クローン牛
が市場流通したことは事実であるが、受精卵クローン牛の安全性については特に
問題ないと考えており、出荷中止を検討することは考えていない、A情報公開は
積極的に行う、旨の記者会見を実施した。

 一方、この報道には、奈良県畜産試験場由来のクローン牛についての記載があ
ったため、各都道府県においても地元マスコミ等からの問い合わせがあったこと
から、4月16日には、農政局経由で都道府県・その他関係機関に、この問題に関
する資料(農林水産省の基本的考え方等)を送付した。

 4月19日には、農林水産技術会議先端産業技術研究課長、官房広報室長、家畜
生産課長(座長)等をメンバーとする「受精卵クローン牛に関する情報公開のた
めの省内タスクフォース」(省内検討会)を設置し、この問題への省内検討体制
を整備し、情報提供の在り方等についての検討を開始した。4月21日には、農水
省内の報道関係者の集まりである農政クラブ・農林記者会のメンバーを対象に、
「クローン牛に関する勉強会及び受精卵クローン牛肉試食会」を実施した。さら
に、4月23日には、平成11年3月31日現在の受精卵クローン牛の生産・供用(市場
流通)状況、体細胞クローン牛の生産・受胎状況についての調査結果を公表(記
者レク)した。

 これは、先の内閣総理大臣決定に基づき行ってきた情報提供の一環としての、
3回目のクローン牛生産の情報提供であった。これまでも、受精卵クローン及び
体細胞クローン牛の生産に関する情報提供については、農林水産省も各都道府県
も積極的に行ってきたことは、読者の皆様は十分御承知のはずである。マスコミ
や消費者団体等が言うように、「情報提供を行ってこなかった。」ということは、
全く当たらないと思っている。事実、家畜改良センターにおいては、10年6月に、
受精卵クローン牛の肥育成績を枝肉写真付きでプレスリリースしている。しかし、
消費者には、それらの情報は届いていなかったのか、あるいは、届いていたのか
もしれないが、理解・記憶されていなかったのである。一般消費者は、これらが
食用にされるとは考えなかったところに我々と大きな差があったのである。

 4月28日には、「農林水産大臣と消費者との懇談会」において、クローン技術
の概要、生産状況等の調査結果を説明し、消費者団体の代表の方々と質疑応答を
実施した。さらに、5月7日には、28日に参加できなかった消費者団体と、同様の
懇談会を実施した。

 5月19日には、衆議院農林水産委員会でクローン関連質問もあり、全国畜産課
長会において現在までの経過等についての説明も行った。5月26日には、農政ク
ラブメンバーが家畜改良センターで現地検討会を行い、実際の研究状況やクロー
ン牛を見学した。5月28日には、日本消費者連盟への説明会を、6月3日には畜産
関係団体等への説明会を、6月16日には、消費科学連合会への説明会を開催した。
7月29日には、農政クラブと同様、消費者団体が家畜改良センターで現地検討会
を実施した。

 このように、我々は、あらゆる機会を利用して説明会等を開催し、家畜にお
けるクローン技術の理解が少しでも深まるように努めている。クローン研究を
実施している都道府県機関や民間研究所においても、同じ様な状況にあったの
ではないかと推察している。


クローン技術の位置付け

 国際化が進展する中で、土地条件等種々の制約が多いわが国の大家畜畜産が、
海外からの輸入畜産物に対抗していくためには、生産性の向上等により、良質な
畜産物をより低コストで安定的に供給する必要がある。家畜の生産性向上には、
家畜の育種改良が重要な役割を果たしており、従来より、遺伝的能力の高い個体
を選抜してその繁殖能力を最大限発揮させるために、人工授精に始まり、受精卵
移植技術といった人為的な繁殖技術を活用することにより、育種改良・増殖を図
ってきた。今や人工授精技術は、わが国の牛の繁殖技術としてほぼ100%の普及
率となっている。我々は、この人工授精技術→受精卵移植技術→体外受精卵移植
技術と続いた改良増殖技術の流れの中に、受精卵クローン技術を位置付けている。

 受精卵クローン技術は、優秀な個体の複製増殖を通じて、家畜の改良を進める
有効な手段である。1個の受精卵(ドナー)から作出されるクローン(再構築)
受精卵は、当然のことながら性は同じであり、遺伝的能力も同等と考えられる。
事前に性判別をした受精卵をドナー受精卵とすれば、性判別受精卵を多数作出で
きるし、1個のクローン受精卵からの産子を能力検定すれば、凍結保存していた
残りのクローン受精卵は、能力検定済み受精卵となる。1個の受精卵から作れる
クローン受精卵の数が多くなればなるほど、つまりは、技術水準が向上すればす
るほど、クローン受精卵のコストは低下し、そこから生産される子牛の価格も低
下する。わが国でクローン研究に熱心な企業のねらいの1つは、この「低コスト
受精卵」の生産・供給であり、それによる低コストな牛づくりである。わが国独
自の、おいしい牛肉を作る黒毛和種という品種の牛を、できるだけ低コストで増
産しようとするねらいで、国としてもこの技術開発を進めてきたのである。

 さらに、作出されたクローン牛が、実際の農家段階で利用されるだけでなく、
同じ遺伝子を持つクローン牛を用いたクローン検定による検定期間の短縮により、
年当たり改良量が増大するといった効果も大きい。また、各種の飼料試験等にク
ローン家畜を利用することにより、小頭数で精度の高い実験が行えることとなり
コストは大きく減少する。

 一方、体細胞クローン技術は、遺伝子組み換え技術との組合せにより、家畜を
利用した有用物質の大量生産等に道を開いた。ドリーの研究目的もこれである。
現在の技術レベルでは遺伝子組み換え動物の作出効率は大変低く、1頭の遺伝子
組み換え動物を作出するためには大変なコストがかかる。その貴重な遺伝子組み
換え動物を、体細胞クローン技術によって増やすことが可能になれば、産業・ビ
ジネスとしての展望も開けてくる。臓器移植用の家畜(ブタ)の供給も現実のも
のとなってくる。また、絶滅の危機に瀕した希少動物などの保護・再生の手段と
しても期待されている。これらのことから、欧米の畜産・医療企業が、こぞって
この研究に力を入れているのである。


クローン技術の安全性について

 食品の安全性についての議論の場合は、ダイオキシン問題や腸管出血性大腸菌
O157問題等でもお分かりの通り、汚染(有毒)物質の特定とその汚染度合いが問
題となる。しかし、今回、クローン牛肉の安全性を疑問視する側からは、その汚
染物質とは何なのか、その汚染がどの程度なのかが全く提示されていない。即ち、
今回のクローン牛肉騒動は、イメージとして、何となくクローンは気味が悪いと
いった話が多いのである。よって、科学的な立場からその問題に回答することは
不可能であり、消費者の不安を解消する術としては、正しい情報を提供し、それ
を理解してもらう以外にはない。

 受精卵クローン牛肉については、一般の牛肉と同様に、と畜の段階で生体に異
常がないか、内臓・肉等に異常がないかなど、食品衛生上の病理学的・理化学的
な検査が行われており、一般の牛のと畜検査結果と差がないことが明らかとなっ
ている。また、肉の品質についても検査、格付けが行われている。

 もともと、クローン技術は、遺伝子の改変・操作を行っているものではなく、
一般の消費者の方々が抱く、「クローン牛=遺伝子組み換え」といった誤った認
識に基づく不安は全く的外れである。我々は、まずそこから説明を始めなければ
ならないのである。クローン牛の体内で、未知の物質が人工的に生成されるとい
うことはなく、クローン牛は元のドナー牛と同じ、普通の牛である。人工授精、
受精卵移植と続いた一連の家畜繁殖技術、細胞操作技術の延長線上にある技術で
ある。

 クローン問題以上にマスコミをにぎわしている遺伝子組み換え技術については、
わが国においても、経済協力開発機構(OECD)で合意された共通の概念に基づ
き、遺伝子組み換え実験・利用に関する指針が作られている。農産物については、
具体的に、導入する遺伝子が産生するタンパク質の安全性を確認し、また組み換
え農産物とその元の農産物とを比較して成分・形態・生態的特質において変化が
なければ、安全性については元の農作物と同等(実質的同等性)であると判断す
るものであり、実験段階、実用化段階のそれぞれにおいて安全性が評価されてい
る。さらに、食品としての安全性については、厚生省の安全性評価指針に基づき、
安全性が評価されている。

 当然のことながら、これはあくまでも、遺伝子組み換え技術についての規定で
あり、クローン技術についてこの規定が適用されるものではない。食品の安全性
について所管している厚生省も、受精卵クローン牛の食品の安全性については問
題としていない。ただし、体細胞クローン技術については、世界的にその研究が
始まったばかりであり、実際の知見や情報は、まだ限られていることから、厚生
省は、体細胞クローン牛の食品としての安全性について、今年度において、技術
知見等情報の収集とその検討を行うこととしている。

 農林水産省としては、体細胞クローン牛由来の生産物の安全性についても、技
術的な観点から見て受精卵クローンと同様であり、問題はないと考えている。一
方、体細胞クローン牛については、畜産サイドからみて、食品の安全性とは異な
る立場からの調査・データの収集が必要であると考えている。つまり、家畜の改
良増殖技術として活用するための基礎的データ、発育性や繁殖性、寿命等のデー
タ、クローン牛としての相似性のデータは、この技術の世界最先端にいる日本に
おいて、調査・検討する必要があり、関係機関とも協力しながら実施していると
ころである。


今後の対応

 4月19日に設置した省内検討会において、公開すべき情報の種類・範囲の検討、 
情報公開の手法の選定、消費者団体等の意見・要望等の把握・検討を行うととも
に、各種説明会の開催等を前述の通り、できるだけ丁寧に実施してきたつもりで
ある。6月末までに事務局会議も含めて13回の検討会を開催し、畜産物の生産・
流通・消費の実態にも留意しつつ、多面的な検討を行ってきた。検討過程におい
ては、@新しい技術への理解を情報提供によっていかに消費者に浸透させ得るか
A畜産物の処理・流通過程はモノ別(肉、乳、内臓等)に区々であり、一律な手
法では情報提供が困難であること B受精卵クローン牛由来の生産物を区別して
処理・流通させるとした場合には、それに必要なコストを誰が負担するのか等の
困難な問題が明らかとなってきた。

 そこで、8月13日に、これまでの検討における問題点と、新潟県畜産試験場か
ら出荷し、肥育終了した受精卵クローン牛の出荷及びその試験的販売について記
者レクを行った。つまり、クローン牛の出荷についての農林水産省の方針が出さ
れる前に出荷される牛がいたことから、新潟県からの相談もあり、消費者のクロ
ーン牛に対する理解を深めてもらうため、言い換えれば、クローン牛肉は普通の
牛肉と何ら変わらないものであることを理解してもらうため、試験的に、クロー
ン牛であることを明示して販売することとしたところである。

 9月20日には、研究機関、流通・消費者団体等の代表者との意見交換会(懇談
会)を開催する予定であり、これらの結果等を踏まえながら、クローン牛に関す
る情報提供についての農林水産省としての結論を出す予定である。


おわりに

 はじめにも書いたが、今回の騒動に遭遇し、私個人が大変驚いたことは、我々
畜産技術者と、一般消費者の、「技術」に関する認識のギャップの大きさである。
我々技術者は、今まで、自分たちが開発・実用化に取り組んでいる技術やそれに
関する事業等について、消費者に理解してもらおうといった努力が不足していた
ことは認めざるを得ない。消費者団体の幹部の方においても、わが国の牛の繁殖
技術として、人工授精が用いられていることすら知らない方がいるのである。

 農業基本法が「食料・農業・農村基本法」となり、新しい技術の重要性ととも
に、消費者の役割や、食料消費に関する施策の充実等が法律にうたわれる今、国
民のためになる、新しい技術や生産方式等について、それを理解してもらうため
の広報・普及活動の推進について真剣に考える必要があると痛感している。今回
のクローン牛肉問題は、まさにそれを考えるモデルケースであり、今後への影響
を考えると、慎重で、かつ、十分な検討が必要である。

 確かに今回の騒動は、一部マスコミの誤った報道に問題があるのも事実である
と考える。しかし、この機会に、今まで畜産技術に全く興味のなかった一般の人
々についても、我々畜産・農業の世界を知ってもらい、その理解者となってもら
うよう、努力していく必要があると思っている。
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【家畜改良センターで誕生したホルスタ
イン種体細胞クローン牛の三つ子】
 

 

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【家畜受精卵移植技術研究組合((社)家
畜改良事業団、潟~ック)で誕生した黒
毛和種受精卵クローン牛の6つ子】

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