◎専門調査レポート


質的変化を伴って伸び行く八重山の和牛

農政ジャーナリスト 山本 文二郎

 

 

 




28年の歳月をかけたオウシマダニの撲滅

 2月10日、石垣市でオウシマダニ撲滅完了を祝して、記念碑の除幕と記念式典
が盛大に催された。事業が始まったのは復帰前の昭和46年。沖縄県では復帰後、
3大撲滅事業が進められた。マラリア、ミバエ、最後がオウシマダニである。撲
滅に取り組んだ人たち、農家、事業を強力にバックアップした関係機関、特に推
進の中心となった八重山家畜保健衛生所の職員、旧職員は感慨深いものがあった
に違いない。「農家とともに達成までに実に28年の長い歳月をかけた。これで八
重山の肉用牛の発展の土台が築かれた。」と家保(家畜保健衛生所)に勤務して
以来、ダニ駆除一筋に歩んだ那根元所長は肩の荷を降ろしたように語るのだった。

 牛肉の自由化後、全国的に和牛の飼養頭数が伸び悩み、コメと並んで日本農業
を象徴した和牛に活力が失われつつある。そうした中で、大消費地にもっとも遠
く、南の果ての八重山諸島は宮古島と並んで、ここ10年ほどで飼養頭数は2.5
倍強と驚異的に伸び、停滞する和牛界に明るい光を与えている。それも、ただ頭
数が伸びただけではない。和牛の改良や粗飼料給与によるコストダウン、若者の
Uターンなどで世代交代が進み始めるなど、構造変化を伴って進んでいる。その
飛躍の土台をつくったのがオウシマダニの撲滅であった。

 石垣島は緯度的に台湾の北と考える人が多い。実は台湾の首都台北市より南、
台中市のやや北に位置している。年間平均気温24℃、冬でも18℃を超え、取材に
行った日はクーラーをかけて寝たほどだった。オウシマダニの生息の適温は18℃
以上で、八重山諸島は生息の好適地なのである。

 初夏になると、県花デイゴが真紅の美しい花を咲かせる。その季節がまたオウ
シマダニの繁殖の最盛期でもある。草地でふ化した幼ダニは、草をはむ牛に付着
して広がり3週間ほどで成熟する。その後、草むらに落ちて産卵、3〜4週間を経
て牛に戻るという生活環を50日ほどで繰り返す。1匹で生む卵は2,000〜3,000個、
繁殖力はものすごい。草地を歩けば、ダニがズボンを通して上がってくる。ダニ
駆除のため調査にきた農林水産省の役人がベルトの内側にたまったダニを見て仰
天したという。

 オウシマダニは1匹で3ミリリットルくらいの牛の血を吸う。血液のたん白質を
摂取することで成長するのだ。子牛は貧血になったり栄養失調になる。住民の数
の10倍も牛がいるといわれる黒島では、子牛10頭のうち2頭は死亡、2頭は発育不
良で商品価値がなくなり、まともに育つのは6頭程度と言われてきた。オウシマ
ダニは法定伝染病のバベシア原虫を病原体とするピロプラズマ病を伝染し、2週
間の潜伏期を経て牛の赤血球を破壊し、感染牛は激しい貧血、黄疸症状を起こし
死亡する。八重山でオウシマダニの媒介によるピロプラズマ病の大発生が過去に
3回あった。昭和8年、12年、そして戦後の28年。肉用牛の半数近くが死亡し壊滅
的な打撃を受けた。その激しい被害はいまでも語り種になっているほどだ。

 牧野ダニ駆除事業が始まったのは石垣島からだった。50年代中ごろにかけて黒
島、竹富、小浜、波照間、与那国、西表と八重山全域へと広げていった。駆除は
草地のダニと牛に付着したダニの両面作戦だった。草地への薬剤散布は他作目へ
の被害を避けるために、朝の凪に行う。家保の職員は4時起き、暗いうちに家を
出て、5時ころから散布にかかるのだ。職員にとっては大変な作業だった。     

 牛体のダニ駆除には薬浴を徹底した。牧場などに薬浴施設を設け、希釈した低
毒性有機リン剤の液に牛を薬浴させる。農家や家保の職員たちが、放牧された牛
を薬浴場に追い込むのだ。駆除を徹底するために、薬浴を2週間に1回実施してい
った。だんだん効果がでてきたが、100パーセントになかなかならない。薬浴施
設も改良した。当初の薬浴槽は牛が怪我をしないように傾斜が緩やかだったが、
牛が頭までつかるように底を深くし、一挙に落ち込むように改良した。薬浴作業
も大変だった。


一頭もらせば元の木阿弥

 ダニ撲滅の原則は「一頭もれなく」である。1頭もらせば、ダニの繁殖力が2,
000倍、3,000倍となるので、元の木阿弥になる。ダニが牧草地に広がり、牛の体
付着しているのを完全に駆除できるか、と頭をかしげる農家が多かった。また、
当時は1、2頭飼いが多く、「自分の1頭くらいなら薬浴しなくても影響はない
だろう」と無関心な農家もいた。それが撲滅作戦を台無しにしてしまう。     

 全農家をダニ駆除に奮い立たせることが勝敗を左右する。それには農家の意識
改革が先決だとして、初代家保所長の山城英文さんは職員を奮起させ、農家の組
織化に取り組んだ。「一頭もらさず」薬浴を推進し、ダニ駆除の基礎を築いたの
は彼だった。それを強力にバックアップしたのが内原英郎元石垣市長であった。
山城さんは旗振りが上手、ち密で行動的、内原元市長は獣医師で肉用牛への理解
が深く、強引なところがあったが、体を張って取り組んでいった。肉用牛の振興
に大きな役割を果たしている沖縄県肉用牛生産供給公社の設立を強力に進めたの
も内原さんだった。

 こうした50年代のダニ駆除作戦の展開で、ダニが急速に減っていった。だが、
60年に危機を迎える。黒島のある農家から「家保の言う通りにやったが、ダニが
死なない」と通報があったのだ。直ちに他の島も調べた結果、同じ現象が出てい
た。長い駆除作業のうちに、耐性のあるダニが出てきたのである。「一時はダメ
か」と心配したと那根所長はいう。ダニ駆除は本当に「百里の道は九十九里をも
って半ばとする」である。薬剤を低毒性有機リン剤から、そのころ開発されてい
たピレスロイド系の輸入製剤に切り替えた。同製剤は殺虫力や産卵阻止力などが
強いうえに、人畜に対する安全性が高い。

 薬剤を切り替えるとともに、ダニのゼロ作戦を進めていった。重点地域を指定
して集中的に撲滅する作戦である。最初に指定されたのが黒島であった。黒島は
肉用牛生産一本の島である。農家は肉用牛に生活をかけているので取り組みも熱
心、完全駆除の効果も大きい。散布もプアオン法に変わった。牛の背中に沿って
薬剤を滴下すると、液が数時間で体全体に拡散してダニを完全に駆除できる。薬
浴法に比べ手間もかからず成果も大きい。この効果で、黒島は平成元年にダニが
確認されなくなった。1年間発生しなければ撲滅したことになる。平成2年に八重
山で最初に撲滅が完了した島となったのである。

 黒島をみて農家も盛り上がってきた。「家保に出勤すると、事務所に農家が詰
め掛けている。『なぜ黒島を優先するのか』とえらい剣幕だった。」と那根さん
は振り返る。島を1つ1つ重点地域に指定して、集中的な駆除作業を進めていった。
3年には竹富、鳩間の両島、4年には台湾に一番近い与那国、5年には西表がダニ
の清浄化された島となった。

 最後に残されたというより、最後まで残したのが石垣島だった。石垣島は八重
山の肉用牛の75パーセントを占める。しかも、各島で生産された子牛はいったん
石垣島に運ばれて、ここから本土に出荷されていく。石垣島を先に清浄化しても、
他の島から運ばれてくる子牛がダニに汚染されていれば、再発する恐れがあるか
らだ。

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肩の荷を降ろすダニ駆除一筋の那根所長

 石垣島は北部に広い放牧地が広がっている。他の家保に応援を頼み、3人1組
の6班編成で、牛を1頭残らず柵に追い込み、薬剤を牛の背中にまいて完全駆除
を進めた。採血して病気を調べ、貧血や原虫の調査も実施して、1頭1頭記帳して
いった。4年から始めた作業は7年で終わり、8年には石垣島の撲滅が完了したの
である。農家は安心して肉用牛を飼えるようになった。

 石垣島を最後に、八重山ではオウシマダニが確認されなくなり、11年4月に農
家が待ち望んでいた八重山地域からの牛の移動制限が解除されることになった。
それまでは、家保の証明書がなければ移動できなかった。そして、今年の2月10
日に撲滅事業の締めくくりとして、盛大なオウシマダニ撲滅記念式典が開かれた
のであった。
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【ダニ駆除一筋に歩んだ那根所長】
 那根所長は、28年にわたる息の長い事業に終始取り組んできた。那根さんは西
表島の一番奥まった集落の出身である。「八重山には人を助ける医者はいても、
動物を助ける医者はいない」と日本獣医畜産大学に進み、地元に戻って家保の前
身の八重山畜産指導所に勤める。途中に3年ほど那覇の中央家保に勤務した以外
は八重山一筋で働いてきた。沖縄県のような島の多い県では3、4年で転勤するの
が普通だが、那根さんのように一貫して八重山で働いた職員は珍しい。    

 しかも、家保ではダニ駆除に専念してきた。子供のころから、農家がオウシマ
ダニの被害に苦しむのを見てきただけに、駆除への執念は人一倍だった。山城初
代所長に鍛えられながら、持ち前の明るさや仕事熱心さで「1匹でも逃したら元
の木阿弥」と気の抜けない仕事を続けてきたのである。「耐性のダニが出たとき
は長年の苦労も水の泡か」と心配した。

 那根さんは来年3月に定年を迎える。所長在任は3年だが、昨年の暮れには、八
重山家保が中央畜産会主催の優秀事例表彰事業で最優秀の畜産大賞を受賞、そし
て、ダニ撲滅完了を記念して今回の式典が催された。「ダニが駆除されなければ
退職金をもらえない。これで安心して頂戴できる。冥加に尽きる」。一生を1つ
の仕事にささげてきた男の言葉だった。


急速に進む八重山の牛の改良

 八重山の肉用牛の飛躍的な発展はダニ撲滅を土台に、2つの大きな事業が進め
られたところにあった。1つは和牛の改良。もう1つは草地の改良、造成による牧
養力の向上で、コストダウンが可能になったことである。この2つの要因も農家
や関係者の努力の積み重ねのうえに成り立っていて、相乗効果を発揮しながら、
今日の生産意欲の盛り上がりへとつながった。10年度の畜産大賞を受賞した大分
県久住町の大型版といってよいだろう。

 八重山の牛は、昭和50年代の中ころでも体が軽く、肉質も悪かった。「母牛の
質が悪いうえに、500キロくらいの肥育牛が一番大きな方だった。」、「1年近く
育てた子牛で体重が200キロ弱、いまならかっこが悪くて市場にも出せない。ひ
ところ牛肉の価格は山羊肉よりも安かった。」と農家は言う。それほど遅れてい
た。

 和牛の改良を目指して沖縄県肉用牛生産供給公社ができたのは52年、優秀な種
雄牛の造成に力を入れていった。沖縄の和牛の系統は大きくみて3つ。石垣島が
島根の糸桜系、竹富町が岡山系、宮古と伊江島が広島系で、統一性がなかった。
公社では糸桜系に増体性の良い鳥取系と但馬の土井系を交配して優良種雄牛づく
りに取り組み、現在基幹牛として8頭が本島の畜産試験場に置かれている。また、
和牛改良には受け皿として優れた母牛集団をつくる必要があるとして、農家に優
良雌子牛の保留を勧めていった。

 しかし、大事なのは農家の改良への取り組みである。八重山に和牛改良組合の
設立を積極的に働きかけていったのが石垣島の向里一さん(63)である。映画館
の技士をしていた向里さんは50年に脱サラ、退職金で2頭購入した。現在、繁殖
牛が30頭になった。
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【和牛改良組合長、向里氏(左)と筆者】
 向里さんは52年の宮崎県全国和牛能力共進会を見学、「立派な本土の牛を見て、
改良の大切さをいやというほど知らされた。」。57年の福島県全共で改良組合設
立の手続き資料を手に入れ、農家を説得して改良組合を59年に結成した。新規参
入者だからこそ、かえって因習にとらわれずに新しい方向を目指すことができた
のだろう。改良組合長を10年勤めた後、肉用牛の振興にいま1つの農協の尻をた
たこうと、2年ほど前に八重山郡農協の理事になり、和牛経営部門委員長として
活躍している。

 こうした地道な努力で、ダニ駆除にめどがつき始めた平成に入ったころから、
農家の改良への取り組みが活発になってくる。放牧主体の八重山では、マキ牛が
かつては170頭もいた。改良意欲が高まるに従って、人工授精がどんどん増え
ていった。人工授精は62、3年ころ3,000頭前後だったが、現在では1万2,000頭を超
えている。マキ牛も3分の1以下に減った。八重山の子牛生産の仕組みが大きく変
わってきたのである。

 凍結精液でいま人気のあるのは北国7−8。今年1月の八重山家畜市場で57万円
と最高値をつけたのは小浜島の北国7−8だった。家畜改良事業団から供給される
北国の精液は異常な高値を呼んでいる。事業団から3カ月ごとに300本売り出され、
八重山で入手できるのはせいぜい10本、農家の希望は50本もある。2、3年前の1本
7,000円が、いまでは2万円を超えている。              

 農家は漫然と精液を選ぶのではなく、市場価格を見ながら選定するようになっ
た。マキ牛のころに比べると、八重山の改良への取り組みは質的に変わってきた。
こうして八重山の子牛は増体も良くなり、肉質も向上した。平成4年のころ子牛
価格が全国平均と八重山では1頭で13万円強の価格差があったが、10年には7万円
強に縮小してきている。改良が進むに従って、本土各地から買参人が家畜市場に
集まるようになった。


草地造成によるコストダウンの実現

 和牛改良に劣らず、八重山の肉用牛に活気をもたらしたのは草地の造成、改良
であった。本土復帰とともに草地造成事業が始まった。八重山の畜産基地建設事
業は、49年から団体営草地開発事業、畜産基地建設事業、公社営畜産基地建設事
業…と次々に実施されていった。事業は復帰後の沖縄振興の狙いもあって高率補
助で優遇され、改良、造成された面積は3,150ヘクタールに達している。草地造
成と並行して、畜舎や農機具整備も進められ、畜産の経営基盤づくりにも取り組
んでいった。

 一番大々的な事業が行われたのは黒島であった。黒島は面積が1,000ヘクタール
弱、海抜8メートルの平坦な島である。サンゴ石灰石の固い岩盤で出来ていて、
いたるとこに岩盤が露出している。土壌の層が薄くやせている。草地造成事業は
スタビライザー工法によって行われた。強力な破砕能力を持つ大型スタビライザ
ー機で岩盤状になったサンゴ岩を粉砕し、周辺にある土壌や草木も攪拌しながら
混合して草地を造成していく。同島でこれまでに草地に造成された面積は750ヘ
クタールに達し、投下された事業費は30億円を超える。現在もなお造成中で、島
の90%近い面積が草地として改良されることになる。草地造成は石垣から小浜、
西表、波照間、与那国と八重山諸島全域で進められた。

 こうした基盤整備によって、草地の生産力が上がってきた。従来のローズグラ
スやギニアグラスといった粗飼料生産から、ジャイアントスターグラスが普及し
てくる。東アフリカ原産で繁殖力がおう盛、地上をはうように伸びるつるに子牛
が足を引っかけて転ぶほどという。

 農家も牧草地の肥培管理や合理的な放牧を身につけ、単位面積当たりの収穫量
が増加してきている。一般的に年4〜5回刈りが多く、青草換算で年間収量が8ト
ン前後となっているが、中には7回刈り、35日〜40日で収穫し、13トン前後に達
する農家もでている。ジャイアントスターグラスになると、8回刈り15トン以上
の成績がでている。同じように造成された草地だが、農家間格差が拡大してきて
いる。

 飼料生産の改善は牧養力を高めることになった。土壌がやせ、養分が少なかっ
たころは、1ヘクタール当たりの肉用牛の放牧頭数は0.8〜1頭で極めて粗放的だ
った。土地改良が進むに伴って、牧養力が高まり、黒島では3.5頭くらいに増え、
なお増頭の可能性が大きい。石垣島の長嶺畜産の場合、平成2年にパインやサト
ウキビから転換、逐次増頭して現在繁殖牛125頭に増え、18ヘクタールの牧草地
に年間通じて放牧している。飼料はジャイアントスターグラスで、3区画に分け
て15日ずつ順番に放牧している。4〜11月の夏季には牧草で十分で、成育の落ち
る12〜3月は牧草の不足分として乾草を給与している。増体成績も1日1キロ近く、
子牛の生産費は1頭当たり16万5,000円、県平均の7割程度となっている。長嶺畜
産のような先進事例はまだ少ないが、草地の生産力の向上と有効利用を図れば、
八重山の飼養頭数はまだ相当に伸びる余地があるといえよう。

 八重山の肉用牛の飼養頭数は、復帰当時はわずか7,600頭で、牛も貧弱だった。
それが牛肉の自由化を決定した昭和63年には1万4,100頭へ、そして10年には3万
6,100頭へ。自由化という厳しい条件をハネのけて、10年ほどで2.6倍の突出した
伸びとなったのである。だが、八重山は単に量的に拡大しただけではない。肉用
牛の体格と肉質も改良され、草地造成と放牧によるコストダウンも進み、さらに
経営規模も拡大し、後継者の参入による世代交代が進み始めるなど、一口で言え
ば肉用牛の生産構造の大きな変化を伴っているところに力強さが感じられる。
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【長嶺さんご夫妻】

【長嶺畜産の牛舎内】

和牛振興の主導権は若手経営者へ

 小浜島は10年ほど前、飼養頭数がわずか100頭ほどだったが、現在800頭を超え
る。大石浩正さんは34歳の働き盛りで、平成に入るころに後を継いだ。当時の規
模は20頭ほどだった。彼は20歳で授精師の資格をとっていたので、鹿児島系や但
馬系の血を積極的に入れて改良を進め、優良な子牛を保留しながら増頭を重ねた。
現在は育成を含め65頭、昨年の子牛生産頭数は44頭、1頭当たりの価格は33万円、
市場平均の1割高となった。
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【小浜島、大石さんと放牧牛】
 大石さんは「差し当たって繁殖牛を70頭に増やしたい。まだまだ子牛にバラつ
きがあって改良が遅れている。市場価格を見ながら、良い系統をそろえていきた
い。」というのだった。「年寄りは牛への愛着が強すぎて更新をなかなか進めな
いし、過去の経験に頼り頭数も現状維持が多い。若い者は市場を見ながら合理的
に優良系統への切り替えを進め、増頭にも積極的だ。」という。ダニ駆除の先頭
に立った大石さんのお父さんは、5年前に生産組合の組合長を若手の農家に譲っ
た。小浜の中核となってきたのは大石さんのような若手で、「酒場に集まると必
ず牛の話になる」そうで、急速に世代交代が進んでいる。世代交代とともに将来
は「1,500頭の拡大は可能。牛の質も相当に変わってくるだろう。」と自信たっぷ
りに語るのだった。オウシマダニを知らない若者も出てきたという。

 黒島もそうだ。島仲治伸さんは39歳。平成元年に経営を引き継いで、繁殖牛を
15頭から66頭へ拡大、10年の子牛生産頭数は59頭だった。大石さんと同じように
授精師である。草地造成の事業で放牧地を整備し、野草地を含めると牧草地は20
ヘクタール、そこへ周年放牧している。飼料自給率は88%、放牧主体となってい
るので、1頭当たりの生産費は10万6,000円、年間の子牛販売高が1,600万円弱で、
所得率は57%と群を抜いて高い。しかも、堅実経営で借入金残高が低い。その実
績を評価されて、昨年度の中央畜産会の表彰事業で八重山家保と並んで優秀賞を
とった。当面の目標として100頭への拡大を目指している。       

 もう1つの強みは女性が経営に参加してきたことである。長い間、牛飼いは男
の仕事とされてきたが、女性が取り組むようになった。「子育ては牛も同じこと。
男は牛をたたき、女はやさしくなでる。」子牛がおとなしく育って扱いやすくな
った、と買参人の評判が良くなった。さらに、経営実績の記帳は女性の方が几帳
面で、経営改善に効果が現われてきているという。  

 沖縄県畜産会は経営指導を積極的に進めている。毎年70戸くらいを指定して、
簡易経営診断、高度経営診断をし、日々の記帳や記録の作成をさせ、受胎率、繁
殖成績、増体、コストなどをパソコンに打ち込ませ、細かな指導を実施している。
希望者は25頭以上で若い農家が多いという。この事業などに積極的に取り組んで
いるのは、小浜や黒島に見られるように、若い夫婦が多い。かつて5年に3産とい
われて子牛生産も3.5産、4産へと向上し、いまでは分娩間隔が13.5カ月くらいに
縮まってきた。          

 八重山の肉用牛の担い手は、従来とは質的に違った新しい経営手法と技術を身
につけた若手が主導権を握り始めてきたのである。沖縄県では平成17年をメドと
した肉用牛の振興計画が作成されており、八重山地区では10年の3万6,000頭から
4万2,000頭への増頭を目指している。昭和60年に作成した増頭目標では、1万
4,000頭から7年に2万8,000頭を目指したが、実績は3万2,000頭へと計画を上回っ
た。草地造成、改良に伴う牧養力の向上、近年の農家の生産意欲の高まりなどを
考えると、「計画を上回る達成はまず間違いない」と那根所長は結んでいた。そ
の時には、八重山の牛はさらに改良されて、バラつきが少なくなり、わが国の重
要な肉用牛供給基地になるに違いない。

 ただ、八重山の肉用牛の一層の発展を考える時、これからの大きな課題は肥育
の充実であろう。八重山郡農協が肥育を手掛けてはいるが、全体の子牛生産から
すれば、まだまだ少ない。肥育に力を入れることは、付加価値を高めると同時に、
肉質の改良に大きく役立つからだ。八重山の子牛は、本土に出荷されて肥育され、
荷受会社の多様なルートを通る。業者に肉質のデータのフィードバックを依頼し
ているが、期待されるほどは集まらない。地元での肥育を充実すれば、データは
確実に収集され、問題点が明らかになって、改良に役立つ。子牛生産と肥育との
バランスが八重山の今後の課題となるだろう。

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