◎専門調査レポート


畜産経営における発展要因としての
環境変化適応力の重要性

九州大学大学院農学研究院 教授 甲斐 諭

 

 




調査目的と方法

 最近、農業経営政策に関する議論が活発になり、農業経営政策大綱の制定が待
たれている。平成11年に制定された「食料・農業・農村基本法」の第21条におい
て、「国は、効率的かつ安定的な農業経営を育成し、・・・、農業経営の規模の
拡大その他農業経営基盤の強化の促進に必要な施策を講ずるものとする。」と規
定されているが、「必要な施策」とは何であろうか。

 本稿では、施設等ハードの整備もさることながら、畜産経営が「効率的かつ安
定的な農業経営」に発展するために、経営を取り巻く内外の環境変化に適切に対
応していく「環境変化適応力」、換言すれば「経営者マインド」の習得が何より
重要であると考え、個別畜産経営の発展過程をトレースすることにより、いかな
る「意思決定とリスクを負いながら」経営者が「企業者」参考文献〔1〕として
成長してきたのかを分析することにした。家畜飼養戸数が減少する中で、環境変
化適応力(経営者マインド)が、畜産経営の盛衰を分けるキーポイントになると
判断し、その習得システムの構築が今後の「必要な施策」の1つになるべきであ
ると考えている。

 この調査目的のために、日本経済の高度成長末期から安定成長初期の昭和50年
前後に就農した畜種の異なる3戸の個別畜産経営を対象にして、発達史をトレー
スし、環境変化適応力の習得過程を検証した。なお、この3戸は平成11年にも調
査しており、畜産経営の「定点観測による経営動向変化の把握」の意味も持たせ
ている(参考文献〔2〕)。



諸施策の主体的な導入決定と綿密な経営設計−Y酪農経営

就農前の状況(両親の意思決定によるトラクターの共同購入)

 Y氏が高校在学中、両親は酪農経営を営んでいた。両親が近隣の5戸の酪農家
と共に昭和50年度の農業構造改善事業でトラクターを共同購入し、飼料作物の共
同収穫作業を開始した。その農業構造改善事業は、国が50%補助し、残りの50%
を5戸の農家で負担したので、個人負担は10%となり、負担が小さい割には作業
能率が大幅に改善するなど多頭化に役立った。両親が意思決定して参加したこの
トラクターの共同購入事業が、Y氏が就農する直前の酪農経営基盤の強化に大き
く貢献した。


就農時の状況(19頭から開始した酪農経営)

 51年3月に高校を卒業し、熊本県草地畜産研究所で1年間畜産について研修を
受けた後、52年4月に就農した。その当時の経営形態は畑2.5ヘクタール(うち
借地1.0ヘクタール)、水田0.1ヘクタールの農地で飼料を生産し、集落内のつな
ぎ牛舎で19頭の乳牛を飼養して、年間約7万キログラムの牛乳を生産する畑作酪
農であった。農産物の販売額は年間500〜600万円あったが、両親は農閑期には土
木作業に出て、農外収入を得ていた。


結婚と32頭牛舎の建設(第1次転換点)

 54年に結婚し夫婦で相談して、その年に32頭牛舎を農業構造改善事業で建設し
た。その牛舎は当時のモデル牛舎で立派なものであったものの、集落内の自宅の
横に建設したので、後日、集落の混住化等に伴い畜産環境問題が懸念される原因
となった。


コーンハーベスタ−の導入によるサイレージの質の改善と牛乳生産枠の購入に
よる北海道からの初妊牛の導入(第2次転換点)

 58年に農業構造改善事業によりコーンハーベスターを導入した。それ以前は
チョッパー型フォーレージハーベスターであったが、導入したコーンハーベスタ
ーにより、トウモロコシの筋播きと筋刈りが可能になり、サイレージの質が改善
された。

 当時は、生乳の生産調整が厳しい時期であったが、54年に建設した32頭牛舎を
乳牛で満杯にするために、熊本県内における生乳生産枠の確保を図り、北海道か
ら初妊牛を導入して、一気に多頭化を達成した。


集落からの移転と畑中でのフリーストール牛舎・パーラーの建設による多頭化
(第3次転換点)

 54年に建設した32頭牛舎は集落内に建てられており、また、集落内で無家畜農
家や非農家が徐々に増加したために、畜産環境問題が懸念されるようになってき
た。本人に向かって直接批判する住民はいなかったものの、周囲を気にしながら、
肩身の狭い思いをして集落内で酪農経営をするのをいさぎよしとせず、平成4年
に、集落から畑中への牛舎移転を決意した。

 しかし、畑中の牧場から出る排水の流入先の集落からの同意が簡単には得られ
ず、移転に一年を要した。5年11月にようやく牧場の移転が可能になり、70ベッ
ト付きフリーストール牛舎と4頭ダブルでパラレルのパーラーを建設した(自宅
は現在も集落内にある)。この現在地への牧場の移転と牛舎・パーラーの建設が、
その後の経営のあり方を規定する最大の意思決定であった。

 だが、集落内の32頭牛舎の時は、搾乳牛1頭当たり9,500キログラム、全体で
年間約30万キログラムの生乳を出荷していたが、現在地に移転し、70頭のフリー
ストール・パーラー体系になってから、年間乳量が1頭当たり8,000キログラム
に低下するなど生乳生産量が減少し、一時、環境変化の悪影響と規模の不経済に
直面して、経営困難に直面した。また、ふんをスクレイパーで集め、尿とともに
ふん尿だめからバキュームカーで吸い取る計画であったが、硬くて吸い取ること
ができず、水を加えるなどふん尿処理でも苦労した。

 この時期は、将来の夢の実現に向かって希望にあふれた時期であったが、生乳
生産とふん尿処理の両面で行き詰まった苦難の時期でもあった。だがY氏と奥さ
んとの努力により、牛がフリーストール・パーラー体系に徐々に順応し、生乳生
産が回復してきた。


たい肥処理施設の整備による完熟たい肥の順調な販売と窒素の経営耕地内過剰
蓄積の回避(第4次転換点)

 8年に熊本県の県単事業により、固液分離機、ホイルローダー、ダンプ等を導
入し、たい肥舎を建設した。総額2,700万円を要したが、県が50%、町が25%補
助したので、個人負担は25%であった。

 この県単事業はたい肥の生産者であるY氏とたい肥の実需者であるメロン等を
生産する耕種農家4戸が連携して、たい肥の流通を円滑化する事業であった。こ
れによりY氏は良質たい肥の生産が可能になるとともに、完熟たい肥の順調な販
売によってたい肥を経営外に出すことができるようになり、経営耕地内の窒素の
過剰蓄積を回避することが可能になった。一方、耕種農家は完熟した良質たい肥
を安価に安定的に入手することが可能になり、メロンなどの減化学肥料栽培がで
きるようになった。耕畜連携のモデルケースとなった。さらに、現在では、たい
肥の販売先として、この4戸以外に花、タバコ、メロン、アスパラガス等を生産
する耕種農家20戸が確保されている。

 たい肥の1トン当たり販売価格を見ると、事業組織内の4戸の耕種農家に対し
ては5,000円であり、他の20戸に対しては6,000円になっている。年間約120トン
のたい肥が販売され、約80万円の販売額を得ている。しかし、経費を差し引くと
たい肥生産販売部門は赤字である。

 最近、たい肥は買い手市場になっており、完熟良質たい肥を生産しないと販売
が困難になっているので、たい肥の滞貨を回避するには、2週間に1回の間隔で
5時間(1カ月に10時間)かけて切り返しを行うなど良質たい肥を生産すること
が最も重要な作業となっている。それ以外に、季節的にコンスタントにたい肥を
販売するには、上記のような多様な作物を生産する耕種農家に対してたい肥の配
達を行うなどのきめ細かなマーケティングと円滑な人間関係を構築することが、
販売先を確保し、滞貨を回避する必要条件になっている。たい肥流通をさらに円
滑にするには、耕種農家がハウス内でもたい肥の散布ができる小型マニュアスプ
レッダーを導入できるように、畜産農家が有機農産物生産の重要性を指摘するな
ど側面から支援していくことが望まれる。


法人化による節税効果と詳細な経営状況把握および洞察力の醸成
(第5次転換点)

 8年に法人となった。その背景には、円高による飼料費の低減と収益増加が大
きく影響しており、節税効果を期待していた。法人化は、交際費の経費繰り入れ、
施設投資による償却費の増加に伴う赤字の繰り越しなど大きなメリットを発生さ
せたが、それだけにとどまらず法人化は節税対策の検討を通して、詳細に経営状
況を把握する契機となり、経営の展開方向を探る洞察力の醸成、経営者能力の涵
養に大きく役立った。


近代化資金による乾乳牛舎の建設とさらなる多頭化(第6次転換点)

 10年に、育成牛舎、飼料庫、カウハッチ置き場を併設した乾乳牛舎を、近代化
資金2,000万円を借りて建設した。それまでは、乾乳牛舎がなかったために、乾
乳牛と搾乳牛を一緒に飼養しており、搾乳牛の多頭化が阻害されていた。乾乳牛
舎の建設により搾乳牛の多頭化が可能になった。しかし、依然として育成牛の飼
養スペースが十分でなく、育成牧場に飼養を委託している。
【Y氏御夫婦と後継者】

長男の就農とコントラクター利用組合の設立および不耕起トウモロコシ栽培の
導入(第7次転換点)

 12年に高校を卒業して2年間県外研修(千葉県の牧場で1年間、種苗会社の牧
場で1年間の研修)を積んだ長男が就農した。それまで、アルバイトの労働者を
雇用していたが、同年からはY氏夫婦と長男の3人で営農することになった。

 この年にJAの地元支所にY氏らがかねてから要請していた農業機械銀行が設立
されたのを契機に、コントラクター利用組合を設立し、その組合長に就任してい
る。

 Y氏は、土地利用型酪農経営を営んでおり、10年から労働力不足のために10ヘ
クタール分のトウモロコシの収穫とサイレージ作りは、隣町にあるJAの支所のコ
ントラクターを利用していた。しかし、徐々に、大規模畜産経営が増加し、また、
多くの零細高齢農家が増加したために、コントラクター利用希望が増加して、隣
町のコントラクターを利用しにくくなっていた。そこで、JAの地元支所管内にコ
ントラクター利用組合を作る必要性が高まっていた。ちなみに、JA菊池管内には
6つのコントラクター利用組合があり、約900ヘクタールの農地での作業を受託
している。

 Y氏が組合長を勤める新たなコントラクター利用組合ではオペレーターとして
JAが3人の臨時職員を雇用しており、農家の方は多忙のためオペレーターになっ
ていない。コントラクターは水田の耕起、田植え、刈り取りを中心に行っている
ので、夏の作業が少なく、Y氏等畜産農家が依頼する夏のトウモロコシの収穫や
播種を喜んで受託している。コントラクター利用組合にとって、耕種農家の稲作
作業と畜産経営のトウモロコシ収穫・播種作業は補完関係にあり、オペレーター
の年間就業に役立っている。

 Y氏が委託する作業は、夏のトウモロコシの収穫とサイレージ作り、およびそ
の後のトウモロコシの不耕起播種である。まず、コントラクターがトウモロコシ
を収穫するとY氏がふん尿を散布して、その後、コントラクターが耕起せずに、
トウモロコシを播種する作業体系である。この不耕起播種により労働時間が大幅
に短縮され、コントラクター利用料金の節減と適期作業の確保が可能になった。
もちろん、トウモロコシの単収は耕起して播種した場合とほぼ同じである。

 夏の暑い時期の作業であるトウモロコシの刈り取りとサイレージ作りおよび播
種をコントラクターに委託することによって、Y氏一家は夏の乳量低下を防止す
べく、きめ細かな乳牛の飼養管理に専念できるようになっている。
【コンサイレージと後継者(中央)】


今後の課題

1 労働力の不足〜農業労働者の雇用と人事管理技術の習得〜

 現在、3人で12ヘクタールの耕地を利用して、飼料作物を栽培し、搾乳牛を
110頭、乾乳牛・育成牛・子牛を84頭飼養しているが、今後、さらに多頭化す
るには労働力が不足しているので、雇用を考えている。搾乳を行う朝夕の4時間、
一日では8時間が特に多忙である。ヘルパーは1カ月に1回しか利用できない状
態である。

 今後は、Y経営は法人化しているので、農業労働者を雇用し、長期安定的に就
労してもらうための人事管理技術の習得が不可欠になっている。

2 環境問題対策〜迫る宅地化の波の阻止〜

 牛舎のある現在地は、畑中になるので、今のところ明確な環境問題は発生して
いない。しかし、近くにコンビニエンスストア建設が予定されるなど、今後、農
地が転用され、宅地化する可能性があり、将来とも環境問題が発生しない保証は
ない。コンビニエンスストア計画予定地では、公共施設用地価格の5倍の買収地
価が提示されたとの噂があり、最近では、当該畑作地域でも農地を守る人より、
農地を転用目的で販売したい農家が多くなっている。農振地域を守る運動やゾー
ニング(注:地帯区分)による明確な土地利用長期計画の作成を求める運動の展
開が畜産経営の側からも不可欠な時代になっている。

3 連担した優良農地の集積と良質粗飼料の生産費節減

 現在の飼料作物の栽培面積は12ヘクタールであるが、これを20ヘクタールに拡
大し、現在1日当たり20キログラム給与しているサイレージを将来は25キログラ
ムに増加して、飼料費を節減したい意向である。集積した農地に不耕起栽培で粗
飼料を生産し、自給粗飼料の生産費の節減を図る計画である。そのためには、連
担した農地を牛舎周辺に集積することが不可欠である。そうすることが農振地域
内の優良農地を確保し、蚕食的な農地転用を防止する方策でもあり、ひいては環
境問題の顕在化を防止する方策でもある。


地域の信頼により周辺水田を利用集積 −M水稲和牛肥育複合経営

就農時の状況(第1次転換点)

 昭和43年3月に高校を卒業後、福岡県種畜牧場で1年間畜産の研修を積み、45
年5月に就農した。最初は乳雄37頭(父の代からの10頭を含む)の肥育から開始
した。増頭に際しては、管内農協の素牛預託事業を活用したので、自己資金が少
なくて多頭化が可能であった。M氏は4人の仲間と組織を作り、肥育牛に関する
経理は農協に委任している。この組織ではお互いが保証人なり、自己牛を持つこ
とと個人売買をすることを禁止して結束を固め、一人の倒産が他の経営に波及し
ないように経営情報を相互に開示し、相互に監視して、励ましあって経営を継続
している。

 M氏が就農するまでは、畜産よりも稲作を中心とする耕種農家であったが、M
氏の就農により、父が耕種部門、M氏が畜産部門というように部門別経営に転換
した。そのことにより後継者としての責任感を持つことができたのである。

 M氏は就農時に大型トラクターを購入し、兼業化しつつある周辺の農家の要請
により、水田の耕起作業を受託しており、就農時から周辺の農家から信頼を得る
ことができた。当時、農業労働力はM氏と両親の3人であった。


結婚とオイルショック時の逆転の発想による果敢な多頭化(第2次転換点)

 48年の結婚により農業労働力は4人になった。当時のオイルショックにより周
辺の多くの畜産経営が飼料費の高騰により、経営不振に陥り、肥育を中止する経
営が続出して、M氏に近隣の農家が肥育牛の購入を要請した。そこでM氏は逆転の
発想で依頼を受け入れ、この時期に一気に多頭化を図った。肥育牛の枝肉価格が
下落したので、肥育牛の出荷ペースが落ち、飼養頭数は一時期200頭にまで拡大
した。

 オイルショックによる物不足でセメントも無かったので、韓国からセメントを
購入して、手作りで牛舎を増築した。結婚して人手が増えたことと、オイルショ
ック時に一般の農家とは異なる逆転の発想で意思決定したことが多頭化の要因で
あった。

 やがて、49年になると肥育牛の枝肉価格が徐々に回復し、出荷のペースも以前
のようになってきたことから、飼養頭数は120頭に減少した。
【喫茶店風の休息室前の
M氏ご夫婦と筆者】

 
    
【牛舎の中のM氏ご夫婦】

コンバインとヘイベーラーの導入による周辺農家の水稲刈り取り作業の受託と
稲わらの確保および発酵たい肥施設の設置(第3次転換点)

 M氏は就農時から大型トラクターを駆使して、周辺農家の水田の耕起作業を受
託していた。周辺農家の高齢化、兼業化の進展、水稲刈り取り機の更新意欲減退
などにより水稲刈り取り作業の依頼が増加したので、50年にはコンバインを導入
して、稲刈り作業を受託するようになった。さらに55年にはヘイベーラーも導入
して、刈り取り作業を受託した水田での稲わらの収集を本格化させた。

 以前は人を雇って行っていた稲わらを結束する作業はヘイベーラの購入により、
省力化された。この稲わら収穫作業の機械化により、今までの作業料金目的の作
業受託から稲わら収穫を目的とした作業受託に切り替わっていった。しかし、後
述のように、この水稲の刈り取り作業の受託は、周辺農家の一層の高齢化、兼業
深化により全面受託へと展開していくことになる。

 54年には発酵たい肥施設を設置した。以前までは生ふんを自家利用していたが、
この施設の設置によってブロアーをかけることにより、また、ショベルローダー
で数度の切り返しを繰り返すことにより、発酵した完熟たい肥を生産できるよう
になって、販売が可能になった。1日約2トン、年間約700トンのふんが排出さ
れるが、これを処理して、自家で3分の1を利用し、3分の2を販売している。

 一般的に、たい肥は時期的に需要期と不需要期があるものの、M氏のたい肥は、
破砕したもみ殻を敷料に利用していることもあり、完熟良質たい肥であることが
耕種農家やガーデニングをする一般市民から高く評価され、滞貨することがない
ほど年間を通して順調に販売されている。むしろ、10月には耕作している水田に
還元するために、販売を抑制しているほどである。

 たい肥の価格は2トントラック1台当たり、市内が7,000円、市外が9,000円、
JA管外が10,000円で配達している。たい肥の実需者は、ほうれん草や春菊など
を栽培している野菜農家である。また、ガーデニングをする一般市民が牧場にき
て、自分たちで飼料袋に15〜20キログラムのたい肥を詰めて、100円払って持ち
帰ることができるような無人販売も行っている。M氏のたい肥は、需要に生産が
間に合わないほど順調に販売されている。
【M氏ご夫婦と順調に売れているたい肥】


多様な品種と自家配合飼料での肥育試験(第4次転換点)

 56年に、今まで肥育していた乳雄に加えて、褐毛和種、外国種、F1も導入
し、全体で180頭の多様な肥育牛の試験を行った。ある意味では、肥育する品種
を特定できない試行錯誤の時期でもあった。

 また、飼料については60年まで農協系統の配合飼料を用いていた。しかし、牛
肉輸入自由化を前にして、日本食肉格付協会の枝肉評価システムが変更され、従
来の高たんぱく、高カロリーの配合飼料では、1日当たり増体量を1.2キログラム
と高くすることはできるが、これでは、肉質を高めることができないと判断し、
低たんぱく、低カロリーで1日当たり増体量を1.0キログラムに抑制する自家配
合飼料に転換した。

 麦、大豆、トウモロコシの3つの飼料の多様な形状(圧ペン、フレーク、ぬか、
粉など)の単品を購入して、試行錯誤で自家配合飼料を開発して、乳雄でも時に
はB−5の枝肉を作ることが可能となり、自家配合飼料による肥育に自信ができ
た。


肥育品種の黒毛和種への特化と素牛情報のパソコン管理による素牛購入市場の
絞込み(第5次転換点)

 自家配合飼料を用いて乳雄でもB−5の枝肉を時には生産することができたこ
とが自信となり、それが契機となって平成6年には、全面的に肥育牛を黒毛和種
に切り替えていった。その後、現在まで黒毛和種の肥育が継続されている。

 黒毛和種は他の品種よりも肥育期間(20カ月)が長いため、肥育牛の回転率が
低くなり(年間0.6回転)、飼養頭数が多くなった。9年には毎月12頭(年間で
約150頭)を出荷する計画を立てていたので、常時250(=150÷0.6)頭飼養す
ることにした。

 肥育牛を黒毛和種に絞ってからは素牛情報をパソコンに入力し、個体管理を行
い、肥育終了後、農協の畜産センターに出荷後には枝肉情報を追加して、1日当
たり増価額などを基に、自分の経営に合った素牛市場を調べ出し、購入市場を絞
り込んでいる。M氏は素牛の生産者を選定することよりも、素牛の血統を重視し
ており、以前の10カ所の素牛購入市場から大分県内の2カ所の市場に絞り込んで
いる。

 だが、大分県の2市場から購入する素牛は全体の70%であり、他の30%の素牛
は宮崎県、鹿児島県、島根県、沖縄県などの市場から多様な血統の素牛を購入し、
肥育試験を行い、自分の肥育法にマッチした血統の発見に努めている。新たな血
統の発見のために、全国にいる農協関係者のバイヤーの発信する素牛情報を参考
にしている。素牛購入金額の1%を、情報の提供料も含めて、農協関係者に購入
手数料として支払っている。


周辺農家の稲作の全面受託と米の減農薬栽培および20ヘクタール分の
稲わら収集(第6次転換点)

 周辺の水稲を主体とする耕種農家の高齢化、兼業深化、米価下落、機械更新意
欲喪失等により、9年には、以前の耕起・刈り取りの部分作業受託から、水稲の
全面受託(借地)に切り替わってきた。全面受託の借地面積は3.2ヘクタールで、
これに所有地の1.8ヘクタールを加えて、合計5ヘクタールの水田で、6条植え
の田植え機、5条刈りの大型コンバイン等を駆使して、水稲の耕作を開始した。

 M氏が5ヘクタールの水田で丹精込めて生産している米は、除草剤を1回だけ
散布した減農薬米と、完全無農薬米の2種類がある。年間生産量はそれぞれ15ト
ン、5トンの合計20トンである。完全無農薬米は農協の定温倉庫で他の米とは区
別して貯蔵し、M氏の奥さんたちが経営している直売所の精米機を利用して、販
売時に精米して販売している。精米価格は1キログラム当たり390円(精米代別)
で特別に高いわけではない。これはM氏が多くの人に無農薬米を食べてもらいた
いと考えているからである。無農薬米には生産者名が分かるようにシールを貼っ
ている。M氏の名前は既に信用を得ていて、無農薬米は順調に販売されている。
また、除草剤を1回散布した米は農協に普通米として出荷している。M氏が減農
薬米や無農薬米を生産するのは、5ヘクタールの水稲に従前のように約7回も農
薬を散布すると自分の健康を害することにも配慮してのことである。農薬を多投
するよりもたい肥を多投(10アール当たり4〜6トン)して、健康な稲(収量は
10アール当たり8〜9俵で、近隣の一般栽培と同程度)を生産することをM氏が
心がけている結果である。このようにたい肥を多投した減農薬米や無農薬米の生
産が可能になったのは、M氏が肥育経営を行い、たい肥を存分に利用できる立場
にあるからである。これは、水稲和牛肥育複合経営のメリットであると指摘でき
よう。

 250頭分の稲わらを周辺の20ヘクタール(自己耕作地の5ヘクタールと周辺の
水田15ヘクタール)から、収集している。周辺の水田は車で5分ぐらいの近距離
なので、稲わらの確保は容易であり、ロールベーラ、ラッピングマシーン等を用
いて自分で収集している。15ヘクタール分の稲わらについては、10アール当たり
2トンのたい肥との交換で収集している。15ヘクタールの水田にマニュアスプレ
ッダーを用いて1回でたい肥を散布するのは労働の配分から困難であるので、2
回に分けて作業を行っている。こうすることによりたい肥のストックも半分の量
で済み、労働ピークを分散することができるようになった。


今後の展望

 平成13年には、270頭に多頭化している。当面、法人化する予定はないが、娘
婿(大手企業の会社員)が将来、経営を引き継ぐ意向があれば、その時検討する
こととして、枝肉価格が伸び悩む中で、現状規模を維持しながら、地域の経営環
境変化に対応して、水稲和牛肥育複合経営のメリットを最大限に引き出す努力を
日々続けている。


労働力の不足を輸入粗飼料で補完−N乳雄肥育経営

就農時の状況(第1次転換点)

 昭和51年に高校を卒業し、すぐに就農した。当時は両親が屋敷内で肥育を行い、
また、ぶどう(巨峰)の栽培も行っていたが、N氏の就農に合わせて後継者育成
資金を600万円借り、70頭の乳雄肥育牛舎を家の近所に建てた。それに伴いぶど
うの栽培を中止した。労働力は両親とN氏の3人である。水田面積は0.5ヘクター
ルしかなかった。
【輸入粗飼料利用で労働が軽減されたというN氏】


新たな牛舎の増築と結婚(第2次転換点)

 56年に父と共同で70頭牛舎の側に120頭牛舎を増築した。費用は4,000万円で、
制度資金および県単補助等を利用したため、自己負担は50%の2,000万円であっ
た。飼養頭数は190頭になった。59年に結婚し、労働力は4人になった。


周囲が水田である現在地への牧場の移転と新たな牛舎の増築(第3次転換点)

 道路拡張工事のために、63年に120頭牛舎を壊さざるを得なくなったので、そ
れを契機に周囲が水田である現在地に牧場を移転した。その際160頭牛舎を増築
した。70頭牛舎はそのまま屋敷内に残っていたので、全体の頭数は230頭であっ
た。移転した土地は酪農家の離農跡地であったので、酪農牛舎を改築して、たい
肥舎とした。

 また、平成元年に110頭牛舎を、さらに、2年には160頭牛舎とたい肥舎を増築
した。全体の頭数は500頭になり、この当時が飼養頭数のピークとなった。

 5年には、たい肥舎を新たに建設した。当時は、牛舎の床を乾燥させる大型フ
ァンがなかったために、ふんを頻繁に交換する必要があり、その分、たい肥舎の
スペースを確保しておく必要があったのである。


両親のリタイヤに伴う稲わらから輸入粗飼料への転換(第4次転換点)

 10年に両親がリタイヤしたので、飼養頭数を430頭に減らし、また、今まで両
親の支援を受けて確保していた稲わらの収集が困難になったので、海外から購入
した粗飼料に依存せざるを得なくなった。

 稲わらから輸入粗飼料に転換した理由は労働力の不足以外にもある。例えば、
ロールベールされた稲わらを利用するには、稲わらを解き、稲わらを裁断する必
要があるが、その時にほこりが出るので、それを大量に吸い込み健康に害がある。
夏は暑いのでマスクをすることができず、特に、問題がある。また、乳雄の肥育
であるので、あまり肉質にこだわる必要がなく、高価な国産稲わらを利用するの
は、経営的に不利になるなどが指摘できる。

 さらに、秋に一度に集めなければならない稲わらを保管するための倉庫の増築
が必要になり、また、倉庫を増築するための土地や資金の確保も必要になる。稲
わらと交換したたい肥散布が、混住化が進んだ周りの民家の苦情の対象になる。
一方、輸入飼料は必要な時に必要な量を購入すればいいので、保管のための倉庫
のスペースも必要ない。また、以前のように天候を気にしなくてよくなった。輸
入乾草は短く裁断されているので、自分で裁断する必要もなく、ほこりを吸込む
危険性もない。

 口蹄疫の発生以来、輸入粗飼料から国産稲わらへの転換が叫ばれているが、国
産稲わらの利用には上記の種々の問題点があることも事実であり、国産稲わら利
用促進には、これらの問題点の解決が不可欠である。

 以上のような理由により、N氏は稲わらの収集をあきらめ、海外の購入粗飼料
に依存することになったのである。購入粗飼料は、オーツヘイをオーストラリア
から1キログラム当たり30円で、また、イタリアンのストローをカナダから27円
で、地元のJAを通して購入している。
【完熟化を促進するために
北海道から導入されたN氏の除雪機】


今後の課題

 N氏は奥さんと2人で430頭の肥育牛を飼養しているので、何かの支障(冠婚
葬祭、病気、将来の両親の介護等)があると労働不足に直面する。それは他人の
牛舎での肥育には技術的困難さがあるからである。乳雄肥育牛経営は多頭経営が
多いので、何か家族労働力に支障があると経営中止に追い込まれる危険性を内包
している。

 個人的に人を雇う余裕がないので、家族労働力に支障が発生した場合の互助組
織を肥育牛経営でも構築するか、肥育牛経営も参加できる新たな畜産ヘルパー組
織の創設が必要になっている。
【休息室のN氏ご夫婦】

むすび

 日本の農業者は「単なる業主」であり、革新性に乏しく日夜同じ仕事に終始す
る自立性の欠如した農業者であるとの議論があるが参考文献〔3〕〔4〕、上記
の3事例の経営者は決して「単なる業主」ではない。行政が講ずる諸施策を巧み
に主体的に経営に取り入れ、また高齢化により農地集積が容易になっている地域
経済の変化、取り扱いが容易な輸入粗飼料の活用、コントラクターや不耕起栽培
技術の変化等の経営をめぐる内外の環境変化に適応して、大きく発展してきてい
る。それらの環境変化適応力は天与のものではなく、家族で特に夫婦で協力して
徐々に習得したものである。その結果、現在では3事例の経営者は「経営感覚に
すぐれた経営者」に成長していることが明らかになった。

 今後、さらに国際化や市場メカニズムによる価格形成、高齢化等が進展し、経
営をめぐる内外の環境変化は激化することが予想されるので、環境変化適応力を、
次代を担う若い経営者に短期間に習得してもらうシステムの構築が重要になる。
今後、講じられる畜産経営政策の中心に、環境変化適応力習得システム(アグリ
ビジネススクールなど)が位置付けられることを期待している。

参考文献

〔1〕高橋正郎「経営環境の変化と農業経営における企業者」
   金沢夏樹等編集『農業経営者の時代』農林統計協会、2001年。
〔2〕甲斐 諭「大規模畜産経営における経済性追求と環境保全の両立課題」
   『畜産の情報(国内編)』1999年9月号、1999年。
〔3〕東畑精一『日本農業の展開過程』岩波書店、1936年。
〔4〕金沢夏樹「農業経営者の時代」金沢夏樹等編集『農業経営者の時代』
   農林統計協会、2001年。

《追記》

 3事例の畜産経営では、11年の調査の時と同様に、長時間、御夫婦で筆者の
インタビューに応じて頂き、貴重な御意見を賜った。記して、感謝の意を表し、
さらなるご繁栄を祈念致します。

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