東京大学大学院 農学生命科学研究科 教授 吉川泰弘
(本稿は平14年1月15日農林水産省で講演した内容をベースにした。)
プリオン病は基本的には感染症である。しかし、このことは簡単には受け入れ られていない。普通の感染症と同じように考えようという気運がなく、つい摩訶 不思議な病気であるという方向にいってしまう。これには一般的なものの考え方 が受け入れにくい、いくつかの理由があるからである。 第1は人のゲルストマン・シュトロイスラー・シャインカー病(GSS) (Gerstman Stra..ussler Scheinker disease)や致死性の FFI(Fatal Familial Insomnia)(致死性家族性不眠症)といった、 人のプリオン蛋白の異常を伴う遺伝病があるが、これは、その患者の脳を他の動 物に接種すればプリオン病が伝達できる。いわば遺伝病でありながら感染症であ るという、とてつもない、今までの常識では考えられない側面を持った病気であ るということ。 第2は病原体がDNAもRNAも持っていない蛋白質そのものであり、異常に折り 畳まれた蛋白で、ホルマリンにせよ塩素にせよ普通の消毒や熱では簡単に不活化 出来ないという異常性を持っていること。 第3は、かつてプリオン病はスローウイルス感染症群の中に入れられていたよ うに、数年あるいは十数年に及ぶ非常に長い潜伏期間を持って、中枢神経での感 染が進行し、発症すれば100%死亡するという異様な性格を持っていることであ る。 このため、普通の身の回りに有るような一般的な感染症と違い、別のパラダイ ムを入れなければならないのではないかという考え方が随所に出てきて議論が混 乱することになる。そこで、BSEを普通の感染症論で考えてみたいというのが、 私の言いたいことの全てである。 BSEを感染症として考えた場合、3つの重要な要素がある。 @ 感染症は、流行時のアウトブレイクが突然起こるように見えるが(図1)、 実際には、目に見えて離陸する前に、潜行する部分があり、いったん立ち上が ると、それはどの感染症でも指数関数的に増えるので、突然アウトブレイクし たような印象を受ける。 ◇図1◇ A 指数関数的に上がっていく最大の理由は、そこに必ず宿主と感染因子のポジ ティブループ(回路)が存在するからである。このポジティブ回路がなければ、 こういう指数関数的な立ち上がりは起こらない(図2)。人でプリオン病が経 口感染でポジティブ回路に入った1つの典型例は、パプアニューギニアのフォ ア族のクールーである。 ◇図2◇ B 他のウイルス感染症でもそうであるが、種を越えて病原体が伝播するという 事態が起こる。その時には一般的に“種の壁”という言葉があるように、伝播 のし易さには2つの要素がある。1つは、Aという宿主とBという宿主の遺伝 的な近さである。遺伝的に近ければ病原体は比較的簡単に種を越えることが出 来る。もう1つは同じ病原体であっても、伝播経路によってそのバリアーをな かなか越えられなかったり、簡単に越えてくるという要素がある。図3のBSE の場合、バリアーが高い(ハードルが高い)ほど、伝播しにくいと考えられる。 ◇図3◇ BSEの由来については種々の説があるが、羊、牛、人と3つの種にわたって伝 播したとすれば、羊で伝播していた時があり、それがおそらく肉骨粉を介して種 の壁を越えて牛に来た。牛の中では、代用乳と飼料を介して、牛から牛のポジテ ィブ回路にはいり、英国で爆発的なアウトブレイクのレベルに到ったと考えられ る。図3での飼料と代用乳で、ハードルの高さが違うのは、同じ肉骨粉であって も、代用乳の方が伝播しやすいからである。 理由の第1は、代用乳の方が蛋白源としての肉骨粉の含有率が高い。第2は、 おそらく新生仔の方が初乳を含めて腸管から未消化の大型タンパクを取り込みや すいという機構があるので、飼料から伝播する場合よりも、代用乳の方がバリア ーが低いということである。 次に牛から人に対しては食品から伝播されるケースと医薬品から伝播されるケ ースがある。食品より医薬品の方が、直接体内に投与するので、経路としては伝 播しやすい。口から入る方が、ある意味ではバリアーが高い、逆に言えば高い濃 度の汚染がなければ伝播しにくいということである。
人から人への場合は、臓器移植や輸血というケースが考えられる。 最初にBSEの対策から話を始めたい。前述のとおり感染症の伝播に3つの要素 がある。即ち、@アウトブレイクが突然起こるように見えて、実はその前に潜行 期という、離陸する前の流行がある。A次にアウトブレイクが起こるには、必ず 何らかのポジティブの回路がなければならない。Bさらに、病原体が色々な種を 巻き込むためには、種の壁を越えて伝播する必要がある。 対策は、この3つの要素を絶つことにつきる。 牛から牛への伝播は肉骨粉を介して図4のaのポジティブ回路がある。種を越 えて今度は牛から人に食品等の経路で入る。人では輸血あるいは臓器移植という 形で、人から人へのポジティブ回路が理論的に存在する。 ◇図4◇ TSE(伝達性海綿状脳症)を農水省が家畜伝染病予防法の対象に加えたのは96 年4月である。届出対象として牛、水牛、羊、山羊が同法の対象になった。 結論から言うと、BSEの根本対策というのは図4のaと、図4のbおよび図4 のcのそれぞれの回路を絶つということが、一番の基本である。この回路を断っ てしまえば、先ほどのようなアウトブレイクは絶対に起こらない。特に、肉骨粉 の使用停止ということは一番基本になるポジティブ回路を止めるわけであるから、 そういう意味では最も本質的な根本的対策ということになる。 肉骨粉に関しては農水省は96年に使用自粛通達を出した。反すう動物への使用 禁止が2001年9月で、10月に全面的使用禁止となった。 食品に関しては、2001年10月から全頭、脳、脊髄、眼等のハイリスクの臓器に ついては廃棄する。それから、全頭のと殺時の検査を義務づけた。 医薬品に関しては、英国の牛由来の医薬品の輸入、製造の禁止が96年。ハイリ スク国の牛由来材料の使用禁止が98年。昨年BSEが日本で確認された後、すべて の牛のカテゴリーT、U、要するに危険組織由来材料は禁止された。さらに、そ の後規制を厳しくし、安全なもの以外使わせないということで、低リスク国由来 の牛のカテゴリーV、W、血液とか筋肉といった汚染の可能性の少ないものだけ を使用可能とするという方策になった。 さらに人から人へのポジティブ回路に関しては、99年12月に、英国に80年から 96年の間、6カ月以上滞在した人からの輸血を禁止したが、2001年3月に、英国 以外に、フランス、ドイツ、スイス、アイルランド、ポルトガル、スペインに6 カ月以上滞在した人の献血と臓器提供を禁止した。万一のことがあっても、ルー プを止めるという方策を取っているわけである。 表1 年表 日本のBSE対策
普通の感染症であれば、これだけの措置を取ると、そこで流行が終焉して効果 が目の前に出てくる。しかし、この感染症はそうではない。これが一つの、混乱 を招く理由になっている。BSEは非常に潜伏期が長いことから、対策を取ったと しても、時差からプログラムが有効に進行していかないという矛盾が起こる。 2001年10月にBSEの考えられる伝播ルート、すなわち牛でのポジティブ回路、 牛から人への伝播経路、人でのポジティブ回路の全てを絶った。 大事なことは、今回取ったポジティブ回路と種の壁を越すというポイントが完 全にブロックされたという意義である。この対策の意義が本当に理解されないと、 不測の事態(パニック)はいつでも生じることが予想される。 従って、これから何が起こるかというと、全て、これは過去の負の遺産がこれ から出現するわけである。時間的なズレ、タイムラグを理解する必要がある。 潜伏期間の長い感染症はこのような特徴を持っている。現時点ですべての回路 を断ったとしても、過去に起こったことがこれから出てくるわけである。一見、 対策を取ったにもかかわらず事態が改善されていないという、表面の現象が出て くるわけである。 昨年、一時パニックになったが、基本的にパニックというのは、これからどん なことが起こるか予想できない不安が拡大される反応である。ところが、日本に おけるBSEの流行に関しては、既に英国でここ15年ぐらいにわたる膨大な被害を 被った経験・データが有るわけである。さらに、EUの構成国がそれに続いてB SEに巻き込まれるというモデルが存在しており、シミュレーションが実際には 可能である。 従って、そのシミュレーションを使えば、今後どういうことが起こるかという 予想は可能であり、その予想さえ出来れば、パニックに陥る必要はない。パニッ クの最大の理由は、科学的な、質の高い情報が伝わらなかったということではな いかと思う。 牛の場合は、なんと言っても英国に膨大なデータがある。86年にBSEの初発が 確認され、88年に感染の拡大要因は肉骨粉だと言うことをワイルスミスが疫学的 に発表し、その後規制が始まった。 しかし実際には規則は守られず、92、93年に年間4万頭という発症のピークを 経て、これは深刻な問題であるということが生産現場でも、行政でも認識されて きた。96年英国政府はvCJDが新しく出現し、BSEから来た可能性があるというこ とを正式に発表した。この段階で英国はパニックになると同時に、餌の規制強化 が徹底された。 発症確認例数は、図5のカーブとなっている。92、93年、約4万頭のピークが あり、2001年現在、総確認数が約18万頭、最終的に20万頭ぐらいまで公式確認さ れる可能性がある。 ◇図5:ウシの場合 英国モデル BSE確認症例◇ この発症した牛が汚染した牛の全てではない。一般的に公式確認の4、5倍が 汚染しただろうと考えられている。英国でのここ15年間の総数では80万から100 万頭の牛がBSEに巻き込まれていると考えられる。疫学的にみて平均潜伏期間は 5、6年となる。 その仮説をとって英国の肉骨粉の汚染がどうなっていたかを見てみる。 だいたい初発例をさかのぼること5、6年であるから、80年頃汚染した牛が発 生し、それがポジティブの回路に入って飼料に入っていき、汚染率が上がった。 88年に、ある程度、自国での飼料への規制を始めた。これにより、肉骨粉の使用 は徐々に下がり、96年で殆ど使われなくなった。 これが、使用量の大きな流れであるが、その中の汚染が一定の率で増加し、90 年頃の時点で殆どピークに達している(理論的汚染率はピーク時で12.5%程度)。 この後は絶対的使用量が減っていることから、汚染飼料のカーブが図6のように グラフに書ける。 ◇図6:英国肉骨粉の生産量◇ 図5のカーブと図6のカーブが、ほぼ5年のズレを持って一致してくるという ことから、肉骨粉の飼料への使用が牛から牛への感染経路の基本になったと考え られている。 英国の場合は、最初の発生国と言うこともあり、後手に回ってしまった。後半 のバイアスのかかった部分を除けば、ほとんど自然発生的なものだということに なる。これに対して、EUや日本はもう既に英国の情報を持っていたわけで、あ る程度有効にバイアスがかかっている。従って、モデルとしては、EUの高汚染 国をモデルに使った方が信頼性は高いが、有効な規模の大きさや時間経過に伴う データは英国の方に膨大なデータがあるので、必要な部分は英国のモデルを使っ て計算をしている。 EU高汚染国モデル まず、英国以外のEUの高汚染国はどうなっているのかを考える。 英国からの肉骨粉・臓物等の輸出の公表資料を見ると、英国は、自国で40万ト ン程の肉骨粉を生産し、その一部を輸出していた。88年頃から自国での使用を減 少させ、だいたい96年頃で使用を完全に終えた。ここで英国が肉骨粉をどこにも 出さなければ問題は起こらなかったが、実際には自国で使わない部分をEU諸国 に輸出した。EUも自国でのBSEの発症からその危険性を認識し、輸入を禁止し たため、今度は英国からEU以外の国々に肉骨粉の輸出が始まった。これがおそ らくEUとEU以外でのBSEの発症の原因と考えられている。 ◇図7:英国以外のモデル 英国から肉骨粉・臓物などの輸出◇ EUでも2つのグループがあり、フランス、アイルランド、ポルトガル、スイ スはEUの中でも高汚染国で、英国でBSEがピークを過ぎる頃から自国でBS Eの牛が出始めて問題になっている。 この4カ国を1カ国ずつ見るのは細かなデータが手に入らず、困難なことから、 4カ国をまとめて1群として扱った。 英国からEUに輸出された肉骨粉の変動を描くと図8ようになる。前述したよ うに、80年くらいから英国で肉骨粉の汚染が始まった。それを外挿すると縦線の カーブで汚染肉骨粉がEUの高汚染国に入っただろうと思われる。これを概算す ると大体7〜8万トンの汚染肉骨粉が輸出されたと考えられる。 ◇図8:4カ国(フランス、アイルランド、ポルトガル、スイス)への 汚染肉骨粉輸出量推計◇ 表2 4カ国(フランス、アイルランド、ポルトガル、 スイス)への汚染骨粉輸出量推計 一方、4カ国合わせてBSEが出た状況を見ると図9のようなパターンになる。 2000年でBSE確認数が高くなったのは、これまでは発症牛の数で公表していたが、 同年の後半から、 ELISA法やウエスタンブロット法を使ってアクテイブ・サー ベイランスに入ったためである。発症していなくても検査するシステムに変わっ たために、一気に数字が上がった。 ◇図9:EU高汚染国でのBSEの発生確認◇ 英国の例のように、発症確認数の4〜5倍が汚染されていると考え、データを 補正すると、図の破線カーブとなる。汚染肉骨粉の輸入量と対応する形になるよ うに牛が陽性確認されている。このカーブを概算して見ると、陽性数は2,000〜 2,500頭位確認される可能性がある。総汚染頭数は推計では、5,6千頭と見込 まれる。 これ以外のEUの国々は低汚染国で、デンマーク、スペイン、その他の国では、 2000年、2001年になって数頭のBSEの出現が報告された。 日本のBSE牛発生数の推定 次に、英国、EUの高汚染国の例を基に日本も肉骨粉汚染があったとし、確率 論的に計算してみた。 日本の肉骨粉の汚染度の数値が不明であり、どの時期に製造され、ストックさ れた肉骨粉が日本に輸出されたか不明なので、平均化して推測した。 @ 英国の肉骨粉汚染度をラフに考えると86年〜96年までの10年間に年100万頭 ずつ解体されたとして、計1,000万頭。そのうち、汚染牛が100万頭とし、公式 に確認された約20万頭というものはBSEと診断されたから、再利用から除外し、 残り80万頭が再利用されたことになり、危険率は1,000万分の80万となる。こ れは1万分の800という簡単な数字になる。 A EUの高汚染国をモデルに考えると、汚染の始まった93年から2000年まで、 フランスなどを含め4カ国で年間合計500万頭ずつ解体され、7年間で計3,500 万頭となる。推定汚染牛数が5,000〜6,000頭で、公式確認数が1,700頭だから これを除いて計算した危険率は3,000〜4,000/3,500万となり、危険率は1/1 万となる。 要するに、同じ肉骨粉でも、英国とEUの高汚染国の危険率の比は800対1と いう差になる。 ここで、日本の英国からの肉骨粉の輸入量が最初約300トンという数字があっ たので、この数値を採用し、EU高汚染国モデルを使うと、300トンで20〜26頭 という発生数になる。 *(5〜6千頭/7,5万トン:X頭/300トン) 今後30頭以内で終わるだろう。あるいはどんな対策をとっても30頭は出ると推 計した。その後、英国がデータミスを認めた。肉骨粉を日本には輸出していない ことになった。 これまでの調査ではイタリアを中心にEUから肉骨粉が輸入されていたとされ た。EUの高汚染国等から7万〜10万トン肉骨粉が輸入されたとすれば、英国と 高汚染国の危険率の差800分の1を掛けると、英国の危険率換算で汚染肉骨粉は 90〜125トンとなり、発生頭数は7〜10頭となる。 EUの高汚染国は英国と近く、物資の流通頻度も日本とはかなり違うので、こ うした要素を考慮に入れれば、もっと低い数字になる可能性がある。 データにズレがあったとしても、桁数が変わるほどの違いにはならないと考え られる。 悲観的シミュレーション これまでは楽観的なシミュレーションであり、悲観的シミュレーションならど うなるかという意見がでる。 悲観論では最大の危険率であるから、年間肉骨粉使用量に6年間(96年から20 01年)を掛け、このうち国内産の肉骨粉、これは汚染初期で止めたのでほとんど 汚染が考えられないとし、この数量と、EUからの輸入数量(前述)、それとBS Eがほとんどないオーストラリアや米国のような清浄国からの 輸入量を差し引い た数量が全てクロと考えた場合が最大の危険率となる。 どういう時期にどの程度輸入されたかがわかればもっと正確な数字になるだろ う。しかし、どう考えても何千頭、というオーダーで出るはずはない。 ヒトの場合 今までは牛の場合であるが、ヒトの場合はどうか。ヒトの場合は、英国モデル でも充分なシミュレーションをするほどの年限が経っていない。 しかし、現在、分かっていることから類推すると、BSEの発症を86年、5年〜 6年の潜伏期間を考慮すると、80年代の初期に種を越えて羊から牛に入った。そ の2〜3年後から牛が伝播のポジティブ回路に入り、90年代に爆発的になってい った。 それに対して、96年に英国政府がvCJDを報告している。95年に初発例(1例) が出た。その後、増減はあるが、年に大体20%ぐらいずつ増加して、2001年6月 の時点で英国で102人となっている。少し凸凹はするが図10のようになっている。 ◇図10◇ 潜伏期間は短くて10年と考えられる。 汚染された牛由来の臓器を食用に使用したことで、ヒトに感染が起こったとす れば、基本的には、先ほどの牛のパターンが、ヒトにずれ込んでくるという図を 考えるのがもっとも素直である。 しかし、種の壁を越える時のハードルがあること、牛の場合と違って人から人 へのポジティブ回路が絶たれていることから、爆発的な立ち上がりは無く、こう したスローカーブで行くであろうと思われる。 爆発的な拡大がなく、牛から10年ずれて同じようなパターンを描くとすると、 大体250人くらいの発症が予想される。ただしこれは、vCJDの場合、129番目の プリオン遺伝子のコドンが、メチオニン/メチオニンのホモのタイプのヒトの発 症パターンである。次いでバリン/バリンというグループが発症し、おそらくメ チオニン/バリンの場合は一番潜伏期間が長いであろう。こういうグループが遅 れて発症して来るとすれば、総数は500人くらいか、あるいは3つの遺伝子グル ープ全ての人達が同率に発症すれば750人という数になる。 オックスフォード大のグループは、平均潜伏期間が20年以下であれば、大体1, 300人位と推計している。 今、分かっているデータを基にして計算すると、英国では80年から96年まで に約75万頭のBSE牛が食用にまわされたと推定される。英国での発生はやや自然 発生的であるが、EUと日本は、英国の例をみて早くから規制を導入しており、 かなりバイアスが入っている。同じ状況では無い。素直に考えれば、日本はそう いうバイアスを掛けた分、ヒトへの伝播率は英国のケースより低いと考えられる。 しかし、そのようなことを考慮に入れないで単純比例計算をしてみた。 BSE牛は、イギリスで75万頭が食用にまわって、おそらく、vCJDの患者が500 〜1,300人出てくるだろう。EUの高汚染国ではBSE牛は5〜6千頭。食用に廻っ たのは3〜4千頭と考えられる。 日本の場合は、牛の推計で7〜10頭と考えれば、単純計算としてvCJDの確率は、 0.005〜0.007人と推定される。 要するに、日本のBSE牛を不幸にして食べて、vCJDになる確率は、ほとんど0 に近いと考えられる。 ただし、英国やEUの高汚染国に80年以降、この流行の頃に長期滞在したヒト は英国人と同じ危険率を持つわけである。そういうヒトが帰国してから、日本で vCJDになる可能性は否定できない。 表3 BSEとvCJDの発生予測
今まで述べてきたこととは逆に、BSEに関連して、これから日本で起こらない ことを確認しておく必要がある。 日本は2001年10月に考えられるBSE伝播ルートを全て絶ったわけである。今後 起こることは、全て過去の負の遺産が、出てくるというものである。予想される 範囲として数頭〜数十頭のBSE牛が、最大2010年頃まで、検出される可能性はあ る。 しかし、BSEを発症していてもいなくてもBSE検査で検出されるから、また、肉 骨粉としての再利用を禁じているので、最初に考えたようなポジティブ回路とい うものはあり得ない。従って、散発的に検出されることはあっても、流行として はそのまま(起こらずに)終わるわけである。英国のような、感染症の離陸(ア ウトブレイク)というものは起こらない。 またEU同様に危険部位の臓器は廃棄処分している。陰性の個体のみ食用にま わしており、今後BSEの牛からヒトに、種を越えて伝播することは起こらない。 ヒトのケースであるが、日本で汚染された牛からvCJDがでるということは考え られない。しかし、先ほど言ったように、英国あるいはEUの高汚染国で感染し、 日本でvCJDを発症する可能性は否定できない。 感染症論でヒトのプリオン病を考えると、先進国を含め孤発性CJDは世界中に ある。疫学的には100万人に1人、日本でも毎年、新たに100人位の孤発性CJDの 患者が発病し、発症して半年から1年くらいの期間で亡くなっている。 もし、vCJDの患者が日本で1人出たらということであるが、公衆衛生上どうい う問題が新たに起こるかということを考えてみると、「実はなにも非常事態は生 じない」というのが私の結論である。高汚染国長期在住経験者の献血も、臓器移 植提供も禁じているから、ヒトからヒトへのポジティブ回路は動かない。確かに、 発症した患者さんは大変であるが、統計的には日本でプリオン病患者の数が1% 増えるだけである。実際にヒトからヒトへのポジティブ回路を絶っているわけで あるから、それ以上でも、それ以下のものでもないということである。 そうするとvCJDの患者さんを探したり、非常事態のようにセンセーショナルに 報道しても、感染症論の立場からすれば決して事態の解決になるものではない。 むしろ事態を混乱させるだけのものという気がする。 BSE検査と情報公開 BSE検査が行われることになったが、この検査の公表に関して、風評の被害と 情報公開の議論が騒がしかったので一言言及する。 新しい検査システムは、牛の延髄をスクリーニングをすることを基本にしてお り、検査方法は3つある。 ELISA法は96穴のプレートの色の濃さだけで、一次元情報だけだが、非常に感 度は良く、判定時間も短い。 ただし、精度の確認が難しい。1次スクリーニング向きである。 ウエスタンブロット法は、平面上に3、4本のバンドが出て、本数と太さにパ ターンがある。情報量が非常に増えて、精度はかなり上がる。しかし、感度は中 程度で、濃縮すれば感度が上がるが、ELISAに比べたら感度が悪い。やや時間が かかる。精度が高いけれど操作が複雑で、ある程度熟練がいるということで確定 診断向きである。 ゴールデン・スタンダードは組織検査、免疫染色である。空胞変性、異常プリ オン蛋白の沈着は2次元画像であるから非常に精度が高いが、感度は必ずしも高 くない。数日を要して、特別な施設と設備、技術が必要ということで、最終診断 向きになる。 こういう違う診断方法がある。このようなことを無視して無理矢理最初にこと が動いてしまったことが問題であった。 ELISA法は、初期の場合は1%、慣れても0.1%の疑陽性がでる。これはシス テム上起こる誤差である。 例えば、年間100万頭の牛を全国200の検査所で調べることを宣言している。 土日は休みとして、年間250日、1日4,000頭検査すると年間100万頭となる。検 査に慣れてきても、0.1%疑陽性が出ることは何を意味するのか。精密検査で陰 性になる個体でも、1日4頭はこの1次検査では陽性になる。これを隠すことは 情報公開に反する、あるいはこれを発表すると風評の被害になるということで問 題になった。 しかし、これを発表すると毎日4つの都道府県がBSE陽性を疑う牛が見つかっ たと報告しないといけない。次の日に、精密検査で陰性であったと発表すると同 時に、また同じ日に新たに4都道府県がまた出ました、そしてまた次の日に陰性 でした、という繰り返しになる。これは避けないといけない。 前述のとおり、計算上、真のBSEが検出されるケースは非常に少ないと考えら れる。年間数頭以下である。 一次検査で疑陽性があれば発表すると言ったところも多かったと思うが、そう ではなく、精密検査を行うシステムを確立して、その検査結果を公表するのが当 然で、こういう検査法の特性の違いが分かっていれば、1次スクリーニングの結 果を公表することは何の意味も持たないということはすぐに分かる。1次スクリ ーニングの結果を公表しないことが、情報の隠ぺいに当たるとは考えにくい。こ の説明をすれば、国民に理解してもらえる。風評の被害を及ぼすものでもない。 要するに精度の悪いノイズ情報を垂れ流された結果、国民が混乱するだけある。 これはやっぱり最初が肝心で、いろいろな場面でどれだけ質の良い情報を早期 に公開するかということが、事態を混乱させない最大の方法である。 よくある質問 次のことをあちこちで質問されるので整理してみた。
肉骨粉は肥料にも使われていたので、土壌汚染により、あるいは汚染牧草を介し て伝播したのではないか? また、プリオンは土壌では分解されないので汚染が蓄積するのではないか? |
この説明には背理法を使う。一つの仮説として、英国のBSEが肥料による土壌 汚染を介して伝播したという仮説をとってみる。すなわち、仮に汚染した肉骨粉 が土壌の肥料に回って、それからあの流行が起こったという仮説をとってみる。 表5を見ると英国では88年まで、肉骨粉の生産、反すう動物への飼料、反すう 動物以外への飼料、魚類を含む動物への飼料のすべてに規制がない。88年7月反 すう動物に使ってはいけないことになった。90年には反すう動物と反すう動物以 外のすべての動物への使用を禁止し、それに伴って肥料に回るものが増えてきた と考えられる。 表5 ◇図11:英国肉骨粉の肥料への使用量 40万トン生産の一部が肥料へ◇ BSEとvCJDの関連の可能性が認められた96年3月には、魚類を含めて飼料への 使用が禁止され、肉骨粉はこのとき最も肥料に回されたと考えられる。しかし、 同年4月に肥料への使用も禁止され、EU又はEU以外に輸出が高まった。英国 でのこの経過をカーブにすると、88年以降かなり増加し、96年でほとんど止まっ たと考えられる。 肉骨粉による肥料汚染をシミュレートしてみると、そのカーブは88年以降も増 加し、95、96年頃をピークに減少したと思われる。英国のBSEは前述したように、 92〜93年がピークで、その後下降したが、肥料の汚染カーブを基準に、5年遅れ で牛の発症が続いたとすると、BSEの発生は92〜93年には、まだピークとならず、 その後も増加していく(図12)。 ◇図12:BSE確認予想◇ 理論的には2001年に、ピークになり、年間8万頭という数字になる。実際には 2001年は1,000頭を超さない発症頭数となっている。 また、土壌で分解されないで蓄積しているだろうという考えをとる人がいる。 その仮説をとると、1988年から96年までの8年間で、肥料の使用は飼料の規制が かかる以前の、約2倍くらいに増えたと考えられる。図12の点線の部分の積算量 が蓄積することになるので、推定発生数は2001年で48万頭と言うバカげた数字に なる(図13)。これがプリオンが分解しないで、減少しないシナリオである。実 際には全くこうはならなかった。この仮説を採ると言うことには、無理がある。 ◇図13:土壌で分解されない場合の予想◇
最初に言ったように、この資料は昨年10月の学生講義用に作ったものである。 当時入手できるデータで考えてみたものである。正確な数字を個人的に集める ことは限界があるので、ややアバウトな傾向になっている。しかし、ものの考え 方は同じであるから、正確な数字を入れ直せば、数値はより正確になると思う。 しかし、結果として何桁もズレるような現象が起こるとは思えない。 日本でBSE牛が見つかった後に起こった混乱は、この病原体が今までの感染症 の範囲を超える性格を持っていたために、一般的な感染症として考える土台を放 棄してしまったことである。安全か安全でないかといった議論だけに終始してし まっために、定量的な数値がはっきり出てこなかったというのが私の印象である。 そういうことを踏まえて、数字を導入してものを考えれば、どういうことになる のか、まとめてみたものである。 そもそも議論は、定性的に100%安全かという議論で始まり、最終的に100%安 全とは言えないといった途端に、それは100%危険であるという議論になってい ってしまう。身の回りのすべての現象は0〜100%の間のいろいろなリスクの高 さで推移している訳である。目の前で展開する定量的な現象である。YESかNOか という定性的なものではないという基本的な考え方が重要である。BSEといえど も、一般的な感染症と同じものの考え方で事態を理解する事ができるという考え 方の原点に戻っていただきたい。
吉川泰弘 略歴 昭和46年 東京大学農学部獣医学科卒業 51年 東京大学農学系大学院 獣医病理学博士課程終了 同年 国立予防衛生研究所入所 麻疹ウイルス部 52年〜 54年 ドイツ、ギーセン大学ウイルス研究所留学 55年 東京大学医科学研究所 助手その後講師、助教授 平成 3年 国立予防衛生研究所 筑波霊長類センター 所長 5年 筑波大学 基礎医学系 併任教授 9年 東京大学大学院農学生命科学研究科教授 現在に至る。