―BSE(牛海綿状脳症)と食肉表示問題への対応―
京都大学大学院 農学研究科 教授 新山 陽子
昨年秋にBSE牛が見つかって以来、肉牛・牛肉生産プロセスからBSEの要因を取 り除き、市場に供給される牛肉の安全性を確保するために、疫学的見地からの必 要な対策が取られてきたのはすでに知られているところである。と畜場での食用 牛の全頭検査はEUの対応水準を上回り、さらに近く飼料への肉骨粉の混入を検出 できるような科学的検査の導入も予定されているようである。今後ますますこの ような技術開発とその導入によって危害要因の除去がより高いレベルで行えるよ うになることが期待される。
しかし、翻って牛肉の市場に目を転じると、このような疫学的対策の進展が市 場の回復に結びついていないのが実情である。生産者の努力や政府の対策にもか かわらず、経営の存続が困難な状態に陥っている。 それは市場は消費者の心理によって動くからであり、心理を冷やしている要因 が残っているからである。それは単にこれまでの対策に関する情報の普及状況や そのタイムラグのせいではない。また日本だけではなくEUでも同じ事態を経験し ている。 消費者が現在最も不信を抱いているのは、牛肉の供給・流通システムそのもの なのである。複雑で目に見える状態にない。より強くいえば透明性が極めて不足 しているということである。従って、生産段階やと畜段階でさまざまな対策がな されたとしても、それが自分たちの手にする肉の安全性にどのように反映されて いるのかつかめないでいる。小売店がラベルによって安全性を強調したが、シス テムが不透明な状態ではそれを信頼できるはずはない。それを強烈な形で露呈し たのが雪印のラベルの張り替え事件であり、疑惑が現実のものとなってしまった のが現在である。 EUでも似たような経緯を経ている。ここに至ると信頼を回復するには大変な努 力を要すると考えなくてはならない。不信の根元である経路の不透明性を改善し、 透明性を確保する以外にはない。
透明性を確保する方策として有効なのがトレーサビリティ(traceability) ・システムである。トレーサビリティとは、国際標準化機構(ISO)によれば、 「記録された証明を通して、ある物品や活動について、その履歴と用途、位置を 検索する能力」と定義される。EU委員会では食品法に一般原則として取り入れる 考えであり、そこでは生産、加工、流通のあらゆる段階を通して、追跡し、また さかのぼって調べる能力、と定義している。 牛肉に話をもどすと、日本でも家畜段階では家畜個体識別制度の実施(2002年 3月)が決まっているが、大切なのはそれをさらに進め、と畜段階以降に延長す ることであり、消費者の手に届く小売店までのトレースのシステムである。 EUでは、1996年のBSE危機への対応に導入された。97年に規則が制定され、20 00年からすべての牛と牛肉(枝肉、四分体、部分肉)に義務付けられている。 2000年の改訂規則によって、家畜個体と個々の肉が確実にリンクされねばなら ない。解体されていく肉の照合は難しいといわれてきたが、家畜個体番号、枝肉 番号、部分肉(ロット)番号によって照合できるようにされ、照合番号がラベル に表示される。また、照合番号とともに移動時の記録がデータベースによって管 理される。フランスでは農務省が管轄する全国データベースですべての段階の情 報が一元管理されている。
このようなトレーサビリティの意義は、@的を絞った正確な製品回収が行える ようにすること、A消費者や権限機関への情報の提供、表示の立証性を助けるこ と、B疫学的なデータの収集を助け、リスク管理の手法の発展を助けることにあ る(EU委員会)。 リスク管理の見地からは万全の方策を講じても欠陥品が市場に出回ることを想 定しなくてはならない。フランスでBSE罹患牛の肉がスーパーマーケットで販売 され大騒ぎになった事件はその例であるが、このシステムによって当該牛群のす べての肉を迅速に回収し、大いに効力を発揮した。 表示の立証性について見ると、データベース上に記録が残されるので、データ ベースへアクセスすれば、簡単に生産者、消費者どちらからでも追跡できる。こ のような検証能力が表示内容の確かさを保証している。また移動(売買)記録が 売買双方から入力されれば、ラベルの2重発行を含め虚偽の申請にはチェックが 働く仕組みになる。 経路の透明性確保と以上の2つの機能は、消費者の信頼回復に大きく寄与して いる。EUでもまだ発症はおさまっていないが、これによって消費者は落ち着きを 取り戻している。 日本でも市場対応のために生産者団体や企業ベースで個別に導入されはじめて いるが、互換性を確保し、信頼を得るには、規則に根拠付けられた義務的な統一 したシステムが作られる必要がある。 関係業者にとって実施には労力やシステムへの投資など負担が多いが、避けて は通れない。関係業者が合意を重ね実施に踏み出すことが待たれる。
にいやま ようこ 昭和55年京都大学大学院農学研究科博士課程修了、 59年京都大学農学部助手、助教授を経て、平成14年より現職。 主な著書:「畜産の企業形態と経営管理」(日本経済評論社)、 「牛肉のフードシステム−欧米と日本の比較分析−」(日本経済評論社)