東京農業大学
教授 小泉 武夫
肉を微生物で発酵させて香味を付けると同時に、防腐効果を高めて保存性を 長く持たせる発酵肉の製造は、古くからヨーロッパで行われてきた方法である。 中でも有名なのはサラミソーセージ、ジューアソーセージ、ペパロニソーセー ジといったドライソーセージや、チューリンガーソーセージ、セルベラートソ ーセージ、モルタデラソーセージなどのセミドライソーセージである。またス コッチハム、ウエストファリアンハム、スミスフィールドハム、プロシュート ハムのような、いわゆるカントリーハムの類にも、発酵をほどこして特有の風 味を持たせたものが多い。 ドライソーセージの場合、キュアリング(Curing:塩漬け)した牛や豚のあ らびき肉に食塩や香辛料を加えて腸に詰め、長期間(1〜3カ月間)熟成と乾燥 を行う。これによって水分含量が35%以下となり、相対的に食塩濃度が増加す るが、この間に乳酸菌による乳酸発酵が起こって水素イオン濃度(pH)が低 下し、そのため汚染菌や腐敗菌の増殖が抑制され、長期の保存が可能となる上、 製品に発酵を伴った奥行きのある風味を蓄積することができる。 ドライソーセージやカントリーハムは、その製造工程でまったく加熱処理が ないため、有害な腐敗菌による汚染は必至となるはずであるが、それをこのよ うな発酵を行うことにより完全に防いでいる。昔はキュアリング期間を長くし て、自然に入ってきた乳酸菌で発酵していたが、今では多くの場合、ピックル (塩漬け汁)やあらびき肉に硝酸還元細菌と乳酸菌を培養したスターターが添 加されている。 この発酵菌の添加は腐敗菌や悪変菌の生育を抑制するとともに、キュアリン グの際に肉を鮮色固定するために添加された硝酸塩や亜硝酸塩の残存量を低下 させ、風味物質も付与でき、さらに長期の保存が効くなど多くの有利点を持っ ている。 またヨーロッパの田舎に行くと、ドライソーセージや大型の肉塊ハムの外皮 に青カビを繁殖させたものを見かけることがあるが、これは発酵による風味物 質の蓄積と保存のためである。
また中国には、「火腿」と呼ぶ肉の発酵食品がある。実はこの食べもの、日 本の鰹節に大変よく似ている。両烏豚と呼ばれる、火腿をつくる目的だけに品 種改良された中型の豚(この豚の飼育には、決して残飯とか小麦、コーリャン などの穀物は与えず、野菜を発酵させたようなものだけで育てる。こうすると、 不要の脂肪があまり付かないので良質の火腿ができる)の腿だけを原料にして、 これにカビを中心にした発酵菌を繁殖させて造る保存食品である。軽く塩漬け にした腿を発酵室に吊るしておくと、そのうちにカビが付いてくる。これをさ らに半年ぐらい発酵と熟成を重ね完成品とする。正面を被っていたカビを払い 取ると、飴色というかロウソクの火焔のような美しい色が現れ、そのため、こ の発酵食品を「火腿」と呼ぶのである。 日本の鰹節は鰹を原料にして、それをカビで発酵させてカチンコチンに硬く させてつくった保存食品であるが、中国の火腿は豚肉を原料にして、それをカ ビを中心とした発酵菌でやはりカチンコチンに硬くした食品なのである。中国 では8百年も前からこの火腿を造ってきたが、その食べ方は日本の鰹節と同じ く出汁を取ったり、切って煮ものにしたり炒めものにしたりする。 ただし、火腿と日本の鰹節が似ているのは偶然の一致で、歴史的にも互いに 全く関係がない。なお中国には中国ハムという、私たちが通常食べているハム と同じ一般的なハムもあるが、これを日本の本の中には「火腿」と紹介してい るものもある。その中国ハムと火腿とは全く別のものなので、間違ってはなら ない。 その火腿は非常に高価なもので、ほとんど香港から世界中に輸出され、中国 の外貨獲得のために貢献している。そのため、製品一本一本に番号が付けられ て厳重に管理されている。私もこの火腿の工場を何度か訪れ、食べてみたが、 味が大変に濃厚で、これでは美味な料理ができても不思議ではないと感心した のだった。とにかく中国に行くと、何が出てくるか分からぬほど珍しい発酵食 品に出会えるので、嬉しい限りである。
魚介類や畜肉を細菌やカビ、酵母で発酵させた発酵食品は多種にわたるが、 その代表は何といっても「熟鮓」である。熟鮓は魚や肉を飯と共に重石で圧し、 長い日数をかけ、乳酸菌を主体とした微生物で発酵させたもので、近江(滋賀 県)の鮒鮓や紀州(和歌山県)の秋刀魚の熟鮓に代表される。 その原型は中国や東南アジアに古くから伝承されたもので、日本に伝わった のは、飛鳥時代とも弥生期とも、最近ではもっと遡って縄文晩期ともいわれて いる。 一般に熟鮓といえば、日本では魚のみであるのは、日本には牛や豚や鹿や猪 などを食べる風習が稀薄だったことに原因しているのであろうが、熟鮓の本場 中国では感心するほど牛肉と豚肉の熟鮓を広範囲に持っている。彼らは、その 肉の熟鮓を野菜などと共に主に炒めて食べるのであるが、この料理が実に風格 ある味となっておいしい。とにかく発酵した畜肉は、保存が効くばかりでなく、 滋養食としての活用も広く、また食べても大層美味でもあるので、これからの 畜肉加工法の1つとして日本でも大いに試みられるべきであろう。
こいずみ たけお農学博士(醸造学・発酵学専攻) NHK国際放送番組審議会委員、日本スローフード協会会長、 学術審議会(科学技術)専門委員(文部科学省)、 「食あれば楽あり」(日本経済新聞)、「 美味巡礼の旅」(毎日新聞)連載執筆中、その他著書多数