◎今月の話題



ポスト・トレーサビリティの課題

東京大学大学院農学生命科学研究科
助教授 中嶋 康博

広まるトレーサビリティ

 「牛の個体識別のための情報の管理及び伝達に関する特別措置法」が平成16年12月に全面施行されて、スーパーマーケットで売られる牛肉のパッケージや食肉小売店の店頭では、個体識別番号や生産履歴確認番号(ロット番号)などを示すことが日常の風景になった。

 牛肉が先導したトレーサビリティ制度であるが、今では青果物、牛乳、鶏卵、水産物などでも生産履歴を開示するため適用されるようになった。始めのうちは耳慣れなかったトレーサビリティという用語も、今では市民権を得たと言えるだろう。

 これまではともかくトレーサビリティを普及させることが目標であったが、これをどのように利活用していくかが次の課題となっている。その一つは消費情報の充実、もう一つは経営改善への利用である。


消費者への情報提供

 まず期待されることは、消費者の購買時に有用な情報を提供することである。トレーサビリティは食品表示の可能性を広げてくれる。携帯電話やパソコンのホームページとリンクすれば、表示項目は無限に増やすことができる。一部の量販店や生協ではすでに取り組みが始まっている。牛肉のトレーサビリティ情報の場合、個体識別番号を手掛かりに出生年月日、雌雄の別、母牛の個体識別番号、種別(品種)、飼養場所・と畜場所の履歴が提供されていて、それに加えて生産者の名前や顔写真、BSE検査結果票をホームページで公開する量販店もある。

 ただし現時点で、これらの情報が消費者の安全・安心感にどれだけ貢献するのかは必ずしも明らかでない。安全は、肉骨粉利用の禁止、特定危険部位の排除など一連のBSE対策によって確保されている。BSE検査票を掲載するのは、事実上全頭検査が実施されているとはいえ、個々にBSE検査済みだと確認できることが消費者の安心感を高めると考えてのことだろう。

 一方、青果物では、農薬規制や残留検査が行われているが、安全・安心対策を補完する手段としてトレーサビリティに期待する向きもある。しかし畜産物に比べて市場経由で取引される割合は高く、また途中で分集荷が頻繁に行われて確実な分別流通ができないため、農産物のトレーサビリティは格段に難しい。集出荷場から個別包装されたものや契約取引のものでないと、実効あるトレーサビリティは確立できない。


経営改善の手掛かり

 第二に期待されることは、トレーサビリティで得られた情報を生産・経営改善に結び付けることである。例えば家畜改良センターで取りまとめている肉用牛枝肉情報全国データベースは、繁殖雌牛の系統と能力の網羅的な分析の実施を可能にする。ただし今のところ登録された情報はと畜された牛の2割に満たないようである。

 青果物でのトレーサビリティシステムの実験では、ITを利用して農薬の利用情報の集中管理を栽培管理者が試みている。これらには有機・特別栽培農産物での経験が活かされている。

 農薬管理だけでなく、さらにシステマティックに衛生管理するためGAP(適正農業規範)を適用しようという試みもある。GAPとトレーサビリティは相互補完的である。GAPに取り組んでいることは、トレーサビリティを利用することではじめて消費者へ詳細に伝えることが可能になるからである。

 GAPを導入する場合、総合的品質管理のためPDCA(Plan-do-check-act)サイクルを組み込んだマネジメントシステムを構築することが効果的である。トレーサビリティ導入をきっかけにしてGAPをベースに経営改善(カイゼン)に取り組むならば、ビジネス上の利益を生み出すことができる。逆にそこまで踏み込まなければ、個別経営にとってトレーサビリティを導入する意味はないかもしれない。

 肉牛・牛肉部門では、今のところ法律で導入されたことだけに目が向いていて、多くの経営が義務的トレーサビリティの実施に止まっていないだろうか。しかしある程度の経営規模以上については、トレーサビリティ導入などをカイゼンに結び付けるような積極的な取り組みが望まれるであろう。


さらなる課題

 そもそもトレーサビリティとは、食のリスクマネジメント手段の一つである回収措置を確実に実行するための制度である。そのためには農林水産省のガイドラインに定められているように、流通経路情報(食品とその流通した経路および所在などを記録した情報)の追跡と遡及を可能とする仕組みが必要となる。農産物一般では、この流通履歴を特定することは困難であるが、牛肉は市場外流通が中心であるから特定は容易である。

 ただし現在の牛肉トレーサビリティは生産履歴と川上部門の流通履歴に限定されている。つまりそれはBSEリスク対策が前提のデザインなのである。しかしそのほかの食肉衛生リスクも依然として無視できない。その対策のためのシステムとするには、加工や温度管理の情報なども含めた川下部門の流通履歴の充実が必要となる。さらにここでカイゼンを進めようと思えば、適正流通規範の適用が検討されなければならないだろう。


なかしま やすひろ

プロフィール

1989年東京大学大学院農学系研究科博士課程修了、日本学術振興会特別研究員、東京大学農学部助手を経て、1996年より現職。主な著書に『食品安全問題の経済分析』(日本経済評論社、2004年)、『食の安全と安心の経済学』(コープ出版、2004年)、『農業問題の経済分析』(共著、日本経済新聞社、1998年)。


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