ブリュッセル駐在員事務所 前間聡、小林奈穂美
1.はじめにEUでは、2008年11月の共通農業政策(CAP)の中間検証作業(ヘルスチェック)の政治合意以降生乳価格が低迷し、頻繁に生産者が抗議行動を繰り広げるなど、域内の酪農部門は依然「酪農危機」を脱していない状況にある。こうした中、過激化した生産者の抗議行動は日本の一般紙でも取り上げられるなど注目が集まっているものの、紙面の制約もあり、個々の事例の紹介にとどまっている例が多く、全体像を把握するには情報が不足している状況にある。そこで、本稿では、昨年末のCAPヘルスチェック合意以降欧州委員会が導入してきた一連の施策を軸に、欧州委員会が域内市場の回復と貿易自由化の推進のバランスをどのように図ろうとしているかについて紹介することにより、EUの酪農危機の背景と酪農の今後の見通しについて考察することとする。 2.近年の酪農改革2009年7月に欧州委員会より公表された乳製品市場報告書1によれば、EUにおける近年の酪農改革は次のように説明されている。(1)アジェンダ2000および2003年のCAP改革 CAP改革の下での酪農改革は、市場メカニズムに基づく生産をさらに進めるためのものであり、介入買い入れについては支持価格(介入買入単価)の段階的引き下げが行われてきた(図1)。また、この代償措置として、50億ユーロ(約6850億円。1ユーロ=137円)の財源が酪農家の所得保証のため、生産にリンクした直接支払いとして支給されたが、これらの措置は2005年以降、家畜衛生、環境などの基準の適合(クロスコンプライアンス)を条件とする生産と切り離された直接支払い(単一支払制度:SPS)に移行している。これらの一連の措置は、一定水準の所得を保ちつつ、域内酪農の国際競争力を高めるためのものと位置づけられている。
(2)ヘルスチェック 「ヘルスチェック」とは、2003年のCAP改革を経て実施されている各般の施策を評価、検証し、2009年以降の施策に反映させるために実施されたCAPの中間検証作業である。この過程で最大の論点となったのは、1984年以降導入されている加盟国別の生乳生産割当(クオータ)の取り扱いであったが、最終的には、クオータを2015年3月末をもって撤廃することとし、それまでの5カ年間については、基本的に各加盟国のクオータを毎年1%ずつ増加させることにより、クオータ撤廃に向け軟着陸を図ることで決着した(表1)。また、クオータ撤廃自体は見直さないものの、追加的な措置の必要性を検討する観点から、2010年12月および2012年12月に欧州委員会による中間レビューを作成・公表することも併せて決定された。 欧州委員会のフィッシャー・ボエル委員(農業・農村開発担当)は2008年11月のヘルスチェック合意後、同氏のブログ2において、「長期間にわたり議論された結果、双方(欧州委員会と農相理事会)において歩み寄り、合意に達した。内容ある合意に大変満足している。ヘルスチェックを通じて見直されたCAPは、欧州の生産者に支持を行う一方で、世界市場のニーズにより敏感に対応した生産を促すものと確信しており、今回のCAPの大きな前進は、数年後のさらなる前進をもたらすものになるであろう。」とコメントし、クオータをめぐる議論はいったん終息すると思われたが、その後に顕在化した酪農危機により、この議論が再燃することになる。
3.昨今の酪農危機に対し欧州委員会の講じた施策前述のようにクオータの段階的拡大および撤廃をめぐる議論は2008年11月時点でいったん決着したが、その後の域内乳製品市場の低迷とそれに伴う生乳価格の低下により、この議論が再燃することとなった。図2は、EUにおけるバター、脱脂粉乳および生乳の価格動向と欧州委員会により講じられた施策を示したものである。この図からは、バター、脱脂粉乳とも国際市場における需要の高まりを受け2007年夏に急騰したものの、経済危機に伴う消費の冷え込みにより2008年秋以降は低迷していることが読み取れる。ただし、バターについては、2009年9月以降域内の供給不足が顕在化し、価格が急速に回復しつつある状況にある。一方、生乳価格については、バターおよび脱脂粉乳の動きから少し遅れて増減する傾向にあり、生乳価格の低迷が顕在化したのはヘルスチェックの政治合意(2008年11月)の後の2009年に入ってからであることが読み取れる。図2にもあるとおり、2008年秋以降顕在化した域内乳製品市場の悪化を受け、欧州委員会は矢継ぎ早に対策を講じてきた。ここでは、これらの措置について時系列的に紹介していきたい。
1. 民間在庫補助の前倒し実施(2009年1月1日〜) 欧州委員会は2008年11月29日付けの官報において、2009年3月1日から開始される予定であった民間在庫補助を2カ月前倒しし、2009年1月1日から開始することを発表した。これは、当時の危機的状況に対処するための機動的な措置として決定・公表されたもので、生産されるバターを民間の倉庫に一時的に調整保管することにより流通量を調整し、バターの域内市場の安定を意図したものであった。なお、民間在庫補助の実施期間(申請受付期間)は、わが国の政省令に相当する委員会規則(EC1182/2008)で規定されているため、欧州委員会内で必要な手続きを完結することが可能であったことも、この機動的な実施につながったと言えよう。 2. 輸出補助金の再導入(2009年1月23日〜) 欧州委員会は2007年6月15日以降ゼロとしている乳製品の輸出補助金について、2009年1月22日に開催された乳業管理委員会を経て23日より再導入した。EUは、WTOドーハラウンド交渉において2013年までに輸出補助金を撤廃することを対外的に約束しており、輸出補助金の再導入はそれに逆行すると国際的に非難されることは必至な情勢であったが、域内市場の悪化を受け、活用できる政策手段の総動員が必要との判断があったものと思われる。 3. 介入買い入れの実施(2009年3月1日〜) 2009年3月1日から開始されたバターおよび脱脂粉乳の介入買い入れは、ほどなく固定単価での限度数量を超過し、それぞれ月2回の頻度で入札により単価が決定される買入制度に移行した。この入札制の介入買い入れでは、過去の例では入札回数が進むごとに単価が漸減されていたが、2009年においては一貫して固定単価に準じる水準(バター:約99%、脱脂粉乳:約99%)で介入買い入れが継続されたため、バターおよび脱脂粉乳のさらなる価格低下には歯止めがかけられたが、2009年10月末時点でバター8万トン余、脱脂粉乳28万トン余という膨大な介入買入在庫が蓄積する結果を招くこととなった(図3)。
4. 民間在庫補助および介入買い入れの実施期間延長(2009年8月〜) 2009年初めより相次いで実施された民間在庫補助と介入買い入れについては、規定ではそれぞれ8月15日、8月31日に終了することとされていたが、これらの措置が予定通り終了となれば、域内市場がさらに悪化することが懸念される状況となっていた。このため、フィッシャー・ボエル委員は、5月25日に開催された農相理事会の場で、民間在庫補助と介入買い入れについて実施期間の延長の可能性に言及し、必要な措置が講じられることとなった。 市場回復の兆しがなかなか見られない中、5月以降ドイツ、フランスの生産者団体などによる大規模デモが繰り広げられ、2008年11月に合意されたばかりのクオータの段階的拡大・撤廃の見直しなどを要求しており、加盟国側もこれに同調する動きを見せていたことから、欧州委員会側としても、ヘルスチェック合意の見直しの動きを鎮静化するため、市場回復につながるこれらの措置の延長に踏み切らざるを得なかったとみられる。 5. 酪農に係る追加対策の発表(2009年10月19日) 2009年より顕在化した生乳価格の低迷が長期化したため、生産者による抗議活動が拡大していくこととなったが、このような生産者の動きに呼応する形でドイツ、フランスを中心とする8加盟国が7月31日付で介入買入価格の一時的な引き上げ、輸出補助金単価の一時的な引き上げおよびクオータ拡大の凍結を柱とする共同提案を欧州委員会に提出した。 この提案は欧州委員会が進めてきた酪農改革に逆行しかねないものであり、欧州委員会側としては受け入れがたいものであったと考えられ、実際、9月下旬に開催されたIDF(国際酪農連盟)ワールドディリィサミットの席上でも、欧州委員会関係者が、「1984年以降クオータが維持されてきたにもかかわらず、域内の酪農家戸数が急減しているのは、クオータにより経営離脱を防ぐことができないことを意味している。クオータは市場のシグナルが反映されにくい古典的な手法であることから2015年に撤廃するとしたものであり、今後は介入買入制度によるセーフティネットに重点化していく。」と引き続きヘルスチェック合意を基本として酪農改革を進める姿勢を改めて示した(図4)。
また、フィッシャー・ボエル委員自身も、10月15日付けのプレスリリースにおいて08/09年度のEU全体の生乳供給量がクオータを4.2%下回ったことに触れ、「生乳供給量がクオータを4%以上下回ったということは、ここ数カ月の生乳価格の低迷は、クオータ制度の段階的な廃止と何ら関係がないということを示している。」と強調し、フランス、ドイツなどから繰り返し主張されているクオータ拡大の凍結に対する否定的見解を改めて示した(図5)。
このような中で10月19日の農相理事会開催時には、7月末に共同提案を行った8加盟国を中心とする合計21加盟国のグループが、酪農危機対応のため3億ユーロ(約411億円)の酪農基金創設を要求したことから欧州委員会側の対応が注目されたが、同委員はこの農相理事会の席上で2010年度の酪農対策予算として新たに2億8千万ユーロ(約384億円)の財源を準備する用意がある旨発表し、この提案は各国農相からの支持を集めることとなった。 一方で同委員は、農村開発予算の一環として酪農部門の再構築にも活用できる6億6千万ユーロ(約904億円)相当と、事業の実施が各加盟国の裁量に委ねられている2億4千万ユーロ(約329億円)相当が2010年度以降に利用可能となるにもかかわらず、今回酪農基金創設を主張してきた加盟国が、これらのスキームの有効活用について積極的に欧州委員会側に提案をしてこなかったことについて「大変な驚きである!」と言及しており、今回の2億8千万ユーロの提案が、生産者による一連の抗議行動を鎮静化するための苦渋の選択であったことをうかがわせるものとなった。 2009年夏以降、域内の乳製品市場は急速に回復しつつあり、11月6日には乳脂肪(バター、バターオイル)を除き輸出補助金がゼロに設定された。ただし、生産者や加盟国の欧州委員会に対する圧力の動向については、もう少し見極めが必要であろう。また、蓄積したバターおよび脱脂粉乳の介入買入在庫の処理については、生活困窮者への食料の供給という域内の乳製品市場から隔離された形でそれぞれ数万トン規模の処分を行う検討が進められているもようであり、今後とも欧州委員会は「域内乳製品市場の安定」と「域内酪農乳業の競争力向上」という難しいかじ取りを迫られることとなるとみられる。 4.EU酪農の今後の見通し(クオータ撤廃の影響)最後に、ヘルスチェック合意後の2009年2月に欧州委員会の共同研究センターが取りまとめた、クオータ撤廃が域内の生乳生産量と農業所得に与える影響の評価報告書3について紹介したい。この報告書は、共同研究センターが外部のコンサルタントに委託して作成したものであり、その内容については欧州委員会の見解を必ずしも示すものではないとの前提で公表されているものの、クオータ撤廃が各加盟国レベルでどのような影響を与えることとなるのかを定量的に分析したものとして注目される。(1) EU全体の酪農乳業に与える影響2015年3月末に予定されているクオータ撤廃は、EU全体では生乳生産量を増加させる一方で生乳価格の低下をもたらし、増産された生乳の大半は、付加価値の高いチーズや生鮮乳製品としてではなく、加工原料乳としてバター、脱脂粉乳などに仕向けられるとみられる。具体的には、以下のような影響が予測される。(1)生乳生産:EU27全体で生乳生産量が4.4%増加する一方、生乳価格は10%程度低下の見込み。 (2)バター、脱脂粉乳および全粉乳の生産:バター、脱脂粉乳および全粉乳の生産は5〜6%増加する一方、これらの価格は6〜7%程度低下の見込み。 (3)チーズおよび生鮮乳製品:チーズおよび生鮮乳製品の生産は1%程度増加する一方、これらの価格は4〜6%低下の見込み。 (2)各加盟国の生乳生産に与える影響 生乳生産量と生乳価格に与える影響を加盟国別に整理したものが図6である。生乳生産の増減は地域における生乳の収益性によるとの前提で試算されており、オランダ、オーストリア、ベルギー、ルクセンブルクなどの収益性が高い地域で生乳生産が大きく増えるとみられる。また、EU27の生乳生産量が増加するのに伴い、収益性の比較的低いイギリス、スウェーデン、フィンランドなどの地域で生乳生産が減少すると見られる。 なお、生乳価格については、上昇すると見込まれる地域はなく、全ての加盟国において数%から10数%下落するとみられる。
(3)農業所得に与える影響 酪農所得は、生乳および副産物(雄子牛など)の販売による収入の減少と購入飼料のコスト上昇によりEU全体では14%減少するとみられる。この酪農所得の減少は農業全体の所得に換算するとEU全体で約2%の減少に相当するが、この影響を加盟国別に分析したものが図7である。これによれば、東欧、南欧の加盟国を中心に農業所得が増加ないし維持と見込まれている一方、スウェーデン(▲5.2%)、フィンランド(▲4.5%)、アイルランド(▲4.5%)、リトアニア(▲3.8%)、ドイツ(▲3.6%)などの加盟国で農業所得の減少幅が大きくなっていることが読み取れる注。 これは、北欧においては、農業全体に占める酪農の割合が、地中海沿岸の南欧諸国よりも高い傾向にあることが影響していると考えられる。 注: 図7は「酪農所得」ではなく「農業所得」の影響であることに注意。
5.おわりに10月下旬、ベルギー北部で父親から経営を継承した20代後半の青年酪農家を訪問する機会を得た。彼は、昨年フリーストール牛舎および搾乳ロボット導入という大きな投資を行ったばかりであり、目下の生乳価格の低迷という状況下では経営は決して楽ではないと思われたが、併設されているアイスクリーム工房の開放や地元小学生への教育機会の提供などの前向きな取り組みを通じ、地域に貢献を続けている立派な若者であった。彼の話の中で印象的であったのは、現在のクオータ制度は若手酪農家の生産拡大意欲の妨げとなっていることから、2015年のクオータ撤廃を歓迎するとの発言であった。クオータ制度が維持されている現在でもベルギー国内でクオータの権利を売買できるものの、その相場が依然として高水準にあり、生産拡大のためのクオータを購入できない青年酪農家が数多く存在するということであろう。残念ながら、当地の報道では彼のような酪農家が脚光を浴びることは少なく、クオータ拡大の凍結や酪農部門への支援拡大を訴え、生乳の廃棄やパリ、ブリュッセルの主要道路をトラクターで封鎖するなどの実力行使に出ている生産者団体が一般紙の一面を飾っている状況にある。消費者の支持拡大を通じた域内乳製品市場の安定のためにはどちらのアプローチがより有効なのか考えさせられる出来事であった。参考文献 1: Dairy market situation 2009(European Commission DG AGRI, 2009) http://eur-lex.europa.eu/LexUriServ/LexUriServ.do?uri=COM:2009:0385:FIN:EN:PDF 2: CAP Health Check: a compromise deal with substance(Mariann Fischer Boel, 2009) http://blogs.ec.europa.eu/fischer-boel/cap-health-check-a-compromise-deal-with-substance/ 3: Economic Impact of the Abolition of the Milk Quota Regime(European Commission DG JRC, 2009) http://ec.europa.eu/agriculture/analysis/external/milkquota/full_report_en.pdf |
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