宮城大学食産業学部 教授 川村 保
【要約】株式会社アマタケの東日本大震災への対応、経営方針等の決断は迅速かつ的確に行われた。社員一丸となった懸命の復興復旧作業により4カ月程で出荷を再開した。これほど短期間で経営再開にこぎつけられた原動力は何だったのか。地域産業を全力で守ろうとする当経営の日頃からの危機管理体制など現地調査したので報告する。 1.はじめに平成23年3月11日に発生した東日本大震災は、東北地方を中心にわが国のフードシステムに甚大な被害をもたらした。特に、大地震の直後に到達した大津波は三陸海岸の市町村に壊滅的な被害をもたらした。本稿で紹介している株式会社アマタケ(以下、アマタケと記載)は、三陸海岸に位置する岩手県大船渡市に本社を置き、鶏肉の生産から加工までを行っている国内大手の食鳥生産企業である。調査に伺ったのは震災から半年あまりが経った昨年平成23年10月であり、企業としての活動はかなり回復したものの、完全な復旧はまだまだという段階での聞き取り調査となっている1。本稿は、アマタケの広範な活動の一部分を一時点で見てのレポートであり、同社の全体像を紹介できているわけではないことは最初にお断りしておかなければならないが、それでも同社の経験を通して、大震災のようなリスクに立ち向かい、食料の供給のために企業のマネジメントとして何をなすべきかは、はっきりと見えてきたように思う。 1 本稿は、株式会社アマタケでの聞き取り調査と頂戴した資料、及び同社のホームページに基づいて取りまとめました。聞き取り調査にご協力頂きました株式会社アマタケ常務取締役管理統括役員・村上守弘様、執行役員食品加工部部長・柳田佳孝様、種鶏部部長・荒木広人様、孵卵部部長・熊谷亨様、経営企画課課長・佐藤学様、東京本社マーケティング部・山崎一朗様に御礼を申し上げます。 2.アマタケの概要(1) 企業の概要アマタケは、岩手県大船渡市に本社と主要な工場等を置き、銘柄鶏「南部どり」の孵化・育成・生産・加工・運送・販売までの全工程を自社で一貫して行っている企業である。企業は、昭和39年に創業した甘竹飼料店による養鶏が原点となり、昭和45年株式会社甘竹ブロイラーの設立を経て、昭和63年に株式会社アマタケに社名を変更して今日に至っている2。資本金1億円で、代表取締役社長・甘竹秀企氏の下で512名の従業員が年商110億円の売上額を上げている企業である(出典は、平成23年10月時点の同社ホームページ)。 アマタケの最大の特徴は、銘柄鶏である「南部どり」の生産から流通までの一貫体制をとっているところにある。銘柄鶏(ブランド鶏)というカテゴリーは、昭和50年代後半までの地鶏かブロイラーかという2分法的なカテゴリー分けの中から出てきたものである。「地鶏」は在来種純鶏またはそれを親に使ったものというのが基本的な特徴となり、「ブロイラー」は食肉専用の大量飼育用の雑種鶏の総称というのが基本的な特徴で両極に分かれた形になっているのに対し、「銘柄鶏」は、両親が地鶏に比べて増体に優れた肉専用種であり、通常の飼育とは異なり工夫を加えた内容となっており、それを明らかにしているものという位置づけになっている。「南部どり」は昭和59年に日本初の銘柄鶏として登場し、消費者からの支持を得て、アマタケの主力商品となっている。南部どりは、祖父母鶏となる赤鶏の雛を原産国のフランスから輸入し、国内で生産した赤鶏(レッドコーニッシュ)のオスを父に、国産の白鶏(ホワイトロック)のメスを母として生産される。赤鶏の旨味と白鶏の柔らかさを合わせ持った味となっている。 また、生産方法は安全性を重視したもので、全飼育期間を通じて抗生物質や合成抗菌剤を使用せず、殺菌能力の高い植物抽出液を薬品代わりに使用し、醤油の絞り粕などの飼料にも工夫を加えて生産している。また、原種鶏の生産からスタートし、消費者が商品を手にするスーパー等の小売店に至るまでの生産・製造・加工・流通・販売のすべてを一貫したシステムで自社が担当している。 また、アマタケはケンタッキーフライドチキンの認定工場になっている他、株式会社モスフードサービスとコラボ商品「南部どりバーガー」を期間限定で販売したこともあるなど、川下部門の企業との連携も活発に行っている。 (2) 東日本大震災の被災の概要東日本大震災によりアマタケは、本社が津波に被災するなどの直接的な被害を受けたほか、震災直後の停電や燃料の供給不足などにより、地震による施設への被害は軽微だったものの原種鶏の生産や孵卵、生育の段階で大きな被害を受けることとなった。 同社の資料によると、本社は1階が水没、隣接して立地し、鶏肉解体処理加工を行っている主力工場である大船渡工場は建物は残ったものの建物内部は海水と土砂につかり、解体ラインの機械は水没した。大船渡市に隣接する陸前高田市にある鶏肉惣菜・鶏ガラスープ製造の高田工場は事務所の部分の骨組みを残してすべて流された。同じく陸前高田市にある加工品工場の滝の里工場は、高台にあるために直接の被害は免れたが、建物は地震で一部損傷した。また、この工場の従業員で地震直後に自宅に戻って津波の被害にあった人がいた。鶏を飼育している農場は高台にあるために津波の被害は受けなかったが、ライフラインの寸断により飼料不足となり、約100万羽を失うこととなった。 このように、被害総額は約40億円、死亡・行方不明者は10名(社員5名、嘱託2名、パート3名)という甚大な被害をアマタケは被った。 しかし、震災から4カ月も経たない7月1日を「復興日」として目標に掲げ、生産ラインを復旧し、震災後初めての出荷を行う復興式を開催、被災地の中でもいち早く、復興への動きを目に見える形で示している。 2 飼料店からスタートしているアマタケを、ローカルインテグレーターとして捉えている論文として、斎藤修『食料産業クラスターと地域ブランド』農文協、2007年がある。同書の第6章「ローカルインテグレーターの統合化戦略と農業の連携−アマタケ(岩手県)」を参照していただきたい。 3.原種鶏生産から成鶏まで(1) 原種鶏生産銘柄鶏である「南部どり」の生産にとって最も大事なものは、その原種鶏の生産の維持であろう。「南部どり」は、フランスから年に2回、原種の赤鶏のオス・メスを輸入して、国内の飼育場でその卵を孵化させ、その雛のうちオスを父親として、白鶏のメスと交配させて生産している。この父親となるオスの赤鶏の生産が「南部どり」の生産の重要なポイントであるが、その生産に必要となる祖父母にあたる赤鶏の維持も同様に重要ポイントとなる。そのため、赤鶏の輸入の段階から細心の注意が取られている。原種はかつては年6回輸入していたのが、高病原性鳥インフルエンザの感染のリスクを下げるために、現在ではインフルエンザが少ない5月と11月の年2回に限定している。また、原種を飼育している鶏舎には立ち入ることができる人員も制限し、専任の職員のみが対応するようにしている。 (2) 孵卵の段階祖父母にあたる赤鶏のオス・メスの交配によって生まれた卵は、種鶏の飼育場からほど近い孵卵場へと移され、孵卵器にかけられる。孵卵場では、温度と湿度の管理を徹底して行うなど、緻密に孵卵の状態がコントロールされている。まず、センサーを用いて受精していない卵はすぐに処分される。また、卵の鈍端に針で穴を開けてワクチンを投与している。ワクチン投与の機械は日本で2番目に導入したそうで、品質管理に対する強い意欲が感じられた。また、トレーサビリティへの対応もあって、生産管理上、鶏舎ごとに生産された卵を群管理をしている。
雛が生まれると、父親となるオスのみが選抜される。アマタケでは羽毛の一部がオスは1段でメスは2段になっていることによる羽毛鑑別を行っている。
赤鶏のオスと白鶏のメスの交配によって生まれた卵も同様に細心の注意の下で管理される。孵卵器の中では温度と湿度の管理をすることで成育状況をコントロールすることができ、例えばスーパーでの需要の増加に合わせる形で生肉の出荷時期を調整するように、雛の孵化の時期をコントロールしている。10日くらいの出荷時期の調整が可能であるとのことであった。雛は週に6回、傘下の飼育場へ出荷される。出荷先は平常時には24ヵ所であったが、震災の影響で10月の調査時点では約14ヵ所に限られていた。 (3) 飼育段階での特徴鶏に限らず畜産では鳥インフルエンザや口蹄疫などの感染症のリスクにさらされており、そのリスクをいかに下げるかが最も重要なリスク管理となっている。アマタケの飼育場でもその点は徹底している。まず、鶏舎のある農場へ入るには、すべての自動車は消毒施設で消毒液のシャワーを浴びるようになっている。また、私のような訪問者のみならず農場関係者も含めて農場への入場者は直前1週間の行動についての確認を求められ、外部からの感染源の持ち込みを予防している。ウィルスは野鳥や野生動物等によって持ち込まれるおそれが大きいので、鶏舎は断熱材を多用したウィンドレスのもので、縦断換気を行うことで、感染を予防している。また、そもそも飼育段階の農場が山の中で普通は人が来ないようなところに立地していることも感染予防の意味がある。
原種の赤鶏の輸入が鳥インフルエンザの発生が少ない5月と11月の2回になっていることは先にも述べたが、特筆するべきはその後の段階であり、輸入された原種鶏は成田空港から8時間をかけて岩手県田野畑村にある自社の検疫所に運び込み、以後2週間を検疫の期間としている。自社でそこまでの対応をしているのも、やはり鳥インフルエンザのリスクを回避するためである。 また、飼養方法にも色々と工夫が見られ、例えば赤鶏のオスと白鶏のメスを一緒に入れている鶏舎では、オスが飼料を食べすぎないようにトサカが入らない構造の給餌器を使ったりしている。集卵は1日に4回行い、できるだけ早く集めて消毒することで、品質管理をしている。
飼料は平常時には石巻と一部は釜石の飼料会社から自社で運送していたが、震災で両方の飼料会社とも被災したために現在は他社からの供給を受けている。調査時点では、12トン車がほぼ1日1台、月に約20日程度、飼料を運搬しているとのことであった。飼料設計は飼料会社と共同で行っている。 なお、この段階の鶏は63週まで飼養した後に廃鶏し、九州の廃鶏業者に引き取られていく。 鶏肉の生産では生産性の良さが直接的に収益性につながってくるが、アマタケでは安定的に雛を供給し生産性を高めるための工夫もしている。種鶏部部長の荒木広人氏は、飼料により鶏の腸内をコントロールすること、床の洗浄や水落ちの少ない給水器の使用などを具体的な例として説明して下さったが、確かに鶏舎の中は乾燥していて素人目にも衛生状態が良いことはよく分かる状態であった。この良好な鶏舎内の環境を作るために使われているフロアヒーティングにも工夫がなされている。鶏糞ボイラーを導入し、鶏糞を燃料として利用し、育成舎のフロアヒーティングなどに熱利用しているのである。 この鶏糞ボイラーに見られるように、エコな生産を行っているということもアマタケの特徴である。エコという点では、CO2の発生にも配慮していることも注目される。一貫した生産システムであるために、鶏肉1キログラム当たりのCO2の発生量をライフサイクルアセスメント(LCA)手法により把握できているとのことである。 (4) 孵卵・飼育段階での震災と対応鶏を飼育している農場は大船渡市の近郊の山の中にあり、原種を飼育する鶏舎もそれらの農場の中に建っている。山の中であるので津波の被害は無縁であったが、地震に伴う停電、そして停電と燃料不足のために生じた水の停止、さらには道路網の寸断や沿岸に立地している輸入飼料関係のサイロの被災などによる飼料不足という極めて厳しい状況にこれらの農場は直面した。 地震発生当時、70万個ほど貯卵していた孵化場は、建物自体は床の一部に被害があっただけで大きな被害は無かった。孵卵器の中に入っていた40万個のうち壊れたのは1,000個程度であった。しかしインフラの被災はここにも大きな被害をもたらした。まずは停電である。電気は約10日間、停電した。停電すると、砂防ダムから引いている水を使うことができなくなり、熱、動力、水のいずれにも不都合が出てくる。停電の最初の3日間程度は自家発電なども可能であったが、貯蔵していた石油が不足するについて、優先順位が徐々に変わっていったということであった。まずは地震の翌日3月12日(土)に出荷予定であった雛は、出荷まで自家発電の電気を使って保温等を行い出荷できた。しかし日曜日を挟んで月曜日に出荷する予定であった雛については電気のスイッチを切らざるをえなかった。孵卵部部長の熊谷亨氏はその時の気持ちを、雛がかわいそうで悲しかった、また再稼働できるのかと不安に思ったと語っていた。 限られた発電用の石油や、限られた飼料という厳しい状況下で、それらの資源を使って守るべきものは原種鶏であると優先順位が明らかになった。限られた燃料や飼料は原種鶏にまわされた。電気や飼料の途絶により肉用に飼育されていた多くの鶏の命を失わせることになったが、結果的にアマタケの生産の重要なポイントである原種鶏は維持され、その後の速やかな生産の復興を実現する大きな力となった。このように極限的な状況下で適切な経営判断をしていったことが、その後の復興過程にプラスに作用していることには注目しておきたい。 4.工場段階(1) 主力工場である大船渡工場先に被災の概要を述べたところで書いたように、アマタケは大船渡市の本社と同じ敷地内にある大船渡工場に加え、隣接する陸前高田市に二つの工場を持っていた。 鶏の解体処理は大船渡工場のみで行っており、大船渡工場は主力工場となっている。大船渡工場では食肉加工も一部行われている。平常時には、1日約3万羽の鶏が解体処理され、食肉としてあるいは加工食品として全国に出荷されていた。 調査時点では平時の6割程度の稼働状況にまで回復していた。
(2) 工場の被災と復旧大船渡工場は津波により1階は完全に水没し、海水と土砂が工場内に侵入し、解体処理や加工工程の機器類のほぼすべてを破壊した。これらの機器類のうち、修理が可能であった解体選別用の一部の機器は、機器メーカーに一度送って、修理をして工場に復帰させたが、ベルトフリーザーや冷凍機などの機器はすべてを交換することとなった。もちろん多額の投資額となったが、新しい冷凍機を入れたことで電気代が節約できたことや、従業員の工場内での動線を整理できたことで従業員の安全性向上となった等のプラスの面も若干あったと、加工部部長の柳田佳孝氏は話しておられた。また、機器の復旧・更新以外にも、工場内からの土砂の運び出しや清掃についての従業員の努力があってこそ、復旧が早まった面もある。 壊滅した高田工場で行っていた鶏スープ生産は他社へ外部委託し、従業員はすべて本社・大船渡工場に移動させた。また、滝の里工場で生産していたサラダチキンや鶏だんご等の生産は大船渡工場に移した。このため、現在は大船渡工場が解体処理から加工・販売までのすべてを担当する形となっている。 7月1日には大船渡工場が再開することとなり、それを祝して復興式が行われた。この早い復旧に当たっては、同社の社員の努力と機器メーカーの協力が大きな推進力となった。 5.震災時の企業行動・マネジメントの行動(1) 直後の意思決定3月11日の地震発生時、アマタケの常務取締役で管理統括役員の村上守弘氏は本社におられた。その瞬間のことを、「建物がつぶれると思った。大変なことが起こると思い、足が震えた。」と話して下さった。地震の5分後には村上氏の号令の下で全社員約400名が屋外に避難し、整列して点呼をとり、取り残された人がいないことを確認した。その間に、津波警報が最初は3m、後には6mの津波が予想されることを伝えはじめた。本社と工場は海から約2kmで海抜6mのところに位置するので、高台にある大船渡市の市民文化会館リアスホールへ全員の避難を指示した。工場長を先頭に、経営企画部長をしんがりにして避難移動するも、途中で過呼吸症状で倒れる人も出て、その人たちをワゴン車に乗せながら全員が避難し終えた時、すぐ足下まで津波は来ていたという緊迫した状況であったという。 実は全員というのは正確ではない。経理本部長、営業部長及び総務関係の2〜3名の職員は本社を守るために建物の上階に留まったということである。幹部の社員が手分けして、社員を守り、会社を守ったのである。
リアスホールに避難した社員はその後、盛小学校の避難所へ移動した。食べ物もない中で、社員たちは避難所の手伝いをするほかに、全力をあげて社員の安否確認を行った。その結果、安否確認できない者が当初は200名ほどであったものが、1週間程度で50人まで減少した。 震災2日目には避難所で家族が無事であった課長クラス以上の幹部社員が集まり、まずは加工品の在庫を避難所に配布することを決定した。 震災発生時には社長は出張中であり、村上氏がトップとしてのリーダーシップをとったが、震災直後の意思決定が的確かつ迅速であったことはアマタケと同社の社員にとって幸運なことであった。村上氏は聞き取り調査の中で「社員と会社を守る」という言い方をされたが、まさにその通りの意思決定であった。マネジメントをする上で、何に価値を置くのかが明確であったことが迅速な意思決定につながったものと考えられる。 (2) 復興のための意思決定震災後3日ほどかけて社長が大船渡に戻ってきたので、常務以上の役員が集まり、今後の対応を検討した。村上氏は大船渡工場をこの場で再建することはできないと思ったと述べているが、業者に建物を見てもらったところ、本社、工場とも、修繕すれば使えるという結論であったし、高田工場の隣接地に新工場を建設する案については1年近い建築期間が問題になった。そのことを踏まえて、本社と工場は現状復帰させて生産を再開させるという意思決定をしている。
その後は盛岡市の業者に工事を依頼し、食品工場機器メーカーの前川製作所をはじめとする各社に来てもらい、スケジュールを作成したところ、4〜5カ月で復旧できる見通しが立ち、7月1日を復旧の目標日に設定し、復旧作業に取りかかり、予定通り7月1日に復興式を行っている。復旧には約100名の社員が当たることとして、それ以外の社員やパートや嘱託は一時的に解雇した。また予定していた新卒者の採用も取り消さざるをえなかった。 アマタケの意思決定の迅速さは特筆されるべきものである。被災後数日で方針を立て、しかも7月1日という具体的な見える目標を提示したマネジメントのやり方は社員の士気を上げる効果的なやり方であったと言えよう。一時的に社員やパートを解雇せざるをえなかったのは苦渋の選択であったようである。会社が早急に復旧することこそ早期に雇用を回復する方法であるとの判断であったようだ。 (3) リスク管理と分散リスクへの対処法と言えば分散することが基本であるが、アマタケの場合は立地においても製品の幅においてもある程度の分散が行われていたと考えてよいと思われる。立地について言えば、鳥インフルエンザの感染防止のために生産農場が分散していること、工場が主力の大船渡工場の他に陸前高田市の2ヵ所に分散させていたこと、製品は「南部どり」が主な製品で集中しているものの、生肉だけではなくサラダチキン等の加工品に分散していること、更には岩手県内の田野畑村には「あい鴨」の生産、加工、販売を行う株式会社甘竹田野畑があること、東京には外食産業の株式会社ダイニングキャストを関連会社として持っていること等々、色々な形で多角化が行われている。 結果的には陸前高田市の2工場のうち1工場は流失し、残った1工場も復旧に直接には貢献する形にならなかったが、しかし震災直後には高台にあった滝の里工場の在庫が食料供給に役立った面もある。また、比較的被害の少なかった株式会社甘竹田野畑は、震災後には盛岡に流通センターを置いて、商品の供給を続け、顧客をはじめとする企業の営業を支援することになった。 これらの分散化は意図的に行ったというよりは個別に意思決定し行動してきた結果、期せずしてできあがったという性格のものの様であるが、結果的に効果的なリスク管理策となっていた。原種鶏の輸入等に見られるように、アマタケは従来から鳥インフルエンザへの対応など、積極的にリスクへ対応する姿勢があり、間接的にはその姿勢も影響していたのかもしれない。 (4) 地域社会のためにアマタケは大船渡市あるいはそれを含む気仙地方を代表する企業である。社長の甘竹家は大船渡市商工会議所の会長を2代にわたって務めるなど、地域経済を支える責任のある立場に立ち続けてきた。そのためもあって大船渡市や市の経済に対する責任感をもっている企業となっている。企業の社会的責任あるいはCSRという言葉がない時代からまさにそれを実践してきたのがアマタケである。 そのことは村上氏からの聞き取り調査の中で、話の端々に感じさせられたことであった。地元に根ざして、地元と共に活動してきた経験のある地元企業には、地域を守り、地域経済を活性化させる力があるのだろう。 6.おわりに東日本大震災は、アマタケをはじめとする三陸地方の食品企業に壊滅的なダメージを与えた。その被害からいち早く復興する姿をみせたアマタケであるが、それは主力工場が全壊を免れたという偶然によるものではないと思われる。日頃からの生産現場での工夫、鳥インフルエンザを想定してのリスク管理、経営陣の迅速な意思決定等々が成功要因につながっている。 震災直後に電力や飼料の不足に直面した現場では、優先順位をつけて優先順位の低い物は切り捨てた判断があったからこそ、原種鶏の維持に全資源を振り向け、早期の復旧を可能にした。また、地震直後の迅速な避難の意思決定は多くの社員の命を救った。現地点での復旧を目指すという意思決定を被災後のわずかな日数の中で行い、実際に目標の7月1日に復興式を行ったことなど、多くの話をお聞きすることができた。原種鶏を守り、社員を守り、会社を守り、地域も守るというアマタケの意思決定には共感できるものがある。危機に当たってのマネジメントの意思決定のあり方として、他の食品企業にとっても示唆するところの大きい事例であろう。 最後に、アマタケが直面している課題は多いが、将来的に重要になりそうな問題として、村上氏が言及した、①飼料のストックヤードないしは飼料工場のこと、②事業の再編、③放射性物質による問題の3点を紹介しておきたい。 ①は、今回の震災からの復興のために約7億円の追加的投資を行っているが、その投資額を早く回収して安全な場所に新たな工場を建てたいという希望があり、同時に、飼料のストックヤードも津波の来ないところに建設し、10日分程度の飼料は常時ストックしておきたいということである。また、今後、飼料用米の活用を考えると飼料工場の立地が内陸になる可能性もあるのではないかという興味深い指摘もされている。②は、震災の影響を考慮して収益性を見越した事業の再編が必要であろうということであり、具体的には製品の絞り込みを図っていく一方で、コラーゲン等の鶏由来の化粧品や機能食品なども手がけてみたいとのことであった。③は、放射性物質の測定について、小売店等取引先の安全安心の要望に対応すべく、計測結果をすばやく情報提供することが課題となる。 いずれもアマタケ1社のみの課題ではなく、業界内の各社に共通する課題である。今後のアマタケおよび業界の動きに注目していきたい。 |
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