海外駐在員レポート 

ウイルス性脳炎がマレーシア養豚産業に及ぼした影響について

シンガポール駐在員事務所 外山高士、伊藤憲一




1 はじめに

 マレーシアにおいて、先に猛威を振るったウイルス性脳炎の最初の患者が確認
されたのは、98年10月であった。それから約1年がたった現在においても、養豚
産業は、この豚を介して感染するとされたウイルス性脳炎によって多くの豚を処
分するなどの影響を受け、いまだ完全復興していない。また、マレーシアから生
体で豚を輸入していたシンガポールも、輸入禁止を継続したままである。そこで
今回は、マレーシア養豚産業におけるこの病気の発生と、その後の状況について
報告する。

 なお、現在においても、今回マレーシアでまん延した病気が何によって起こっ
たのか、政府からの公式発表がなされていないため、病名が特定されていない。
このため、この報告では、今回マレーシアで発生した「日本脳炎(Japanese 
Encephalitis、以下「JE」という。)ウイルスとニパウイルス(Nipah Virus)」
による人および家畜に対する一連の伝染病を「ウイルス性脳炎」と呼ぶこととし
たい。


2 マレーシアの養豚産業

 マレーシアでは、第3次国家農業政策(1998−2010年)を発表し、農業に関す
る開発と再編、近代化の基本政策を決めている。この中で政策の目的は、@食料
の安全保障の推進、A農業分野の生産性の増進、B他の分野との関係の緊密化、
C農業分野成長のための新しい手法の開発、D持続可能な基礎的天然資源の保存
と利用−としている。

 一方、養豚産業は98年において、畜産業全体での生産額48億9百万リンギ(1リ
ンギ=約30円)の27.9%に当たる13億4千万リンギを占めるなど、養鶏産業に次
いで大きな産業として位置付けられている。しかし、マレーシアがイスラム教を
国教としていることから、養豚についての積極的な政策は実施されておらず、政
策としては、

@限られた養豚用指定地域で、生産持続可能な範囲で続ける。
A排水管理の基準に関する法律を制定し、施行する。

となっているだけで、ほとんど明確にはされていない状況である。


(1)ウイルス性脳炎発生前の養豚農場
◇図1:西マレーシア◇

re-spg01.gif (22312 バイト)

 マレー半島における養豚業は、主としてペナン州、ペラ州、セランゴール州、
ヌグリスンビラン州、マラッカ州、ジョホール州の6州において行われている。
その他の州(プルリス州、ケダ州、パハン州、トレガノ州、ケランタン州)は、
マレーシア全体で約29%の人口を占めている中華系住民が、3.7〜19%と少ない
こともあり、養豚業のウェイトは非常に小さい。

 表1は、西マレーシア(マレー半島)における94年から99年の州別豚飼養頭数
を、表2は、同じく各州政府の認可している養豚農家戸数を示したものである。
これによると、98年末の飼養頭数は約235万頭、養豚農家戸数は1,774戸で、1戸
当たりの平均飼養頭数は1,326頭(日本は99年2月で789.8頭)となる。このうち2
千頭未満の農家が1,490戸で、全生産量の約40%を占めている。また、1万頭を超
える農家はジョホール州に9戸、ペラ州に8戸、ヌグリスンビラン州に3戸のみと
なっている。

 これらの農家は、基本的に裏庭養豚業から拡大したものが大半を占めている。
このため、経営などの技術は個人的な経験によるところが大きく、合理化は遅れ
ている。しかし、合理化は遅れながらも、これらの養豚農家が発展した背景には、
90年における隣国シンガポールでの養豚禁止令がある。シンガポールへの輸出は、
98年の生産額13億4千万リンギのうち約34%に当たる4億5千万リンギを占めてお
り、大規模養豚場を持つ3州が約74%のシェアを持っている(97年実績)。なお、
シンガポールへの輸出は、マレーシアとシンガポール両国からの輸出許可を得た
137戸の農家によって行われていた。

表1 西マレーシアにおける州別豚の飼養頭数の推移
re-spt01.gif (7639 バイト)
 資料:マレーシア獣医畜産局
  注:99年は7月現在

表2 西マレーシアにおける州別養豚農家戸数の推移
re-spt02.gif (5857 バイト)
 資料:マレーシア獣医畜産局
 注1:99年7月現在
  2:プルリス州にはタイから輸入されてくる豚の検疫施設がある
  3:クランタン州には500戸程度の州政府未認可に裏庭農家
    (4頭/戸程度)がある。
  4:naは欠測値


(2)排水管理に関する規制と対策

 中央政府は、社会からの要望が強くなっていたこともあり、養豚農家からの排
水基準を長期的に改善する計画を発表し、90年から規制を開始した。これは、河
川に流れ込む養豚場からの排水を対象にしているが、当初の目標は、93年の終わ
りまでに生物化学的酸素要求量(BOD)を500ppm以下に、95年末までに250ppm
以下、2000年末までに50ppm以下にすることとされていた。しかし、95年末に目
標の250ppmを達成した農家は全体の半分程度と、かなり低い達成率となった。
これは、住宅地域の近くにある農家においては、汚水処理のための土地の余裕が
ないことから、汚水処理施設の設置のために飼養頭数を削減する必要があり、収
入の減少と借金の増加を招くことになるため、養豚農家が乗り気ではないことと、
州政府によっては、将来養豚業を禁止するなどの措置を行う動きがあり、養豚農
家では新たなる投資を行えないことなどが原因とみられている。

 このため、政府では、小規模農家が一緒になって規模拡大を図ることを勧める
ため、2ヵ所の養豚団地を造っている。1つは、ヌグリスンビラン州ブキットペラ
ンダックにあり、もう1つはペナン州のペナン島からマレー半島にまたがる地域
にある。特に、ブキットペランダックの養豚団地は、570ヘクタールの広い敷地
に、集中汚水処理施設と、汚水管理システムを備える近代的なもので、第1段階
の開発として、164区画(1区画2エーカー=約80アール)を、1区画当たり29万リ
ンギから33万リンギで分譲した。当初、価格が高すぎるとの批判があったが、発
売されたほぼ全区画が売れたため、この近辺では単独で経営する小規模農家はい
なくなり、規模拡大と汚水対策に大きく貢献した。


(3)豚肉の流通

 マレーシアにおける豚の取引は、主に卸売業者と生産者との間による生体での
相対取引となっている。このため、価格の形成方法が不透明で、価格に関する資
料もほとんどない状況となっている。また、すべての養豚場は政府から発行され
ている許可証と、識別コードを持っているが、流通の過程で出荷された豚が混ぜ
合わされてしまうため、枝肉の段階において出荷者を特定することはできない状
況となっている。そして、価格については、卸売業者や小売業者の決定能力が高
く、農家の生産コストを反映したものとはなっていない。なお、獣医畜産局
(Department of Veterinary Services、以下「DVS」という。)によって公表され
ている価格について表3に示した。

表3 西マレーシアにおける州別農家販売価格の推移
re-spt03.gif (4061 バイト)
 資料:マレーシア獣医畜産局

 さらに、流通過程において個体識別が不可能なことや通貨危機による飼料代の
上昇などから、より簡単に商品価値を高めようとして、禁止されている薬品を家
畜用飼料へ使用する動きが出ているものと、業界ではみている。

 政府は、と畜場の再編合理化を推進するため、マレー半島内に、Aクラスと呼
ばれている大規模な7つの国営施設(1日当たり処理頭数1000頭規模のもの)を運
営している。しかし、長距離運搬などの不便さから、Bクラスと呼ばれている地
方の中規模の施設(1日当たり処理頭数400頭規模のもの)も48ヵ所ある。さらに、
民間が運営している小規模のと畜場も96ヵ所あり、これら小規模なと畜施設につ
いて再編合理化の計画が進められているが、設置場所などについて州政府と地元
との間で話し合いがついているところが少なく、実施がかなり遅れている。なお、
輸出を許可されている施設は、Aクラスのみである。


3 JEとニパウイルスについて

 ニパウイルスについては、現在も研究が続けられていることから、新しい発見
や情報などにより、今後知見が変化する可能性があるが、現段階におけるものと
して紹介したい。


(1)日本脳炎(JE)※

※アジア各地に分布し、日本にも古くから存在していたと思われる伝染病。かつ
てはB型脳炎、夏季脳炎、日本流行性脳炎などいろいろな名称で呼ばれていたが、
1948年に日本脳炎に統一された。

 JEは、マレーシアを含む熱帯地域においては、1年中発生の可能性のあるキュ
ウレックス属(Culex)の蚊によって媒介され、哺乳動物を宿主とする伝染病で
ある。病原体はフラビウイルス科フラビウイルス属に属する日本脳炎ウイルス
(Japanese Encephalitis virus)で、人が感染すると、脳と脳膜に炎症を起こし、
高熱を発し、長期間にわたると神経症状が現れ、死亡する可能性もある。豚は、
このウイルスの増幅動物として知られており、感染した場合、妊娠豚においては、
流・死産を起こす。

 マレーシアでは、1951年に第2次世界大戦のイギリス捕虜収容所において大規
模発生したのが、JEの最初の記録となっている。また、日本をはじめとする温帯
地域では、病気の発生は媒介となる蚊の発生時期にほぼ限られているが、熱帯地
域においては1年中発生の可能性があり、風土病となっている。このため、多く
の人がこのウイルスに対する抗体を持っており、感染したことのない幼児や抵抗
力の低下した高齢者での発病がほとんどとなっている。ただし、マレーシアにお
いては発生率が低く、予防接種の対象とはなっていない。また、予防接種のため
のワクチンを購入する経済的な余裕がないことも、予防接種の対象となっていな
い理由の1つであるとみられている。このことは、豚に対しても同様である。

 85年から93年までのJE発生例は合わせて273件であるが、死亡者の出ていない
ものについては、中央政府に報告されてないこともあることから、実際の件数は
もっと多いものと思われる。短期間に多く発生した例としては、74年のランカウ
イ島(感染者10人、うち死亡者3人)、88年のペナン州(感染者9人、うち死亡
者4人)、92年のセワラク州セリアン市(感染者9人、うち死亡者4人)がある。
なお、この期間におけるJE発病者の年齢別内訳は、0〜4歳が31%、7〜14歳が52
%、15〜24歳が9%、25歳以上が8%となっており、14歳以下の子供における発生
率が83%と、非常に高くなっている。


(2)ニパウイルス(Nipah virus)

 ニパウイルスは、ニューカッスル病や呼吸器系を侵すパラインフルエンザの原
因ウイルスが属しているパラミクソウイルス科パラミクソウイルス属のウイルス
で、メガミクソウイルスに分類されている。このメガミクソウイルスには、94年
に豪州クイーンズランド州で発生した、人と馬の共通伝染病の病原体である、ヘ
ンドラウイルスが属している。ニパウイルスは、このヘンドラウイルスとRNA
(リボ核酸)などの遺伝的なものを除き、生物学的構造が80%同一であるとされ
ている。ヘンドラウイルスのまん延は、豪州において2回確認されている。1回目
は94年で、2頭の馬と1人の人が死亡している。2回目は95年でブリスベンで発生
し、13頭の馬に感染し6頭が死亡、人が1人死亡している。症状は、JEとよく似て
おり、高熱と神経症状が現れ、死亡する場合もある。

 ヘンドラウイルスの宿主は、フルーツバット(fruit bats)と呼ばれるオオコウ
モリの一種であることから、ニパウイルスの宿主もマレーシア国内に普通に見ら
れるこのコウモリであるとされている。ニパウイルスの伝染は、体液などを介し
ての直接的な接触によるものと考えられており、コウモリの尿などから豚に伝染
したものとみられている。特に、豚輸送のトラック運転手にニパウイルスの感染
例が多いことは、トラックに設置されている豚輸送用柵の換気用の隙間が、ちょ
うどトラックの周りを歩く際の、人の頭の高さと一致していることが原因である
と言われている。

 ニパウイルスは、99年3月18日に、マラヤ大学医学部と米国疾病管理センター
(Center for Disease Control、以下「CDC」という。)によりウイルス性脳炎患
者の脳と脊髄液の中から発見されたものであるが、そのサンプルが採集されたネ
ギリスンビラン州ブキットペランダックのスンゲイ・ニパ村(village Sungai 
Nipah)から、99年4月10日、公式にその名前が付けられている。現在、ニパウイ
ルスはヘンドラウイルスの突然変異したものと考えられているが、その過程は明
確にされていない。

 なお、ヘンドラウイルスとニパウイルスについては、現在研究が進められてい
るものの、その治療方法などは解明されていない。しかし、直接接触による感染
であることと、中性のせっけんや洗剤などで容易に死滅することから、手洗いな
どが有効な予防策とされている。また、ヘンドラウイルスには、回復後に病気が
再発した例が4件報告されており、うち1名が死亡しており、ニパウイルスについ
ても、病気の再発の可能性について注目されている。


4 ウイルス性脳炎の発生とまん延

(1)ペラ州での発生

 ペラ州は、マレーシアで4番目に大きいイポー市を州都とする州で、国内消費
と輸出のための豚を生産する主要な州の1つであった。同州が豚の主産地となっ
たことには、この地がかつてスズの露天掘りによって栄えたところであることが、
重要な要因となっている。スズを掘った後の、主に砂地で小さな池が点在する土
地の有効利用として、また、スズの採掘の労働者としてこの土地に移住してきた
多くの中華系住民(州の人口のうち約30%を占めている)の食料として、小規模
の養豚が適したためである。また、廃坑に水がたまってできた池が、汚水を自然
浄化させるのに適していたことも、同州で養豚産業が発展した最大の理由の1つ
であった。

 主な養豚場は、イポー市の東に広がる原始林の縁に点在していた。先に猛威を
振るったウイルス性脳炎の初発地と言われている、アンパン、ウル・ピア、タン
ブンの3地区もこの地域にあり、廃坑後にできた池を汚水だめとして利用してい
た(図2参照)。98年10月初旬、ウイルス性脳炎が、この地域の養豚農場経営者
と労働者において見られた。その病気は、最初高熱を発し、神経症状が現れ、そ
の後昏睡状態となって死亡するものであった。マレーシア保健省の公式な発表に
よると、99年2月までの間にペラ州において12名がこの病気に感染し、5名が死亡
している。この時点では、その臨床症状と感染者の血液からJEの抗体が確認され
たことなどから、JEと診断され、殺虫剤の噴霧とJEの予防接種が実施された。一
方、豚では、当初繁殖雌豚に呼吸困難や咳、口や鼻からの出血、けいれんなどの
症状が見られ、その後、柵に頭をぶつけて死亡するといった異常行動のものが見
られるようになった。
◇図2:ペラ州における発生状況◇
re-spg02.gif (36989 バイト)
 このため、この地域の養豚農家では、豚価の暴落をおそれ、また、この病気と
人との関連について直接の関係がないとの認識から、飼養されていた豚の多くが
卸売業者に売り払われることとなった。このことにより、豚がこの地域以外へと
持ち出されることとなり、この後に政府によって豚の移動が禁止されるものの、
既にこの時点で、ウイルス性脳炎をマレー半島全域に拡大させることとなったも
のと、養豚業界では分析している。

 なお、この時点において、政府ではこの病気の原因は、JEウイルスとは異なる
ものではないかという疑問が生じていた。その理由として、

@日本脳炎の抗体を、この地域の人々は一般的に持っていること、
A発病者の年齢が、JEの好発年齢(若齢者)と異なっていること、
BJEの予防接種を受けている人と、受けていない人での発病率が同じであること、
C蚊の撲滅を行っても伝染の勢いが衰えていないこと、
D新しい事例が、蚊のみを伝染の原因としては説明できないほど、遠く隔たった
場所で発生していること、

があった。


(2)隔離地での新たな発生とニパウイルスの発見

 新たに同様の病気の発生が最初に見られた場所は、ヌグリスンビラン州セレン
バンのシカマトであった(図3参照)。99年1月5日付けの新聞によると、CDCは
4名の感染者を確認しており、うち3名が死亡している。この病気はJEであるとさ
れ、これまでと同じ蚊の撲滅と人に対する予防接種の実施を基本とし、これに、
豚へのJE予防接種の実施を加えた対策がとられた。この豚への予防接種の実施は、
この後マレー半島全体での実施へと拡大していく。
◇図3:ネギリスンビラン州とセランゴール州における発生状況◇

re-spg03.gif (32388 バイト)

 その次に発生した場所は、セランゴール州サハ・アラムと畜場で、2月5日のこ
とであった。このと畜場は、クアラルンプールを含むこの地域一帯に豚肉を供給
する国内最大の処理能力を持つAクラスのと畜場であった。このため、集荷も広
範囲となっており、さらに流通の問題から、個体ごとの出荷先が確認できないこ
とが、事態を混乱させる原因の1つとなった。この後、ヌグリスンビラン州では、
ブキットペランダックの養豚団地において、3月4日に4名の死亡者が発生するな
ど、感染者が増加することとなった。しかし、依然としてJEとしての対策のみで、
政府の保健機関は、キュウレックス属の蚊の活動時間である日の出と日の入り前
後の時間には外出をしないよう呼びかけ、特に小学校などでは授業時間の変更を
行うなどの対策が実施された。

 2月24日、イポー市でマレーシア獣医協会のセミナーが、ウイルス性脳炎をテ
ーマに開催された。この中で、初発地の養豚業者たちが、彼らの豚の臨床症状や
死亡率が、これまでのJEや、ほかの地域で見られているものとは異なっていると
いう発言をして、注目を集めた。そこで、養豚業者協会では急きょ、政府に対し
て台湾のJE専門家の派遣要請を行い、3月12日から14日まで、2名の専門家がマレ
ーシアでの現地調査を実施することとなった。専門家チ−ムは、ここでの調査の
結果、このウイルス性脳炎はJEであるが、異なる病気も重複している可能性もあ
ることを指摘した。また、この報告がされた直後の99年3月18日に、マラヤ大学
医学部とCDCにより、ウイルス性脳炎患者の脳と脊髄液の中から新型のウイルス
(当初ヘンドラ様ウイルスと呼ばれた)が発見されたとの情報が伝えられ、この
ウイルス性脳炎は、JEウイルスと新型ウイルスの2種類のウイルスによるもので
あるとの見方が、初めてされることとなった。なお、この新型のウイルスは、99
年4月10日に公式にニパウイルスと名付けられた。


(3)シンガポールでの輸入禁止措置

 マレーシアの豚の生産額の約3割を占める、シンガポール向けの豚の生産農家
は、標準的な農家と比較して、かなり高水準の衛生条件と経営状態が求められて
いた。このため、98年10月にJEが発生した後においても、継続して輸出されてい
た(表4参照)。

表4 シンガポールへの輸出頭数の推移
re-spt04.gif (2360 バイト)
 資料:マレーシア豚輸出業者協会

 しかし、状況は99年3月19日に急変した。シンガポールの2つのと畜場において、
9名のウイルス性脳炎の感染者が確認され、うち1名が死亡する事態が発生したた
めである。シンガポール政府は、直ちにマレーシアからの生体豚の輸入を禁止し
た。しかし、この時点でウイルス性脳炎はJEであるとの認識であったことから、
その発生が認められていない、シンガポールに最も近いジョホール州の養豚場28
戸からの輸入は、継続して行われることとしていた。しかし、同じ日に新しいウ
イルスの発見が公表され、と畜場職員の病気はこの新しいウイルスによるもので
ある可能性が出てきたことから、翌20日には、マレーシアとインドネシアから、
生きた動物の輸入を全面禁止にする措置へと強化された。また、シンガポールの
と畜場では、作業を全面中止し、周囲を含めた徹底的な清掃、消毒、殺菌を行っ
た。

 シンガポールでは、この事件をきっかけに、これまで豚肉の輸入をマレーシア
からのみに頼っていたものを、豪州などからの冷蔵豚肉に、その輸入先を切り替
えている。また、これに合わせて政府も、国内の食肉流通体制をこれまでの温と
体(おんとたい)から、冷蔵肉へと切り替えることを決定しており、99年11月1
日までに、豚肉の小売店は冷蔵陳列棚の導入が義務付けられるなど、シンガポー
ル国内においても、大きな影響を与えることとなった。

 なお、マレーシアからの生体豚の輸入禁止措置は、現在も継続しているが、イ
ンドネシアに対しては、99年4月26日から、ブラン島からの輸入についてのみ解
禁している。


(4)豚処分対策の実施

 99年3月17日、マレーシア政府はこの時点で48名の死亡者が出ていたウイルス
性脳炎に対して、保健大臣を長とする対策本部の設置を決定した。メンバーには
農業大臣と住宅・地方自治大臣のほか、情報省、国防省、内務省の各副大臣と地
方政府の代表者などが含まれた。また、この対策本部には、病気の根絶と監督に
関するすべての決定権が与えられていた。

 3月24日には、ニパウイルスの発見など、急変した事態に備えるため、対策本
部を閣議特別委員会に格上げし、長を副首相、メンバーを各大臣とすることとな
った。

 この委員会で、ウイルス性脳炎の兆候を示している豚を飼養している農場の、
すべての豚の処分計画と、政府の支払い可能な補償金の額が話し合われた。最終
的には、近隣農家同士が接近していることなどから、体液により水平感染するニ
パウイルスの根絶には、人への感染が見られている地域すべての豚を処分の対象
とすることと、補償金を1頭当たり10リンギとすることで決定され、実施に移さ
れた。

 この計画は、当初DVSの指導により、農家自身の手によって実施されていたが、
良い処分方法がなかったことから、棒で豚の頭を打って気絶させた後、穴に埋め
る方法を採っていた。しかし、その光景をテレビなどマスメディアが報じたこと
で、こうした残酷な方法に非難の声が挙がった。

 このため委員会では、3月26日の会議で、最も大規模な処分対策をセランゴー
ル州ブキットペランダックで行うこととし、その処分を行う際、軍隊を導入し、
穴の近くで銃殺して埋却することなどを決定した。

 この対策は、99年4月9日から4月17日の9日間実施され、軍人1,804人を含む2,2
71人が参加した。この対策は、主にイスラム教徒ではない東マレーシア(サバ州、
セワラク州)の少数民族出身者から選ばれた軍人と、警察その他の政府機関から
派遣された者で構成された組織によって進められた。

 同様の方法で、ペラ州とネギリスンビラン州での対策を実施し、4月18日にそ
の作業を終了した(ニパウイルス撲滅の第1段階)。なお、ジョホール州、マラ
ッカ州、ペナン州では人への感染が報告されていないことから、この対策は実施
されていない。この時期を境に、人への新たな感染の報告が急速に低下し始めた。
表5は公表されているネギリスンビラン州サイトCにおける豚の処分対策の計画書
であり、図3はセランゴール州とネギリスンビラン州におけるウイルス性脳炎の
発生状況を示したものである。

表5 ネギリスンビラン州サイトCにおける処分計画書
re-spt05.gif (8203 バイト)

 第2段階の対策は、4月20日から3ヵ月にわたり、3週間間隔で2種類の抗体テス
トを1農家当たり最低30検体で実施し、3頭以上の陽性が出た場合、その農家の豚
を処分することとした。また、陽性の豚が出た農家から半径500m以内の農家は、
危険性の高い農家として、再検査を義務付けられた。1回目の検査で889戸の農家
を検査し、うち25戸の農家から陽性の豚が発見された。このため、8万5,161頭の
豚の処分を実施した。2回目の検査結果では、859戸の農家のうち、さらに25戸の
農家から陽性の豚が発見され、これについても8万5,142頭の処分を実施した。こ
の2回の検査結果により、第1段階での処分を実施したセランゴール州で9戸、ペ
ラ州で7戸のほか、これまで人への感染の報告のなかったペナン州で14戸、ジョ
ホール州で11戸、マラッカ州で9戸において、処分対策を実施することとなり、
マレーシアの主要な養豚地域のすべてで処分を実施することとなった(表6参照)。

表6 処分対策による処分実施農家戸数と頭数
re-spt06.gif (7789 バイト)
 資料:マレーシア獣医畜産局

 なお、第2段階の実施に当たっては、と畜場における抜き取り検査を実施する、
第3段階の対策の実施が計画されていた。しかし、この対策の実施のためには、
出荷者の特定や、流通業者に、不正確な情報による価格の引き下げを行わせない
ようにするなど、監視体制の整備が不可欠となるため、実施中止が決定され、人
における感染を確認する血液検査に変更されている。


5 養豚産業再建への取り組み

(1)政府などによる農家への補償と資金援助

 政府による、ウイルス性脳炎の被害を受けた農家への補償金は、強制的に処分
した豚について実施された。補償金額は、当初豚1頭当たり10リンギであったが、
1頭当たりの生産コストが約200リンギであることなどから、生産者団体ではさら
なる上積みを要請し、最終的に1頭当たり50リンギで決着した。しかし、ウイル
ス性脳炎の汚染地区ではない地域では、豚肉の需要低下に伴う価格の暴落で、自
主的に豚を処分した農家には1頭当たり10リンギの補償金しか認められなかった。

 また、政府では、ウイルス性脳炎の根絶と監視のための基金6千万リンギのほ
か、養豚からほかの作目への転作奨励金、病気に感染した人の社会復帰や子供の
教育費などのための基金も設立している。

 また、民間などの援助金も設立されており、概要は表7に示した。

表7 ウィルス性脳炎に対する援助金
re-spt07.gif (8605 バイト)
 資料:FLFAM


(2)養豚業界の提案する再建計画

 99年7月5日現在、西マレーシアには養豚農家戸数が824戸、飼養頭数は131万
7,621頭となっている(表1,2を参照)。特に、大規模な処分対策を実施したネギ
リスンビラン州では98年に約700戸、61万7千頭であったものが、処分後は1戸、
1,750頭と、壊滅的な打撃を受けている。

 しかし、現段階において、マレーシア政府は養豚業界の再建に関する具体的な
政策は、打ち出していない。一方、州政府では養豚場の閉鎖を含む厳しい措置を
取り始めている。最も大規模な処分作戦を実施したネギリスンビラン州と、その
隣のセランゴール州では、養豚場用地として指定する地域以外での養豚業を禁止
し、現存の養豚農家を強制移転させるとしており、マラッカ州では、州政府の許
可を受けていない養豚場の全面閉鎖を行うとしている。また、ジョホール州では、
今後15年以内に養豚業を全面禁止にするとしている。しかし、その一方で、ペナ
ン州のように、人口に占める中華系住民の割合が50%とかなり大きいため、養豚
業の規制に関する発表は何もなされていないといった州も見られている。

 このような中、養豚業界では、中華系住民の貴重な動物タンパク源である豚肉
を、将来にわたって国内で生産するため、独自の再建計画(サンフラワー・プロ
ジェクト)を作って政府に提案している。この計画では、

@全国養豚業協議会(NSPC)を設立する。

A7〜10ヵ所の新たな養豚団地を設置し、農家に長期賃貸するとともに、衛生管
 理、汚水処理、金融、飼養管理の指導などのサービスを提供する。

B24ヵ月以内に基準以下の養豚場を閉鎖し、新しい養豚団地に移住させる。

C閉鎖する農場に対しては、その補償金として、豚1頭当たり150リンギを支払
 う。

D養豚団地内に卸売市場などを設置し、取引の透明化を図る。

Eこれらの事業に必要な資金として、1億8千万リンギをネガラ銀行とマレーシ
 ア銀行から、NSPCに拠出する。

としている。業界では、今回のウイルス性脳炎の発生前に比べ、飼養頭数が36%
に減少するなど最も被害を受けた、千頭以下の中小規模農家の救済が図られると
ともに、衛生水準の向上など政府の挙げている汚水対策の問題点も解決できるも
のとして、政府にこの計画の承認を要求している。しかし、新たな養豚団地につ
いては、州政府との話し合いがつかず、その用地確保が困難となっており、実際
に建設の予定地として決まっているところは、現在のところネギリスンビラン州
の1ヵ所のみであるなど、実行上の問題点が含まれている。


6 おわりに

 イスラム教を国教とするマレーシアにおいて発生した、今回のウイルス性脳炎
は、未解決のままとなっていた養豚問題を見つめ直す機会となった。しかし、人
口の約6割を占めるマレー系住民が養豚振興に反対をしている中で、これまで一
枚岩となっていた与党連合・国民戦線は、アンワル前副首相派とマハティール首
相派に分裂したことから、2000年4月に任期の切れる下院議員選挙をもにらみ、
ブミプトラ政策(マレー系住民の主導的な地位を確保させる政策)の将来的な廃
止をにおわせる発言をするなど、中華系住民の取り込みを養豚政策と絡ませなが
ら進めており、明確な方向性を示していない。

 マレーシアにおいては、豚肉は中華系住民の貴重な動物性タンパク源として位
置づけられており、その産業としての再建の動向を、シンガポールへの輸出再開
を含めて、今後とも注意深く見ていく必要があるだろう。


(参考文献)

1.「The Malaysian Swine Industry & The 1998-99 Japanese Encephalitis/Nipah 
  virus Epidemic」(Abd Rahman Bin Md Saleh)

2.「獣医学大事典」(チクサン出版社)

元のページに戻る