★ 国内現地の新しい動き


中山間地帯の風土に生きる和牛と酪農−広島県庄原地方−

日本農業研究研究員 赤嶋昌夫


環境条件をフルに生かした「ドラ百姓」

「上分の居所は、後に山を負うて、前に田を踏まえ、左に流れを用いて、右に畑を
押さえ、親譲りの地方を屋敷廻りに控え」。これは江戸時代前期の農書『清良記』
のなかで、上農の理想的な立地条件を説明した一節である。広島県庄原市北部の川
西地区で12頭の繁殖牛を飼養している篤農家の小笹春人さんを訪問したとき、ふ
とあの『清良記』の一節が思いおこされた。小笹さんの屋敷構えとその周囲の景観
は、まさに『清良記』の一節そのままだった。

  この地方は広島県北部にいわゆる中山間地帯の農村である。中国山系の小高い里
山が連なり、山合いに清流が流れる山紫水明の地である。そして里山の山麓に小集
落が展開し、川添いに水田が拓かれている。小笹さんの屋敷は南東に面した日当た
りのよい山麓の斜面に位置している。玄関先の庭には遅咲きの椿の巨木があって、
ちょうど花の盛りだった。枝によって赤、白、斑と三色に咲き分ける珍種で、小笹
さんの屋敷のシンボルと見受けた。その椿の庭に立つと、眼下に集落の水田が一望
される。屋敷の右手は野菜畑だ。『清良記』の説く理想的な農家の立地条件の生き
たサンルに出会ったおもいだった。

  小笹さんは「ドラ百姓」を自称する。この地方では、物好きであれこれ手がけた
がる性格の人を「ドラもの」と呼ぶらしい。

 今年還暦を迎えた小笹さんは結構「ドラ百姓」を楽しんでいる。夏は近くの清流
西域川で鮎漁、冬場は裏山でククリワナ仕掛けの猪猟が趣味だ。手製のタテバコ3
箇でニホンミツバチも飼っている。本業の農業は、水田87アール、永年採草地1
70アールの自作地のほか、転作田330アールを借地して飼料作を行い、12頭
の繁殖用成雌牛と2頭の育成牛を飼う、といったこの地方の中堅農家である。しか
も350アールの自家山林のうち300アールまでヒノキの植林を行っている。ほ
とんど20年以上で、昨年までに間伐をすませ、これからは枝打ちが主な管理作業
だという。そのうえに、小笹さんは集落の43戸全戸加入の下川西営農集団の役員
も努めている。「これでは忙しくて、体がいくつあっても足りないでしょう」とい
えば「ドラは忙しいが、性分だからしかたない。いまのの生き方が楽しくて、ゲー
トボールどころではありません」と笑っていた。

  小笹さんのご家族は、本人と妻(54歳)と長男(30歳)それに82歳になる
お母さんの四人暮らし。小笹家の営農の主たる労働力は小笹さん一人である。長男
は庄原市内の会社へ、奥さんは地区内の縫製工場へそれぞれ通勤していて、いずれ
も農業のほうは農繁期の補助労働力といったところだ。80歳を超えたお母さんは
すこぶるお達者で、5アールの自家菜園をほとんど一手に引き受けていらっしゃる
趣だった。

複合経営の一環に溶けこんだ繁殖牛

写真1  子笹春人さんと畜舎

  小笹さんの12頭の繁殖牛は、水田との複合経営の有機的な一環である。その水
田は、昭和53年から3年間かけて行われた県営圃場整備で、かつての犬牙錯綜の
棚田が面目を一新し、大型機械の導入が可能となった。同時に、集落レベルの営農
集団が発足しており、水田の転作割当(今年26%)の大部分を団地化転作で消化
するとともに、それを飼料作利用する展望が開けた。事実上、小作料ゼロで必要な
だけよそさまの田にイタリアンを作付けすることができる。小笹さんは、それに着
目して、昭和53年にそれまでの6頭飼いからいっきょに12頭飼いに飼養規模の
倍増をはかった。やみくもに規模拡大したのではなく、転作田で飼料基盤を確保で
きるメドにあわせて拡大したのである。

  畜舎は昭和53年に木造瓦葺約150uのがっしりした構えで新築した。小笹さ
んは、雨洩りさえ気を付ければ百年は悠に持つ自信があります、と胸を張っていた。
隣村で売りに出た建物を格安に買い取って移築したものだから、見かけほどには金
をかけていない。母屋とならんでやはり南東に面して建てたれている。夏涼しく冬
は暖かい、そしてゆったりとした畜舎である。12頭の繁殖成牛のうち、購入した
のは4頭だけで、8頭までは自家育成である。生産子牛のうち、自分なりにいちば
ん「持ちやすい」子牛を育成牛に廻しているのだすだ。おじいさんの代からの長年
の経験で、発育性のよい、発精がわかりやすい、子育ての上手な、そして性質が温
和な雌牛を「持ちやすい」牛として見別ける目が培われてきている。これまでに失
敗らしい失敗の経験はないという。優良子牛年1産のペースを安定的に維持してい
る。作年は11頭を販売したが、価格は40〜45万円の価格帯におさまっていた
そうだ。

  来年にひかえた牛肉自由化に影響について、小笹さんはあまり意に介していない。
子牛価格がどうなろうと、牛飼いのメリットは田畑の耕種農業と一体的に評価すべ
きものであるから、いまの経営組織、規模を変えるつもりはない、と小笹さんは割
り切っている。とくに、小笹さんは、これからの農業は、米でも野菜でも高品質の
ホンモノの食べ物が高く評価される時代とみる。そしてそういう高品質のホンモノ
農産物は、結局地力が決め手であって、それは有畜複合経営でなければ実現出来な
いという固い信念を語っていた。厩肥をふんだんに入れた小笹さんの水田の稲の作
柄は高位安定しており、化学肥料は普通の農家の1割ていど、農薬も2回撒布てい
どですむのだそうだ。準有機栽培米といっていい。自家菜園も土が肥えているから、
野菜の病虫害は少なく、味は絶品だという。西瓜などは甘みの濃いのがいつまでも
なり続けている、と自慢していた。

  小笹さんの経営を見聞して、ほのぼのと心の暖まるものがあった。中国地方内陸
部の中山間地帯の風土にしっかりと根をおろした安定感が感じられた。

  問題は、これだけの優良経営の後継者問題だが、小笹さんは楽天的だ。「まだま
だ、いまのままで10年以上やっていけますあらね」と、涼しい顔である。還暦を
迎えたとはいえ、「ドラ百姓」で鍛えた小笹さんの体躯は頑健そのものだ。「水田
作業ではもとより、山仕事だって70歳をすぎても大丈夫です」と自信のほどを語
っていた。まだ代替りを考える時期ではない、と楽天的に割り切っていらっしゃる。

伝統の火を守り続ける高齢者和牛農家

  しかし、中国地方中山間地帯の農村は、全国的にみても農家のいわゆる高齢核家
族化がもっとも深化している。地元に若者の就業機会が少ないからあとつぎまで都
会に流出し、お年寄りだけで先祖伝来の田畑家屋敷を守っている、という農業が目
だってふえてきた。広島県中山間地帯の伝統和牛経営は、いま、深刻な後継者難の
局面を迎えている。そこで、お年寄りだけで1、2頭の繁殖牛を飼っている高齢者
和牛農家を1戸訪ねてお話をうかがってみた。

  小笹さんのお宅からそう遠くない集落のWさんを訪ねた。Wさんは今年79歳、
奥さんは74歳である。さすがにこのお歳になると、お腰が曲がり足どりもいささ
か心許ない。しかし、お二人ともまだ元気に農作業を続けていらっしゃる。奥さん
はいまでも牛のエサのアゼ草刈りをなさる。機械作業は人まかせだが、手作業は老
夫婦一手引受けの形である。そして和牛を繁殖用成雌牛1頭と育成牛1頭を飼い続
けていらしゃる。牛のいない農業では駄目だ、とう固い信念がWさんの言葉の端ば
しにうかがわれた。

  Wさんのご家族は、長男(53歳)夫婦との4人暮らし。長男は庄原市に勤務先
があり、忙しい管理職の地位だから、自家農業にはほとんどノータッチの趣である。
上のお孫さんはすでに成人して結婚し、ひ孫もいるが、広島市に住むサラリーマン
である。先祖伝来の田畑が約1.2ヘクタール、山林が約1ヘクタールあるが、そ
の農業あととりが覚束ないのである。

  あととりの問題いついては、Wさんは頭が痛いとおっしゃる。長男が勤め先をリ
タイアすれば、それなりにあとをついでくれるだろうが、牛飼いははたしてどうか
な、といった感触である。水田の機械作業は集落の営農集団に委託してWさん夫婦
は手作業だけの労働負担ですむが、土つくりは自分たちだけでやらなければならな
い。そのために牛飼いはやめられない。堆肥を充分いれた田と堆肥を入れない田と
では単収3〜4俵はちがう、とおっしゃる「わしのところは、わずか2頭だから、
堆肥をとるために敷ワラはうんとこさ入れてやっているのだ」と話されていた。W
さんは、牛飼いのできる農業あととりがほしいのだ。

  Wさんは、あととり問題についてのほのかな期待を、広島市でサラリーマン生活
をしているお孫さん一家に寄せられていた。5月のゴールデンウィークをはじめ、
春秋の農繁期には、マイカーでお孫さん一家が帰省するならわしだそうだ。町育ち
の若嫁さんも、手の平にマメを作りながら水田のコエ振り(堆肥撒布)やイタリア
ンのハサガケ作業などをかいがいしくやってくれる。とご夫妻は目を細めて話され
ていた。Wさんは、農家のあとをつぐものに「どうしてやる気を出させるかがむつ
かしい時代になった」とおっしゃる。そして、お説教ではダメだ、体験して自分で
農家の生き方を身につけるしかあるまい、とういお考えをのべたれていた。

  Wさんの悩みは、多くの中山間地帯の高齢者和牛農家の共通した悩みでもあろう。
そして、それらの農家では、Wさんと同様のねがいをこめて、時流に抗してしぶと
くささやかな牛飼いの火を守り続けてゆくことだろう。

天皇杯は流れのなかのめぐりあわせ

  庄原市の南郊一木地区に、昭和58年に畜産部門で天皇杯を受賞した酪農家がい
る。今年43歳になる岩竹重城さんである。天皇杯受賞から7年になる。お訪ねし
て近況をお聞きした。

  岩竹さんは謙虚なお人柄だ。「わが家の酪農経営の基礎は父が築いたものですか
ら、ほんとは父が頂くべきものでした。それに、酪農にかぎらずあらゆる事業に長
い間には浮き沈みはつきものです。受賞当時、わが家の経営はたまたま好調の波に
乗っていた形ですので、推せんされたわけです。あたかも作年は飼料作の失敗など
不調の時期で、いまの経営成績は地元の酪農仲間に比べてけっして突出してはいま
せん。私の受賞は、流れのなかのめぐりあわせにすぎません。いっしょに苦労して
きた酪農グループ、あるいはそれを支えてくれた地区の営農集団の仮の名義人だと
当時から自分なりに受けとめていました」と語る。

  岩竹さんの酪農経営の規模、内容は、7年前の天皇杯受賞当時とほぼ変わりない。
自作地の田畑3ヘクタール、借地の田畑3.5ヘクタールその他計約6.8ヘクタ
ールの飼料基盤で搾乳牛40頭を飼い、早目に乳牛を更新し肥育して出荷する乳肉
複合経営方式を採用している。経営の基本型に変化はないが、自家労働力の事情と
地域の営農環境に変化がある。

  労働力事情では、7年前は当時57歳のお父さんと重城さん夫妻の3人の働き手
だったが、4年前からお父さんは農民年金の受給者を機に引退された。お父さんは
まだまだ壮健だが、一木地区の区長さんを務め、また県の指導農業士として忙殺さ
れている。天皇杯受賞当時の酪農経営をそのまま夫妻2人だけで継承されている形
である。これだけの規模、内容の酪農を重城さんと38歳の奥さんの2人で支える
のは容易ではない。労力的に無理が重なり、それが経営の成果にも影をおとすこと
になりかねない。

  岩竹さんの所属する備北酪農協(正組合員53名、成牛1,350頭)でとりま
とめられている昨年の組合員ごとの1頭当りの乳量、乳質の一覧表を見ると、岩竹
さんの成績はもとよりAクラスではあるけれどもトップクラスにつけていない。と
くに乳質のうち無脂固形分や細菌数の成績は中以下のランキングにとどまっている。
岩竹さんは、「昨年は安易にスーダングラスに依存しすぎたきらいがあり、乳房炎
にやられたりして失敗しました」と語っていた。ぎりぎり手一杯の労働力面の無理
がそのような結果に反映したものとおもわれる。

  重城さん自信も、労働面の無理を率直に反省されていた。「これまでは120%
の働き過ぎでした」と語る。「これからは、がむしゃらにゼニをかせぐ時代ではな
いでしょう」ともいう。奥さんも側から、「いまの3回給餌のうち、おヒルの1回
を抜く工夫はできないものかしら」と口を出した。奥さんは婦人会のグループ活動
もままならぬほど牛の世話に追われていらっしゃる趣だった。夫婦そろっての旅行
も思うにまかせない。酪農協にヘルパーが2人いるものの、やはり人まかせにしづ
らい。お話を伺っていて、かって訪ねたベルギーの酪農組合のヘルパーのしくみを
思い出した。あの組合では、専従のヘルパーを雇っているのではなく、組合員によ
る互助組織としてしくまれていた。そのような仕組みは、組合員めいめいの酪農の
規模がそれなりに労力的にゆとりがあってこそ可能であろう。これまでわが国農業
の優秀経営といえば、とかく労働条件を犠牲にしても高所得を追求するタイプが少
なくなかった。とくに酪農部門にそのきらいがあったかにおもわれる。いまそれが
ひとつの曲り角を迎えているのを感じさせられた。岩竹さんは、意識的にそのよう
な方向へのわが家の酪農の新展開を模索されようとしている。またそれを可能にす
る地域の環境条件が開けつつあるとおっしゃる。

個と集団の二人三脚路線

写真2  岩竹重城さんと畜舎
左は筆者

  岩竹さんは、我が家の酪農経営のみならず、地域の農業の新しい展開の決め手と
して、つぎの二つを指摘された。

  ひとつは、地元一木地区の営農集団による組織対応の道である。昭和44年に地
区内52戸の全農家が加入して組織された一木営農集団組合と、岩竹さんら8戸の
酪農家が昭和48年に組織した酪農協業組合(通称サイロ組合、粗飼料の共同生産
と大型気密サイロの共同利用)とは、あたかも地域農業における車の両輪として、
高位安定の地域複合農業を支えてきた。地区内約33ヘクタールの水田の稲作転換
は、この車の両輪の組織の力で飼料作中心の団地化転作が実施され、水田地力の増
加と酪農グループの飼料基盤の強化とが合理的に進められており、時代の変化に対
応する地域農業の再編成と地域農業全体としての体質強化に大きく寄与してきた。
その成果は広島県下はもとより、全国的にも広くその名が知られている。昭和62
年度には朝日農業賞(全国表彰)を受賞してもいる。

  岩竹さんは、労力事情に悩むわが家の酪農の新展開の方向として、「ゆとりある
高付加価値農業」への道を夢みている。そしてその新展開は、これまでもそうであ
ったように、これからも集団の力は不可欠といている。個別農業の問題を個別自己
完結的に解決してゆくのにはせまい限界がある。いわば個と集団に二人三脚が有効
な手法だと実践を通じて認識されている。げんに昨年、地区内の農業あとつぎのい
ない高齢者農家の農地の耕作を引受ける農業生産法人が、サイロ組合のメンバーら
によって設立され、活動を開始している。さらに昨年、岩竹牧場のそばに備北酪農
協のコンプリートフィードの配合工場が新設され、稼働を開始した。これによる酪
農の労力とコストの低減効果が期待されたいる。一木地区には、古い因習にとらわ
れることなく、よき相互扶助の伝統精神をもって集団組織で積極的に時代に適応す
る文化的風土が伝承されている。地域農業の新展開にとって、これは絶対的な決め
手であろう。

ゆとりある高付加価値農業へ

  岩竹さんが期待を寄せているもうひとつの新展開の決め手として、農業とリゾー
トとの結びつきがある。

  庄原市の郊外約350ヘクタールの区域に昭和57年度から国営備北丘陵公園の
建設事業が進められている。「やすらぎの湖」国兼池を中心に、湖畔景観や丘陵景
観の自然を生かしたユニークな公園の建設がうたわれており、平成6年に供用開始
が予定れている。年間の利用者数は150万人におよぶものと見込まれている。こ
れは、地域農業の浮沈に大きく影響をおよぼすべき環境条件の一大変化を意味する。
岩竹さんは、この丘陵公園の開設と結びつけた「ゆとりある高付加価値農業」の新
展開に期待を寄せている。

  いま、全国の中山間地帯に、異常なまでの熱っぽいリゾート開発のムードが盛り
あがっている。ゴルフ場、スキー場、リゾートマンション等々。そして過疎に悩む
農山村がこれおに起死回生の願いをかけて誘致しているケースが多い。だが、なか
には自然破壊やゴルフ場の水質汚染問題等に端的に象徴されるように、長期的視点
よりすれば農山村自体の自殺行為を意味するケースも少なくない。その意味で、リ
ゾート開発は、農山村にとて双刃の剣でもあろう。農家、農業団体の側に、しっか
りとした計画的な主体性をもった対応の準備がなければ、「農業不在の農山村の活
性化」となりなねない。

  岩竹さんらは、そういう側面への配慮をゆるがせにされていない。あくまで地域
の農業と併存し、望ましい農業の新展開とマッチしたリゾート開発を、と注文され
ている。そして、酪農仲間らと話し合って、新時代にふさわしい観光農業へのコン
センサスづくりとそれへの布石となる実験的事業に着手してもいる。

  すでにサイロ組合では4年前からソバ部会を設けてデントコーンの跡作にソバの
栽培を手がけてきたが、昨年はその面積を3ヘクタールにふやし、国道ぞいに手打
ちのおソバ屋さんを開業した。シーズン期間中の土日曜だけの開店だったが、好評
でソバこな早々に品切れとなるほどだったという。また一昨年から1ヘクタールの
観光農園を開いてキャンデーコーンのもぎとりとしぼりたて牛乳のサービスをした
ところ、これまた大盛況だった由である。観光リンゴ園の計画もある。

  そういう試みのなかで、岩竹さんは、みずからの夢みる「ゆとりある高付加価値
農業」の手ごたえを確かめていらっしゃる趣だった。将来のわが家の酪農の新展開
を、主体性をもってリゾートにすり寄せて行く方向である。これまでの「120%
の働きすぎ酪農」は漸次頭数規模を縮小し、反面牛の能力を高めて質の向上をはか
る方向で軌道修正する。げんに備北酪農の牛乳は県下有数の高品質牛乳として声価
が高く、七塚高原牛乳、高原アイスクリームと差別化商品の地位を得ている。この
方向を集団の力でさらに伸ばしたい。そしてさらに、その先の将来の夢としては魅
力的な民宿経営までも考えたい、と語っていた。

  一木地区は、自然環境も農村の文化的風土もこれからの落着いた将来性のあるリ
ゾートに適合した土地柄と見受けた。昨今のリゾートブームにいたずらに追随する
のではなく、あくまで農業者サイドが主体性をもって積極的にリゾートと「ゆとり
ある高付加価値農業」を結びつける新展開の道を手固く進めてほしい。岩竹さんの
夢が着実に実を結ぶことを念じながら、牧場を後にした。




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