東京大学 農学部教授 森島 賢
☆ 関税化の政策目的 一昨年の1991年4月から牛肉の輸入が、関税化という形で自由化された。それま では、政府機関である畜産振興事業団が国内需給の状況を見ながら一元的に輸入し ていたが、関税化以後は、関税さえ払えば誰でも自由に輸入できるようになった。 関税化移行の当初1年間は、激変緩和のため70%という高い関税を課していたが、 2年度目の現在は60%、3年度目の今年4月からは50%に引き下げることになって いる。 来年4月以後の関税率は、ウルグアイランドの交渉の結果にそって決められるこ ととなっているが、関税率の再引き下げは、国内的にみるときわめて難しいだろう。 ウルグアイラウンドで目されている関税率引き下げの行きつく先はゼロ関税であ る。つまり、輸入の完全自由化である。しかし、いきなり完全自由化するのでは国 内生産へ衝撃的な影響を与えるので、当初は高率関税を認め、ある程度の期間をか け激変を緩和し、徐々に関税率を引き下げ、最後にはゼロ関税にするというのが関 税化の手法である。 コメの場合も、関税化するというのは、以下に述べるように安楽死の手法である。 現在、ガット(関税・貿易一般協定)の農業交渉の中で、すべての農産物を関税 化するという提案がなされている。これをわが国が受け入れればコメも関税化する ことになる。 いま、国内では国論を二つに分けて、コメの関税化を受け入れるか否かが論争さ れているが、その中で関税化の長期的な政策目的である完全自由化した場合の国内 のコメ生産への影響を無視して、関税化の短期的な影響だけが論じられているのは 残念なことである。 ☆ 大きな犠牲で小さな国際貢献 現在、コメの国内卸売価格は国際価格の10倍程度になっているので、長期的にみ ても価格競争はできないし、品質競争をみても国産米の食味の輸入米に対する優位 性は長期的には保持できないと予想される。したがって、もしも完全自由化すれば わが国のコメは壊滅すると考えられる。この長期的視点を無視して論争が行なわれ、 主要新聞の各紙が社説で、関税化受入れを決断すべしと主張しているのは、まこと に残念なことである。 牛肉の場合も当時、新聞各紙は、関税化受入れを主張した。関税化を受入れても 短期的にみた場合、当初は高率関税によって保護されるので国内生産への影響は小 さいと言った。長期的にみれば国内の牛肉生産構造が改善され、輸入牛肉と充分に 競争できると、全く根拠を示さないで誤った想定をし、むしろ積極的に受入れるこ とを主張した。今度のコメの場合と全く同じである。 さらに、外圧を利用したという点でも同じである。牛肉の場合は日米の二国間交 渉だったので関税化を拒否すれば、日米関係が険悪になり、いまにも日米戦争が始 まるように言った。今度のコメの場合はガットの中で交渉が行なわれているので、 関税化を拒否すればガット交渉の全体が決裂し、世界の自由貿易体制は崩壊し、わ が国は世界の中で孤立すると言っている。 しかし、牛肉もコメも世界の貿易の中でそれ程大きな比重を持っているわけでは ないし、それ程大きな問題ではない。コメを仮に完全自由化してもアメリカからの 輸入額は約6億ドルに過ぎない。わが国の貿易黒字1,000億ドルを比べても、アメ リカの貿易赤字1,000億ドルと比べても決して大きな金額ではない。世界の貿易不 均衡の是正にそれ程大きく貢献するわけではない。 それどころかアメリカがコメを6億ドル日本へ輸出するためには約3.2億ドルの 輸出補助金を出すことになる。補助金の増加はクリントン新政権の最優先課題であ る財政赤字の削減に逆行する。新政権は増税までして財政赤字を縮小しようとして いるのに、補助金つきのコメの輸出を増やすことは、財政赤字削減の最重要政策に 逆行するのである。 コメの自由化はほとんど国際貢献にならない反面、わが国の国内に重大な影響が ある。新聞の各紙が言うように小さな国内の犠牲で大きな貢献ができるのではない。 全く逆で国内で大きな犠牲を払っても、ほとんど国際貢献にならないのである。 ☆ 輸入品の進出経路 もしも、仮にコメの関税化を受け入れたとして、国内生産に及ぼす影響を牛肉の 関税化の経験と比較しながら検討してみよう。 コメも牛肉も需要部門は大きく三部門に分けることができる。すなわち、加工部 門と外食部門と家庭内消費部門である。牛肉の場合、輸入牛肉がまず初めに進出し たのは加工部門と外食部門であった。コメの場合も同様になると思われる。さらに、 コメの場合、家庭内部門の一部にも早い時期に進出すると思われる。これらは食味 よりも価格を重視する部門である。そのようなコメの需要量は約300万トンある。 コメの需要量は全体で1,000万トンであるから約30%である。ここで要求される品 質は現在、国際市場で流通しているコメの品質で充分対応できる。品質はそのまま で国際市場への供給量を300万トン増やせばよい。4〜5年で充分それは可能と思 われる。つまり、4〜5年で300万トンを輸入することになると思われる。 加工部門と外食部門のそれぞれ大部分と家庭内部門の一部に進出した後、輸入米 は家庭内部門に本格的に進出することになると予想される。 輸入牛肉の場合、現在、家庭内部門へ進出しようとして、ややとまどっている。 国産牛肉のうち高級肉である和牛肉と競争し得るような牛肉を海外で生産する技術 がいまのところなく、輸入することが難しいからである。 これに反してコメはすでにコシヒカリがタイやアメリカで生産されているし、イ タリアではアキヒカリが、スペインではアキタコマチが生産されている。日本人の 食味に合うコメは現在、世界中の各地ですでに生産されている。技術的な困難はす でに克服されている。したがって、牛肉と比べて比較的早い時期に輸入米が家庭内 部門へ本格的に進出することになると思われる。 ☆ 需要特性の違い 牛肉は副食でコメは主食であるという商品特性の違いも重要である。牛肉の場合、 輸入牛肉が増加して価格が低下すれば、需要が増え価格の低下がある程度緩和され る。また、豚肉などの代替品があるのでその需要が牛肉へ向けられ、そのぶん価格 の低下が緩和されるという事情がある。これに対してコメは主食であり、しかも代 替品がない。したがって、輸入米が増加して価格が低下しても需要がそれ程増える わけではない。しかも代替品がないため、価格の低下を緩和することもできない。 輸入の増加は価格低下に直結するのである。 さらに、牛肉は需要が増加しつつある成長商品であるのに対して、コメは需要が 減退しつつある商品であるという違いがある。ここ数年の間、牛肉の輸入量は激増 したが、それは牛肉需要の増加分を輸入牛肉によって占められたのであって、いま のところ国内の生産量が絶対的に減少したわけではない。自給率の低下という相対 的な縮小にとどまっている。国内生産の絶対的縮小は今後懸念されているが、いま のところそのような事態にはなっていない。 これに対し、コメの場合は、需要の全体が減少しつつあるので、コメを輸入すれ ばその量だけ国内生産を絶対的に減らさねばならなくなる。そうしないと価格は激 しく低下することになる。この点も牛肉とコメの違う点である。 ☆ 国内供給への影響 牛肉の場合、関税化へ移行する以前にすでにかなりの輸入実績を持っていた。し かし、コメは現在、約5万トン、つまり、国内需要の約0.5%しか輸入実績がない という点の違いも重要である。コメの輸入の衝撃は牛肉の場合よりも格段に大きい ものになる。 さらに、供給側の事情もある。牛肉の場合、国産牛肉のうち約三分の一は乳用メ ス牛の淘汰牛の肉である。これはどれほど安価な牛肉が輸入されても、国内で生乳 が生産されるかぎり、その副産物として淘汰牛は発生し、淘汰牛は牛肉として利用 されることになる。したがって、牛肉の国内自給率がゼロに限りなく近づくという ことはない。これに対しコメの場合は国内供給がゼロに限りなく近づくことになる。 最後に国内の生産者に対する影響であるが、牛肉の生産農家は酪農家を含めて35万 戸であった。これに対してコメの生産農家は306万戸である。その影響する範囲は ひと桁大きい。 牛肉の関税化の影響によって、乳用オス子牛の価格は三分の一に低下し、乳用メ スの淘汰牛の価格も低下し、北海道の酪農家は平均して、年間242万円の損失を被 っている。都府県の酪農家は生産意欲を失って今後5年間でその三分の一が酪農か ら撤退すると予想されている。 牛肉の場合、自由化はそれ程までにも大きなダメージを与えているが、もしも仮 にコメの関税化を受入れれば、牛肉の場合よりも格段に大きなダメージを日本農業 に及ぼすに違いない。 新聞や一部の学者、評論家はコメ関税化を早急に決断せよ、そうすればコメが再 生するなどと根拠のない誤った主張をし、世論をミスリードするのではなく、以上 のような事態を冷静に直視し、コメを関税化すればわが国のコメは壊滅する、コメ を再生するためには関税化を回避せよと主張すべきである。