★ 専門調査員レポート


地域資源を活用した和牛生産振興

−鳥取県日野郡の事例から−

鳥取大学農学部助教授 小林 一


鳥取和牛の産地、日野郡

 今日の国産和牛の市場をみると、もともとの価格変動に加えて自由化に伴う輸
入牛肉の増大によって、枝肉及び子牛価格の低迷が深刻化してきています。また、
小規模な繁殖牛飼養農家を中心に農業労働力の高齢化が依然として進行するとと
もに、一部には多頭飼育の農家の台頭がみられます。こうした状況変化に対処し
て、中国山地の周辺ではかつて里山・山林資源を活用して展開していた、伝統的
な放牧飼養を改めて見直す動きが広がりつつあります。地域資源を活用し、舎飼
方式に近代的な放牧飼養技術を組み合わせることにより低コスト化と省力化を進
め、和牛産地としての体質強化をはかろうとする動きがそれです。ここでは、鳥
取和牛の主産地である鳥取県日野郡を事例にして、生産振興に取り組む現地の実
態を紹介します。

 日野郡は県西部に位置し、中国山地から日本海に注ぐ日野川流域に沿う溝口、
江府、日野、日南の4町からなっています。当地域は、日野和牛と呼ばれる黒毛
和種の系統牛を産出してきた古くからの和牛産地です。地域の基幹産業は農業で
あり、肉用牛は基幹品目である米と、それに続く野菜に次いで多い生産額をあげ
ています。管内には、1990年現在で3,944戸の農家があり、そのうちの911戸によ
って2,145頭の子取り用めす牛、70戸によって313頭の肥育牛が飼養されています
(「農業センサス」)。


放牧飼養の再評価の動き

 日野郡における肉用牛飼養の動向をみると、近年、飼養戸数及び飼養頭数とも
に減少傾向をたどり、和牛産地としての将来を危惧せざるを得ない状況が生じて
います。飼養頭数は最高時の1970年に比較して約4割水準に、飼養戸数は同じく
57年当時に比べて約2割水準にまで、大きく後退してきました(第1図)。飼養
頭数規模でみると、繁殖和牛にしても肥育牛にしても、3〜4頭層以下の零細飼
養農家が全体の約9割を占める状態にあります。しかも、これらの小頭数飼養農
家では、多くの場合、高齢者によって飼養管理労働が担われています。

 また、管内の和牛生産の中心部分を担っている黒毛和種の子牛価格の推移をみ
ると、全国的な動向と同じくここ3年来、下落傾向を続けています(第2図)。
94年1月の県内セリ市では、ようやく底値感が感じられるようになったとはいう
ものの、攻勢の続く輸入牛肉の影響によって、当面大幅な値上げ回復は見込めそ
うにありません。そのためこのまま推移すれば、高齢者による小規模農家などで
は、さらに飼養中止に追い込まれるものが増加することが予想されます。鳥取和
牛の産地体制をどのように再建するのか、抜本的な対策が要請されるところです。

 このような情勢に対処して、飼養コストの節減と省力化をねらいにしながら、
日野郡管内では夏山・冬里方式による放牧飼養を導入する動きがみられるように
なってきました。現在、管内には町や農協、和牛改良組合、牧野組合等が管理す
る放牧場が6カ所あります。そこでは、夏場に黒毛和種の繁殖雌牛を農家から預
かって放牧し、冬場には農家に返して舎飼する方法がとられています。また、個
人でも裏山などを利用して、放牧を行う事例もみられるようになってきました。

 放牧のメリットとしては、粗飼料の確保や飼料給与、糞尿処理の手間が省け省
力化につながる、牛の足腰が強くなり健康状態が良くなって、種付け・分娩が順
調になり、多産が可能になることなどがあげられます。逆にデメリットとしては、
放牧地の地形条件が良くなかったり草勢・草質が劣ったりする場合には、生育不
良や健康障害、種付け・分娩の不調をきたす、ピロプラズマ病等の感染症にかか
る恐れがあることなどが指摘されています。しかし、デメリット部分については、
草地造成技術の向上や予防・治療技術の発達によって、農家の心配は大幅に軽減
されてきました。


放牧事例の実態

 管内における放牧場の代表的な事例を紹介してみましょう。

 日野町にある久住(くすみ)牧場は、1986年から89年まで4年間をかけて、公
社営畜産基地建設事業によって造成されました。放牧地や関連施設は町が所有し、
実際の管理は農協が担当しています。草地面積は20.4haで、うち改良草地が10.4
ha、野草地が10.0haとなっていますが、ここの特徴は改良草地に対して主に野芝
が用いられている点にあります。あえて野芝を選択した理由は、次のような点に
ありました。牧場の地形が急峻で採草用の機械を走らせることができない。野草
放牧地にすると毎年のように雑木や草を刈り倒さなければならず、放牧のねらい
である低コストの役割を果たさない。草地として仕上がるのに5〜6年かかるが、
その後は管理に手間がかからない。芝は乾物重がたくさん得られ、飼養できる頭
数は野草地よりも多い。などです。

 牧場では、5月中旬から10月末までの期間、町内の農家から黒毛和種の繁殖用
雌牛の受け入れを行っています。92年度の放牧実績は延べ頭数が3,468頭、1日
当たり平均放牧頭数が22頭でした。利用農家は、例年15〜20戸程度となっていま
す。利用料金は、1頭1日当たり200円となっており、農家が自家で粗飼料を確
保し濃厚飼料を給与して舎飼する費用に比べれば、格段に割安です。また、放牧
の省力効果に関する試算によれば、たとえば、5〜9頭規模の夏期放牧によって
年間の総労働時間を、128時間から45%程度節減することができると見込まれま
す(中国四国農政局『低コスト肉用牛生産基盤開発調査報告書』1991年)。この
ような省力・低コスト効果があるところから、多頭化の進んだ農家や専業的な複
合経営農家、高齢者農家などの利用農家から、放牧場は高い評価を受けています。

 ところで、利用農家からは好評な放牧場ですが、一方で運営管理上の問題点も
かかえています。一番の問題は、財政負担に関わる事柄です。赤字を出さずに牧
場施設を運営するのに必要な頭数規模は、1日当たり25頭と見積られていますが、
現在の収容頭数はその水準に達していません。そのため、農協の放牧事業は預託
料収入によって物材費を賄うのがやっとで、賃金部分は農協事業の他部門からの
赤字補填によっているのが実状です。

 次に、日南町の上萩山牧野に所属する山形美智也氏の農場を紹介します。この
牧野は、85年に上萩山集落の5戸が共同で、公社営畜産基地建設事業を利用して
造成したものです。全体面積は7.9haで、うち牧草地2.9ha、混牧林地5.0haとな
っています。放牧地は、山形氏の自宅裏に広がっており、メンバーの中では当農
場がこの牧野を最もよく利用しています。山形氏は、このほかに自宅近くに個人
で放牧地1.8haを所有しています。

 経営主の美智也氏は36歳、家族員数は7名、農業労働力は本人と両親の3名で
す。山形農場は、繁殖和牛と稲作の複合形態をとる専業経営です。経営規模は、
黒毛和種の繁殖雌牛が18頭、育成牛1頭、他に水田2.0ha(うち借入地0.8ha、飼
料作1.2ha、稲作0.8ha)であり、93年は子牛を16頭出荷しました。

 当農場では、5月中旬〜7月中旬、9月上旬〜10月下旬までの期間を放牧にあ
てています。真夏の間は、あぶやダニが多いため舎飼とします。また、2カ所あ
る放牧場のうち自宅近くには、種付け予定の牛や子牛連れの牛を放すようにし、
これらの牛に対しては夜間は畜舎に連れ帰り、濃厚飼料を給与するようにしてい
ます。もう一方の放牧場に放した牛については、期間中は濃厚飼料はもとより一
切の飼料を与えていません。

 このような夏山・冬里方式の放牧を採用することにより、山形農場では優れた
飼養成績を上げてきました。まず、放牧することによって親牛の足腰が強くなり、
健康を維持して長期にわたって繁殖に供することができています。これまでに、
最高で15産した牛がいました。そして、種付け時の受胎率が高く、分娩間隔も県
平均より短くて、12カ月を下回っています。このような高い生産性を実現するた
めに、山形氏は放牧ばかりでなく、粗飼料を多く与えて濃厚飼料を控えめにする
など、日常の飼養管理にも細かな注意を払っています。

 黒毛和種の繁殖経営は元来、収益性が高くありません。それに加えて現在は、
子牛価格の低迷状態が続いているため、農場では思うように所得があがっていま
せん。そこで経営主は当面、成牛30頭飼養を目標にして規模拡大を進める予定で
いますが、そのためには放牧地や畜舎施設をさらに拡大する必要があります。規
模拡大のための投資が多額にのぼるだけに、事業の導入時期を思案中です。


伝統技術を生かして産地の再生をめざす

 中国山地の周辺では、近世から和牛の山地への放牧飼養が盛んに行われてきま
した。往事の和牛飼養は、一帯に広がっていた鑪(たたら)製鉄とその原料とし
ての薪炭生産とが深く結びついていたところに特徴を持っています。そこでは、
和牛飼養を軸にしながら、農家と水田、山林・牧野を結びつける有機的な循環農
法が形成されていました。ところが鑪製鉄の衰退と、戦後における畜力から機械
動力への転換、基本法農政下での農業経営の専門分化の進行、さらには高度経済
成長期における農村労働力の都市部への大量流出、牛肉の輸入自由化など、伝統
的な和牛生産のあり方を根底から揺さぶる要因が形成されました。こうした条件
変化を通じて、国産和牛の生産規模が次第に縮小されるとともに、その飼養方式
は、地域や経営内の土地利用との分断の性格をいっそう強めてきています。

 鳥取県を始めとする中国地方には、畜産的利用が可能な山林・原野資源をかか
えた中山間地が広がっています。高水準にあるわが国の和牛肉の生産技術体系の
なかに、これらの地域資源を活用した新しい放牧飼養技術を組み込むことによっ
て、生産コストの節減と省力化を促進し、生産農家の経済的な再生産条件の安定
化をはかることは十分に可能です。そして、未利用資源を活用して地域循環農法
の再生を進め、それを中山間地における産業活性化の起爆剤として活用すること
もできるでしょう。日野郡で展開しつつある放牧を取り入れた和牛飼養技術の再
編成の動きがしっかりと結実するよう、政策的な条件整備の推進に期待したいと
思います。


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