◎今月の話題


発酵の不思議

東京農業大学 教授 (財) 日本発酵機構 余呉研究所 所長 小 泉 武 夫









偉大なる大先輩、 微生物

 目にも見えない微細な生きもの、 それが微生物で、 地球が誕生してから10億年
後の今から36億年前にはすでにこの地表に生息していた。 そんなことがどうして
わかるのかというと、 アフリカやカナダに見られる36億年前の地層の小石の中に
その化石 (微化石) が発見されたからである。 微生物が誕生した36億年前を1月
1日とすると、 人類がこの地球上に現れたのは12月31日午後11時53分頃だといわ
れているから、 目には見えなくとも微生物は我々にとって偉大なる大先輩という
ことになる。 

 その微生物を、 人間の側から勝手に二つに分けるとすれば、 一方は病原菌や腐
敗菌のような悪玉菌、 他方は私たちの生活に役立っている善玉菌ということにな
る。 悪玉菌の方は最近、 O−157を代表として大いに世間を騒がせているから派手
に目立っているが、 善玉菌の方は常に黙々と人のために営んでいるので、 まった
くといっていい位目立ってはいない。 

 この善玉菌のことを発酵微生物又は発酵菌と言う。 発酵とは、 有用微生物の持
っている機能を広く物質生産に応用して、 人間に有益なものに利用することで、 
それを実際に行ってくれる微生物を発酵菌と呼んでいるのである。 牛乳を原料に
して乳酸菌で発酵すればチーズとなりヨーグルトになるのは発酵の代表的な例で、 
大豆から味噌や醤油、 納豆が、 米から日本酒や米酢が、 麦からはビールやパンが
出来るのも発酵であるぐらいの事は大概の人は知っている。 



数十兆円規模の発酵産業

 ところが、 その発酵を産業という視点から見てみると、 実はそれが驚くべき規
模に達していることはあまり知られていない。 今日のわが国における発酵産業の
総生産高は数十兆円だといわれているが、 発酵といえば誰もが思い浮かぶチーズ、 
ヨーグルト、 納豆、 酢、 味噌、 醤油、 酒類といった発酵品の占める割合はそのう
ちの2割にも満たず、 他の8割は従来の発酵産業のイメージとはかなりかけ離れ
た分野で発展をしているのである。 その中で、 大きく生産高を占めるようになっ
たのは医薬品の分野で、 従来は抗生物質ぐらいのものであったのが今日では抗ガ
ン剤や抗潰瘍剤は勿論、 なんとホルモンや避妊用のピルに至るまで発酵で生産し
ているのである。 

 その医薬品の分野に次いで大きなものは化学製品の発酵生産で、 例えばアミノ
酸類、 核酸類、 さまざまな糖類、 特殊な有機酸類などが微生物によって効率よく
生産されている。 そして、 何と言っても最近、 著しく躍進しているのが酵素製剤
である。 酵素は微生物が生産するタンパク質で、 生命作用は持たないが物質を分
解したり合成したり、 さまざまな基質に反応してその中間生成物を提供してくれ
たりしている。 その性質を利用して、 微生物に目的に応じた酵素を生産させ、 そ
れを応用しているのが酵素産業で、 医薬用酵素、 化学工業用酵素、 食糧工業用酵
素、 研究用酵素とその応用分野は非常に広範であり、 今日では洗剤や練り歯みが
きにまで添加されている。 

 さらにここ数年はタンパク質の発酵生産も行われ出しているが、 ここに来て最
も進展著しい発酵産業といえば環境浄化発酵である。 工場から出る汚水や廃水、 
各家庭から出る生活廃水を、 ことごとくきれいにして河川に放流できるのも、 今
日ではメタン発酵や活性汚泥で活躍している微生物の発酵作用のためなのである。 
最近は生ゴミや畜産廃棄物も装置化されて発酵処理され、 一部は有機農業の発酵
肥料として利用されている。 

 とにかくこのような発酵世界の現状を見ていると、 この微細な生きものの巨大
な力というものをまざまざと見せつけられる思いがすると共に、 もし、 この神秘
な生命現象が無かったならば、 果たして人間は生きてこれたのであろうか、 とい
う疑問さえ湧いてくるのである。 



素晴しい発酵の世界

 ところで発酵産業というこの驚くべき現状を、 さらに小さな領域に戻して観察
してみると、 発酵微生物という生きものは、 21世紀に生きる我々人間のために、 
さらに素晴らしい可能性を無数に示唆してくれているように思える。 例えば最近
の研究では、 発酵食品の多くに人の老化を制御してくれる成分が含まれていると
いうことがわかった。 納豆から取り出したナットウキナーゼという成分は、 血栓
症の患者の治療に有効に利用されたり、 ヨーグルトなどは整腸作用のほかに多く
の成人病の予防に有効であったり、 味噌汁に胃ガンの発生を抑える効果が見出さ
れたり、 テンペというインドネシアの大豆発酵食品にクモ膜下出血や脳出血の発
生を抑える成分が含まれていたりといった例である。 さらに発酵食品には共通し
て天然の酸化防止のための成分 (抗酸化性物質) が含まれていることもわかって
きた。 

 とにかく発酵菌の底力は凄まじいものがあるので、 さまざまな有効菌を選択し
てそれを応用すれば、 21世紀の人間は非常に大きな恩恵に浴することができよう。 
最近私の研究室で中国の畜肉発酵食品から分離した発酵菌が、 何と動物油脂の飽
和度を変換して植物油脂の状態に変えてしまう驚くべき菌であることがわかった。 
この発酵菌を例えば豚脂に作用させると、 白い固体状であった豚脂がドロドロと
液体状に変わって植物油脂化してくる。 

 私達は現在、 この貴重な発酵菌の応用の研究に入ったが、 まったく発酵という
世界は不思議なことが起こり過ぎて興奮の連続である。 


こいずみ たけお

 福島県の酒造家に生まれる。 専攻は醸造学・発酵学。 酒と食に関する著書多数。 
日経新聞木曜日に 「食あれば楽あり」 連載中

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