◎専門調査レポート


  別海町と同町の酪農家を訪ねて −主に土地・構造問題の視点から−

   駒沢大学 経済学部 教授 石井 啓雄

 

 


 本年の4月末、短い日程だったが、私は久方ぶりに北海道別海町を訪ねた。そ
こでは役場と農協で資料をいただくとともにヒアリングもさせていただき、また、
そのご案内で5戸の酪農家を訪ねてヒアリングをすることができた。

 このリポートの本来の課題は、この今回の訪問調査の結果を綴ることであるが、
私にとっては、別海には大きな思い出があり、それ以後の変化を確認したいとい
った気持があった。そこで、私が知る昔の別海とその酪農から筆を起すことにさ
せていただきたいと思う。

chizu.gif (5290 バイト)


別海町の酪農開発

 別海町は今日日本最大の酪農地帯であろう。だが別海酪農の歴史はそれほど古
いわけではなく、今日の展開の基礎には、そこが適地であったことに加えて、戦
後日本の農業政策の強力な働きがある。それを端的に示すのが、1950年代後半の
世界銀行の借款に基づく「根釧パイロットファーム」建設事業であり、また「新
酪農村」建設事業(事業着手1973年)であろうが、北海道酪農の発展にきわめて
適合的だった加工原料乳価の不足払い(1965年制定の加工原料乳生産者補給金等
暫定措置法による)の下で、別海ではそれ以外にも実に多く事業が行われてきた。
私が主な関心とする土地問題にかぎっても国有林の払い下げを伴う国営農用地開
発事業、開拓パイロット事業、交換分合事業、農地保有合理化事業などがそれで
ある。

 私が別海(当時村、町制施行は1971年)の酪農に最初に注目したのは、まだ農
林省統計調査部農林統計課(当時)に在籍し、1960年農業センサスの特別集計と
しての「乳牛多頭飼養の分析」を担当した時であった。農地改革と戦後開拓政策
によってつくりだされた多数の自作農家の経営発展の方策のひとつとして畜産が
奨励された当初段階においては、農家の乳牛飼養は1〜2頭ないし数頭飼いが主流
であり、また戦後、飼料輸入の途を断たれた事態がまだ回復していなかったこと
や生産費の問題、家畜の健康問題などもかかわって飼料の経営内自給や草地農業
が重視されていた。1961年農業基本法制定の頃から、畜産の選択的拡大と経営規
模の拡大が政策的に強調されるようになったが、その政策方向の基礎資料をうる
というのが、この特別集計の目的であった。当時は飼養頭数規模区分の最多頭の
規模でも成牛(あるいは経産牛)10頭で十分であった。現在とは隔世の感がある
が、この成牛10頭以上規模の当時の多頭飼養経営は、都府県の都市近郊に一腹搾
りなど戦前の系譜を引継ぐような搾乳業者経営が一定数立地していたほかは、ほ
とんどが開拓地、特に青森県の下北半島と北海道の道東・道北、とりわけ別海村
に多かった。その後、高度経済成長と表裏の貿易自由化の下で飼料の輸入が急増
し、酪農経営の規模拡大は北海道においてすら土地と頭数の拡大が併進せず、増
頭のテンポが土地面積拡大を上回るかたち、すなわち土地離れ傾向を強めつつ進
んだのであったが、当初は両者が文字どおり併進的にすすむことが期待されてい
た。少なくも私はそういう理解で当初ジャージー種の導入で始まった別海酪農の
その後の発展を見てきたのであった。

 次に、私が別海村の酪農に初めて実際にかかわりをもったのは1967、68年に農
地法改正の検討が始まった時期であった。農地法は、現在でも農地とあわせて採
草放牧地の権利移動を第3条と第5条で統制している(第5条は非農用地に転用す
る場合)が、当時の農地局長(故)和田正明氏は当初、採草放牧地に関する統制
を廃止するというご意向であった。だが、この案を全国小作主事会議に示したと
ころ、北海道などの小作主事たちから強い反対意見が表明され、再検討されるこ
ととなった。そこで、その一環として農地局農地課調査班(当時)にすでに配置
換になっていた私が命じられて別海村に出張したのであった。道庁農地調整課の
前澤利晴係長(当時)のご同行をえて、現地で関係者からヒアリングをするとと
もに、農業委員会事務局の(故)土屋豊氏などのご案内で村内を隈なく廻り、写
真を撮りながら、現地で農地であるものと採草放牧地とされるものとの間の相違
性と同一性を確認しあったのであった。そこでの主な問題点は、北海道の限界地
域においては、畑と採草放牧地の境界は不分明で両者の間は連続的であり、かつ
一体的に利用されているので、採草放牧地を統制から外すことは適当ではないの
でないか、さらに、なお農地開発を進めつつ地域においては採草放牧地がその主
な対象地になるのであって、そうした土地を農外資本の買占めなどにさらすこと
は望ましくないのではないか、といったことであった。

 結果として、農地局管理部長中野和仁氏(当時)などにご努力を願うかたちで、
農地課の意向が通って、採草放牧地に関する権利移動の統制が今日までひきつが
れることとなったのであったが、当時(故)土屋氏は別海村酪農の経営基盤強化
のためには、農家が入植にあたって配分された採草放牧地を含む附帯地の農地化
ばかりでなく、耕地防風林のように残っていた国有林や道有林の解放までも熱心
に主張されていたのであった。今回、およそ20年ぶりに別海町を訪ねて、これら
の土地の多くがすでに熟した牧草地(農地法上も統計上も畑)になっているのを
この目で確かめることができて、私は感慨ひとしおであった。

 それ以後も、1978年に農林省を退職するまでの間、私は少くも3回は調査目的
で別海町にうかがっているが、その最後の機会は、全体として原野に近かった地
域での新酪農村建設事業が緒につき、パイロット地区からの移転入植と残る人の
その跡地取得(規模拡大)が始まっていた時期であった。

 「別海町百年史」などの諸資料が明らかにしているところによれば、別海地区
への内地からの人の移住地は、幕末期に東海岸側から始まった(したがって今で
も漁業は重要な産業である)が、農業目的の移住は大正期までなお西別地区まで
にとどまった。その後、殖民鉄道の敷設によって内陸部に本格的に移住者が進出
し、1戸5町歩規模で畑作が取り組まれるようになったのは昭和戦前期であった。
1931、32年の冷害によって主畜農業への転換が目指されたとされるが、牛の飼養
は1940年においてなお、飼養戸数1,141戸、頭数4,351頭数にとどまった。戦後19
46〜53年に大量の入植(1,672戸)があったが、なお広大な未墾地が残り、この未
墾地の開発と酪農化が本格的に始まったのは1955〜56年の根釧パイロットファー
ム建設事業の着工と高度集約酪農地域指定以後のことであった。基本的に平坦な
がらも香川県にも匹敵する広い村域のため、当時は村民はいくつかの小市街地を
中心にまとまっていて村としての統一は弱く、分村の動きもあった。農協も戦後
4農協(さらに計根別地区は中標津町にまたがる別農協)が組織され、それとは
別に開拓農協も四つが設立された(開拓農協は1970年代に入って総合農協と合併
するが、農協は今でも五つある)。

 こうして私が初めて訪ねた当時の別海村の景観は、まだ多くの森林と原野があ
る半ば未開の村の面影で、農家住宅も開拓入植者の小さく粗末な木造住宅にとど
まるものが多かった。乳牛の飼養頭数が100頭をこえる農家は例外的だった。そ
して道路はほとんどすべて(あるいは全部)が未舗装であった。だが、今回の訪
問ではこの状況は驚くべく変わっていて、鉄道はなくなってしまったが、道路は
ほとんどが拡幅・舗装され、自動車が自由かつ簡単に往来できる状況になってお
り、公園などの社会施設も多数建設・整備されていた。かつてほとんどが原野状
であった「新酪」地区はもちろん、全域的に森林と原野が減り、牧草地も熟畑化
が進んでおり、牛の頭数も農家の面積規模も大きく増えていた。農家住宅も多く
が立派なものに改築されていた。

 約20年の間のこの変化は、地元の方々の努力の成果であるとともに、不足払い
と公共投資を軸に、この町で集中的に展開されてきた酪農が中心の農業政策の成
果でもあるのは疑いない。これは基本法農政が、北海道、特に別海町のような所
に実に適合的で効果的だったことの実証例だともいえると私には思えた。

 だが、その一方でまた、ここに至る過程では、後継者難と負債の累積を主な原
因として多くの農家が離農した事実があったことも否定できない。そして、ガッ
ト「UR農業合意」以後の最近の状況下では、少なくない農家で経営難と後継者
難が深まっており、また農家の経営拡大意欲は衰えているということが一般に指
摘されてもいる。こうした矛盾はなかなか表面からは見えないものであるが、以
下では正味2日の限られた時間のなかでつかみえた今回の調査の結果を、ふたつ
に分かって記述した上で、最後にこの問題についても若干の考案を加えることと
したい。


別海町酪農の推移と到達点

1.別海町の概況

 別海町は、東西50.1km、南北39.1km、総面積1320.17km2の大きな町であるが、
町の1995年現在の総世帯数は5,396、総人口は17,549人であった(国勢調査による)。
5年毎のセンサスによる人口は1960年の21,878人がピークで以後減少に推移して
いるが、この主な原因は青年の他出と後述する農家数の減少(=離農)による人
口の流出にある。産業別にみた就業人口の構成は表1に示すとおりであるが、他
の地域に比べて農業就業者と水産業就業者の占める割合がきわめて高く、これだ
けでも別海町が農業、次いで水産業の町であることは明白である。1996年度につ
いて、工業および商業の生産(出荷)額が629億円と264億円というデータもある
が、工業出荷額には大手乳業3社の出荷額も含まれている。また、それに比すれ
ば農漁業の生産額は少ないのではあるが、それでも町産業振興部「産業の動向」
によれば、1998年度の農漁業生産額は468億9,200万円であって、うち農業の生産
額は390億6,800万円。その内訳では生乳が325億9,000万円(生乳生産量428,214ト
ン)、酪農の副産物的な肉牛および乳牛個体の販売額が64億7,800万円(出荷頭
数71,325頭)で、それ以外の農産物の生産・販売はないに等しい。

表1 産業別にみた就業人口
sen-t01.gif (4070 バイト)
 注1:別海町「町勢要覧(資料編)」による。
  2:原資料は国勢調査


2.別海町の農業(酪農)の推移と現状

 そこで、次に別海町の農業(酪農)の推移と現状を確認しよう。

 表2の諸数値が示すところにその他の資料やヒアリングでつかめたことを織り
込んで要約的に列記していくと、別海町の農業(酪農)の経過と現状は次のよう
だといえよう。

ア.農家数と農地面積の急速な増加が進むようになったのは「根釧パイロット・
 ファーム」建設事業の着工以後のこと(パイロット・ファーム地区への入植戸
 数は1957〜64年の合計で548戸)であった。それとともに乳牛の急速な増加も
 始まった。それに比べて新全総の一環としての大規模畜産基地建設構想に基づ
 いて実施された「新酪農村」建設事業は、農地面積と乳牛頭数は大きく増加さ
 せたものの、農家戸数を大きく増加させることはなかった(新酪農村に酪農と
 して入植したのは110戸、他に地元からの増反や肉牛飼育目的の入植者もあっ
 たが、その中にはパイロット・ファーム地区から移転入植した農家も少なくな
 かった。また、その後現在までに約30%の約60戸が離農している)。

イ.農家戸数は、1960年頃の2,500戸台をピークに傾向的に減少するようになり、
 現在では千戸余りにまで減っている。これは離農の続発によるが、離農の理
 由は、まず専業的酪農経営であり続けるために農家がする土地と頭数の拡大、
 そして、機械・施設導入のために行う資金借入れについて償還のメドがたたな
 くなり、さらに負債が累増するものが発生すること、次いで後継者難、主にこ
 のふたつである。ちなみに1997年度末現在での農家の借入金残高は、5農協に
 わたる全農家1戸当たり平均で3,157万円であった。なお、最近では比較的に大
 きい農家で経営を個別有限会社化のかたちを中心に法人化するものがでてきて
 いるが、そうした農家はまだ15、16戸程度にとどまる。

ウ.他方で町全体の農地は、各種の農用地開発に関する事業の実施を通じて1965
 年当時の20,000ha水準から現在の65,000ha水準へと飛躍的に増加した。このこ
 とと離農農家の跡地の取得のふたつを通じて、農家1戸当たりの平均農地面積
 は、同じ期間に10ha水準から60haに近い水準にまで拡大した。見事なまでに土
 地規模の拡大が進んだといえよう。なお、この過程で農地の畑たる牧草専用地
 化が進んだことも見落すべきではあるまい。

エ.乳牛の増頭は農地面積の増加テンポをさらに上回るスピードで進み、1960年
 の1万頭、65年の2万頭水準から現在では11万頭近い頭数にまでなった。そして、
 酪農家1戸当たりの飼養頭数は、1965年の10頭水準から現在では100頭をこえる
 規模にまで拡大した。なお、この過程では乳牛の泌乳量を高める努力も効果が
 あって、現在の生乳生産量は、1960年当時の約19倍、1965年当時の約10倍にも
 なっている。年間42万トンの生乳を出荷する文字どおり巨大な生乳生産地帯の
 形成である。

オ.こうして別海町では土地面積と乳牛飼養頭数の双方が同時平行的に急速に拡
 大したのではあったが、しかし両方のテンポを比較していえば、後者のテンポ
 の方が速かったので、そのかぎりでいえば乳牛の土地依存度=飼料自給率の低
 下が進んだのでもあった。ちなみに乳牛1頭当たりの牧草専用地の面積は、19
 65年の79.1aから現在では60a以下になっている。なお、私は現在の技術問題に
 は詳しくないのでその評価はできないが、ヒアリングによれば、粗飼料生産は
 当初乾草とルタバガが中心であったが、産乳性が高くなかったので、1970年代
 にはグラスサイレージを中心として青刈りデントコーン(最高時で800〜1,000
 ha)を配するものに変わり、現在ではまた青刈りデントコーンが(100ha程度
 に)減って、グラスサイレージがいっそう重視されるようになっているとのこ
 とであった。また、現在では放牧が集約放牧のかたちで見直されるようになっ
 ているとのことでもあった。

カ.以上が別海町における酪農の展開のおおよその経過であるが、最後にもうひ
 とつ確認しておく必要があるのは、1990年代に入ってから、農家戸数はテンポ
 を緩めながらもなお減少を続けているものの、耕地面積≒牧草専用地面積と乳
 牛飼養頭数の両方がおおむね横ばいに推移するようになっていることである。

 以上は、別海町の酪農が急速な開発・高成長期を経て、その後安定・成熟期に
入ったことを示しているといえるように思われる。だが、加工原料乳の保証価格
が1983〜85年の1kg当たり90円07銭をピークとして、以後、傾向的に低下を余儀
なくされている状況(現在では73円36銭)の下で簡単にそうとばかりとはいえな
いようにも思える。

表2 別海町農業(酪農)の推移と現状
(1)農家分
sen-t02a.gif (45635 バイト)
(2)農家以外の農業事業体分を含む合計とその他主要指標
sen-t02b.gif (32672 バイト)
 注1:別海町農林課松倉氏の提供資料から作成。誘導値の多くは筆者が算出し
   たもの。
  2:原資料は、農業センサス、道農業基本調査の結果のほか別海町の資料。
  3:戸数および面積については各年2月現在。生乳生産量は年あるいは年度
   の量のいずれか不詳。加工原料乳不足払いの保証価格は、その年に決定
   された価格と思われる。


3.別海町の農地事情

 次に、農地事情について、過去に行われた各種事業による農用地造成にかかわ
る問題を別として、最近の状況を簡単に見ておきたい。

 まず、農地の転用についてである。 
 数字的には確かめられなかったが、別海町には農地法の大臣許可(2ha超)に
かかるような転用はほとんどないようであり、許可不要の公共事業への用地提供
的な転用は一定あることは間違いないが、住民の日常要求との間で対立を起こし
たり、地価を異様に高めたりするような事案はないようであった。そこで、次は
知事許可(2ha以下)の転用であるが、農家の自己転用(法4条該当)は、ほとん
どが住宅用地への転用で、1990年代に入ってからは毎年件数が数件以下、面積で
も合計1〜2ha以下という程度で量的に非常に少ない。権利移動を伴う転用(法5
条該当)は1990年代に入って毎年20〜40件、20〜50ha程度の件数と面積があるが、
別海町の特徴として、建設資材置場とか山砂採取など一時転用のために使用貸借
あるいは賃貸借が選ばれることが少なくないことがある。山砂採取の場合、農地
の利用は無償の使用貸借で、山砂をm3当たり60円ぐらいで売るという形式をとる
ことが多いのだというが、山砂を取ったあとの復元措置が十分でないものがある
ようでそこに若干の懸念が感じられはした。だが、その点を除けば、農地転用は
面積的には限られ、都府県の多くの市町村でのように、農地の転用が農業の存続
・発展に大きな否定的要因として作用しているというような状況になってはいな
い。

 次は耕作目的の農地移動であるが、別海町の特殊事情としてまず注意しなけれ
ばないのが農業委員会が中心になって行なってきた交換分合事業である。別海町
では、離農跡地と各種事業で新たに農地が造成された地域への移転入植跡地のふ
たつが供給源となって、相当の面積の農地が動くという状況が少なくも1980年代
まで続いた。そしてこれらの農地を残る農家が競って買いあうことによって多く
の農家の規模が拡大したのではあるが、しかしそれは、農地の分散をももたらし
た。こうした農地分散を解消することを目的に、1950年以来、農業委員会が中心
になって精力的に取り組んできたのが、交換分合事業である。@この交換分合事
業がかなりの成果をあげたこと−1985年頃1農家当たり3.1団地だったものが現在
は1.8団地になっている−のほか、A農業委員会を中心として推進されている農
地移動適正化斡旋事業、農地保有合理化事業、農業経営基盤強化促進法の農用地
利用集積計画などの組み合わせ運用のなかで、隣地を取得させる傾向が強まって
いること、A資金制度と税制の「改正」で交換分合事業の運用に困難が生じ、農
家のうけるメリットが小さくなっていることなどから今後一定の変容はさけられ
まいが、これまで土地改良法に基づいて農業委員会が行ってきた交換分合事業が
果たしてきた役割はきわめて大きなものがあったのである。ちなみに、別海町で
1950年以来今日までに行われたその実績は、合計で77地区61,000haに達し、簡単
にいえば、全町の農地総面積に匹敵する農地が交換分合事業によって集団化(団
地化)されてきたのであった。

 この交換分合の実績を念頭におきつつ見なければならないのが、別海町の農用
地の売買や農用地としての賃貸借であるが、農地法第3条の許可をえて行われた
耕作目的の農用地の権利移動の最近の推移は、表3に示すとおりである。だが、
現在では−北海道全体に共通する傾向として−耕作目的の移動の大勢は、農業経
営基盤強化促進法による農用地利用集積計画によるものとなっている。農業委員
会の処理方針でも、「農地法第3条の許可で処理するものは、農業者年金受給目
的の後継者への権利移動(ほとんどが無償所有権移転と使用貸借による権利の設
定で、両者の間では後者の方が多いという)と他人の間での相対契約による小面
積の飛地の処理事案ぐらいで、他は斡旋にかけ、それは利用集積計画にのせるよ
うにしている」とのことであった。なお、ふたつのものの量的関係は後継者への
経営移譲に伴うものが80〜90%程度、他人間の売買が10〜20%程度とのことであ
った。

 そこで、次に利用集積計画による農用地の移動をみることが必要になるのであ
るが、これについては1998年度の資料しか入手できなかった。それが表4である。
ここではまず利用権設定の大部分が数年後の所有権移転を前提とした北海道農業
開発公社からの一時貸付であること、次いで利用権の存続期間満了に伴う再設定
が多いことが分かる。このふたつを除けば農家相互間の新たな利用権設定は僅か
なもの(件数で15%以下)である。次に所有権移転についていえば、件数でほぼ
半分は、農地保有合理化事業で北海道農業開発公社がかかわるものであって、こ
れはタイムラグはあるが、移動量としては本質的に2倍にカウントされるもので
ある。賃貸借と売買にかかる上記ふたつの事情を考慮していえば、利用集積計画
のかたちでの実質的に新たな賃貸借の発生といえるものは、1年に件数で30件、
面積でせいぜい300ha程度ではないかと推定される。売買についても同様にして、
実質的な量としては件数で40件、面積で(合理化事業にかけられるものは、資金
手当との関係で1件当たり面積が大きいことを考慮して)、どんなに多くみても
採草放牧地を含めて1,000ha程度、農地だけなら多くみても7〜800ha程度なので
はないかと思われるのである。

 なお小作地の面積は、徐々に増加していることが農業委員会の調査結果から確
認される(表5参照)。北海道農業開発公社がかかわるものを除いていえば、小
作地率は4%程度であって、都府県に比べればきわめて低いが、自作地売買を主
流としていた北海道でも、離農者が必ずしも売りたがらない、耕作者が買わない、
あるいは買えないというかたちで小作地が増えているという事実が別海町でも確
認されるという意味で留意に値しよう。

 以上に述べたことをまとめていえば、過去数年の間の、別海町の農家の経営規
模に直接変動をもたらすような農地の権利移動は、おおまかにいって、全農地面
積約65,000haに対して、売買で1%台、賃貸借で0.5%前後であったと思われるの
である。これはかつての構造的大変動期に比べて、農地移動が数分の一以下に減
っているということを意味する。換言すれば、深部でいかなる問題が発展してい
るかはともあれとして、別海町の農業構造は、最近のところ現象的にはきわめて
安定的な様相を呈しているということである。

 最後に農地価格と小作料についてみると、ヒアリングによれば、地価は農地
(畑)でヘクタール当たり60万円水準、採草放牧地で20〜30万円程度でいずれも
横ばい状況(斡旋の場合の設定上限価格は80万円)、小作料は、おおむね標準小
作料水準が実勢になっているとのことであった。酪農の収益性悪化を反映させて、
農業委員会は1992年度に、標準小作料を1ヘクタール当たりで、上畑(牧草収穫
量45トン)を60,000円から48,000円に、中畑(同じく35トン)を40,000円から35,
000円に、下畑(同じく25トン)を20,000円から18,000円に、それぞれ引き下げ改
訂したのであったが、実勢小作料もこれと照応的だということである。そのよう
な状況の下で、では地価がなぜ下降気味ではないのかの理由はわからなかったが、
地価に対してこれまでは小作料が高すぎたのかもしれない。なお、ついでながら
付言しておく必要があるのは、農地価格と転用地価との関係である。別海町では
市街地周辺の宅地価格は、坪当たり20,000円前後と言われるが、農村地域での道
路用地への転用価格はm2当たり70円程度、ヘクタール当たりにすると70万円で
あって、これは公共用地への農地の転用価格は耕作目的の売買価格の10〜20%増
程度であるということを意味する。別海町では、幸いなことに、転用価格が農地
価格の騰貴をもたらすようなことはないのだといえよう。

表3 農地法の許可による耕作目的の農用地の権利移動の推移
sen-t03.gif (6985 バイト)
 注1:別海町農業委員会提供資料から集計。
  2:提供資料に明示はないが、採草放牧地が30%程度含まれているという。
  3:所有権移転には無償所有権移転および小作地所有権移転を含む。

表4 農用地利用集積計画による農地等の権利移動の実績(1998年度)
(1)所有権移転
sen-t04a.gif (3619 バイト)
(2)貸借権等利用権の設定・移転
sen-t04b.gif (2866 バイト)
 注:別海町農業委員会の提供資料による。

表5 小作地の面積
sen-t05.gif (3917 バイト)


農家訪問:面接ヒアリングの結果

 今回の調査では限られた時間ではあったが、5戸の農家を訪ねてヒアリングを
することができた。以下、その要点を記していく。


T.Kさん

 T.Kさん(30歳)は上春別農協管内の優良農家の後継者で、現在乳牛を総頭数
で130頭(うち経産牛58頭)飼っている。家族は両親と祖母の4人で、結婚につい
てのご本人の考えは「がんばります」である。土地は全部で39ha、すべて採草地
だといわれたが、これは客観的にいえば、農用地はすべて「畑たる牧草地」で放
牧はしていないということであろう。入植は戦後すぐで、祖父の代に根室から入
ったとのこと。農地は山林を開いて拡げたもので1団地になっているが、拡大で
きる見通しはないという。ご本人は、中卒後、江別の酪農学園の高校へ行き、そ
こで進学か就職か迷ったが、父が就職したら戻らないと思って進学を勧めたので
4年制の酪農学園大学に進学した。大学を出た時には、農業関連企業に勤めるよ
り、家に戻って農業をした方が自由だと思って就職活動はしなかったという。

 飼料は自給のサイレージ、乾草と濃厚飼料を年間3,000万円程度買っているほか、
ロールベールも200本以上業者から買っている。乳は年間463トンを出荷している。
高泌乳だけを追求するのは事故につながるものの、今後の問題としては「WTO体
制の下で乳価が下がるのはしかたない」として、生産費を下げるのは難しいので、
頭数の面でも、1頭当たり搾乳量の面でも、乳量を増やしたいと考えているとい
う。土地の拡大は地区内では難しいが、今後は牧草を買うことができるのではな
いかとみている。また、全国的に農家は減るだろうから、WTO体制の下でもなん
とかやっていけるのではないかという考えである。


I.Sさん

 上春別農協管内のI.Sさん(35〜36歳)は父母と妻、そして子供2人の3世代
6人家族である。家としては戦前の昭和4〜6年頃に入植した。現在の規模は農地
が41.4ha、牛が経産牛50頭プラス育成牛で、この1年の出荷乳量は349.7トン。
頭数も出荷乳量も多くはないが、これは独自の考えによるもので、農協の評価で
は、無理をしないマイペース型の優良経営である。畜舎も古いものを使い続けな
がら増築してきたもので、いわば新旧の4棟がつながっているという感じである。

 ご自分では「中標津農協の組合長がいわれるような意味でのマイペース酪農で
はない」といわれるが、濃厚飼料は農協とニツテンから100トン程度(支出とし
ては400万円以下)を買うだけで粗飼料は全く買っていない。農地は、ご本人の
就農(別海高校卒後、中標津の農栄学園に2年在学、その後に就農)直後に土地
取得資金を借りてヘクタール当たり80万円で離農跡地5haを購入、3年前に今度は
全部自己資金で同じく離農跡地を3ha購入して現在の面積になった。したがって、
農地は全部1ヵ所にまとまってはいないが、採草地(畑)ではチモシーのみを作
り、グラスサイレージにしている。放牧もする畑はオーチャードなどの混播で集
約放牧をしている。

 I.Sさんの考えは、たとえば「増頭すれば、現在のスタンチョン・ミルカー
方式を変えないといけない。それだと技術が変わりコストもかかる」、「農業は
ひとつひとつ細かいことの積上げだから無理なことはしない」、「親はやがて働
けなくなるのだし、土地と畜舎のバランスもあれば、機械化だって金のかかるこ
と」だから「これ以上に拡大することは考えてなない」というものである。将来
については、「乳価が下がるのは時代の流れとしてしかたがないが、(政府や乳
業会社などが)自由化をいうのであれば、他の農家のものと混入させるのではな
く、商品としてブランドで売れるというようなことにしてもらいたい」といわれ
た。


O.Sさん

 O.Sさん(65歳)はすでに長女夫婦に経営を移譲されているのだが、約20年
前に少なくも2回調査にうかがったことがあり、その後の変化のことも知りたい
という思いで再訪させていただき、ご本人の話をうかがった。

 O.Sさんは、1958年に風連地区からパイロット・ファームに単身で入植され
た(かつては開拓農協、現在は中春別農協所属)のだが、かつては「猛烈型」の
典型のような方で、働きまくって土地を手当たり次第に買い、飼養頭数も先陣を
切って100頭以上にしたような方だった。そのことを今回はご本人も認めて、そ
の経過を改めて聞かせて下さったが、当時の規模は家族労働力は基本的にご本人
一人だけで、乳牛頭数は150頭、土地も100haだったから現在の規模−飼養頭数2
00頭、うち経産牛約100頭、土地約150ha、うち農地約110ha−は、その後はゆっ
くりとした拡大だったということである。ただし、牛舎はフリーストールに変え
られていた。ただこれは省力化のためだけではなく、直接には地震を受けたため
だったとのことだった。昨年の生乳出荷量は約680トンであった。

 今回、O.Sさんから私がうけた印象は、性格はかわらないが、考え方はずいぶ
ん変わられたということだった。それには家族的不幸(1971年の先妻の死亡、
1982年の長男の18歳でのガン死など)に耐えねばならなかったこと、つくりあげ
た蓄積が可能とするゆとり、現役からのリタイアと加齢などがもちろん関係して
いようが、今回はご本人は農業の機能として、食糧供給、地域活性化、人格形成
教育、リゾート・保養、国土保全などの役割を強調されたのであった。


N.Kさん

 N.Kさん(44歳)は、親の代から中春別地区で酪農をしていた農家の後継者
であるが、家族6人(夫婦、両親、子供2人)のうち妻は病弱なので文字どおり酪
農に従事できるのはご本人一人である。土地は父(現在77歳)から年金受給時に
生前贈与をうけたのに加えて、1996年に相対で17haをヘクタール当たり80万円
で買い、また昨年には農地保有合理化事業によって38haを一時賃貸のかたちで借
り受ける(小作料は総額で267,000円)などのしかたで土地も拡大してきた。そ
の結果、現在の土地は所有46ha、借入46haの計92ha、うち農地が68ha(うち借
入30ha)である。乳牛の頭数は290頭、うち経産牛が154頭で去年の牛乳生産量は、
1,468トンであった。飼料は業者から単味で購入し自家配合をしている。牛舎は
フリーストールを1991年に建て、去年増築をした。

 N.Kさんの経営の最大の特徴は、1997年に法人(有限会社)化したことであ
るが、その理由について、ご本人が挙げたのは、妻が農業に従事できず、常時労
働力の雇用が必要で、したがってまた社会保険加入が必要だったことと、税理士
からその方が税制上有利だとすすめられたことの2点であった。法人への土地の
提供は賃貸借の形態でしているが、一方、雇用労働者(2人、いずれも男性で1人
は27歳の名古屋出身者、1人は21歳の地元のサラリーマンの息子)に対しては給
与規定や就業規則を定め、タイム・カードなども置いている。給与は月給制で初
任給は15万円、昇給額は毎年3,000円としているとのこと。

 法人化についてのN.Kさんの意見は、大きくなると組織がいるのは確かだが、
無理して法人化することは勧められないというものである。なぜなら、事務的に
面倒が増えるし、税理士への報酬(年50万円払っている)もかかる。青色申告の
方がむしろ安くあがることが多いはずだからというのである。

 今後については、家族が生活していくためには今の状態では中途半端なので経
産牛250頭規模まで牛を増やしたい(しかし、その場合には地域との関係で現在
以上のふん尿対策が必要)し、土地も買いでも借りでもいいからそれに見合うと
ころまで増やしたい(1頭当たり0.5ha)が、土地は自分の都合では手に入らな
いのがむつかしい点−買いでも借りでも供給があってはじめて成りたつので−だ
という。


E.Kさん

 E.Kさん(1932年生れ)は日高の出身であるが、親も兄弟もサラリーマンの
家に生れ育った。農業がやりたくておじの所で農業経験をし、ブラジルに移民す
るつもりだったところ、別海町の開拓パイロットの話を聞き、入植希望を出して、
それがかなえられ、1958年に入植した。土地の配分は15.3haで牛舎は搾乳牛15
頭ぐらいしか飼えないものだった。もっと大きくやりたいと思って、新酪農村へ
1977年に移転した。負債はなかった。新酪農村のどこへ入れるかは希望を考慮し
た上での抽選だったが、結果としてはよい所(市街に近い、面積は狭いが平坦)
に入れたと思っているという。

 新酪の土地は50haの配分が基準だったが、直接配分されたのは25haで代金は
350万円、取得資金700万円を借りたが安かったと思っているという。その後、
別海町農協に配分された畑から8ha、離農者からヘクタール当たり45万円で買っ
た13haなどあわせて現在の土地は74〜75ha。農用地開発公団が建てた施設は、
搾乳牛50頭、育成牛12頭など用の牛舎、スチールサイロ、共同作業を前提とし
たスラリーストア、パドック、倉庫など。機械は共同所有で、ハーベスター、
草刈機、集草機、トラクター(5台)など一式。事業費は1戸当たり2億円はかか
ったのだと思うが、補助残の要償還額が土地代を含めて6,000万円(なお、道水
路の敷設、電気設備などは町の負担で町は毎年予算を組んでいるが、2003年ま
でで10億円の負担になると予想されている)。住宅は自力で各人が建てた。償
還金の利率は7.2%で、あと5年で償還を終える。

 E.Kさんは、牛は60頭連れてきたというが、現在の飼養頭数は、経産牛73頭
を含めて全部で130頭である。

 E.Kさんの経営の中心はすでに息子さんに移りつつあるが、息子さんの今後
についての意見は次のようなものである。頭数は今のままでいいが、よい草を
食べられるよい牛をつくって、現在700トン台の生乳生産量を900トン台にあげ
たい、ただ草の収穫は機械を買わず、労働力問題もあるのでコントラクターに
頼みたい。乳価は65円まで下がることを頭においている−というのである。


むすび

 以上でかなり長くなったが別海町の調査報告の記述を終わる。

 別海町では、有名な、パイロット・ファーム、新酪農村建設ばかりでなく、開
拓パイロット事業など各種農用地造成事業によって、1965年基準でも3倍をこえ
る農地拡大が行われ、それをベースとして、加工原料乳の不足払い乳価にも支え
られた入植農民の努力によって、平均で飼養100頭を超えるような大規模な家族
型の酪農経営が層をなして成長し、巨大な酪農地帯が形成された。これは戦後農
政の大きな成果である。

 こうした構造がつくりだされて、一応安定的な状況が生じて、ほぼ10年がたち、
5年前の調査では、農家の59.0%が現状維持を望む状態となっていた(町の1994
年調査の結果、拡大を望む者34.8%、縮小するとした者6.2%)。だが、これが
今後とも続きうるのかどうか。

 面接ヒアリングをした5戸の農家はすべて優良農家であり、後継者もいたので、
これらの農家は、仮に今後かなりの乳価低落があっても経営を維持・発展させる
ことができるだろう。その発展の方向は、一部に拡大志向を含みながらも、大勢
としては現在の労働力と土地および頭数規模で、コストを下げながら牛乳の生産
量をあげることを志向しているものだと判断された。

 だが他方で、かなりの数の農家に多額の負債があり、また、後継者難があるの
も否定できない冷厳な事実である。今後この傾向が強まって、これまで以上のテ
ンポで離農が発生しないともかぎらない。その離農の発生が逐年これまでの10年
程度の量にとどまるかぎりは、それらの土地はゆとりのある農家によってたぶん
吸収されていくだろうが、それが大きく上回るようなものであった場合には、か
なり大きな混乱状態が生ずる可能性もなしとしまい。

 私としては、そうした事態が生じざるをえないような政策のドラスチックな変
化がなされないことを心から願わざるをえないという思いである。


〈補記〉

 今回の別海町訪問は事業団の武田紀子さんの同行をえたが、町では農林課主幹
松倉芳博氏をはじめ、酪農係長土井氏、農業委員会事務局(局長樋口英樹氏)の
各位、そして上春別農協営農部長の細谷俊勝氏、中春別農協営農課の登義直、山
田幸夫両氏などのご協力をいただいた。訪問に対して時間を割いて応接下さった
農家のみなさんとあわせて、これらのみなさんに篤く御礼申し上げたい。

 また約20年前にお世話になった元中春別農協参事の吉田有志氏にお目にかかれ
たほか、くり返して最もお世話を下さった(故)土屋豊氏(1970年前後の時期の
農業委員会事務局長)の仏前にやっと詣でることができて、私としては長年の胸
のつかえをおろした思いがしている。

betukai.gif (50957 バイト)

【別海町観光協会パンフレットより】

元のページに戻る