◎今月の話題


物質文明から生命文明へ

慶応義塾大学名誉教授 (社)農林水産先端技術産業振興センター(STAFF)会長 渡辺 格








生物学の時代

 米国のクリントン大統領が21世紀はバイテクの時代だと言ったとわが国では伝
えられているが、これはかなり誤っており、「21世紀は生物学の時代だ」が正し
い。20世紀は物理学の時代、21世紀は、バイオテクノロジーや、医学、もちろん
農学をも入れた(新しい)生物学の時代である。要するに、生物学の発展が非常
に意味を持ってくるのである。極端なことを言えば、生命の操作をして、新しい
生物をも作り、既存の生物を含めた生態系のことも考えて、生物と共存できるよ
うな人類社会を作ろうということが問題になるのである。生き物のことをよく知
ることによって新しい世界を開いていく、そういう時代に入ろうとしているので
ある。


イネゲノムの解析

 日本は、農林水産省はといった方が良いかもしれないが、これからのバイオロ
ジーに向けて科学技術を推進するための2つの切り札を持っている。

 その1つがイネゲノムの解析である。2050年には世界人口は100億人になるとい
うことで、これは現在少し訂正されているが、おそらく90億人ぐらいにはなるで
あろう。とにかく早晩、エネルギー問題、食料問題、環境問題が大きくなり、そ
れを救うには、いろいろ工学的な形での方法もあるが、やはり大きくは生物の力
をかりなければならないであろう。そういったことが、私がイネゲノム解析を提
案した大きな原因である。農林水産省では、農林水産ゲノム会議といったものを
作り、早くからイネゲノムの解析に着手した。今では色々な形で研究費がついて
きており、国際的にも空白な領域に先鞭をつけたが、今は追われる立場になって
いる。

 しかし、イネのゲノム解析の目的は何かというとこれが難しい。これを国内だ
けの問題とすると、米の生産はこれ以上増えても……ということになる。私は、
これを地球規模での食糧・エネルギー(あるいは環境)問題の一端として、国際
的な寄与のプロジェクトとして打ち出すことが本筋ではないかと思う。

 今後ともこれをより強力に推進するために、農林水産省を中核とした新しい広
い組織作りが期待される。


クローン技術

 もう1つは体細胞クローン技術である。牛のクローンは、国際的に非常に重要
な成果である。体細胞クローンはイギリスで、羊で最初に行われたが、これは当
時、米国などでは本当の体細胞クローンではないのではないか、胚細胞が入って
いたのではないかなどと疑問視されていたのである。日本が牛で体細胞クローン
であることを見事に国際的に実証したのである。

 牛の体細胞クローンができたもう1つの成果は、牛の場合でも遺伝子組み換え
が現実に可能であるという新しい道筋をつけたということである。

 つまり、体細胞を培養しその核を遺伝子操作し、色々な処理によって遺伝子が
入ったかどうかのセレクトができるわけである。家畜であれば、1頭が非常に高
価で、セレクトのために多数を使えないが、細胞レベルであれば、どの遺伝子が
入ったのかチェックをすることはできるわけであり、思った遺伝子が入った組み
換えクローンができるわけである。

 クローンができたということは、実は遺伝子組み換え動物ができるということ
でもあり、その組み換えが、社会的にどのような影響があるかということは別問
題で、技術的にはすぐにでもできるということなのである。


科学の方法論の変化と遺伝子組み換え

 科学の方法論が変わってきている。今までの科学は物理学を中心としてきたこ
ともあるが、原因を解明する方向であった。ところが、現在はそうではなくて、
一種の操作科学というか、まさに生命操作なり遺伝子操作がそうであるように、
最上位の原因となる所を変えたら何が起こるかという、原因→結果の方向に反転
してきている。それはある意味では予知できないからである。

 遺伝子組み換え動植物が危険だという気は私はしていないが、未知の部分が全
くないとも思っていない。やはり、一方である程度一見むだとも思われる探索と
研究をしておく必要がある。

 実は、初期の遺伝子組み換えの場合もそうで、日本はこのための"むだ"な調査
・探求の研究をやっていないのである。米国では、遺伝子組み換えについては、
随分反対運動があったのであるが、それに対しては、今から見るとほとんどむだ
かもしれないような調査・研究に研究費を随分つぎ込んでいるのである。例えば、
菌が研究室外に出ていつになったら死ぬとか、無毒化されるとか、そういった一
見むだな実験、論文にならない実験もして。しかも必要以上に厳しいガイドライ
ンを作成したのである。そして、それを緩和していくわけだが、そこに学問的な
理由があるかというと、必ずしもそうではなく、政治的な表現をすれば世の中の
良識が進み、批判が少なくなったからである。その背景には、社会に対して、
"むだ"とも思われる実験と研究をやっているという実績があったからである。

 日本では、社会から無意識的に要請されてはいるが、業績にならない"むだ"な
研究の必要性が全く考えられていない。また若い時からの教育もない。今必要な
のは、そのような一見"むだ"で必要な研究と実験のできる第三者機関を作ること
だと思う。

わたなべ いたる

 昭和15年東京帝大理学部化学科卒、31年東大(理工研、理学部)教授、34年京
大ウイルス研教授、38年慶応義塾大(医)教授。日本のDNA研究、分子生物学の
パイオニアで生命科学振興の指導者。また、ノーベル賞生理学医学賞受賞者であ
る利根川進氏の恩師としても有名。

元のページに戻る