日本大学生物資源科学部 助教授 小林 信一
阿蘇草原における放牧の歴史は、遠く平安時代にまでさかのぼる。「延喜式」 には、阿蘇に二重馬牧(ふたえのうまのまき)と波良馬牧(はらのうまのまき) の2つの官営牧場があり、軍馬を生産していたことが記されているという。阿蘇 の草原を「千年の草原」と呼ぶゆえんである。 阿蘇草原は、世界最大のカルデラ式火山である阿蘇山の中央火口丘と128キロ メートルに及ぶ外輪山に広がり、草千里に代表されるように全国的な観光地で、 年間約1,500万人の観光客を集める。しかし、標高600〜800メートル、年平均気 温11〜12℃、年間降水量2,800ミリの自然条件下では、本来ならば植物遷移によ ってやがては森林に覆われることになる。阿蘇が千年にわたって草原として維持 されてきたのは、とりもなおさず人間が野焼き、放牧、採草などによって草原を 利用・管理し、人為的に遷移を妨げてきたからに他ならない。 野焼きは、一時新聞などに「ダニ駆除のため」と書かれたこともあったという が、本来の目的は、「草原から森林への移行の第一歩となる潅木や低木(サルト リイバラ、ノイバラ、アキグミ等)を火で抑圧し、火に強く牛馬の嗜好性の高い ネザサ、ススキ、トダシバ、シバなどのイネ科の植物を選択的に残して、安定し た草原を維持することで、‥‥最も粗放だが、省力かつ効果的な草地管理技術で ある」(注1)。 草原は入会権の下、牛馬の飼料、水田の刈敷、屋根葺き材料としてのススキの 刈り入れなどに利用されたが、同時に野焼きなどの草地管理が村落共同体の規制 によって行われてきた。阿蘇の草資源は単に家畜の飼料としてのみならず、家畜 を通したきゅう肥の生産による農地の地力維持・向上や、さらに給餌後の飼料残 さの燃料利用など広範にわたっていた。つまり、家畜を媒介として草原と耕地の 間の物質循環が、図られていたわけである。
【阿蘇の雄大な平原】 |
入会権は、江戸時代の細川氏が肥後に移封された1634年に始まると言われる。 現在でも175集落に、牧野組合として入会制度の慣習がほぼ原型を保って伝承さ れている。
千年にわたって維持されてきた阿蘇の草原だが、近年それが危ぐされる状況に ある。 「阿蘇郡牧野および牧野組合現況調査」によると、阿蘇郡の草地面積は郡全体 の19%に当たる2万2,955ヘクタールに達する。その64%である1万4,761ヘクター ルが野草地、27%(6,249ヘクタール)が牧草地、9%(1,945ヘクタール)が林 地となっている。このうち、野焼き面積は1万6,430ヘクタールで、平成7年以降 野焼きが中止されている面積も430ヘクタールある。これは全体の3%にすぎな いが、7年以前に中止された面積は含まれていない。また、今後についても、有 畜農家の減少や高齢化の進行を考えると、中止面積が拡大される恐れは強くなっ ている。 野焼きは、枯れ草を除き芽吹きを促すために、春の彼岸前後に行われるが、そ れ以前にも準備作業としてさまざまな付随的な作業が必要となる。特に輪地切り (わちぎり)と呼ばれる作業が、不可欠である。これは、野焼きによって野焼き 対象地域以外に延焼して山林火災が発生しないように、5〜10メートル幅の防火 帯をあらかじめ作っておく作業を指す。輪地切りは、9〜10月初めの残暑の中、 急傾斜地で重さ7キログラムにも達する刈払機を担いで行うため、特に肉体的に 厳しい作業である。 輪地切りの総延長は、直線距離で熊本から静岡に匹敵する640キロメートルに 及び、面積に換算すると甲子園球場の113個分の438ヘクタールに達する。しかも このうちの20〜30%は、傾斜度35度以上の急傾斜地が占める。若い人にとっても 重労働と言えるこの作業を、平均年齢53歳(60歳以上が2割)の出役者が、1人 1日当たり809平方メートル(約250坪)の面積をこなさなければならない。延べ 出役者数は5,415人と、野焼きの7,539人(1人当たり2.17ヘクタール)に匹敵す る人手を要する。
【赤く燃える野焼き】 |
こうした作業は入会権者が利用権の行使の代償としての義務として行ってきた が、入会権者の多くはすでに草原を実際には使わなくなってきている。つまり、 実際の草原の維持管理者である入会権者と、草原の利用者である畜産農家とのか い離が進んでいるのである。入会権者は合計1万198戸あるが、そのうち農家は67 %(6,817戸)、有畜農家に至っては18 %(1,828戸)にすぎない。輪地切りに出役しているのは、入会権者の53%、農 家の80%、野焼きへの出役は入会権者の75%と、現在のところ草地の利用者であ る畜産農家以外の入会権者も、作業に義務として参加している割合が高い。しか し、今後もこの状況が続けられるかどうか、厳しい状況にあると見る人が多い。
野焼きを中止した牧野組合の事情を見ると、輪地切りや野焼き作業が有畜農家 にまかされる中で、畜産農家数が減少し、やりきれなくなるという過程をたどっ ている。ある牧野組合の場合には、肉牛農家が減ったために、輪地切り面積負担 が1人1万5,000平方メートルにまで広がり、労力軽減のため一部地区の野焼きを 中止したという。この牧野組合では、昭和20年代までは50戸以上の世帯主が輪地 切りや野焼き作業に参加していたが、現在では11戸にまで減っている。かつては、 ほとんどが有畜農家で、野焼き作業は村仕事として義務化されていた。どうして も参加できない農家には、「賦銭」という罰金が課せられた。しかし、現在は作 業に参加している割合は、世帯の2割未満にすぎず、もはや村仕事とは言えなく なっている。 また、野焼きの対象原野が林地と接している箇所では、野焼きに伴う山林火災 の危険性が高く、輪地切りの幅も広く取る必要があり、その分作業もきつくなる。 こうした林地境界率の高い牧野組合で、野焼きの中止に追い込まれた例が見られ る。林地境界輪地切りの延長は、全体の47%の303キロメートル、208ヘクタール にもなる。中には、実際に野焼きによる山林火災が起こったため、その補償に新 植や下刈り作業が課せられ、畜産農家の減少と相まって野焼き中止を決めた牧野 組合もある。 このように、輪地切り、野焼き作業の限定化→畜産農家の減少→負担の増加と いう過程を経て、野焼きの中止に至る面積が増加することが危惧されている。野 焼きが中止された原野では、まずススキが長大化し草丈は2メートル以上に達し、 地上部の枯れ草の量も10アール当たり240〜490キログラムになる。3〜4年後に は低木が徐々に優占してくるが、地表部には枯れ草などがたい積し、その量は野 焼き継続地の10倍以上にも達する。こうした状況では、いったん火災が発生する と、もはや人間の力ではコントロール不能になる。また、枯れ草のため、草原は 6月ごろまで枯れ野の風景になってしまい、景観を損なうことで観光上の魅力を 減退させるという面も指摘されている。
これまで見てきたように、野焼きの中止要因は労力不足が大きいが、突き詰め れば草原を利用しなくなったためと言えそうである。それは、刈敷きや屋根葺き 用はもちろんのこと、草原の畜産的利用の減少である。つまり、家畜を放牧する 農家や、放牧家畜頭数が減少したためと言い換えることもできるだろう。 戦前は5月初め(八十八夜)から7月初め(半夏)までと、8月初め(立秋)か ら9月終わり(秋彼岸)までの2回に分けて、合計100日程度の牛馬の放牧が行わ れていたという。昭和3年の放牧頭数は、成牛1万5,700頭、成馬1万1,300頭で、 放牧延べ頭数は270万頭日と計算される(表1)。 表1 阿蘇郡における牛馬の飼養頭数と放牧日数 資料:大滝典雄「草地畜産の歴史と現状および問題点」 注:延べ放牧頭数は推計値 その後、馬の飼育頭数減を牛の頭数増加が埋め合わせ、さらに放牧日数が増加 したことによって、放牧延べ頭数は30年に450万頭日に達した。しかし、それを 境に減少に転じ、放牧延べ頭数は約250万頭日と、戦前に及ばない水準になって しまっている。これは放牧日数こそ4〜11月までの240日と以前の倍以上になっ たが、頭数が牛馬合わせて1万1,600頭とかつての半分以下に落ち込んだためであ る。 ちなみに、放牧日数が2倍以上に伸びたのは、かつてはきゅう肥や役利用の目 的もあったため舎飼い期間を長めにとっていたこともあるが、戦後になってから の牧野改良による牧草導入が牧養力を高めたことが大きな要因となっている。
熊本県はあか牛(褐毛和種)で有名だが、飼養頭数は近年急速に減少している。 牛肉輸入自由化前の平成2年に3万7,038頭を数えた褐毛和種の子取り用雌牛は、 10年には1万8,124頭と半分以下になってしまった。一方、黒毛和種は同期間に5, 647頭から1万523頭へ、こちらは倍増している。しかし、合計頭数では、3割以上、 1万4,000頭程減少している。 阿蘇郡の子取り用雌牛頭数に注目してみると、2年の1万6,887頭が10年には1 万1,270頭と5,000頭以上減ってしまっている(表2)。熊本県全体に占める割合 は、減少率が県平均とほぼ同程度であったため、4割と変わっていないが、品種 別には大きく変化している。つまり、2年には褐毛和種がほぼ全部を占めていた のが、わずか8年の間に8割台にまで低落し、その一方で黒毛和種が大きく増え ている。ただし、それでも褐毛和種の減少率は、他の地方より低かったため、県 全体の褐毛和種に占める阿蘇郡のシェアは同時期にむしろ増加し、5割を上回っ ている。 表2 阿蘇郡の子取り用雌牛の飼養状況 資料:熊本県畜産統計 つまり、阿蘇においても肉牛繁殖農家が減る中で、残った農家も褐毛和種から 黒毛和種へ急速に品種を変えているが、熊本県内の他の地方と比較すると、依然 として褐毛和種を飼養する農家が相対的には多いということになる。 褐毛和種には、熊本系と高知系の2系統あることは周知のことであろう。しか し、両者は毛色が同じなので一くくりに「褐毛和種」とされているが、その発展 過程はかなり異なっている。高知系は韓牛の影響を強く受けているのに対して、 熊本系は明治期に、在来の和牛にデボン種やシンメンタール種が交雑されて作出 されたもので、高知系よりも大型であり、24カ月齢で700キログラムほどにまで なる。褐毛和種全体で40〜50年ほど前までは全国に50万頭ほども飼われていたが、 現在では北海道や東北の一部を含め5万頭程度になっており、熊本県でも肥育牛 を含め3万頭ほどである。 熊本系の中でも阿蘇地域の褐毛和種は放牧特性がある上、肉質的にも優れてい ると言われる。しかし、黒毛和種との比較では、やはり「さし」に見劣りする個 体が多く、市場評価は必ずしも高いものではない。10年度の熊本県における品種 別枝肉格付け結果によると、2等級以下が54.8%と過半を占め、4等級以上率は わずか8.2%にすぎない(表3)。黒毛和種(2等級以下率10.6%、4等級以上 率52.3%)と比べてはもちろんのこと、乳用種と黒毛和種の交雑種(それぞれ29 .9%、17.4%)と比較しても格付け成績は低いと言わざるをえない。褐毛和種の うち、肥育目的で飼養されている去勢牛のみを取り出して、その枝肉格付け成績 を見ても、2等級以下が36.0%と交雑種よりも多く、また4等級以上率は10.3% と低い。こうした市場評価の低さが、牛肉輸入自由化以降の急速な頭数減をもた らした要因となっていると考えられる。 表3 品種別枝肉格付け成績(10年度) 資料:熊本県経済連、熊本県情報システム事業成績
阿蘇草原の維持に黄色信号が点滅し出した平成初めの頃、熊本市を中心とする 周辺都市部の住民による千年の草原を守る取り組みが開始された。 阿蘇に大きな湖はないが、地下数百メートルには大地下水盆があり、周辺地域 には少なくとも1,500カ所以上の湧水があると言われている。その湧水は、九州 5県を流れる川、筑後川、菊池川、白川、緑川、五ヶ瀬川、大野川という主要な 6河川につながっている。九州の人々にとって、阿蘇は水瓶であり、命の水の源 であると言われることも納得できる。 農村と都市の結びつきの中で、阿蘇の緑と水の生命資産(グリーンストック) を、人類共通の財産として次世代に残していこうという阿蘇グリーンストック運 動は、この水源を守ることを契機に生み出された。つまり、リゾート開発による 地下水汚染など環境悪化への懸念が出発点となって、阿蘇の自然や農業の維持を 地元農民などの努力にのみゆだねるのではなく、飲み水などの便益の受け手であ る都市住民も資金と労力を出し合って保全していこうという運動になった。 具体的には、平成2年に岩波新書「リゾート列島」の著者でリゾート開発に対 し批判的な論陣を張っていた佐藤誠熊本大学教授と、地元の農業者である山口力 男氏が、「阿蘇・久住・飯田高原総合調査報告書」の中で、この構想を提唱され た。これを受けて、4年には「財団法人阿蘇グリーンストック設立準備会」が発 足し、まず阿蘇町に13.5ヘクタールの農地、森林をトラスト用地として買収した。 5年からは、地元の生協であるグリーンコープくまもと共生社の組合員1万2,0 00人以上が、財団設立のための100円基金積み立てを開始した。そして、7年に 「財団法人阿蘇グリーンストック」が、基本財産1億2,000万円(寄付金1億4,0 00万円)で正式に発足した。基金には県内の48企業団体や43名の個人が出損企業 として拠出し、現在の基本財産は約1億4,000万円になっている。この中には、 前述した生協組合員が毎月100円ずつ3年間にわたって積み立てた約4,000万円の 他、阿蘇町の5,000万円や財団法人肥後の水愛護基金、熊本ファミリー銀行、鶴 屋百貨店、熊本日日新聞、JA熊本中央会、熊本電鉄、YMCA、全農林九州地 本など県内の企業や団体からの5,000万円が含まれている。 財団理事長には、地元阿蘇町の河崎敦夫町長が就任しているほか、県内の主な 企業、団体などから役員が出ており、農村・都市および行政からの幅広い支持を 受けて設立されたことをうかがわせる。財団の事務所からして、阿蘇の入口に当 たるJR豊肥本線赤水駅舎内にあり、切符販売などの駅務を行う代わりに安く提供 されている。事務所からは阿蘇の雄大な眺めと輪地切りや野焼きの跡を見渡すこ とができる。
財団としての活動内容は多岐にわたっているが、主なものには、@農林畜産業 の振興支援事業、A草原維持などに向けた啓発と調査・研究事業、B阿蘇の自然 環境・水資源・景観の保全と活用(ナショナルトラスト)、C農村グリーンツー リズムの推進などが挙げられる。 調査・研究事業によって、前述したような阿蘇12カ町村の野焼き、輪地切りの 実態が初めて解明されたほか、輪地切りの機械化実験、あるいは野生動植物の生 息調査などが行われている。啓発普及事業としては、草原シンポジウムや草原コ ンサートなどが開催され、今後も草原サミットの開催が計画中である。また、借 地も含めて5ヘクタールの森林トラスト地で、7,000本近くのクヌギ、イチョウ、 モミジ、サクラなどの広葉樹の植林による「水源涵養と野鳥の森づくり」が進め られているが、森林トラストとしては、親基金とは別に1口1万円でトラスト基 金を設け、林地の買い増しや、植林の費用に当てている。植林や下草刈りの作業 自体は、財団の運動に共鳴したボランティアによって行われており、昨年4月の 植林時には130名、8月の下草刈りには80名のボランティアが集合して作業を行い、 県なども苗木購入費の半額助成を行い、バックアップしている。 さらに、財団の活動としてグリーンツーリズムが挙げられる。これは、関西方 面の生協組合員の家族を対象とした4泊5日の自然体験キャンプや、中学生の農 業体験型修学旅行の受け入れなどである。どちらも農家での宿泊を行うが、後者 はこの春すでに10校、1,800人の申し込みがあるという。 また、阿蘇草原の維持に直接貢献する活動として、野焼きボランティアとあか 牛産直がある。野焼きボランティアは、前述したように労力不足で野焼き、輪地 切り作業が難しくなりつつあることから、都市生活者が自ら労力を提供して草地 の維持の支援を行おうというものである。6年に開始され、11年から本格的な取 り組みとなり、一昨年はボランティア290人、昨年は東京なども含め476人からの 申し込みがあり、実際には3月下旬の1週間にわたって4町村11カ所で169名が野 焼き作業に当たった。また、今年度は656名が申し込み、実際に約270名が7町村、 13牧野組合で行うなど、年々増加している。野焼きは天候に左右されるため、予 定日に必ずしも作業が行えないことから、申込者と実際の作業者に差が出てしま うが、登録制を設けて恒常的な支援者の確保に努めている。もちろん延べ5,000 人を上回る野焼きや輪地切り作業に必要な労力からみれば、いまだ微々たるもの で、また、講習会を受けるとはいえ危険な作業に習熟しているとは言えない素人 の作業では、野焼きや輪地切り作業を支えるとまではいかないだろう。しかし、 実際に作業をすることによって、草原維持の困難性を身を持って体験し、その意 義を再確認することにはつながると言えよう。
あか牛の産直は、草原での牛馬の放牧頭数減少が草原の荒廃につながるとの認 識の下、「急傾斜の草原の草を食べていくあか牛を四輪駆動の草原管理士と位置 付け、あか牛を食べて草原を守ろう!をキャッチフレーズに、生協や財団会員、 地元ホテル、大学生協などに呼びかけ」、7年1月から開始された(注2)。 当初は、阿蘇町の阿蘇農協および黒川農協のあか牛部会生産者10名と、生協連 合会グリーンコープ事業連との間の産直としてスタートした。グリーンコープ事 業連は、鹿児島県から広島県までの13の生協連合で、約30万世帯を組織している 九州地区有数の生協である。 産直牛の条件としては、@阿蘇郡内で生産された子牛を2〜3カ月以上放牧 (夏山冬里方式)し、10〜24カ月齢までは牛舎で肥育する、A粗飼料を多給する、 Bホルモン剤、抗生物質は使用しない、などとなっている。引取条件は、格付け 等級A2、3を対象に、東京、大阪、福岡市場の平均価格に若干上乗せした価格 とした。生産者にとっては、有利な水準と言えよう。 しかし、導入した子牛が肥育され、実際に産直が開始された8年4月以降、月 20頭の計画で始まった産直事業は、しばらくすると暗礁に乗り上げてしまう。生 協組合員への供給価格が高いロースが売れ残り、5月にはそれが28頭分にまで増 加し、業者に引き取りを依頼する状況となった。その結果、産直頭数は8月には 5頭にまで落ち込んでしまった。また、生産者10名中肥育経験者が半分しかいな かったことや、粗飼料多給の条件のためか、肥育成績が必ずしも良くなく、途中 で2名が産直事業から抜けている。こうしたことから、契約更新を契機に生協側 から価格見直し提案があったが、生産者側との合意に至らず、11年4月からグリ ーンコープは別の生産者団体(南阿蘇畜産農業協同組合)との産直に移ることに なった。しかし、阿蘇町の生産者グループもグリーンストック財団を通した産直 は、新たな相手先と続けることになり、結局、産直は当初のもくろみほどうまく いかなかったにもかかわらず、拡大する結果となった。 グリーンコープ事業連と南阿蘇畜協との産直は、月20頭を目途にしており、飼 育条件などは以前と変わらない。しかし、取引条件は取引時点を基準にして、東 京・大阪市場の4カ月前から1カ月前までの3カ月間の相場単純平均に対して、 A2、3とも一定額を差し引く形に引き下げられた。ただし、最低価格を1,250 円(税別)として、生産者側を支える配慮を行うこととなった。 南阿蘇畜協では、年間1,200頭程度を県畜連と共同で大手ハムメーカーに出荷 していたが、生協との産直には積極的だった。この間の事情を穴見盛雄組合長は、 「今後、褐毛和種が生き残るには、産直しかないと思っていた。生協との産直は 夢であった。」とまで語っている。グリーンストック財団から話があってから基 本契約の締結まで2カ月ほどしかかからなかったことを見ても、畜協側の熱意が 知れる。グリーンコープ事業連との産直は、畜協側にとっては安定的な取引の拡 大とともに、グリーンコープの本部がある福岡における、あか牛認知度の向上と 消費拡大が期待されるものだった。 一方、阿蘇町の生産者は、グリーンストック財団の関連会社である株式会社み どりの資産と、グリーンコープ以外の他生協(熊本大学生協、横浜のナチュラル コープなど)などと月12頭の計画で継続している。こちらの取引条件も結果とし て東京・大阪市場のと畜前10日間の加重平均から、A2、3とも南阿蘇畜協と同 程度の額を差し引き、その他の等級は市場価格を基準とした相対取引に変えられ た。結果としては、双方とも似通った取引条件に落ち着いたと言えるだろう。
産直はあか牛の生産を下支えすることによって、阿蘇草原を維持していこうと いうもので、そのねらいはすばらしいが、実際には困難な点があった。それは、 結局だれがコストを負担するかということである。当初の取引条件である黒毛和 種と同等かそれ以上の価格で引き取ることでは、あか牛生産のインセンティブを 高めることには効果があったとみられるが、高値での引き取りは、販売価格を上 昇させ、結果として高級部位の売れ残りにつながった。あか牛産直事業で、パッ カーとしての役割を担っているA氏は、高価格で買い入れた牛肉の販売にいかに 苦労したかを語ってくれた。 現在の取引価格は市場実勢に近い分、「売りやすく」はなっているだろうが、 生産者があか牛生産を増やす動機付けに十分かどうかという問題が残る。また、 現在のグリーンコープのあか牛肉の組合員供給価格は、ローススライスが100グ ラム当たり670円、バラスライス、モモスライスとも460円となっており、他の産 直国産牛肉などに比べると割高感がある。グリーンコープくまもと準備会でのあ か牛肉取扱量は、牛肉全体の5%程度で、大幅な伸びは期待できないようだ。 こうした一種のトレードオフの状況から抜け出すには、あか牛の特徴を活かし た生産・販売が不可欠だが、こうした取り組みもすでに行われつつある。1つは、 グリーンストック運動の中から生み出された「あか牛トラスト」である。これは、 一種のオーナー制度であるが、収益を目的としない阿蘇草原を守ることを第一義 として考えられた仕組みである。実施主体は、野焼きボランティアを体験し、グ リーンストック福岡支部を結成した福岡県在住の都市生活者である。趣旨に賛同 した会員が「阿蘇あか牛くらぶ」を設立し、あか牛の購入資金を提供して、農業 生産法人「グリーンファーム阿蘇」を通して地元の生産者にあか牛の飼育を委託 する形態を取ることになっている。生産法人があか牛を所有するので、「くらぶ」 はあか牛の信託者となるが、「くらぶ」側は親牛の購入資金や管理費を負担する とともに、あか牛肉や販売収益を受け取り、実際に飼養する地元農家は委託管理 費を受け取ることになる。どこまで資金が集まるか、あるいは善良な管理を前提 とするといっても、リスクは「くらぶ」が負うことになり、その負担がトラスト の運営にどう影響するのかといったことが危ぐされるが、通常の産直を一歩超え た形での、都市側からの阿蘇の生命資産を守る取り組みの試みとして注目される。 このトラスト制度は13年度からのスタートを目指して最後の詰めが行われている。
あか牛の特徴を活かした生産・販売として、産直事業の中でも取り組まれてい るのが、周年放牧による低コスト生産である。従来、阿蘇の肉牛飼養は夏山冬里 方式で、放牧は夏季に限定されていたが、周年放牧に移行することで投資や管理 費を抑えることができ、低コストでの生産が期待される。熊本県ではあか牛の低 コスト生産をめざし、熊本型放牧として、周年放牧、水田・畑放牧、広域預託放 牧を推進している。周年放牧は7年から取り組まれ、10年には26カ所約1,000ヘ クタールで700頭の放牧実績がある。周年放牧による子牛1頭当たりコストは、 約9万3,000円(除労働費)と舎飼の5割程度、飼育管理時間も40時間程度と舎飼 方式の3分の1、夏山冬里方式の半分程度に短縮するとされている(表4)。 表4 子牛1頭当たり生産原価(労働費除く) 資料:酪肉基本方針啓発普及事業報告書 ちなみに、預託放牧とは平坦地にある飼育農家の牛を阿蘇草原に放牧すること で、県単事業として預託料の半額補助も行っているが、10年には、16牧野組合に 491頭が預託されている。また、水田・畑放牧は、夏山冬里方式に変えて夏山冬 (水田・畑)放牧方式にすることで86ヘクタール668頭の実績があり、子牛生産 コストの2割程度の削減が期待できるとしている。 こうした周年放牧方式がどこまで広がるかは、その収益性のいかんはもちろん のこと、担い手、資金あるいは入会権の調整といった課題が残されていると思わ れる。しかし、この方式の定着は、特徴ある販売という面では、将来の市場拡大 が予測されながら日本では飼料の点で難しい、有機畜産の実現の可能性をも視野 にとらえるものと言えるのではないか。 さらに、12年度からは中山間地域に対する直接支払いが開始され、阿蘇地方も 対象とされる。執筆時現在、対象面積などの確定作業が進められているところだ が、阿蘇町、一宮町、産山村、南小国町、小国町など阿蘇北側町村の104牧野組 合を単位とした集落協定が結ばれ、対象面積は草地2,090ヘクタール、野草地1万 900ヘクタール、合計約1万3,000ヘクタールに及んでいる。この面積は、熊本県 全体の直接支払い対象面積2万5,340ヘクタールの過半を占める。一方、交付額は 単価が低いので、県支払い総額の約1割に当たる約1億8,000万円だが、個人配 分は一切せず、草地の維持・管理や畜産振興のために使うことになっている。 新たな農政の展開の中で生み出された直接支払いが阿蘇の千年の草原を守るこ とになれば、これは新基本法が目指す農業の多面的機能の発揮にも通じることに なるだろう。さらに新基本法の中で言及されている消費者の役割との関連で言え ば、グリーンストック運動は、まさに消費者が農業・農村の機能を維持向上する ために関わっている運動であり、こうした取り組みに対しても農政がこれまで以 上にバックアップすることが期待される。 注1.大滝典雄「野焼きの現状とその問題点」「草地畜産の歴史と現状及び問題 点」、『阿蘇地域の農林地保全・複合利用とルーラル(田園)・ツーリズム 施策の研究』阿蘇グリーンストック研究会、2000年 野焼き等の現状については、大滝典雄氏の上記文献等を全面的に参考させ ていただいた。氏の日本草地学会シンポジュウムでの野焼きに関する講演が、 筆者を阿蘇に関心を向けさせる契機となったことに、言及しておきたい。 注2.山内康二「都市・農村連携による広大な阿蘇の生命資産(草原・森林・農 地)の保全運動」、注1と同じ 謝辞:今回の現地調査に当たって、以下の団体の方々に大変お世話になりました。 記して深甚なる謝意を表します。 熊本県畜産農業協同組合連合会、熊本県畜産農業協同組合、南阿蘇畜産農 業協同組合、財団法人グリーンストック、株式会社緑の資産、グリーンコー プ事業連合、グリーンコープくまもと準備会、ナチュラルコープ