農林水産省 農林水産政策研究所 評価・食料政策部 食料消費研究室 木下 順子
九州大学大学院 農学研究院 助教授 鈴木 宣弘
近年、国内の牛乳消費需要は低迷を続けてきたが、乳飲料(注1)の市場は着 実に拡大してきた(注2)。その要因の1つとして、ビタミンやカルシウムを強 化した白色の乳飲料(機能性乳飲料)が消費者の健康志向をとらえ、味や色、飲 用機会がほぼ同じ牛乳の需要を代替した可能性が一般に指摘されている。 しかし、その実態を検証するためには、家計調査等では必要なデータを欠いて おり、必ずしも十分な定量分析は行われてこなかった。また、最近ではPOSデー タ(注3)を利用した鈴木らの分析(注4)があるが、POSデータの制約のため、 単一方程式推定が採用された点や、商品が同質で戦略変数が数量であるという非 現実的な仮定がおかれていた点に問題があり、いまだ良好な計測結果は得られて いない。 そこで、本研究では、改良されたPOSデータと体系的推定方法を採用し、新た な牛乳需要分析を行った。具体的には、@日別・店舗別・ブランドレベルのPOS データを組み換えて消費支出金額データを組み込み、A商品間の競合関係をより 正確に把握できる体系的推定方法(LA/AIDS;Linear Approximate Almost Ideal Demand System)を適用し、B製品差別化があり、価格が戦略変数となっ ている現実の競争を考慮したモデルによって計測を行った。こうして得られた需 要関数から、牛乳と乳飲料のブランド・レベルの価格弾力性を推定してブランド 間の競合関係を検討し、さらに、プライス・コスト・マージン率を推定してこの 市場が価格協調的かどうかを試論的に検討した。以上の分析に基づき、これまで 十分な蓄積がなかった牛乳需要をめぐる定量的な基礎情報を提供することが本研 究の目的である。 (注1)乳等省令による種類別の定義に従って、ここでは「牛乳」とは生乳だけ を原料とする飲料、「乳飲料」とは乳固形分3.0%以上で、ビタミン、ミ ネラル、コーヒー、果汁、香料等が添加された飲料をいう。乳飲料の乳成 分は、多くの場合生乳ではなく、脱脂粉乳、バター等から製造される還元 乳がベースである。 (注2)ただし、2000年夏に発生した雪印乳業食中毒事故を契機に、乳飲料需要 が減少し、牛乳需要が増大している。本研究はこの事故発生以前の分析で ある。 (注3)POSデータとは、売上・在庫管理の即時化・自動化のため、レジ精算時 に入力処理が行われる販売実績データである。 (注4)庄野千鶴・鈴木宣弘・川村保・渡辺靖仁『日別POSデータによる牛乳需 要分析』中央酪農会議、1999年3月。
全国スーパーマーケット・チェーンのPOSデータ(株式会社日経クイック情報) より、1998年4月1日から1999年3月31日までの日別、ブランド別データ系列 を使用した。分析対象ブランドは最も主力的な6種類のブランド(牛乳2種類、 乳飲料4種類)とし、300日以上のサンプルが得られた4件の店舗について計測 を行った。 表1 分析対象ブランド 注1:1日当たり来客数1,000人当たりの個数。 注2:対象商品の総販売額に占めるシェア。 表2 分析対象店舗 ※全店舗が1998年度売上高において全国小売業第3位の スーパーマーケット・チェーンに属し、総売り場面積5,000u以上、 従業員50人以上を擁する大型店舗である。 計測結果から 1 価格弾力性 計測された自己価格弾力性の多くが絶対値1を大幅に上回り、牛乳類の需要は 極めて自己価格弾力的であることが示された(表3)。従来の家計調査データ等 による計測例では、ブランド間の競合効果が相殺されるため、非弾力的な値が計 測されたが、これでは牛乳類がスーパーマーケットで特売されやすい現実と整合 的でなかった(自己価格非弾力的な商品を値引き販売すると、逆に売上げは減額 するからである)。しかし、本研究では、POSデータを利用してブランド間の競 争を詳細に把握し、より日常的な意味での牛乳需要の実態を検証することができ た。 表3 価格弾力性の計測結果 ※対角線上が自己価格弾力性である。 交差価格弾力性は、大多数が有意な正値で示され、牛乳と乳飲料の需要が競合 していることが裏付けられた。従来の単一方程式推定では、統計的に有意な交差 価格弾力性の値が得られなかったので、本研究では結果を大幅に改善することが できたと言える。また、2種類の牛乳ブランド(互いに乳脂肪率が異なる)の間 の競合関係よりも、牛乳ブランドと乳飲料ブランドの間の競合関係の方が強いと いう結果も示され、興味深い。 2 プライス・コスト・マージン率 「独占市場」の場合に定義されるラーナー指数は、プライス・コスト・マージ ン率(PCM)と自己価格弾力性の逆数が等しくなることを示すが、これを、価格 設定に関する企業間相互依存関係が存在する「寡占市場」の場合に一般化すると、 PCM= -1/(ηii+Σi≠jηij・θji)と表される。ただし、ηii;自己価格 弾力性、ηij・;交差価格弾力性、θji;推測変分弾力性(自己価格の1%変化 に対して競合財価格は何%変化するかを示す)(注1)。 ここで、仮にθ=−1とθ=0の場合のPCMの値を試算してみた。すなわち、θ= −1とは、企業が自己価格を1%値下げ(値上げ)すると他財価格は逆に1%値 上げ(値下げ)するだろうと推測していることを表し、企業の価格設定行動は非 協調的であることを意味する。また、θ=0とは、企業が自己価格を変化させて も他財価格は変化しないだろうと推測していることを表す。すると、θ=−1の PCMは大多数が0.2以下となったが、θ=0のPCMは全般に非現実的な大きな値 となり、1を越える非論理的な値もある。つまり、θ=0よりもθ=−1の方が比 較的妥当な値である。従って、この市場における企業の価格設定行動は非協調的 とみなす方が妥当と考えられる。 表4 プライス・コスト・マージン率 (注1)ラーナー指数の寡占市場への一般化については、 Liang, J.N., "Price Reaction Function and Conjectural Variations: An Application to the Breakfast Cereal Industry," Review of Industrial Organization, Vol.4, 1989, pp.31-58を参照。 推測変分の概念については、小田切宏之『新しい産業組織論』有斐閣、 等を参照。
本研究の定量分析の方法は、わが国の実証分析では新しい精巧なものであり、 従来の計測結果を大幅に改善することができた。 ここで、以上の分析を補足して、牛乳消費に関するアンケート調査結果の概要 を紹介する。調査対象は大学2年次および3年次の学生、アンケート実施日は20 00年7月14日である。ただし、回答者49人中37人が男性で、35人が単身の学生 であったため、それによる回答の偏りを考慮しなければならない。また、調査日 直前に雪印事故が発覚していたが、直接の原因が原料の脱脂粉乳にあったという 新事実はまだ判明しておらず、バルブ洗浄等の問題だけが知られていた。 クロス集計により牛乳消費の傾向を検討したところ、おおむね次のような結果 が示された。牛乳の1日当たり平均摂取量はコップ1.5杯(1杯約140ミリリット ル)で、家族同居と単身との間に差はなかった。しかし、単身の場合は全く飲ま ない人と大変よく飲む(コップ6杯以上)人があり、個人差が極めて大きかった。 また、ここ数年で牛乳の摂取量が減少した人は約半数にのぼり、単身の方が減っ た人の割合が高かった。ヨーグルトやドリンクヨーグルトも約2割の人が「減っ た」と回答した。一方、他の競合飲料と比較すると、ペットボトルか缶入りの茶 系飲料・コーヒー・紅茶・ジュース類(果物と野菜)・ニアウォーター、および アルコール飲料については、すべて半数以上の人が「増えた」と回答している。 つまり、牛乳摂取量が減った人が代わりに飲んでいるものは、牛乳由来のヨーグ ルト類ではなく、ペットボトルか缶入りで手軽に飲める飲料なのである。牛乳の 摂取が減った理由については、単身の場合は「一人暮らしになってから冷蔵庫に 牛乳がないから」(60.9%)が圧倒的に多かった。要するに、ただ何となく飲ま なくなったということである。続いて「清涼感のある飲料がよいから」(39.1%)、 「牛乳の口当たりや味になじめないから」(30.4%)などの理由が多く、牛乳特 有のまったりした食味が好まれていないことが分かる。なお、「ダイエットのた め」に牛乳を飲まない人は、一般的に若者に多いと指摘されているが、この調査 では皆無だった。 また、アンケートには自由記入欄を設け、「牛乳の消費が伸び悩んでいるのは なぜか」「どのような活動が牛乳の消費拡大に役立つか」といった観点から各自 の考えを記入してもらった。回答例を挙げると、牛乳消費伸び悩みについては、 「カルシウム不足が気になるなら、牛乳でなくてもサプリメント食品で手軽に摂 取できる」「健康イメージはむしろ野菜ジュースの方が高い」「牛乳は自動販売 機などで手軽に買えない」「日常的に飲むにはウーロン茶や緑茶やジュースの方 が喉通りが良く、渇きをいやせる」、牛乳の売り込み方としては、「他の飲料の 存在感に圧倒されているので、パッケージやイメージ等に工夫が必要」といった 意見と、逆に「他の飲料の宣伝はイメージばかりだが、牛乳は栄養も豊富で健康 に良いという利があることを強調すべきだ」との意見もあり、興味深かった。よ り詳細なアンケート集計結果と全記述部分は「平成12年度 畜産物需要開発調査 研究事業報告書(農畜産業振興事業団)」で紹介しているので参照されたい。
○機能性乳飲料:生乳や還元乳にカルシウム、鉄分、ビタミン等を添加したり、 乳糖分解を施した乳飲料。 ○自己価格弾力性:商品の販売価格を1%変化させたとき、販売量が何%変化す るかを示す値。通常、値下げ(値上げ)すると販売量は増える (減る)ので、自己価格弾力性は負の値となる。この絶対値(マイ ナス符号を取り去った数値)が1を上回る商品は、特売の際、値 下げ率よりも売上高の伸び率が高くなる。 ○交差価格弾力性:ある商品Aの販売価格を1%変化させたとき、他の商品Bの 販売量が何%変化するかを示す値。この値が正ならば、商品Aを 値下げ(値上げ)すると、商品Bの販売量は減る(増える)こと を意味するので、両商品の需要は競合関係にある。 ○推測変分弾力性:ある企業Aが「自己の商品価格を1%変化させるとライバル 企業Bの商品価格は何%変化するか」を推測した値。この値が正 ならば、企業Aは、企業Bが自己と協調的に価格変更するだろう と考えている。 ○プライス・コスト・マージン率:価格と費用との乖離率。定義式は、(価格− 限界費用)/(価格) ○ラーナー指数:独占市場の場合、プライス・コスト・マージン率は需要の自己 価格弾力性の逆数に等しい。自己価格弾力性の逆数は「ラーナー 指数」または「ラーナーの独占度」と呼ばれ、企業の市場支配力 を示している。この値が大きいほど、独占による非効率が大きい と言われる。