日本大学 生物資源科学部 助教授 小林 信一
北海道SRUは平成13年12月4、5日の2日間にわたり、全道から約70 人の会員を集め、創立10周年を祝った。SRUとは、Soil Research Union(土壌研 究組合)の略で、SRUの指導者でオーストラリア在住のコンサルタントであるエ リック川辺博士の定義によれば、「土を科学的・総体的に捉え、健康な作物、乳 牛、肉牛を生産する持続性のある農業を実践している農家グループ」である。つ まり「土の生態系の重要さを知り、無駄な肥料はまかず、必要なミネラルを補い」 土のミネラルバランスを回復することを通して、健康な作物・家畜、引いては健 康な人作りに貢献する農業を行うことを目指すということである。 3年の秋に芽室町の畑作・畜産農家5人から始まった北海道SRUは、現在全道に 10支部(十勝、美幌、津別、宗谷、江別、上士幌、鹿追、八雲、別海、常呂)、 約150人の会員を擁する一大組織にまで発展している。活動は主に支部ごとに 行われているが、エリック川辺氏の来日に合わせた夏季研修会と冬期の札幌大会 の年2回は、全道規模で活動を行うことが最近では定着してきている。夏季研修 は13年の場合では、6月29日の八雲から開始され、江別、十勝、美幌、津別、上 士幌、鹿追、豊富、浜頓別、猿別、浦幌、浜中、別海、札幌、そして8月7、8 日の芽室町での合同セミナーまでの約1ヵ月半にわたって実施された。研修は、 会員農場で実際に土壌や作物、あるいは家畜の状況を見ながらお互いに実地に検 証しあうフィールド研修を中心に、支部ごとに2日程度ずつ行われた。
【エリック川辺氏(夏季研修にて)】 |
科学的な土作りの基礎となるのは、土壌分析に基づいた施肥設計だが、SRU のメンバーになると、まず土壌サンプルを送って川辺氏から診断を受ける。しか し、土壌分析そのものは、川辺氏が行うのではなく、世界最大の農業コンサルタ ントグループである米国のブルックサイド協会のラボにサンプルが送られ、その ノウハウに基づいた分析が行われる。そして、その分析結果がオーストラリアの 川辺氏の手元に送られ、氏が独自の診断処方を行なって、北海道のメンバーに送 るという手順を踏む。つまり、日本―米国―オーストラリアという太平洋をまた ぐ大三角形を、土壌サンプルや情報が飛び交うというわけだ。スケールの大きな 話だが、米国のブルックサイド協会の科学的な分析と、オーストラリアや南米、 日本での30年以上にわたるコンサルの経験に裏打ちされた川辺氏の知識が合わさ って、北海道のメンバーは土壌改良処方を受け取るわけだ。 各支部の活動も、診断結果に基づく土壌改良方法やその他の課題について、1 年をかけて互いに学習しあうことが中心である。例えば、八雲支部では「デント コーンの不耕起栽培」をテーマに実践的な学習を行っていた。冬期の札幌大会で は、川辺氏の講演の他に、畑作・畜産の各分科会に分かれて、支部ごとに日ごろ の活動成果を発表しあうことが大きなウエイトを占めている。13年12月の記念大 会時も、通常と変わらず分科会発表が行われた。発表テーマは畜産分科会では、 「土壌改善におけるカルシウム・マグネシウム比」、「全層施肥と側条施肥との 収量に及ぼす影響」、「バルク中MUN(乳中尿素態窒素)について」など実践的 でありながら、科学的・学術的であり、その様子はさながら学会発表のようであ った。
SRUが発足する契機は、ある意味で偶然の出会いの産物であった。現在事務 局長を務める芽室町の畑作畜産農家後継者である大野泰裕氏が、オーストラリア 研修に行く予定だった元年10月、研修予定先の牧場主が来日することになり、滞 在先の十勝川温泉に会いに行った。その時川辺氏も引率者として同行しており、 挨拶を交わしたのが大野氏と川辺氏の最初の出会いとなった。大野氏の研修先の ヘレフォードスタッドは川辺氏のコンサルの顧客であり、その牧場で2人は再会 することになる。その後、大野氏が日本から来た十勝の農業改良普及員と一緒に 700キロメートル離れた川辺氏の牧場を訪ね、その時に普及員が持参した十勝の 土壌分析などのデータを基に議論が行われた。大野氏はその話の内容すべてが理 解できたわけではなかったようだが、川辺氏の話は土への体系的な理解に基づい ているという印象を受けたという。 川辺氏への興味も、当初はコンサルタントとしてというより、外国人社会の中 でやっている日本人がいるということの方が大きかったそうだ。何よりもコンサ ルタントという職業を、初めは理解できなかった。技術指導は普及員が無料で行 ってくれるものという先入観を持っていたので、当初は川辺氏の仕事内容を聞い て、普及員だと思ったという。しかし、料金を取って技術指導しているというこ とを聞き、レベルの高いことをやっているのだろうと思ったと言う。これは,他 の創設メンバーも同様な感想であったというから、面白い。 2年に川辺氏が再来日した際に、大野氏は仲間を誘って氏から話しを聞く機会 を設けた。その時に集まった貫田稔氏(畑作)、尾藤光一氏(畑作)、大野元氏 (畑作・肉牛)、吉田泰浩氏(畑作)の5人が、その後SRUの創設メンバーとなる。
【美しいほ場(十勝)】 |
5人は川辺氏の話、特にミネラルバランス回復による土壌改良の話を聞いて、 半信半疑ながら土壌サンプルをブルックサイド協会に送ることにした。その結果 送られてきた診断は、従来のものとまったく違ったものだった。まず分析値から して違ったという。特に、従来不足とされてきたリン酸の含有量が十分であると されていた。処方箋も、従来の診断とは相反するもので、「タンカル(炭酸カル シウム)を多量にまき、リン酸はやらなくて良い」というものであった。細かい ことは分からなかったが、これまで微量要素など施肥したことはなく収奪一方だ ったので、微量要素は必要だということは理解できたという。 そこで、集まった5人はそれぞれ自分達の畑や草地の一部を対象に、川辺博士 の処方を試してみることにした。バレイショ栽培の場合、従来はPHを低くしない とソウカ病が抑えられないという指導だったので、酸性度を改善せずPH値は4台 のままだった。アルカリ土壌の方が、病気が出ているという統計も実際にあった。 その後、PHが高くても病気が出るということがわかったが、当時はタンカルを処 方通りに1ヘクタール当たり5トン程撒いたところ畑が真っ白になり、周りから 「何をバカなことをやっている」と言われたという。しかも、すぐにPHは高くな らなかった。 しかし、結果は初夏の6月に徐々に現れてきた。作物の様子が前年とは違って きたのだ。ビートの場合は6月終わりごろにはしおれてくるのが通常であったが、 そうはならず、ビートのそろいが良くばらつきがなかった。根のそろいも良かっ た。結局、収量はその年、10アール当たり300〜500キログラム増加した。 従来の指導と相反することに踏み出すことは、何にしろ難しいことだが、その 当時のことを振り返って、初代会長の貫田氏は「周りからは奇異な目で見られた が、そこは若さで何の抵抗もなく、むしろ誇らしく感じた」と述べている。もち ろん若さもあっただろうが、川辺氏への信頼も既に生まれていたようだ。「川辺 さんの情報は、肥料などの商品を売るためのものではないということで、信用で きるような気がした。」、「川辺氏の指導に疑問を感じたことはなかった。料金 を取るのだから、本物のことを教えてくれるという感じがあった。」などの発言 はそれを裏付けるだろう。また、バカだといった周囲も、若い後継者の挑戦を見 守っていた感もある。すでに代替わりして経営主だったので自由にやれたという 人もあるが、父親は必ずしも賛成ではなかったが、父親が外の役職で忙しかった ため、内緒でやったという人までさまざまだが、黙って任せてくれたという感が 強い。
【フィールドデーにて、 中央・川辺氏、右隣・貫田初代会長】 |
川辺氏は大野氏らと知り合う5年ほど前から、日本には川辺氏が蓄積した知識 や技術がないことを知り、それを日本に伝えることが自分の使命であると考えて いたという。しかし、何回かの試みもうまくいかず、この時期は「今度こそは」 と神に祈ったと回想している。大野氏達と1回、2回と会い、川辺氏の考えを説明 したり、土壌分析に基づいた診断を行ったが、その後何の連絡もなく、「今まで とあまりにも違う考え方は理解されなかったのか」、「やはり日本は無理か」と 半分あきらめかけていた。しかし再度訪日の機会が訪れ、十勝に出向くことにな った。その時の気持ちを、次のように述べている。「今度こそは、芽室の5人よ、 行動してくれと祈りながら大野ファームを訪ねた。3回目である」。大野氏と出 会ってから3年目、土壌サンプルを米国に送り、川辺氏の処方を受けた翌年の3 年秋、5人は決断した。川辺氏のコンサルを継続的に受けるために、SRUを立ち上 げたのだった。 川辺氏は東京農工大学卒業後、農業関係の出版社で各地の農業に関するスライ ドの作成に従事したが、ニュージーランド(NZ)留学を目指し、横浜の私立高校 で教鞭をとる。その後、念願だったNZのマッセイ大学大学院で草地学を学んだ。 大学院修了後、在学中に知り合った現在の奥さんと結婚し、地元のカレッジ(高 等専門学校)の生物担当教師になった。いくつかのカレッジを経て、副校長レベ ルまで昇進したが、南米にわたって農業試験場を作るという計画を進めてもいた。 しかしそれが挫折した頃、三菱商事のダイヤモンドビーフプロジェクトの話があ った。そこで3年ほどプロジェクトマネジャーの仕事を行った後、その実績から オーストラリアの牧場マネジャーの誘いを受けた。自分が学んだ草地学の知識を 実地に発揮できる機会として渡豪を決めた。牧場は三菱商事が経営していたフィ ードロット(キララ)に肥育素牛を供給する牧場で、シドニーから内陸へ400 キロメートルほど入ったところにあった。 筆者が最初に川辺氏と会ったのは、ちょうどその頃で、昭和54年のことだった。 当時シドニー大学に留学していた筆者は、休みを利用して農場実習に行っていた が、たまたま近くに、といっても数十キロ離れていたと思うが、日本人が牧場を やっていると知り、実習先の農場の方に連れて行ってもらった。その後、何回か 氏の牧場を訪ね、オーストラリアの畜産を実際に学ばせていただいた。
【フィールドデー】 |
|
【大野事務局長と 土壌改良したほ場】 |
当時すでに帰化してNZ国籍を取得していた川辺氏は、10数年間日本語をほ とんどしゃべっていなかったせいか、なかなか日本語が出てこないことがあった が、その牧場ではマッセイ大学院で学んだ草地学の知識をオーストラリアで実践 的に発展させる試みを既に行っていた。施肥設計に基づく草地改良や、寒地型牧 草と暖地型牧草の周年的利用などの草地の生態系と、牛の増体に関する研究など はその例で、モンスーン気候と西岸海洋性気候の交差するこの地域の気象状況を 踏まえた草地管理方式を模索していた。こうした実践的な「実験」は、その後博 士論文の重要な部分としてまとめられ、日本大学に提出することになる。 当時のオーストラリアでは、自然草地に基づく家畜放牧が一般的で、一部に草 地改良が行われてはいたが、サブテラニアンクローバーを中心とするマメ科牧草 の導入程度が主流であった。従って、川辺氏が行ったニュージーランド流の、オ ーストラリアでは集約的といってよい牧草管理方式は、地域では注目の的であっ た。農業経営の学界でも、伝統的な粗放的乾地農法か、灌漑による集約的農法へ の転換かの議論が行われており、自然的、社会的な変動リスクが大きいオースト ラリア農業にとっては、どちらかと言うと前者の方がリスクが少ないことから、 収益性は安定しているという論が力をもっていたように覚えている。そうした中 で川辺氏は、資金を投じて積極的に草地を改良した方が、結局は牧養力が高まり 収益は安定的に高まることを実践的に証明しようとしていたわけで、注目と同時 に批判にもさらされた。 オーストラリア農業の常識への挑戦は、農場マネジャーを辞め、コンサルタン トとして独立してからも継続され、なお一層の賛否両論にさらされることになる。 公開討論会なども積極的に行い、実践に基づいた理論の深化を図っていった。そ の頃、ある日読んでいた農業雑誌の記事に目を奪われた。オールブリック理論と の出会いであった。川辺氏は、わざわざ渡米してオールブリック理論に基づいた 土壌分析・施肥設計などのコンサルタント業務を行っているブルックサイド協会 の門を叩き、そこでの研修の後、協会の一員として迎えられた。ブルックサイド 協会は、50年の歴史を持つ米国を中心とした200人以上のプロのコンサルタント の団体で、自前のラボを持って土壌分析などを行なう他、毎年研修会を開催し、 互いの技量を高めあっている。オールブリック氏はミズーリ大学の土壌学の教授 で、ブルックサイド協会の理事も務めたが、土壌改良のためのミネラルバランス の重要性にいち早く注目した学者であった。PHを上げるために、つまり酸性土壌 の改善のためにカルシウムを使うという考えに警鐘を鳴らし、「PHが低いという ことはカルシウム不足を意味し、PHが適切な値でもカルシウム過剰、マグネシウ ム不足では作物は健康に育たない。ミネラルのバランスをとることによって、土 壌の生態構造―団粒性を改善し、土壌生物が十分に活躍できる状態にすることが 重要である。」ことを力説した。 川辺氏の実践してきたことが、オールブリック氏との出会いによってさらに理 論的に深化されたわけで、川辺氏の中でアンザス(ANZUS)(豪・NZ・米)同盟 が成立することになった。
平成3年に十勝の芽室で始まったSRUの活動は、翌年には美幌、5年津別、 6年宗谷、江別、上士幌と広がり、この年第1回全道大会を開催するまでになる。 同時に各支部の活動をサポートするために、北海道SRUが設立された。 SRUという名前は、土が基本ということからだが、ユニオンは組合というより は、連帯するという意味が込められているという。芽室の1地域の5人から始まっ て、徐々に全道に広がっていったという意味で、連帯とか連合が組織実態を適切 に表現しているというのは、なるほどと思わせる。 芽室以外の地域で、SRUの活動が最初に広まったのは津別であったが、その契 機は川辺氏の処方に合わせて会員が欲しかった単味肥料を、地元農協が扱ってい なかったからだという。単味肥料を購入するため、会員の友人が勤めていた肥料 会社に依頼した。その友人が営業時にSRUのことを津別の農家に話し、それをき っかけにSRU十勝の会員となった。しかし、特に農協や普及所と対立的な関係に あったわけではなく、むしろ普及員の紹介で川辺氏が農協青年部の集会で話しを したことが契機となった支部もあった。芽室町の常山誠町長は川辺氏とは既知で、 支援を惜しまなかったという。また、北海道畜産会(現北海道酪農畜産協会)の 須藤指導部長の紹介や尽力によって支部設立に至った地域もあった。鹿追、別海 ではSRUの事務局を農協が引き受けており、バックアップ体制をとっている。し かし、その一方では、肥料を初めとする購買資材の供給が減ることで、冷ややか な対応をとる農協などもあるようだ。 SRU十勝のメンバーは、定期的に川辺氏を日本に呼びたい一心で、メンバーを 増やし、呼び寄せ資金を十分にするために、会員増加―支部設立に飛び回ったと いう。現在の支部単位の日常活動と、年2回の全道集会という形態になったのは、 5年の合同大会以来であり、組織も整ってきた。最近では、大会の誘致活動があ るまでになったという。
北海道SRUの活動は10年を迎え、今後も発展を続けていくものと思われる。 その成果は、既にSRU宗谷の池田邦雄会員(酪農経営)の天皇杯天皇賞受賞や、 SRU上士幌の新村浩隆会員(酪農経営)の北海道知事賞、農林大臣賞、天皇杯 日本農林漁業振興会会長賞受賞など、社会的な評価としても現れてきている。 しかし、そうした社会的評価とは別に、北海道SRUの活動の意義はいくつも挙 げられる。第1には、農民主体の草の根組織である点だろう。設立時から、現在 の全道レベルの組織になるまで、農家の主体的な活動によって、いわば手作りの 組織として発展してきたことは、それだけで稀有なことであり評価される。前述 したように、いくつかの支部は農協が事務局を担っているが、そうした支援をあ りがたいとしながらも、本来は農家自身が事務局を担当すべきであり、将来的に はそうした体制に移行すべきであると、運営ルールにも明記されている。 2番目に挙げられる点は、農家が技術指導に対し、その対価の支払を行ってい る点であろう。大野氏がいみじくも述べているように、技術指導は普及員が無料 で行ってくれるものという先入観を、農家自らが覆した点は大きな一歩だろう。 現在の年間支払額は、支部会費や年会費および土壌分析・診断費用などを合わせ て、平均で20万円前後であるようだ。日本においてもコンサルが経営的にも成立 し得るということを、SRUが示したといえるだろう。川辺氏はコンサルが独立自 営できる条件として、まず世界のトップレベルの科学を学び、それを農家に分か りやすくほ場で伝え、実践できること。次に、完全に独立な立場であること。つ まり、資材の販売などの付随的なコンサルではないことである。 3番目は、SRUが科学的な農業を追求している点である。近代農法に対する批判 は、有機農産物「ブーム」・「信仰」とまで言える状況を生んでいるが、それは えてして反・半科学主義となる傾向をはらんでいる。筆者は、有機農業の意義や それ自体を否定するつもりはまったくない。しかし、SRUはたい肥のみをまけば よいというような安易な「有機農法」を否定し、あくまで科学にのっとった土壌 改善方法を追求していると言えるだろう。ちなみに科学的であるということは、 科学によってすべてが分かるということではなく、むしろ科学によって分かるこ と、分かっていないことを明確にすることである。SRUは最先端の土壌学の成果 に基づいて、土壌の生態系を維持・改善し土壌微生物の活動を活発にするなど、 土の本来の力(地力)を引き出す土壌改善の途を追及している。そうした意味で は、本来有機農業が目指している方向と変わらない。また、科学的分析にのっと った施肥設計という以上に、土壌−草をそれだけで切り離して考えるのではなく、 常に家畜との関係や影響までを含めて総体として捉えているところが、大きな特 徴でもある。 こうした点は、実験室に閉じこもりがちで、草は草、家畜は家畜と個々ばらば らに研究する傾向がある現代農学・畜産学への批判も伴っている。現実の農業か らますます遊離する学問への警鐘として、捉えるべきだろう。
今後の課題としてあえて挙げるならば、生産物の販売問題がある。SRUは土 作りを基本にしているために、経営の形態については農家ごとに千差万別である。 例えば、酪農では放牧を推進しているように捉えられるが、それほど限定されて いるわけではない。放牧酪農や有機無農薬栽培などの特定の生産形態に押し込め ないことは、SRUの目的や組織形態に照らして当然ではある。 しかし、「健康な土作りを通じた健康な作物、家畜生産による健康な人作り」 という目的からすれば、改良された良い土壌から生産された農畜産物を消費者に いかに届けるかということが、次の課題となるのではないだろうか。既に新村牧 場のように個別に加工品販売に直接乗り出している例もあるが、組織的な取り組 みにはなっていない。また、上記のようなさまざまな生産形態であるがゆえに、 統一的な販売方式は難しいという面もある。 この点も緒についたばかりではあるが、SRU十勝のメンバーを中心に、抗生 物質不使用、Non-GMO飼料使用の牛肉生産と消費者への直接販売の試みが、地域 の他の生産者とも連携しながら行われようとしている。あえて今牛肉であるのは、 BSE発生やその後の偽装ラベル問題で地に落ちた食肉の信頼を回復するための、 生産者からのメッセージであるとも言えるだろう。川辺氏のコンサルティング原 則には、「農業に携る事に誇りをもつこと」という1項があるが、まさにそのこ とを消費者に直接知らしめるための行動に他ならないだろう。