はじめに
終戦、そして開拓のはじまり。土と冷害との闘い。試行錯誤から酪農への転換。高冷地野菜にかける夢。試練を超えて実現した県下一の酪農地域。
奥中山開拓の70周年記念誌『夢・人・大地』から、見出しに掲げられた言葉をいくつか拾ってみた(注1)。試練と闘いの連続だったことがわかる。見出しだけではない。記念誌の一行一行から先人の苦難の歴史が伝わってくる。胸を打つ記録である。先人の苦闘の上に今日の奥中山ブランドが築かれていることがよくわかる。
奥中山の名前は酪農界によく知られている。1999年に稼動した牛乳乳製品工場が、当時の地域農業のマスタープラン「奥中山高原ルネッサンス計画」とともに関係者の話題を呼んだこともあった。今日では、レタスやスイートコーンを中心とする高原野菜も、売上高で生乳と肩を並べるほどに成長した。いわて奥中山農協の資料によれば、2004年度の販売事業の実績総額52億5千万円のうち、生乳と野菜がそれぞれ19億9千万円、16億4千万円を占めている(注2)。
しかしながら戦後開拓から60年を迎えようとする今、奥中山の農業は大きな岐路にさしかかっているのではないか。これが今回現地を訪れた私たちの率直な印象である。奥中山にはさまざまな資源と資産がある。先人が切り拓いた生産基盤がある。先人と言っても、今日第一線を担う現役世代の父母や祖父母の世代である。開拓精神は過去の歴史となったわけではない。かけがえのない人的資源が引き継がれている。乳業プラント(注3)や野菜の集出荷施設なども整備されている。約100名の職員を擁する農協も大きな組織資産である。はたしてこれらの資源や資産は、充分にそのポテンシャルを発揮しているであろうか。点検が必要である。
ここでは、地域の酪農を支えているキーマンや明日の地域酪農を担う若者からのヒアリングを通して、岐路に立つ奥中山の農業について考えてみたい。とくに付加価値創出型の酪農生産の取り組みや、牧場を交流体験の場として生かす取り組みにフォーカスを合わせることにする。これらの分野は、畜産のみならず日本農業の近未来の活路の一つであると考えられている。食に対して国民的な関心が寄せられ、生命産業に身近に接する機会が再評価されつつある今日、こうした認識そのものは妥当であろう。けれども付加価値創出にせよ、交流体験事業にせよ、これを発展的な軌道に乗せることは簡単な仕事ではない。課題も少なくないのである。むろん、これはひとり奥中山だけの問題ではない。
中嶋登さん
(サンフラワーファーム)
戦後開拓地として紹介されることの多い奥中山であるが、それだけでは一面的にすぎる。地域の農業のルーツは300年以上も前にさかのぼることができるからである(注4)。既存の農家群と戦後開拓の農家群が、地区としてある程度棲み分けながら共存・交流していたのが、戦後の奥中山農業の基本的な社会構造であった。もっとも、開拓入植農家の少なからぬ人々は比較的早い時期に離農した。そこに既存の農家の次男・三男が再入植するといったケースもあった。
サンフラワーファームの経営主である中嶋登さん(55歳)の父親も、そんな入植者の一人である。既存農家の次男であった父親は、夫婦で奥中山の開拓地の営農に携わった。したがって中嶋さんは、地元の既存農家特有の粘り強い伝統の血と、「人間の生活ではない」とまで形容された開拓営農のチャレンジ精神をともに受け継いでいると言えようか。挑戦の夢を抱いた開拓者のスピリッツと、既存の農家の地道な努力と実行力のハイブリッド。中嶋さんは、これが奥中山の農業を支えているパワーの源泉であるとみる。
サンフラワーファームは酪農教育ファームの認証牧場である。制度がスタートした1998年に認証を受けており、牧場の概要をウェブサイトで確認することもできる。4名までであれば宿泊することも可能である。これまでのところ、大別して二つのタイプの訪問者を受け入れてきた。一つは個別に少人数で牧場に滞在する体験希望者で、東京のような遠方からの来訪者もある。20代の若者が中心である。もっとも最近の受け入れ数は年間20人程度であり、それほど多くはない。
中嶋登さんの牛舎にて(左から末宗,中嶋さん,筆者)
もう一つは学校の児童・生徒である。授業の一環として近隣の小学生や中学生がやってくる。1クラス20〜30名程度が2〜3時間滞在して牧場に触れる。また、神奈川県下の高校生の2泊のホームステイを毎年3名程度受け入れている。近隣町村を含めて地域の農家に数名ずつ分宿するかたちである。こちらはすでに11年続いていて、生徒の気質や行動の変化は中嶋さんにとっても興味深い。近年はおとなしく子供っぽくなったように感じている。家庭に問題を抱えた生徒も少なくない。
サンフラワーファームの体験交流の受け入れは、どのかたちについても実費以外の料金を徴収していない。けっして楽とは言えない日常の飼養管理作業に加えて、夫妻の負担は小さくない。中嶋さんは、体験交流の受け入れを農業や酪農の実態に対する理解を深めてもらう取り組みとしてスタートした。ヨーロッパの都市生活者と比べて、この国の人々の農業に対する認識があまりにもお粗末だと感じていたからである。この気持ちは今も変わらない。たしかな手応えも感じている。短期日の滞在であっても、人々の認識は一変する。お礼の手紙が励みにもなる。
中嶋さんは体験交流をビジネスの一部とする方式を否定しているわけではない。そうしたいわばプロのやりかたには参考になる点もある。また、サンフラワーファームとしても教育ファームにグリーンツーリズムの要素をミックスすることを考え始めている。夫人の夢は農家レストランの開設であり、案外遠くない時期に実現するかもしれない。もっとも、地域の酪農全体を見渡す観点に立つとき、中嶋さんは体験交流の取り組みには課題があると感じている。
一つは、地域の酪農家の層の厚みからすると、交流活動に取り組んでいる牧場が少数にとどまっていることである。全体として一時期に比べて低調に推移している。関心のある酪農家が、ないわけではない。新しいタイプの法人経営の中にも、交流活動に適した牧場がある。けれどもこれまでのところ、残念ながら体験交流への取り組みが広がる動きは弱い。その要因の一つとして、こうした取り組みが地域の牛乳乳製品の付加価値形成に結びついていない点を挙げることができる。
もちろん、多くの人々に生命産業に触れる機会を提供する体験交流牧場は、それ自体として深い意義を有した取り組みではある。しかしながら、奥中山には牛乳乳製品の独自ブランドの可能性を秘めた乳業プラントがある。この資産を生かすという発想が欲しいのである。奥中山の酪農を知ってもらい、固定ファンを幅広く作り出すことがまずあって、そこから地域の製品の顧客が定着するという順序が自然である。これが中嶋さんの考える、あるべき地域酪農の姿である。
このような発想の背景には、中嶋さん自身が奥中山の牛乳乳製品の付加価値形成に積極的に取り組んでいることがある。牧場経営の切り盛りの上では、体験交流と付加価値形成の活動はワンセットなのである。にもかかわらず、それが地域の酪農全体の力となっていない。そこに歯がゆさを感じることになる。
サンフラワーファームの搾乳牛は2005年12月の時点で65頭。このほかに乾乳牛13頭と育成牛40頭を保有している。ただし、育成牛は公共育成牧場と個人の農家に預けている。このほかに受精卵移植による和牛5頭を肥育中である。25ヘクタールの農地を耕作し(うち12ヘクタールは借地)、土地に立脚した酪農を目指している。そんな中で、サンフラワーファームは低温殺菌牛乳向けの生乳を生産している。神経を使うのはパスチャライズ牛乳では殺菌不能な低温菌の混入を防ぐことである。そのため細心の注意を払いながら、搾乳器具や牛体を清潔に保つように努めている。
低温殺菌牛乳向けの条件をクリアすることができても、そのことで特にプレミアム乳価が得られるわけではない。乳業プラントにはそれほどの余裕はないと言ってよい。ただし、コストや小売価格にはっきりした違いのある付加価値製品については、一定のプレミアム乳価が支払われている。その主力製品はnon-GMO牛乳であり、ジャージー牛乳である。けれども、これらの付加価値製品についても販路の開拓が十分とは言えず、管内の酪農家が生産した付加価値製品向けの生乳を生かしきれない状態が続いている(注5)。この点についてはのちにあらためて触れる。
松川美雄さん
(フライアーファーム)
農協管内にジャージーの生乳を出荷する牧場は7つを数える。うち3牧場はジャージー種に特化しており、4牧場はホルスタイン種とのミックスである。むろん、ミックスの牧場の場合も、集乳のバルククーラーは別の系統である。管内のジャージー生乳の日出荷量は3トン強。このうち最大出荷量の牧場が松川美雄さん(55歳)の率いるブライアーファームである。搾乳牛67頭、乾乳牛15頭、育成牛50頭はすべてジャージー種である。もともと飼料効率に優れている点で土地利用型酪農に好適だとの判断から導入したジャージーであり、農地は16ヘクタールを確保している。
松川さんには新規参入酪農家としての経歴と、すでに10年目になる農協の専務理事としての顔がある(1996年に就任)。今回は、主に酪農家としての松川さんの話に耳を傾けてみたい。生まれは宮城県の塩釜。仙台での生活が長い。建築学科に入学した大学も仙台にあった。学生運動の高揚による疾風怒とうの大学を中退し、若干の紆余曲折ののちに奥中山の地に酪農家として定住することになる。10代からつながりのあったキリスト教会を通じた縁もあって、奥中山は松川さんにとって未知の場所ではなかった。
奥中山の獣医師兼酪農家の牧場に就農したことが、松川さんの酪農マンとしてのスタートとなった。夫婦でほぼ10年にわたって働いたのち、すでにある程度取得していた農地と退職金代わりに譲り受けた乳牛をもとに、さらに乳牛を導入することで、搾乳牛45頭の酪農経営として独立する。1985年のことである。当初は若干の赤字決算となるなどの苦労もあったものの、おおむね順調に規模の拡大が図られた。けれども、ホルスタインによる規模拡大を進めながらも、ジャージー種の導入も模索された。その背景には1988年に抑制型の計画生産となったことや、乳脂肪の基準が3.5%に改定されたことなどもあった。
ジャージー種専門の松川ファーム(左から筆者,末宗,松川さん)
ホルスタインとジャージーのミックスからジャージー専門牧場への切り替えが行われたのは、1996年のことであった。搾乳牛で50頭の規模である。体のサイズの異なる牛群を管理することに難しさを感じていたこともあるが、何よりも付加価値型の酪農生産に舵を切る決断があった。苦労もある。ヌレ子の体重が25キログラム程度のジャージーの場合、特にほ育に神経を使う。育成牛管理担当の夫人が夜に4、5回牛舎に通うこともあるという。ジャージー種の難点をもう一つ挙げるならば、雄子牛の価格が極端に安い点である。輸送費などを考慮するとマイナスとなる。ホテルのレストラン向けに出荷するなどの対策を講じているものの、事態を大きく改善するまでには至っていない。
付加価値型酪農生産への期待は大きい。ブライアーファームのジャージー専門牧場への転換は、全酪連による奨励もあった。けれどもこれまでのところ、成果は必ずしも十分とは言えない。ピーク時には10を数えたジャージー牧場も今は7つである。個人としての販売であれば別であるが、産地としての販売にはそれにふさわしい最小のロットがある。いまの3トン強の水準はぎりぎりのところではないか。松川さんの評価である。もっとも、問題は産地としてのまとまった乳量の確保以前のところにあるとも言えよう。ジャージー種の生乳のうち、ジャージー牛乳として販売されているのは1.5トン程度なのである。つまり、せっかくの付加価値志向型酪農の生産物のほぼ半分が、通常牛乳にいわばグレードダウンされているわけである。同じことはnon-GMO牛乳にも言える。
ジャージー牛乳の小売単価は350円/リットルである。生産者に対するプレミアムは20円である。かつては28.82円に設定されていたが、二度にわたって引き下げが行われた。背景にあるのは、乳業プラントの低調な売れ行きである。ここには一種の負のスパイラルの構図が見え隠れしている。販売量の縮小と供給力の低下のスパイラルである。ピークの2003年当時には、それでもジャージー牛乳としての販売が2.2トンに達していたのである。
ブライアーファームは酪農教育ファームでもあった。過去形で紹介したのは、農協への勤務もあって現在は休業中だからである。ただし、松川さんが農協の専務理事に就任したその年に就農した長男が経営を引き継ぐ段階になれば、体験交流への取り組みを再開することになるのではないか。長男自身の関心も高いと松川さんは言う。けれども同時に、地域全体としての活動については、一種の交流疲れの症状が出ているのではないかとみる。訪問者を受け入れてもよいとする農家も減っている。
交流疲れは、言い換えるならば、そのことによる効果が実感されにくい構造にほかならない。あえて手間ひまを投じる意味が、それぞれの酪農家から見えにくくなっているのである。この点を打開するポイントは、交流とマーケッティングの好循環を作り出すところにある。これが松川さんの判断である。サンフラワーファームの中嶋さんの指摘とも重なり合う。こうした問題意識の下に、例えば持続的な相互交流への橋渡しを念頭に、体験交流の参加者へのアフターサービスに配慮するといったことが考えられよう。逆に、一通の便りが受け入れた酪農家には何よりの報酬であることについて、その意味をかみしめてみる必要もあるのではないか。
三谷剛史さんと雅子さん
(みたに牧場)
奥中山では若い力の息吹を感じることができる。ブライアーファームは、それほど遠くない時期に世代交代の場面を迎えることであろう。サンフラワーファームにも、昨年夏に戻ってきた長男とともに新たな経営展開の予感がある。どの酪農家にも後継者がいるというわけではないが、それでも日本農業の平均像に比べれば、奥中山には次代を担う多くの若者が育っている。
そんな中で三谷剛史さん・雅子さん夫妻は都会育ちの新規参入酪農家である。松川さんと三谷さんの話が続くため、奥中山には新規参入農家が数多く存在するとの印象を与えるかもしれないが、そうではない。過去の新規参入農家は、松川さんも含めて数名にすぎない。理由の一つは、新規参入希望者の受け皿となる農場を見つけることが難しい点である。農業を継ぐ後継者がいない離脱農家の場合にも、居住地はそのまま奥中山に確保し続けるのが普通だからである。その意味で三谷さんはレアケースなのであるが、奥中山のような地域であっても、今後は外部からの参入者を積極的に受け入れる態勢を整えることが課題になるように思われる。ポイントは、住宅などの生活基盤と農場資産をうまく分離して活用することができるか否かにある。
剛史さん(30歳)と雅子さん(26歳)は東京の大学の先輩と後輩の関係にある(それぞれ林学と畜産学を専攻)。農業に関連した小さなサークルで知り合った。最初に奥中山を訪れて定住したのは剛史さんであり、2003年の結婚と同時に雅子さんが合流した。昨年1月に生乳の出荷が始まったばかりの、ほやほやの酪農家である。すべてジャージー種である。剛史さんが奥中山に入ったのは2000年の秋のことであった。半年間の農協の研修を経て、ヘルパーや公共牧野の仕事に従事した。個人で育成牛を受託したこともある。
2001年からはサンフラワーファームで従業員として働くことになった。サンフラワーファームの経験は、技術面・経営面での学習のみならず、地域社会に溶け込むという点でも大きな意味を持った。「(中嶋)登さんのところの三谷君」として認知されることになったからである。中嶋さんは同じ公民館の地区に属している。心強い先輩である。みたに牧場の誕生については、元の持ち主との間を取りもって、牧場の貸借をめぐる条件の調整に努めた地元酪農界の長老の存在も大きかった。三谷さんは、現在は県外在住の牧場の所有者から土地と牛舎・住宅をセットで借りている。
左から,奥中山農協加藤さん,三谷剛史さん,雅子さん,筆者
放牧主体の牧場を経営する夢は、剛史さんが各地の放牧型酪農を訪ねる中で具体的な青写真となった。現在は搾乳牛16頭と育成牛7頭の牛群である。今後、育成牛の成長によって規模は多少拡大されるはずであるが、飼料基盤が10ヘクタールであることを考慮すると(このほかに山林が10ヘクタール)、搾乳牛20頭程度のサイズが適していると考えている。季節分娩を実行し、4月下旬から11月初旬までは昼夜放牧とする。所得率の高い夏のシーズンをフルに利用し、他方で冬期のふん尿を少なくできるなど、経営としても合理的である。合理的という意味では、余分な投資は一切行わない方針が貫かれている点も、みたに牧場の特色の一つとしてよいであろう。サラリーマンの家庭に育った二人の目から見ると、農家の場合に比較的簡単に多額の投資に踏み切ることや、そうした農家が容易に融資を受けることができる点には、ある種の違和感があったと言う。
二人がジャージー酪農を構想したことには、もう一つの理由がある。それは、自ら乳製品を加工し、販売することに経営としての目標を定めていることである。自然条件を生かした放牧とそこから生産される特色ある生乳こそが、付加価値型酪農の強みを十分に発揮できるスタイルだと考えるからである。加えて、酪農生産に特化した経営では人との交流が途絶えがちになるのに対して、牧場での販売であれば、絶えず多くの人々とコミュニケーションの時間を持つこともできる。これも大切な着眼であろう。
加工と販売の面では、大学時代に乳製品加工の研究室に所属していた雅子さんの具体的な構想が広がる。すでに花巻市の乳業メーカーにヨーグルトの製造委託を行っている。いわば準備運動である。ゆくゆくはチーズの加工にも進みたいと考えている。夏の表情豊かなジャージー牛と手作りのヨーグルトやチーズで知られるみたに牧場。そんな話題が街角で交わされる日もそれほど遠くないかもしれない。
地域の資産の利活用に向けて
奥中山には既存農家と開拓農家のミックスとして形成された人的な資源がある。このことは、外部の人間に対してオープンな気質にもつながっている。また、奥中山は知的障害児施設「奥中山学園」や成人更生施設「小さき群れの星」を中心に、福祉の里としてもよく知られている(注6)。差別や偏見のない村。中嶋さんや松川さんは、この点にも奥中山に特徴的な気風があるとみる。人々の暮らしのなかで培われたこうした精神風土は、それ自体が地域のかけがえのない資産である。
松川さんによれば、奥中山は体験交流のロケーションという点でも優れている。土地利用型酪農の展開できる立地条件の下で、自然の恵みを生かした酪農本来の姿を求める都会の人々の期待や願いに応えることができる。アクセスも悪くない。事実、2003年のこどもの日にオープンした「いわて子どもの森」は奥中山スキー場のふもとに位置しているが、2005年5月29日には早くも来館者50万人を突破した。興味深い工夫が随所にちりばめられた施設である。今日の車社会を前提にするならば、奥中山に訪れる者を妨げるアクセス上の障害物はない。問題は、そこが人の気持ちを掴んで離さない魅力的なスポットであるか否かにある。
交流体験については二つの課題がある。裏返すならば、二つの点に発展の可能性が秘められている。一つは、受け入れのためのノウハウや持続的な交流のためのアフターケアなどについて、地域として連絡協調の態勢を強化することである。むろん、体験交流の受け入れは個々の牧場の個別的な取り組みをベースとする活動ではある。けれども、緩やかな連絡協調のネットワークの持つ意味はけっして小さくないように思う。相互に情報を交換することも、また、交流体験の取り組みの輪を周囲の牧場に意識的に広げることも、一定のネットワークの機能なしには考えにくい。さらに、緩やかな連絡協調態勢が機能し始めるならば、例えばいま紹介した「いわて子どもの森」への来館者との接点を探るといったアイデアも現実味を帯びてくるのではなかろうか。
もう一つは、すでに紹介した中嶋さんや松川さんの評価の中にも表れている課題である。すなわち、酪農の体験交流活動を地域の牛乳・乳製品の顧客の確保につなげることである。「いわて子どもの森」と酪農体験交流の接点の模索が地域社会の広がりの中で活動のウィングを拡大する試みであるとすれば、こちらはそういったウィングの広がりの上に、一回限りの触れあいに終わりがちな酪農体験を特色のある乳製品を通じた持続的な交流の回路へと結びつける試みである。
問題は、特色のある乳製品としての奥中山ブランドの訴求力である。すでに述べたように、付加価値型の製品製造という点で、これまでのところ乳業プラントは必ずしも期待どおりに機能していない。「原料生産から商品生産への転換」や「現地生産、製造による付加価値の形成」といった理念(注7)が十分に実現されているとは言いがたいのである。販売額ベースで95%が飲用乳に仕向けられるプラントであるが、付加価値型の製品の販売量は低下気味であり、通常牛乳にグレードダウンして販売される生乳の比率も小さくない。加えて、通常牛乳を含んだトータルの販売量も減少している。
付加価値型の製品製造が期待どおりではないと述べた。けれども、どちらかと言えば製品開発やマーケッティングの面に改善すべき要素があるように思われる。製造技術のレベルや食品の安全確保のシステムは、むしろ奥中山の乳業プラントが誇ってよい強みであろう。2003年の2月にはHACCPも取得した。問題は「商品生産への転換」、言い換えれば、販売努力の成果が製品製造をリードする形の好循環が形成されていないことである。付加価値型の生乳生産はあっても、それが多くの消費者に認知された付加価値型の乳製品に結びついていない点に悩みがある。
いわて子どもの森のパンフレット
この点は、奥中山の乳業プラントが必ずしも独自のマーケッティング力を発揮する必要がない形でスタートしたこととも関係している。さきに触れたように、乳業プラントは奥中山ブランドの乳製品を目指して建設されたが、他方で全酪連北福岡工場の飲用乳部門を引き継いだという面もある。その背景には1999年に明るみに出た全酪連の不正表示問題があった。このこともあって、当初の出資構成は農協の51%に対して、残りの49%の株式を全酪連が保有した。製品の販売についても、全酪連の販売網を生かすことが基本とされた。
さらに雪印乳業の食中毒事件に端を発した乳業再編によって、2003年以降奥中山の乳業プラントは日本ミルクコミュニティ(メグミルク)の販売網の傘下に入ることになる。付加価値型の製品についても同様である。もっとも、当初はトータルの出荷額の9割に達していたメグミルク経由の販売額は、現在では5割に低下した。それだけ奥中山高原農協乳業と量販店や生協などとの間の直接取引の比率が上昇しているのである。この変化にはメグミルク側の消極的なスタンスという要素と、奥中山の地域乳業プラントの相対的な自立に向けた歩みという要素が含まれている。
後者の側面をどれほど有効に生かすことができるか。また、そのことが地域の酪農家に対してどれほど求心力として働くか。乳業プラントは一つの転機を迎えている。このことは関係者にも認識されている。その一つの表れが、2003年からは酪農家が直接出資し、14%の株式を保有することになった点である(農協の保有割合は37%に)。全酪連の工場という感覚を払しょくし、地域の酪農家自身のプラントという意識を醸成することを狙いとしている。
製品の開発と販路の開拓。マーケッティングが今後の奥中山ブランドの帰すうを左右するポイントである。この点で、既存の組織内部の議論を活性化するとともに、外部の人材の持つアイデアや幅広い人脈をうまく活用するという発想があってよいように思う。目の前にある「いわて子どもの森」は外部の人材の登用による成功例でもある。恒久的な登用である必要はない。先入観やしがらみのない目による点検が役に立つのである。消費者に近い観点からの提案も大切である。もっとも、外部の人間によるメッセージは、時として実現可能性の吟味を欠いた思いつきに走りがちである。この点を冷静に評価し、地域にとって真に有効な方策に結びつける作業、それは奥中山に根付いた地元の人材が担うべき仕事である。
戦後の奥中山の歩みを振り返ってみるならば、挑戦の夢を抱いた開拓者精神と、既存農家の地道な実行力のハイブリッドこそが、地域社会の発展を支えた原動力であった。乳業プラントの問題をはじめとして、いま奥中山の酪農と乳業に求められていることは、このようなハイブリッドの再現にほかならない。この意味において、もう一度原点に立ち帰ることが求められていると言い換えてもよい。
注
1)奥中山開拓40周年記念誌編集委員会『夢・人・大地』奥中山農業協同組合、1988年。
2)いわて奥中山農業協同組合『JAいわて奥中山のご案内(平成17年度版)』、2005年による。なお、いわて奥中山農協は旧奥中山農協を含む4農協の合併によって2001年に発足した。
3)正式には奥中山高原農協乳業株式会社の工場である。
4)天和3年(1683年)の検地のさいに、奥中山地域には46戸の農家があったとされる(『夢・人・大地』による)。
5)これらの生乳の価格プレミアムについても、充分とは言えないとの声がある。例えばnon-GMO牛乳向けの生乳の場合、飼料代の補助というかたちでキログラム当たり4円の加算が行われているが、実際には追加的な飼料コストはこの倍に相当するとの評価もある。
6)社会福祉法人「カナンの園」のもとで、奥中山には児童から成人までを対象とするさまざまな福祉施設が展開している。
7)藤原武利「農構事業で夢・人・大地を拓く:酪農と高原野菜の奥中山農協」『農業構造改善』第37巻第6号、1999年による。
[謝辞]
調査に際しては三つの牧場の皆さんほか多くの方にお世話になった。とくに、いわて奥中山農協の加藤岳夫さんには調査のアレンジをお願いした。記して謝意を表したい。
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