海外駐在員レポート 

生乳生産現場での品質管理 −豪州ニューサウスウェールズ州での取り組み−

シドニー駐在員事務所  藤島博康、野村俊夫




はじめに

 近年、食品業界においては、ダイオキシンなどの人体に有害な化学物質の残
留や、病原性大腸菌をはじめとした毒性菌類による汚染など、疾病との因果関
係が明らかになるにつれて、食品の安全性を確保することは世界的に重要な課
題となってきた。

 特に、畜産物に関しては、米国での病原性大腸菌に汚染されたハンバーガー
による大規模な食中毒や、イギリスでの牛海綿状脳症の発生などが大きな問題
となった。一方で、これらの対策として、米国では危害分析重要管理点監視方
式(HACCP)による食肉検査制度の導入、イギリスでは牛の出生からと畜まで
の個体に関するすべての履歴を管理する体制の導入が図られるなど、食品の安
全性を保証することを目的とした各種の品質管理が試みられている。

 豪州においても、過去にしばしば問題となった牛肉の農薬残留の対策などを
目的に、と畜食肉加工部門のみならず、肉牛生産現場でもHACCPを取り入れ
た「キャトル・ケア」(詳細に関しては本紙海外編96年 9 月号参照)と称さ
れる品質管理が既に体系化されており、肉牛農家現場への導入が推進されてい
る。

 酪農乳業分野では、肉牛のように必要に差し迫られていたわけではないが、
HACCPを組み入れた安全管理体制がまず乳業施設で進み、その波は、生乳生
産現場まで及びつつある。なかでも、ニューサウスウェールズ(NSW)州では、
行政機関であるNSW酪農庁が推進役となり、HACCPを組み入れた品質管理
体制の導入が急速に普及しつつある。

 今回は、NSW州での導入普及事例を中心に、生乳生産現場での品質管理体制
の確立について考えてみたい。

 なお、HACCPを導入した農産物生産現場での品質管理について、当地では、
一般に「農場HACCP(On-farm HACCP)」と呼ばれていることから、本編
では、生乳生産現場でのHACCPを導入した食品としての安全性および品質
管理を示す場合は、以降「生乳生産HACCP」と表記する。


1 生乳生産HACCPの構築

( 1 )個別にマニュアルを確立

 HACCPを取り入れた肉牛生産現場の品質管理体系である「キャトル・ケア」
が全国肉牛生産者協議会という肉牛生産者の全国組織主導での策定、普及が図
られているのに対し、生乳生産現場の品質管理は、当初より各州の政府機関や
酪農協によって個別に取り組まれた。

 現在、各州の行政機関または乳業メーカーによって確立されたマニュアルは
以下のとおりである。このうち、98年12月現在で、州政府機関が州内のすべ
ての酪農家を対象に、生乳生産HACCP導入を推進しているのは、NSW州と
クインズランド(QLD)州となっている。

生乳生産HACCPの開発状況


( 2 )ガイドラインにより全国的な統一性を確保

 全国的な試みとしては、95年に酪農研究開発公社(DRDC:生産者課徴金等
で運営される研究開発機関)によって、「キャトル・ケア」などを参考とした
「デイリー・ファースト」と称される品質管理体系が検討され、97年にはビク
トリア(VIC)州およびサウスオーストラリア(SA)州の合計80戸の酪農家
で試験的に実施されたが、全国的な基準としては普及していない。

 NSW酪農庁の関係者によると、「デイリー・ファースト」に関しては、理論
的には非常によくできたマニュアルであったが、内容がかなりアカデミックだ
ったことから、一般の酪農家には難解であり、現場向きではなかったそうだ。

 その後、豪州酪農乳業協議会(ADIC:酪農家から乳業メーカーまで豪州の酪
農乳業界全体を代表し、業界としての政策立案や政府への提言などを行う組
織)は、生乳生産HACCPに関して、業界の統一的な見解をまとめるべくワー
キング・グループを組織し、98年 5 月にガイドラインを設定した。

 このガイドラインは、州行政機関や乳業メーカー(酪農協組織を含む)が、
生乳生産HACCPの基本マニュアルの作成に当たって、統一の基本要素として
盛り込むよう業界内で合意されたもので、これによって豪州全体での生乳生産
HACCPに関する枠組みが整えられたと言える。

ADICによる生乳生産HACCPガイドライン

 豪州酪農乳業界は、生乳生産HACCPの構築に当たって、以下の項目に関し
て基本的要素とすることを合意した。

 1  農薬や動物医薬品などの汚染

 2  細菌や、ホコリなど物理的なものによる汚染

上記 1 および 2 のリスクを低減するために、以下について管理されなければ
ならない。

(a)搾乳牛の健康と取り扱い

     ・薬剤等は適切に使用する
     ・ワクチン等
     ・抗生物質等
     ・出荷保留期間
     ・出荷保留期間、薬剤等投与日時および搾乳牛の取り扱いに関する記
     録

(b)個体識別システム
     ・薬品などを投与した個体には、(残留の恐れがある生乳が混入しな
     いよう)明確な識別票を付す

(c)新規導入牛の管理
     ・新規導入した乳牛について、薬剤や抗生物質等の投与歴などチェッ
     クするシステム

(d)水供給(乳牛の飲用および搾乳機器洗浄用)

(e)飼料供給(自給および購入)

     ・飼料に薬剤を散布した場合、乳牛に給与可能となるまでの保留期間
     をチェックするシステム
     ・その他の汚染物質に関して

(f)搾乳後の生乳の冷却および貯蔵

     ・豪州国内基準に従う

(g)清掃と衛生
 
     ・充分な清掃計画
     ・良質な水供給

(h)搾乳関連器具の保守管理

     ・冷却および搾乳器具の保守管理

(i)搾乳施設、放牧環境および汚水管理

     ・汚染されるリスクを最小限にとどめる

(j)(酪農家が実践するに当たり)訓練/適切な能力(講習会や現場での指
    導)

(k)(酪農家が)処置したことを証明する適切な記録

 3  プロトコルの検証

 合意された基本要素を織り込んだ、農場における食品安全管理の手順の検証

( 3 )NSW州における開発普及

 NSW州の生乳生産HACCPは、94年 20月に、デイリーファーマーズ(DF)
酪農協による検討が開始されたのが最初で、95年 2 月には、DF酪農協と、
NSW酪農庁によるジョイント・ベンチャーでの事業に格上げされた。

 96年11月より、NSW州内のDF酪農協傘下の組合員を対象に導入が開始さ
れた。97年 3 月には、州内のすべての酪農家への導入を目指し、NSW酪農庁
と乳業メーカーとの交渉が開始され、他州に先駆けて州内の全酪農家を対象と
した導入体制を整えた。

 伝統的に飲用乳が乳製品販売の大きな割合を占め、NSW州を本拠地とする
DF酪農協が生乳生産HACCPを積極的に導入してきたことが、NSW州全体の
生乳生産HACCP普及率が高いことの大きな要因となったと言える。

NSW酪農庁の「クオリティ・プラス」による主要管理項目

1 生乳の冷却
2 清掃と衛生
3 搾乳牛への薬剤投与
4 乳房の衛生
5 水質
6 搾乳牛および農場環境
7 牛群の健康
8 搾乳関連器具
9 生乳のろ過
10 汚水の管理
11 人間の健康
12 搾乳牛の飲用水
13 粗飼料給与
14 濃厚飼料給与
15 雇用労働者などの訓練
16 手順の検証

( 4 )積極推進の背景に

 豪州では、州の行政機関によって、飲用乳向けの生産者販売乳価が決定され
るなど、飲用乳の安定供給を目的に、各種の規制が行われている。なかでも、
NSW州では、飲用向け、加工向けにかかわらず、酪農家として生乳生産を行う
場合には、NSW酪農庁に登録した上で、年 1 回の同庁による検査を受けなけ
ればならないなど、他州に比べ、規制の程度は強い。

 反面、いまだNSW酪農庁の権限が比較的強く残っていることは、同庁が生
乳生産HACCPを推進しやすい環境にあるとも言える。

 現在、飲用乳価格の自由化など、州行政機関による規制の撤廃が議論されて
おり、飼養管理などの違いから一般に生乳生産コストが低いとされるビクトリ
ア州との競合が懸念されている。NSW州の酪農家や乳業メーカーには、将来的
に、単なる価格競争に巻き込まれないためにも、規制に守られた今のうちに高
品質な生乳生産を確保し、今後の牛乳乳製品市場での付加価値戦略に結び付け
たいとの思惑もあり、これもNSW州で生乳生産HACCPが拡大している一因
となっている。


2 NSW酪農庁による生乳生産HACCPの概要

(1)NSW酪農庁の役割

 NSW酪農庁は法律に基づき、@生乳生産枠を通じた飲用乳の供給管理、A飲
用向け農家販売乳価の設定、B牛乳乳製品の製造現場での品質管理、C生乳生
産者、乳業工場、牛乳乳製品販売者の登録管理などを行っている。

 生乳受取施設を対象とした、生乳生産HACCPを中心とした品質管理の導入
は92年に制度化、また94年には乳製品製造施設を対象に同様の品質管理の導
入が制度化されている。

 これらは、義務化されたものではないが、生乳生産HACCPを中心とした品
質管理が導入されていない施設については、当該施設を対象に、NSW酪農庁が
安全性確認のため実施する検査コストに関して実費負担とするなど、導入に対
しインセンティブが与えられている。98年 06 月末時点では、生乳受取施設の
100%、乳製品加工施設の68.7%がHACCPを中心とした品質管理を導入して
いる。

 さらに、昨年、NSW酪農庁は、酪農家、タンクローリーのドライバー、乳業
関連施設、牛乳乳製品の流通まで(小売部門への搬入後は州保健省の管轄とな
る)、乳業界全体をカバーする「クオリティ・プラス2000」と称するHACCP
をベースとした品質管理体制の実現を目指している。

 NSW酪農庁は、農家の生産段階から保管流通まで、すべて網羅する「クオリ
ティ・プラス2000」のような食品品質管理体制は、世界的に見てもほとんど例
がなく、NSWの酪農業界に大きな利益を与えるとしており、業界内でも、市場
戦略ツールとしてこれを支持する意見は多い。

NSW酪農庁による生乳生産HACCPフローチャート


( 2 )生乳生産HACCP導入の手順

 以下に後述するべガ酪農協を例に、生乳生産HACCPの導入手順を示した。

 @酪農家は、乳業メーカーに生乳生産HACCPの導入を要請し、あらかじめ
NSW酪農庁による講習を受けた乳業メーカーの担当者が、ANSW酪農庁作成
の基本マニュアルを基に指導し、生産現場に即した個別マニュアルを作成する。

 導入終了後、BNSW酪農庁の認証担当者の審査を受け、個別マニュアル(生
乳生産HACCP)の認証を行うことで、HACCP導入酪農家として登録される。
Cその後、 6 ヵ月後に第 1 回目の管理状況のチェックがあり、以降 1 年ごと
にNSW酪農庁によって管理状況がチェックされる。

 なお、酪農家は、導入要請に当たって、乳業メーカーではなく、NSW酪農庁
に直接依頼することも可能。NSW酪農庁では、担当者を導入チームと認証チー
ムに分けて責任区分を明確にし、特に認証に当たって、統一性と客観性が確保
されるよう図っている。また、飲用乳に関する規制緩和が実施された場合、将
来的に、NSW酪農庁の雇用人員に余剰が予想されることから、導入チームには
退職前のスタッフを充てているそうだ。

生乳生産HACCPの導入手順


( 3 )導入経費の負担区分

 生乳生産HACCPの導入に要する主な経費としては、導入および認証のため
のスタッフ人件費、人員養成や普及啓蒙のための各種講習に要する経費、バル
ククーラー用温度計、基本マニュアル、事務経費、一般管理費などで、やはり
人件費の割合が最も高いとのことであった。現在、これらの経費については、
NSW酪農庁が負担している。

 NSW酪農庁による経費負担は、今年に入ってからのことで、それまでは導入
を希望する酪農家と乳業メーカーによる実費負担とされていた。なお、今年、
無料化されるに当たり、既に導入を完了した酪農家ばかりか、DF酪農協が、当
初単独で進めたマニュアル開発費にまでさかのぼって、NSW酪農庁により清算
されたそうである。

 生乳生産HACCP導入後、実施状況の検証を目的とした年 1 回の費用に関し
ては、初回検査(NSW酪農庁による負担)によって不備が認められた場合、再
検査(2 回目)に要する経費の半分が当該酪農家の負担となる。また、 3 回目
以降の検査が必要となった場合は、当該酪農家の全額負担となる。

 2000年 6 月までは、NSW酪農庁が現状ベースで存続するため、生乳生産
HACCPを含む「クオリティ・プラス2000」に要する経費は同酪農庁によって
負担される。しかし、飲用乳の規制緩和に伴い、NSW酪農庁のステイタスに変
化がある場合は、商業ベースでの経費が要求されるとみられており、導入を早
める一因となっているようだ。

( 4 )義務化と国際基準

 現在のところ、国際的な食品等の基準作成機関である合同食品規格委員会
(CODEX)において、農産物生産現場での安全管理体系についてガイドライン
を設ける動きが見られないことなどから、生乳生産HACCPの義務化に関して
は、際立った議論は出ていない。しかしながら、労働強化とみる酪農家サイド
はおおむね反対、消費者への安全性担保を要求する乳業メーカーや大手量販店
などの需要者サイドはおおむね支持、に大別される。

 自主的なものにとどめておくのか、義務化するのか、今後政治的な問題に発
展する可能性もあるが、NSW酪農庁など関係者には、今後 6 年くらいの間に、
農産物生産現場での品質管理についても、豪州とニュージーランド当局の合同
で定められる食品基準法の下、義務化されるとの見方が強かった。豪州全体と
して見ると、乳製品の国際市場において豪州の最大の競合相手であるニュージ
ーランドでの生乳生産HACCP導入動向を強く意識しており、業界全体として
遅れをとってはならないという危機感もあるようだ。

 また、後述するべガ酪農協では、今後、生乳生産HACCP導入割合が一定レ
ベルを超えた場合、非導入酪農家の生乳を導入酪農家のものとは分離し別途移
送および処理することになるため、この経費は乳代をディスカウントすること
によって調整せざるを得なくなるとみている。NSW酪農庁やDF酪農協の関係
者も同様の指摘をしており、たとえ義務化されなくても、経済的な側面から、
将来的には、ほぼ全面的に導入が進むとの見方が強い。

 さらに、酪農協を母体としない純然たる企業乳業メーカーの場合は、非導入
酪農家の生乳に対して、単純に、集乳拒否という姿勢で臨む可能性も高く、結
果的に義務化と変わらない状態になるとの予想もある。


3 べガ酪農協での導入事例

( 1 )べガ酪農協の概要

 NSW州の南東部海岸部に位置するべガ酪農協は、生乳処理量ベースでは年間
1 憶 2 千万リットル、組合員数約180戸と、豪州の中でもそれほど大きな酪農
協ではないが、チーズ、なかでもチェダーチーズに関しては豪州トップのマー
ケットシェアを誇り、べガ・ブランドのチーズは広く知られている。主要乳製
品の年間生産量は、チェダーチーズが 1 万 2 千トン、ホエイが 6 千トン、バ
ターが 1 千トンに上る。

 酪農協の役員は酪農家から構成されており、乳業メーカーとしての酪農協組
織と生乳供給者である酪農家の関係は、大型酪農協においてたびたび組合員の
意見集約が困難な状況に陥るのと比較すると、良好であるとされる。



( 2 )生乳生産HACCPの導入状況

 NSW酪農庁の資料によると、98年11月末時点で、NSWの酪農家約1,873
戸うち約11%に当たる206戸が生乳生産HACCPの認証を受けている。早くか
ら導入が進んだDF酪農協傘下の酪農家の導入率は16.7%と比較的高いものの、
100戸以上の酪農家から生乳供給される乳業メーカーで見ると、べガ酪農協で
の導入率は23.7%で最も高い。

 訪問時点(12月下旬)では、122戸が生乳生産HACCPの導入を開始し、こ
のうち42戸が既にNSW酪農庁の認定を受けた。生乳生産HACCPの導入は開
発マネージャーであるバックラー氏と他 2 名で担当している。
【セーラ・バックラー開発マネージャー(左)と
フィリップ・タゼェンコ品質管理マネージャー(右)】
 バックラー氏によると、酪農協として最初に、技術水準の最も高い層と、逆
に最も低い層を対象に、生乳生産HACCPの導入を試みたそうである。技術水
準の高い層では、元々導入のための体系が整っている上、新技術の導入意欲も
旺盛であり、記録作成および保管の部分を補足する程度で導入できたそうだ。
一方、最も低い層に対しては、体細胞数(SCC)や細菌数(TPC)を改善する
方法として導入を促し、乳質の改善に成果を上げたそうである。

 バックラー氏は、2000年 6 月までに、傘下の組合員すべてに導入を終了す
るというのは、かなり現実的であると語っていた。

( 3 )インセンティブの支払い

 生乳生産HACCPの導入に関して、乳代として経済的なインセティブを与え
ているのは現在のところべガ酪農協のみであり、これが高い導入率の一因とな
っているとみられる。生乳生産者販売価格は成分取引によるため、98年12月
の第 1 週の加重平均値を例にとると、通常の乳価23.58セント/リットルに、
生乳生産HACCPの導入が完了している酪農家には、0.5セント/リットル(定
額)加算される。

 この上乗分については、以前よりSCCやTPCの分析結果に応じてプレミア
ムを支払ってきた経緯からすれば、生乳生産HACCPの導入にプレミアムを支
払うことは、自然な流れであったようだ。

 なお、DF酪農協では、生乳生産HACCP導入完了酪農家に対し、DF酪農協
直営雑貨販売店から当該酪農家が物品を購入した場合に、値引を行うなどのイ
ンセンティブを与えているとのことであった。

 べガ酪農協が、生乳生産HACCPの導入を、また同時に乳代によるインセン
ティブを決定した理由として、世界的に食品の安全性への関心が高まるなか、
輸出先の需要者からの安全性に関する要望に応える必要があったことを第一に、
国内消費者向けにべガブランドの信頼性をさらに向上させることなどの効果も
期待されている。

 一方、タゼェンコ品質管理マネージャーによると、・体細胞数が少なければ
チーズの歩留まりも向上すること、・体細胞数増減などがチーズの風味に微妙
な影響を与えること、・抗生物質の残留によってスターターの働きが弱まる可
能性などがあることなどから、生乳生産HACCPの導入により斉一性の高い高
品質生乳を確保することは、実際にチーズの品質を向上する上でも効果が大き
いそうである。

( 4 )導入に当たっての問題点

 初期には生乳生産HACCPの導入に当たって、酪農家サイドから「新たな資
金投資が必要なのでは」、「(分厚いマニュアルの存在から)非常に高度で煩
雑な技術が必要なのでは」などの懸念の声が多かったらしく、導入を酪農家に
どのように動機付けるかに腐心したそうである。

 このため、HACCPの原理を説明する会合を催したり、ピザ・ナイトという
(皆でピザでもつまみながらのカジュアルな)懇親会を催し、酪農家同志が気
さくに話し合える場所を設けるなどしている。

 ピザ・ナイトは、酪農家に非常に好評で、マニュアルにない、お互いの実経
験を語り合うことで自信を深めたり、個々の問題解決(現実に生じる問題や疑
問点は皆に共通したものであることが多い)に非常に役立つということだった。
 生乳生産HACCP導入がそれほど困難なものではなく、自らの経営にも十分
導入可能と酪農家に感じてもらう一方で、乳業メーカーに強制されるのではな
く、酪農家自ら導入の利益を見出してもらうことが、重要なポイントであるそ
うだ。

 また一方で、導入には、タンクローリーの運転手、獣医師、薬品販売業者や
飼料販売業者など関係者の協力と理解が不可欠であることから、酪農協主催(経
費負担)による勉強会など開催して、周辺関係者の生乳生産HACCPについて
の理解を深めるよう努めている。ただ、飼料や薬剤などの訪問販売業者は対処
のしようがなく、由来の知れない飼料を購入してしまうなどの問題を生じるそ
うである。

 また、読み書きに不自由する酪農家もいることから、国営放送の最寄りの地
方局にマニュアルを無料でテープに吹き込んでもらうなど、普及のため努力し
ている。

( 5 )酪農家の対応状況

 生乳生産HACCP導入による利点として、今回訪問した酪農家では、@現在
のところ(するべきことを実行してだけであるが)プレミアムが支払われるこ
と、A導入後は記録整理などで週に30分程度作業が増加しただけ(導入前の予
想に比べ負担が少ない)、B雇用労働者に対し(マニュアルを作成することで)
作業手順を示すことが可能になり、作業の平準化と正確性に貢献、C(記録整
備により)雇用労働者との意思疎通の向上、などを挙げていた。

 また、管理点などについて理解を深め、酪農家としての職業意識が高まるこ
とによって、薬剤や飼料の販売業者、搾乳関連器具関係者の選択や関わりに改
善があったそうである。さらに生産技術という観点から見ると、常に管理点を
モニタリングするよう意識が改善されたことに加え、仮にSCCの増加が見られ
たとしても、改善措置が明確であり、自ら対処可能なため安心感があるとのこ
とであった。

 定期的な生乳の各種検査結果が、酪農協からフィードバックされることによ
り、生乳生産HACCPが有効に機能しているかどうか簡単に知ることができる
とのことで、導入した酪農家は自らの経営に大きな自信を持っているようだっ
た。

 一方で、個々の酪農家の「べガブランド」に対する誇りと自信も、生乳生産
HACCPの導入推進に一役買っているようだった。訪問した酪農家では、小規
模ながらも、全国に知れ渡った「べガブランド」の原材料供給者としての自信
と、小規模酪農協ゆえに将来の発展には品質向上などによって付加価値を高め
るしかないという真摯な態度が垣間見られた。

生乳生産HACCP導入による利点

生乳生産者として

 ・生乳生産に関する一連の作業を効率的に管理
 ・生乳の安全性および品質の向上
 ・品質問題の解決、一定した品質の生乳生産
 ・生乳生産量の増加(疾病の予防や搾乳ローテーションの適正化などによる)
 ・生乳生産コストの削減(薬剤費等の低減や出荷不適合生乳の減少など)
 ・収入の増加(体細胞数などの成分取引による場合やインセンティブ支払い
  など)
 ・生産技術等日常業務の水準向上(特に、作業マニュアルの確立することで
  雇用労働者の意識および技術向上に貢献)
 ・酪農家としての職業意識の向上(HACCP導入過程で作業の本質を理解するこ
  とにより)

乳業メーカーとして

 ・乳製品の原材料として、成分内容に斉一性のある高品質生乳の確保
 ・高品質(賞味期限の長期化や風味向上等)な乳製品生産の可能性
 ・乳製品の生産性(チーズ生産における歩留向上等)の向上
 ・乳業工場と酪農家の関係の向上
 ・内外の需要者に安全性や品質を保証
 ・製品の安全性や品質に遡及した販売戦略の可能性
 ・製造物責任法に関連した問題などが生じた場合に、より適切な対応が可能

( 6 )専門家の育成と生産体系に合わせたマニュアルの作成

 生乳生産HACCP導入に当たっては、酪農家の「やる気」が大きく左右する。
乳業メーカー(またはNSW酪農庁の)導入担当者が、酪農家の意志を尊重し
十分に意思疎通できるかどうかが、導入に当たっての大切な要素になるとみら
れる。

 仮に、酪農家の経営技術における欠点を改善するという手法で、生乳生産
HACCPの導入を図った場合は、酪農家の「やる気」を大きくそぐことになろ
う。

 べガ酪農協での高い導入率は、経済的なインセティブによるところも大きい
が、酪農協による農家への動機付けと、支援が上手く機能している点も見逃せ
ない要因といえる。担当者であるバックラー氏の人柄に負うところも大きいと
は思うが、生乳生産HACCPのコンセプトに熟知した人間が電話一本で気軽に
相談に乗ってくれるという、専門家による酪農家の支援体制が、分厚いマニュ
アルにくじけさせることなく、酪農家の前向きな姿勢を支えているとも言える。

 農業生産現場での、HACCPによる品質管理の導入に当たっては、HACCP
のコンセプトと、その土地の農業生産に熟知した専門家の育成が必要不可欠で
あるよう感じられた。

 また、DF酪農協やNSW酪農庁の手で、州内の自然条件や生産環境に応じた 
マニュアルが開発されきた経緯も、現場でのスムーズな導入に繋がっているよ
うだ。この点に関しては、トップダウン方式でスタートした肉牛生産現場での
品質管理「キャトル・ケア」が、大規模で粗放的な飼養形態にそぐわず、当初、
豪州肉牛生産の中心地であるクインズランド州での導入に、つまずいてしまっ
たのとは対照的である。

 マニュアルの開発に当たっては、その土地の生産環境に十分に留意し、酪農
家の生産現場に応じて微調整ができるような柔軟性が必要であろうと思われる。


4 将来展望

( 1 )食品の安全性を保証する手段として

 冒頭で述べたとおり、今日の消費者にとって、食品の安全問題は非常に大き
な関心事であり、食品業界にとって、これをいかに担保するのかが重要な課題
となっている。既に、スーパーマーケットやファスト・フードなど需要者が、
このような消費者の動きを考慮し、製品供給者に対し、HACCPやISO(国際
標準化機構)シリーズなど統一的な体系に基づいた安全および品質管理を強制
する傾向は世界的なものと言える。

 このようなことから考えて、食品分野のはじまりを担う農業生産現場でも、
消費者の要求から逃れることは難しいとみられる。今回の関係者の指摘にあっ
たように、生乳生産HACCPのような農場での安全および品質管理が、早晩、
国や世界レベルで義務として要求される日が来るかもしれない。

 また、乳製品加工施設だけではなく、生乳生産現場から一連の安全および品
質管理体制を構築することによって、製造物責任などに関して法的な対処が容
易となる側面もある。

( 2 )NSW州では全食品分野での統一的な安全管理を検討

 NSW州では、今回取り上げたNSW酪農庁による「クオリティ・プラス
2000」をモデルに、魚介類や野菜果実等、食品全分野を対象に、農場や水域な
どそれぞれの生産現場から小売部門に到達するまで、一貫した安全品質管理の
導入が計画されている。

 組織的には、現在のNSW酪農庁とNSW食肉産業庁とを母体に、新たな行
政機関「セーフ・フード(仮称)」が設立され、食品の安全性に関して統括的
に責任を負うことになるようだ。

 連邦レベルでも、すべての食品加工施設においてHACCPによる食品安全管
理が検討されるなど、農産物貿易の自由化を推進するケアンズ・グループのな
かでも、積極派として知られている豪州では、輸出に依存せざるを得ない分、
世界的に高まる食品の安全性確保に対する要求に応じるべく、体制が急速に整
備されつつある。

 わが国においても、95年に食品衛生法の一部が改正され、牛乳乳製品と食肉
製品の製造加工過程でのHACCPを導入した総合衛生管理製造過程制度が導入
された。しかしながら、食品の安全性に関しては、農場から食卓までのすべて
が担保されなければ、消費者の理解が得られない可能性が高い。

 わが国でも、農産物生産現場での品質管理体制の確立と同時に、農場から食
卓までの安全管理体制を総合的に消費者に訴える方策手段が必要なのではない
だろうか。


おわりに

 農場で付着した病原性大腸菌が直接消費者の口に入る危険性のある牛肉部門
などとは異なり、生乳の場合は、ほとんどのケースで一度殺菌処理を受けた上
で加工処理され、牛乳乳製品として市場出荷される。このため、生産者の品質
管理に対する取り組み意識に関しては、本編を企画した段階での大きな関心事
項の一つだったが、酪農家の意識水準は想像以上に高いものだった。

 しかしながら、農業生産、食品加工、輸送保管など、仮に個別の部門で完全
な安全品質管理体制が整っていたとしても、一つでも安全性を保証できない部
門があれば、食卓での信用は得られない。このため、一連の関係者の安全性に
対しての意識向上、また各部門の有機的な結合は、食品の安全管理に欠かせな
いものと言える。

 べガ酪農協からの帰り道、明らかに駐車禁止の場所に、「ISO9000」の取得
をペイントしたあるメーカーの輸送トラックが駐車されていた。これは、単な
る「交通違反」であり、そのメーカーの品質管理とは何の関係もないとは理解
しながらも、そのメーカーの一連の品質管理体制に、基本的な疑問を持たずに
はいられなかった。

 食品の安全および品質管理には、全体としてのシステムもさる事ながら、業
界に携わる者、一人一人のプロ意識の向上が、なによりも欠かせないのではな
いだろうか。


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