1 はじめに
アルゼンチンは2004年5月、国際獣疫事務局(OIE)の総会において、アイスランド、シンガポール、ウルグアイとともに牛海綿状脳症(BSE)清浄国として暫定的に承認された。
EUにおいて、牛の個体識別によるトレーサビリティ(追跡可能性)・システムが導入された経緯は周知のとおりBSEに起因しているが、アルゼンチンはEUからリスクがない国として以前から認められていたにもかかわらず、EU市場の要求に合わせ体制を強化していることが注目される。
今回は、BSE清浄国であるが個体識別制度を導入しているアルゼンチンのトレーサビリティ・システムについて見てみる。
2 個体識別制度の制定経緯
(1)法的根拠および制定理由
アルゼンチン農畜産品衛生事業団(SENASA)は輸出向け肉牛を個体ごとに管理するため、SENASA決議第15/2003号(2003年2月5日付け)を2月12日の官報で公示した(以下、断りがない場合は、SENASAの決議とする)。この決議の第1条において、決議第496/2001号および決議2/2003号により定められた「輸出向け牛飼育農場登録制度」に登録しているすべての農場に対し、「『輸出向けと畜用牛の個体識別システム』
が強制的に適用される」と規定した。
アルゼンチンでは以前から決議第178/2001号および決議115/2002号などに基づき、移動トラックの一群を単位(ロット)として牛肉の追跡調査が可能となるシステムを採用し、EU向けに輸出が可能となっていたが、新たに個体識別制度を導入するに当たり決議第15/2003号の前文で、
(1) より確実なトレーサビリティ・システムにより輸出向け家畜の身元証明を強化し、市場の要求に対応する必要があること。
(2) EUと同様の輸入条件を求める市場に対して、将来的に輸出機会などを増やす上で必要になること。
─を理由に挙げている。
(2)耳標の規格および装着対象・時期について
個体識別の手法として決議第15/2003号では、重複しないコード番号が記された耳標を左耳に装着することになり、マイクロチップの使用などは規定されておらず「永続的に判読が可能なもの」とだけ規定されている。
耳標の装着対象牛とその装着時期は、
(1) 輸出向け牛飼育農場登録制度に登録されている農場に導入されるすべての牛で、本決議が定める耳標によってすでに識別されていない牛
(2) 本決議が有効となる日以降に誕生し、離乳する前までの牛
(3) 本決議が有効となる日から180日の間に識別されず、かつ出荷されずに飼養されて農場に残っている牛
─などとなっており、同決議が有効となる日(告示から90日)から180日以降、すべての輸出向け牛に装着されると規定された。よって以上から本決議は2003年5月13日から施行される予定であったが、SENASAは実際の運用に当たって、
(1) 輸出向け牛飼育農場において肥育が開始される牛については2003年7月1日から耳標装着義務化開始。
(2) 旧システム(ロットによる管理のこと)と新システム(個体識別)は、2003年8月15日まで併存可能。
(3) EU向けにと畜されるすべての牛は2003年8月15日以降に耳標装着が義務化。
(4) 輸出向け牛飼育農場において輸出用として飼養されるすべての牛は2004年1月1日までに耳標装着。
(5) 輸出向け牛飼育農場において飼養されるすべての牛は2004年6月30日までに耳標装着。
─と、当初の予定よりかなり遅れて実施されることになった。実施時期の変更理由について公式な発表はないが関係者の話によると、耳標の製造が間に合わず対象となるすべての農場において準備が整わなかったためと言われている。
なお、決議第391/2003号(2003年8月8日付け)において、輸出向け牛飼養農場に導入する肥育素牛は、2004年3月31日から輸出向け牛繁殖農場として登録された農場からのみ導入しなければならないことが決定され、また2005年3月31日からはその輸出向け牛繁殖農場に飼養されている牛すべてに、離乳時までに耳標が装着されなければならないこととなった。
(3)システムの概要
前述のようにアルゼンチンの旧システムはロット管理であり、家畜を搬送するためにはSENASAが発行する家畜移動許可証(DTA)やSENASAに登録された獣医師が発行する衛生証明書などが必要であったが、決議第15/2003号によりさらに個体識別番号を記入した個体登録カード(TRI)が必要となった(なお、DTAにも個体識別番号を記入するようにSENASAは指導しているところとのこと)。この措置によりと畜場に搬入された頭数が、DTAや衛生証明書に記載された頭数と異なる場合は、輸出用のロットとしてすべての牛のと畜が受入れ不可能となり、国内消費向けや個体識別の必要のない国向けに回されることになった。
新システムの概要について、SENASAが生産者などに配布している次頁のEU向け輸出手続に関する模式図をもとに説明する。
(1) 輸出向け牛繁殖農場は、耳標製造会社からSENASAが許可した9桁の番号の入った耳標を購入する。耳標番号はSENASAが許可した耳標製造会社に割り与えられ、製造会社はその番号に従い許可番号入りの耳標を生産し、生産者(農家番号13桁が耳標の裏に印字される)の要求枚数に応じて販売する。その際、耳標製造会社は毎月5日と20日に、SENASAに販売した枚数および個体識別番号、販売日、受領証番号、販売先(=農場など)、農場登録番号をメールで報告することになっている。
ちなみに、耳標代は生産者が100%負担している。アルゼンチン農牧水産食糧庁(SAGPyA)によれば、(i)制度の模索時に生産者から負担助成などに対する要望はなかったし、EU市場などへ高い価格で牛肉を輸出するためにはトレーサビリティに対する投資は必要で、投資に見合うメリットがあることは生産者も理解しているからではないか(ii)また以前、口蹄疫ワクチンの無料配布を実施していた時、ワクチンを接種せずに捨てていた不正行為が見られたが、現在は自らがワクチン代を負担することになり生産者に自覚が生じかつ疑惑通報も増え、衛生コントロールが以前より容易になったので、経験上、政府が助成するより生産者自らが負担する方が制度的に良いと感じている─との話であった。
(2) 生産者はSENASA地域事務所に、耳標を装着した牛についてデータを記入した個体登録カード(TRI)を提出する。
(3)(3)’輸出向け肥育素牛が移動する場合でも、前述したようにDTAが必要となる。DTAはSENASA地域事務所が発行するが、その際農場側はSENASA地域事務所に対し、TRIに移動日(決議上は家畜をトラックに積む日となっているが、実行上は移動日を記入)や移動先などを記入して提出し、DTAを発行してもらう。(3)の場合はダイレクトに輸出向け牛飼育農場に導入される場合で、(3)’は競売や家畜市場を通して導入される場合である。(3)’の場合はSENASA獣医師が書類を確認することになるが、これは以前から家畜市場などにおいては獣医師の立会いが義務付けられていたからだそうである。
(4) 輸出向け牛飼育農場からSENASAが輸出向けに認定した食肉パッカーへ出荷する場合、前述したようにSENASAに登録された獣医師の発行する衛生証明書とそれと一体となっているTRIが必要となり、それを併せてSENASA地域事務所に通例、移動日前日または当日に提出する。書類が完備していれば、SENASA地域事務所からDTAが発行され、と畜場へ運搬することが可能となる。なおEU向けの場合は、輸出向け牛飼育農場に口蹄疫対策のため最低40日間飼養されることが条件となっており、かつSENASAでは、耳標購入・装着から40日以上経過していることも実行上の条件としている。
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(4)トレーサビリティ・システムに関するEUからの指摘事項
2004年4月19〜30日、EUの家畜衛生ミッションがアルゼンチンの畜産関連施設(牧場、食肉パッカー、SENASA地方事務所、口蹄疫撲滅財団、研究所、家畜市場など)を調査訪問した。調査目的は家畜衛生システムの実施状況であり、そのなかでトレーサビリティ・システムも対象となっていた。
EUミッションは、アルゼンチンのトレーサビリティ・システムについて、調査終了時点では特に厳しい指摘は行わなかったが、“SENASAにおける情報集積に問題がある”と指摘したと報道された。これについてSENASAなどに具体的に何の指摘があったかを確認したところ、「要するに予算の制約からコンピュータの導入が難しく、個体登録データの電子化・集約化が遅れている」とのことであった。なお、最終報告書は8月には完成する予定とのことでありその内容が注目されるところであるが、8月末において公表はされていない。
3 輸出向け肥育去勢牛の生体取引価格への影響
個体識別制度に登録されている輸出向けと畜牛の価格が今年1月頃から上昇していると業界では分析している。
実際には全取引におけるカテゴリー別取引価格データは存在しないため、リニエスル家畜市場における重量肥育去勢牛(440kg程度で後述のヒルトン枠の対象牛を含まず)とアルゼンチン家畜荷受人協会に2003年6月からデータが蓄積されているEU向け高級牛肉(通称「ヒルトン枠」といわれ、当年7月1日〜翌年6月30日に28,000トンの枠がEUから与えられている)の対象となる重量肥育去勢牛(450kg)の生体取引価格を比較した。TRIが添付された衛生証明書がないものはEU向けにと畜できないため、価格差を知る上である程度の指標になるものと考えられる。
肥育去勢牛における生体取引の価格差は、2003年6〜12月はキログラム当たり0.12〜0.18ペソの間、平均0.13ペソであったが、2004年1〜6月は0.21〜0.34ペソの間、平均0.27ペソと約2倍の価格差になった。(図 重量肥育去勢牛の生体取引価格の推移)
取引において価格差がついた理由として業界関係者は、
(1) 本年1月からの価格差は、ヒルトン枠対象の肥育牛を飼育している農場に対しSENASAが立入検査を実施し、条件を満たしていない農場をその認定から除外したため、調達先が少なくなったこと。
(2) また、ヒルトン枠の当該年度は前述のとおり6月までで、各パッカーは割り当られた枠を消化するため高値で取り引きしたことにより上位価格で安定的に推移したこと。
─などを挙げている。
ちなみに、2004年5月においてヒルトン枠外向けの重量肥育去勢牛の取引価格は下落しているが、これは冬期に入り牧草が不足したため繁殖雌牛を含め全てのカテゴリーにおいてと畜頭数が急増し、重量肥育去勢牛も連動して下落したものである。しかし、この際においてもヒルトン枠向けの取引価格は下落しなかった。
なお、ヒルトン枠の新年度が始まる7月以降の取引価格については、「輸出向けに許可された農場数が増えていない現状を考えれば、国内向けと畜牛などとの価格差はこのまま維持されるのではないか」と予測されている。
図 重量肥育去勢牛の生体取引価格の推移
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資料:リニエスル家畜市場、荷受人協会 |
4 食肉パッカーにおける実際の処理
農場から食肉パッカーまでの行程を説明してきたが、次に食肉パッカーにおける作業工程がどのようになっているか、ある食肉パッカーを取材したので紹介する。なお取材先の作業工程はSENASA指示以上の確認を行っているところである。
取材に応じてくれたのは輸出パッカー「ECOCARNES S.A.」で、ブエノスアイレス市中心から北西へ約25キロメートルに所在し、EUやチリなどへの輸出許可を持つ。
(1)と畜牛の搬入口:家畜はEU向け市場とその他市場向けにより搬入口が異なる。向かって左が「EU向け」、右が「その他市場向け」となっている。この作業時においてSENASA決議に基づき、全頭に耳標が装着されているかが確認される。
また同時にECOCARNES職員がEU向け全ロットに対し、そのロット内頭数の10%について耳標番号とTRIの個体識別番号をチェックする。もし、耳標番号とTRIの個体識別番号が一致しなければSENASA職員に報告し、翌日、待機場において改めて当該ロットの全頭の耳標番号を確認し、30%以下の不一致であれば一致しない個体をEU向け以外に、30%以上が不一致となればロット全てをEU向け以外にする。
さらにここでパッカーは搬送されてきたトラック1台(要するにDTAが発効される単位。おおよそ1台のトラックに35頭程度が運搬可能)にロット番号を付与し、その番号がDTAなどに記載される。この番号が最終製品のロット番号となっているため、個体識別番号は途中からなくなることになる。
なお、牛はロット毎に待機場に移動するが、その際、SENASA職員によって歩行状態などの健康状態が確認される。
(2)牛待機場:手前が「EU向け」で、白い壁の向こうが「その他市場向け」となっている。
ここで牛は1昼夜を過ごしと畜される前に個体番号の確認が行われる。SENASA内部指示書の規定によれば、この時点で処理当日のロットの10%のロットを抽出し、そのロットに属する牛の10%(最低3頭以上)について、耳標番号とTRIに記載された個体識別番号がチェックされ、不一致の場合は、前述と同様の処理がなされる。
(3)個体識別からロット識別へ:と畜、放血され処理ラインに入る際にはまだ耳標は装着されている。そしてロット最後の牛であることが分るように尾にひもが結ばれている。
その後、尾がなくなる前に、ロットの最後を示すみどり色のプラスチック環が付けられる。また、処理当日のECOCARNESにおける個体番号が前脚および後脚にスタンプされる。なお、この処理時の個体番号は、SENASA内部指示書に基づき付されることになっている。
個体識別のための耳標は、処理過程において削除されていくが、1日1ロット(全受入ロットの10%が検査対象のめどであるが、だいたい1日10ロット以下を受入れている)のみ、耳標の番号とTRIの個体識別番号が同一であるか全頭が検査される。ここでもし不一致であった場合も、前述と同様の措置となる。
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(参考)耳標。表には9桁の個体識別番号、裏には13桁の生産者番号 |
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(4)部分肉への処理:内臓検査などが済んだ枝肉は、格付けおよびロット番号スタンプなどが押され24時間冷却されてpH検査後、ロット毎に部分肉へカットされる工程に入る。なお、他のロットと混ざらないように、新たなロットが始まることを示す表示が下げられるとともに、各ロット間には距離がおかれ、カット作業が継続しないようにしている。(なお内臓は、普通はロット管理もされないとのことであるが、輸出される場合に限って、当日処理分を1ロットとして扱う)。
本ラベルは、特別にSENASA職員からもらったものであるが、(1)会社名・住所・連絡先、(2)アルゼンチンビーフの証明マーク、(3)パッカーのSENASA許可番号、(5)商品名(例はヒレ肉)、(6)と畜日、(7)製造日、(8)ロット番号、(9)契約番号、(10)最低有効保持期限などが記載されている(「食肉の表示」については、「畜産の情報 海外編 2003年2月号」p50〜53も参照)。また、箱にもロット番号が付されて輸出される。
左から、当パッカーのJuan Jose Ces 輸出担当部長、Maria Fernanda Cacheda 品質管理チーフ、一番右のJuan
Carlos Calvari 氏はECOCARNES専属のSENASA家畜衛生検査主任。アルゼンチンと日本の旗を用意して歓迎してくれた。
当方から「アルゼンチンの個体識別は、SENASAが認定した農場から、SENASAに登録した牛のみが確実に輸出されることを担保する仕組みであり、消費者から生産者までさかのぼるためには個体別ではなく、ロット番号によりさかのぼることになるのか」との確認に対して、「その通りである」との回答をしてくれた。なお、当パッカーにおいては6カ月毎に1つの製品について農場までさかのぼる調査を実施している。
また、輸出向け農場はSENASAに許可された飼育方法などを順守しているか、年2回抽出検査されており、一方食肉パッカーは40日毎に製品サンプル40本程度をSENASA検査所に送り、抗生物質やホルモン剤の使用の有無などが検査されているとのことである。
5 おわりに
以上のようにアルゼンチンにおける個体識別の登録は輸出向け農場で飼養される牛に限られているが、2004年6月16日にサブサイSAGPyA政策担当次官は「国内向け、輸出向けのダブルスタンダードをやめ、国内向けの牛も含め将来的にすべての牛について個体識別をできるようにしたい」と世界食肉会議に出席した際に発言し、2005年3月までに導入したい考えを示した。
一方、ブラジルは2002年1月9付け農務省訓令第1号により牛(水牛含む)の個体識別制度(SISBOV)を定め、そのなかで2007年12月までに飼養される全ての牛を登録するように定めているが、2004年6月頃から国内向けに消費される牛についてはSISBOVに登録しなくても良いのではないかとの声が国会議員の間から聞かれるようになった。
アルゼンチンもブラジルもトレーサビリティ・システムは、重要なEU市場を失わないための措置と出発点は同じ考えであるが、コスト増の負担転嫁問題や耳標不足などの装着実行上の問題などから、両国とも制度が安定するまでには紆余曲折があるように思われる。
また、アルゼンチンフィードロット協会は、アルゼンチン政府がステロイドホルモンの使用を全面禁止したことに反対するレポートの中で、個体識別の全頭義務付けを含み「全てが同じ条件で生産されれば価格差が生じないことになる。よって生産者には生産手法の選択の余地を残すべきである」と訴えている。個体識別制度導入における説得材料でもあった価格差の前提を失いかねない予測とも取れ、BSE清浄国におけるトレーサビリティ・システムの今後の取り組みがどうなるのか、注意していきたい。
なお、今回のレポートを作成するに当たり取材に快く応じて下さった方々、また当方からの度重なる質問・確認に応じて下さった方々に対し、この場をお借りして心よりお礼申し上げる。
附表II−a 衛生証明書(EU向けと畜牛の移動一群搬出用)および移動一群個体登録カード
附表II−b 移動一群の個体登録カード(その他の移動の場合)
(1)DTAとの対応:移動一群の個体登録カード(TRI)と対応するDTA番号を記入。
(2)搬送先:DTAに記載された搬送先を記入。
(3)RENSPA番号:目的地のPENSPA番号。
(4)日付:家畜をトラックに積む日
(5)獣医師のサイン:と畜のために搬出する場合に立ち会った獣医師のサイン。
(6)耳標番号:搬出される家畜ごとに耳標番号を、順序良く記入。
(7)(8)積み込みまたは積み下ろしの別をチェック。
(9)コメント:適宜利用。
(10)SENASA地域事務所の立会い:と畜向け移動一群の発送時にのみ必要。
SENASA地域事務所の責任者のスタンプとサイン。
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