★ 事業団の歴史W


輸入牛肉との出合い、そして苦労

元畜産振興事業団食肉部長    水野國孝
元畜産振興事業団食肉第二課長 横溝貞次


 昭和30年代、日本での輸入牛肉は、1万トンを下回る段階で、消費者にとっても、なじみのものではありませんでした。そのような中、昭和40年から事業団が初めて輸入牛肉を取り扱うこととなりましたが、当時、担当として苦労されたお二人にお話しを伺う機会を得ました。ここに紹介いたします。
 なお、聞き手は企画情報部審査役早川ほかです。


売れなくて困った


水野 事業団が初めて輸入牛肉を扱ったのは、昭和40年9月と12月に試験輸入を行
  ったのが始めてです。その後、41年度に上期分として事業団に5千トンが割当
  てられ、42年度以降も輸入したわけです。ところが、42、43年に買った牛肉が
  売れなかったのです。

   売れなかった原因として、一つは、国内全体の需要がグラスフェッドの冷凍
  輸入牛肉を要求していなかったということがありますし、通産省の輸入割当時
  期の問題、そして、小売りの問題がありました。

横溝 そうですね。国産牛肉の増産もありましたし、特に、「乳用肥育おす牛」が
  だいぶ出始めました。

水野 当時の小売の主体はいわゆる食肉専門小売店です。食肉専門小売店でグラス
  フェッドのフローズン・ビーフを売ること自身が非常に無理な話でした。それ
  じゃスーパーはどうしていたかというと、まさに全国的に展開し始めた創成期
  というんですか、台頭期という時期で、スーパーマーケットのなかの食肉売り
  場もスーパーマーケット自身の食肉販売コーナーを持っているところがほとん
  どなくて、食肉専門小売店がテナントとして出ていたんです。スーパーで販売
  する生鮮食品は、野菜が中心だったのです。

   当時、牛肉というのは国内需要そのものがまだ小規模の時代でしたから、積
  極的に肉を売っていこうという考えはスーパー自身にもなかったわけですし、
  スーパーも展開していくについて、臭いとか硬いとかまずいとか言われている
  輸入牛肉を置くことによって、客足がむしろ逃げていってしまう。いったん逃
  げた客足を自分のところに向けるのは膨大な金と時間がかかるというわけです
  から、むしろそういうものは入れたくない。こういう考え方がスーパーには非
  常に強かったですね。

横溝 そうですね。あの頃は国産牛が食肉小売店のメインで、輸入牛肉は出始めた
  ばかりで、民貿ベースのものを取扱ってはいましたが、民貿ベースのほうは自
  分の好きなものを好きなときに随時買えるという制度でした。ですからどちら
  かというと、民貿のものは先に手をつけて、それで足らなくなると、市場等か
  ら事業団のものを買い付けるということでしたから、どうしても事業団の在庫
  のものを手当するのが第2次的ということになってきました。水野 もう一つ
  の問題は、通産省の割当制度の問題があったと思います。上期、下期、制度上
  二つに分かれているのですが、上期分は実際には、8月だったと思いますが、
  輸入公表があって、9月30日までに割当の全量を入札に付して商社と買入契約
  をする。それではじめて商社に発注書が渡り通産省から割当をもらえるわけで
  す。

   乳製品でしたら、単に脱脂粉乳という1品目だけど、輸入牛肉はロインもあ
  れば、ヒレもあり、その他いろいろなパーツ、10幾つ部位がある。その部位別
  に何トンという売渡しの予測をたて一気に買い付けるわけでしょう。

   ところが、実際に買ってみて売ろうと思ったら、需要がこれにマッチしなか
  ったということが多々ありました。一気に買い付けなければならないというこ
  とが輸入制度上、非常に大きな障害になったのです。

横溝 在庫品の売渡しにかなり苦労しました。

水野 あちらこちら、売り込みに歩いたんですよ、横溝さんとね。

横溝 水野さんにも、関西に売りに行っていただいたんですが、結局、あまり商談
  は成立しなかったんです。これは扱う部位もさることながら、売り値が折り合
  わないんですよ。

   たとえば事業団の役員応接室に量販店等の方に来ていただいて説明しますと、
  「お引き受けしましょう」と言うんですが、「お幾らですか」という話になっ
  てきますと、事業団はご存じのとおり、売渡予定価格を下回って売ることがで
  きません。価格を提示しますと、「それじゃもうお話になりませんな」という
  ことで全部不成立になったんです。

   それから、在庫品の売渡しのために、部位別の評価額の計算を行ったことが
  あります。44年2月、平野さん(当時‥助成部長)と輸入牛肉をやるんなら勉
  強してくるようにということで大洋州へ半月ばかり出張し、帰国後、出勤した
  翌日ですが、菊池理事が水野さんに部位別のコストを計算するよう指示があっ
  たのです。

   事業団の在庫品の評価は輸入牛肉一本での評価なのです。それを在庫処分を
  するために部位別に正しい計算をするという話になってきたんです。さて困っ
  たな、これはもう経理の仕事だからと思って、経理に持っていったんです。
  「これは経理の仕事だから、いまある棚卸資産のなかを部位別に分ければ済む
  ことだから、やってくれ」と言ったら、経理ではできないというのです。でき
  ない要因としては、「部位別に分けるとすれば、その部位ごとにいつ買ったも
  のか、それがいつ売れて、どういうものが在庫品として残っているのか。それ
  がわからないからできない」ということです。

   言われればたしかにそうですから、各部位ごとに41年まで遡り、先入・先出
  法を用いて、何時買入れたものが在庫となっているかを全部の契約のロットご
  とに調べ、そこから保管料、諸経費の計算をし、部位別にコスト計算をしまし
  た。そのコスト計算した合計が経理の棚卸資産の評価額と合わないといけない
  でしょう。それで苦労したんです、合わせるために(笑)。

水野 その後たしか1カ月ごとぐらいに部位別のコスト計算を横溝さんにしてもら
  ったのです。金利も変わってくるし。それでどれをいま幾らで売ればどれだけ
  の利益が出る、赤字が出るとか、これを全部行ったわけです。


ワンタッチの発想


水野 在庫品が処理出来たのは今申し上げた努力もあったのですが、それ以降買い
  入れを行わなかったからです。

   需要がほんとうにぐっと上がったなというのが45年です。その兆しが44年か
  らありましたが、たいしたことはなかった。

   実際には44年下期枠は年度末の発券でしたから現物の動きは45年度からなん
  ですが、売買方法をワンタッチに切り替えたわけです。宇田(当時:業務部長)
  さんと横溝さんとぼくと3人で、民貿がなんとかそれなりに消化されているの
  に、事業団の輸入牛肉はなぜ売れないんだろうか、ということでいろいろ議論
  して、それを整理しました。そこに三つの点が出てきたわけです。

   第1は、民貿は60日の手形決済だったわけですが、事業団は、買いたい人は
  まず代金を払ってくださいということでキャッシュ・オン・デリバリーでした
  (笑)。需要の弱いときに、代金を払わなければ渡さないという売り方なんか
  やったって売れるわけがない。

   第2は、商社が民貿割当を受けるのに実績主義を当時取っていたので、たく
  さん売った商社は次年度の割当が増えてくるわけです。とにかく強力な売り込
  みをやっていったなかでは当然、値引きもあったし、いろんなサービスも行っ
  ていたはずです。ところが事業団はそういったことはできません。

   第3が、事業団は上期、下期、割当のときに一括入札して契約しないと通産
  省から割当がもらえなかったのです。ところが、民貿では一括契約せずに売買
  は逐次、需要があるつどに、相手と話し合いながらやっていたわけです。だけ
  ど、事業団はそういういうことができなくて一括入札して、商社を決めてそこ
  に発注するというシステムしか取れなかった。

   この3点が民貿と事業団の全く違っていた点なんですね。

横溝 もう一つあげますと、ブランドの問題ですよね。民貿はユーザーの希望でブ
  ランドを指定して自分の好きなものを買えるということも事業団と違う点でし
  たね。水野 売れないときに民貿とはそういう決定的な差があった。それなら
  ば、商社のそういう民貿でやっているような機能、商社機能を何か事業団の売
  買に活用できないか。そのためにはいままでのように、入札で現物を買って売
  るというやり方ではもうだめだという結論になったのです。

   そこで枠を需要者に割当てたら、需要者は民貿と同じスタイルでできるじゃ
  ないか。そのかわり需給調整は枠の配分を調整することによってできるじゃな
  いか。

   つまり、商社の売買機能を利用しつつ現物を扱わないで枠だけで需給の調整
  をしていこう。それがワンタッチの発想の原点だったんです。

横溝 ただ、あのときいちばん問題になったのは、需給調整はどうやって働くんだ
  という問題点じゃなかったでしょうかね。具体的には、事業団は月ごとにどう
  需給調整を取っているんだといわれときにどう答えるかということがありまし
  た。

水野 それはあまり細かいことをしなくても、一定期間のあいだで需給調整がとれ
  ていれば、たとえば3カ月タームでという話だったのです。

横溝 期ごとにですね。

水野 もう一つは、いざとなったら、輸入牛肉の売渡しを停止できるということが
  ありました。


チルドビーフの始まり


水野 それで、ワンタッチが始まった頃、民貿枠で試験的にチルドビーフが入って
  きました。意外と評判がよかったんです。グラスフェッドのチルドビーフです
  が、評判がよくて民貿でどんどんどんどん伸び始めて、45年度枠のなかにもそ
  のチルドが入り始めたわけです。

横溝 45年度の下期枠で46年度に買ったかもしれませんね。

水野 そもそもワンタッチというのは、当初の議論から需給調整というところに難
  点が多少は残るという議論があったものですから、特にチルドというフレッシ
  ュものはあんまりたくさん扱わせたくないということで、たしかワンタッチ枠
  の3割に制限した覚えがあるのです。そのうちに国内需要が高まってきまして
  事業団もついにその枠を撤廃せざるを得なくなり、たしか48年に撤廃したと思
  います。

   今申し上げたように、チルドはおっかなびっくりやっていたわけです。しか
  し、最後には80%ぐらいがチルドになってしまいました。その中で、こんどは
  グレインフェッドというものが出てきたんです。ちょうど48年頃から。

   というのは、日本の商社が豪州に投資してフィードロットをつくり始めたわ
  けです。グラスよりグレインのほうがいいというので、どんどん投資してグレ
  インフェッドが出てきました。それが49年のオイルショックによる輸入停止措
  置で大きな混乱を招く要素となったわけです。

横溝 この間のことを流通面からいいますと、要するにユーザー主導型に移ったと
  いうことです。自分たちが好きなもの、売れるもの、いわゆる消費者のニーズ
  に合ったものを好きなときに買ってきて、それを売る。その結果、消費者のニ
  ーズが変わってきて輸入牛肉の需要も増えてきました。その影響もあって、牛
  肉全体、国産・輸入牛肉含めて、たしかに牛肉の需要は変わってきたと思うん
  です。

水野 そうでしたね。

横溝 それともう一つは、実需者主導に変わったために、いわゆる売れるものをい
  かにして持ってきて売ろうかということで、こんどはユーザーが新しい商品開
  発に頭を使ったというのも一つの進歩だったと思うんです。だから、最初のワ
  ンタッチは批判を受けたけども、けっしてマイナスではなくて、むしろ長い目
  で見たらその効果があとに出てきたと思います。


割当数量増加に伴う事務対応


水野 話は、本筋からずれるかもしれませんが、輸入牛肉の売買方法については、
  同一の方法が3年と持ったことない。大体2年かそこらで変わりましたね。

   いちばん最初、41年は市場上場と随意契約、ところが市場上場してもぜんぜ
  ん売れないので、やめて定価配分方式になり、その次がワンタッチになる。な
  った途端にこんどは競争方式だとか、またいろいろな売買が始まりました。と
  にかく3年と持ったことないんですね。そのために、とにかく事務処理に非常
  に忙殺されました。横溝 でも、牛肉に対する制度そのものがそういうふうに
  変えざるを得なかったということです。

水野 そうです。結局、輸入牛肉の国内における需要の位置づけが非常に変わって
  いったわけですね。最初のフローズンから、グラスのチルドに変わり、グレイ
  ンと変っていった。そういうなかで最初は相手にもされなかった輸入牛肉とい
  うものが小売店にも、スーパーにも重要な商品になってきたわけでしょう。そ
  ういうふうに輸入牛肉の国内における需要の位置づけが非常に変わっていった
  わけです。

横溝 変化に対応したから、ああいうふうに小刻みに変えざるを得なかったし、変
  えたことが結果的には、商社やユーザーの方などに批判を受けましたが、牛肉
  を取り巻く環境に適合するようにするためには、制度あるいは方式を機能的に
  変えざるを得なかったと思います。

水野 牛肉の需要の上からみると、量的にもかなり変化があったと思いますが。

横溝 46年度の下期の割当がたしか15,000トンで前年下期の倍以上です。これが第
  1次の数量の増加期です。第2次の増加期が47年の下期で前年下期の約3倍位
  の4万1,500トンに増えたんです。

   事務処理をなんとか合理化しなきゃいかんと考えました。第1次の数量の増
  加期の事務処理方法では、割当数量が増えると事務処理能力の限界を超えてし
  まうという状態だった。

水野 ひどかったですね。

横溝 それで、事務処理をなんとかしなきゃいけないということで考えたのが、契
  約書は、基本契約にして、個別契約は入札書等と買入決定通知書または売渡決
  定通知書の交換で代えよう。それから入札書の様式も変えて最下段の記入欄を
  用いて切り張り方式で処理し、また、決定通知書の発行もこの切り張りを使っ
  て転記をやめよう、合理化しようということで、たしか第2次の割当数量が増
  えたときから実施したと思います。
 

輸入売渡しの凍結


横溝 オイルショックの際、国産牛肉保護のため輸入売渡しを凍結したときもいろ
  いろなことをやりましたね。49年の1月、農林省に呼ばれて……。

水野 49年の2月1日から凍結。

横溝 たしかこういう措置を講ずるということで2人に言い渡されましてね。 

水野 今のようないいコピー機もなく青焼き(リコピー)時代ですが、公文書でな
  く青焼きのメモ書1枚を渡され、とにかく2月1日からストップするというも
  のでした。

   その内容は、既に海外に発注しているものも、契約してこれから入ってくる
  ものも、いろいろあったのですが、48年下期枠の半分はとにかく使わないで凍
  結する。それから2月1日から事業団枠に入ってくるものは、フローズンは相
  手に売らずにそのまま事業団が持つこと、チルドはフローズンにしてこれも事
  業団が持つこと、そういうことが書いてあったわけです。

   それでわれわれも急拠、業者や商社を呼んで、商社で現に契約しているのは
  どれとどれかを調べて、枠のなかで契約していないものは以後の契約は停止さ
  せるなどの措置をしました。

   当時、いちばんの問題はチルドなんですね。ワンタッチでチルドが動いてい
  る。しかも商社はグレインフェッドをやっているところもあった。フィードロ
  ットに入っている牛というのはいっぱいいたわけですね。何万頭いたかわかり
  ませんが、相当な頭数がいたわけです。それがストップになり、豪州としては
  売り先がなくなったわけです。日本には売れない。豪州の大きな輸出国はアメ
  リカですが、アメリカはご承知のとおり加工品用しか買いませんし、豪州の国
  内でもグレインフェッドというのはあまり需要がないし、売れなくて非常に困
  ったわけですね。もちろん農林省にも向こうの政府から何回か陳情はあったけ
  ど、事業団にもパッカーから相当陳情に来ました。

   しかし、その後約1年半にわたり輸入が再開されなかったためにフィードロ
  ットというのはほとんど閉鎖になったんですね。商社でそこに投資したのは大
  きな損害を受け、50年に再開しましたが、その後もフィードロットは豪州では
  なかなか伸びていかなかったんです。同時に、アメリカというライバルが入っ
  た関係もあるけれども。

   まあ、そんなことで、ストップでいちばん大きな問題は豪州におけるフィー
  ドロットの閉鎖という問題だったと思いますね。


SBSにきわめて類似の入札制度


横溝 チルドの話でもう一つ。輸入再開後、最初のチルドを買うのに、従来のワン
  タッチじゃなくて入札方式で買いました。そのときに、水野さんから言われた
  と思うのですが、競争原理の働くチルドの買い方を考えろと言われた。それで
  どうしようかと思いまして、あれこれ考えたんですけど、買いと売りを一緒に
  入札しようということにしたんです。いわゆる同時入札方式です。

水野 SBSにきわめて類似の……。

横溝 まず入札で買ういろいろな規格を全部リストアップし、それを商社に提示す
  ると同時に、ユーザーにも提示する。リストには、ロットナンバーを付けてあ
  りますから、ロット毎に商社とユーザーが同時に入札してもらったんです。

   開票するときに、まず売りのほうから開票して、入札価格が売渡予定価格以
  上のものだけをとりあえず落札候補とし、予定価格以下のものは不落として処
  理する。落札候補の入札書に見合う買入れの入札書を探して、それが買入予定
  価格に入っていれば、買入れ・売渡しともに落札という方式を考えたんです。

水野 ところがうまくいかなかった。

横溝 それが売るほうは全部予定価格以上で売れたんです。ところが、買いのほう
  は予定価格よりも高かった。

   それで、なんとかして買わないと国内需給に対応できないということで、じ
  ゃ、ネゴやろうということで、たしかあれは5時頃か6時頃から始めました。

水野 そう、夕方の5時から翌朝の9時半まで一睡もせずに……。

横溝 当時は、水野さんと伊藤(当時:食肉部調査役)さんと私で、一睡もしない
  で翌朝までネゴを続けて終わったのは……。

水野 9時半(笑)。

横溝 もちろん職員も一睡もしないんです。というのは、買入決定通知書と売渡決
  定通知書を交付する事務整理がありますから。1社ごとに1ロットごとにネゴ
  をやったのでかなり時間がかかりました。


牛肉がなぜ高い


水野 もう一つ、私の事業団での仕事で印象に残っているのは、50年の後半から53
  年の前半ぐらいまでの間ですが、国産牛肉がどんどんどんどん高くなって、小
  売価格も上がっていった。そういうなかで、事業団が需給調整をやってもなか
  なか値が下がらないということがあった。一方、ワンタッチで調整金もあった
  し、そういう差益が非常に目について、事業団が間にはさまって高いものを売
  っているからいけないんだということから、事業団が叩かれたんですね。

   毎日のように、牛肉はなぜ高いかと、カッコ書きで常に新聞や週刊誌に載っ
  たですな。テレビにもしょっちゅう引っ張り出されたけども、それが国会問題
  になったわけですね。

   当時、物価問題特別委員会や、その他の決算委員会、予算委員会にも何回か。
  とにかく毎週位国会に呼ばれました。理事長は参考人に呼ばれてますし、私が
  カバン持ちでした。想定問答を何10問か書いたり、関係資料もたくさんつくり
  ました。徹夜で書くというのが1年以上続いたんですね。

   42、43年頃、売れない時も大変だった。それからワンタッチに切り替えたと
  きも大変だけども、その後に襲ったのはこの時期だったですね。事業団にほと
  んど寝泊まりする状態が続いたですね。


二人が組むとろくなことがない


水野 48年に食肉部長で戻ってきたとき、変な話だけど、横溝さんと組んだときに
  は、いままでもろくなことがないわけです(笑)。赤字が出てみたり、売れな
  くて苦労してみたりね(笑)。そのとき話したことがあるんです。「おれ、ま
  た戻ってきたけどね、牛肉、何かヤバイことが出てこなきゃいいがな」って言
  ったことがあるのです(笑)。

横溝 それは後でいろいろ問題が出ますけどね(笑)。


忙しい中にも


水野 仕事を離れますが、当時の食肉部では、職員との和を保つということもあっ
  て、職員が自家用車持っていましたから、自動車で旅行しましたよね。

横溝 ええ。覚えているのは静岡県の梅ヶ島温泉。

水野  そう、そう。

横溝 それから群馬の猿ケ京、千葉のほうにも行きましたね。忙しいなかでも、そ
  ういったことが一つの救いですね。1泊2日の旅行で、当時は土曜日が休みで
  なかったですから、土曜日午後から仕事を切り上げて忙しいなかでも、ちょっ
  とした楽しみがありました。

   それと、水野さんは仲人の記録保持者ですよね。

水野 ヘッヘヘヘ。

横溝 何組まとめました。

水野 7組。

横溝 記録ですね(笑)。忙しいなかでも、そういう面倒見はよかった(笑)。

水野 いやあ(笑)。


−本日はどうもありがとうございました。


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