★調査報告


消滅の危機にさらされる山口県の
無角和種の保存を真剣に

 

財団法人 農政調査委員会 

専門調査員     山本 文二郎


 
75年の風雪に耐えた無角和種

 山口県には同県だけに飼育されている特産牛が2種ある。 一つは脂肪交雑がよ
く入る小柄な 「見島牛」 で、 すでに天然記念物となっている。 もう一つはこれと
は対照的な赤肉系の 「無角牛」 で、 今や種の維持さえ危ぶまれるほど激減してし
まった。 無角和種は75年の風雪に耐え、 黒毛和種を上回る高値をつけたときさえ
あった。 近年の余りのサシ重視と牛肉の市場開放で、 平成に入ってからの飼養頭
数は一いっ瀉しゃ千せん里りに減少し、 いまや250頭を割り込むところまで衰退し
た。 無角和種は日本短角種と褐毛和種と並ぶ三大地方品種で、 無角の衰退は短角
、 褐毛の他山の石となる。 トキやコウノトリが絶滅寸前で種の保存への国民的関
心が高まっているが、 牛はわれわれの日常生活に欠かせない家畜でもっと関心が
もたれてよいのではないか。
 
  無角の造成は大正9年に国立畜産試験場中国支場から 「小雀号 (こがらごう)」 
の貸与を受けたときにさかのぼる。 中国支場は和牛改良の一環として、 欧米の主
流牛である無角のアバディーンアンガスを入れ、 一代雑種の種雄牛としてできた
一頭が小雀号であった。 均整で幅があり肉つきもよく性質もおとなしい。 例えれ
ばいま亡き糸桜や紋次郎といったところであった。 阿武郡大井村 (萩市) に入っ
た小雀号は在来牛の改良に好成績をあげ、 これがきっかけで阿武郡一帯にアバデ
ィーンアンガス系の種雄牛が導入されて改良が進められた。 阿武町のある年寄り
は 「子どものころから牛には角がないものと思っていた」 そうだが、 無角はアバ
ディーンアンガスからきている。 また、 無角が阿武郡に集中したのもこうした導
入の経緯からであった。 
 
 

無角和種に見られる特性

 無角の純粋種は現在、 阿武町にある無角和種振興公社の繁殖センターにわずか
8頭がつながれているだけだが、 同じように係留されている黒毛の血が入った無
角と比べても肥えてどっしりした体格だ。 一見して分かる。 無角の特長の第一は
欧米で肉用牛として改良されてきたアバディーンアンガスの血を引いた豊艶さに
ある。 肩とモモが大きく奥行きがあって、 モモ、 カタ、 バラの肉が大きい。
 
  第二は早熟で増体性がよいことだ。 無角は21カ月前後で600キロ前後に育つ。 
  
  それ以上育てると皮下脂肪が厚くなり、 歩留まりが悪くなる。 600キロで出荷
するのが一番効率がよい。 黒毛は値打ちがでるには29カ月くらいかかって700〜
750キロで出荷するのがよいとされる。 黒毛が2回転するうちに無角は3回転す
る。 一日の増体量を比べると、 無角が1キロ程度で、 黒毛に対して0.05〜0.1キ
ロ多い。 特に、 本格的な肥育段階に入ってからは一日1.1キロくらいになるとい
う。 早熟早肥がなによりの強みである。
 
 さらに粗食に耐える。 乾燥が不十分で多少カビが生えていたり、 刈り取り適期
が過ぎた草でもよく消化し、 冬にはイナワラにヌカを加えれば十分だ。 黒毛は食
べやすいエサでないと顔を背け、 自分が踏んだ草は食べないが、 無角はより好み
しない。 与えられたエサをなめるように食べ尽くす。 しかも、 無角はよく乳がで
るので子育てがうまく、 平均12〜13産くらいまで使え、 連産性が強みとなってい
る。 その点、 黒毛は乳の量は少なく、 6産くらいで更新されるのが多い。
 
 そして、 見落とせないのが温順な性質だ。 角がないので飼育しやすく、 良くな
つく。 ある農家が無角の名を呼ぶと甘えるようにすぐ近づいてきたが、 黒毛はそ
知らぬ顔だった。 二階から垂れ下がったイナワラを無角は他の牛を踏み台に背伸
びして食べることもあるが、 黒毛はそうした芸当はできないという。 「無角の方
が知能指数が高い」 といっていた。 そのうえ角がないので群飼育に適している。
 
 こうした優れた特性がある半面、 肉質に大きな弱みがある。 それはサシが入り
にくいという一点にしぼられる。 昭和40年代に無角は近親交配の弊害で体が小さ
くなり始め、 他の遺伝子を入れようということになった。 それならと、 サシのよ
く入る黒毛の但馬系を導入したが、 思ったような効果がでなかった。 アバディー
ンアンガスの特性からサシを入れるのが難しいことが分かってきた。 それが無角
衰退の最大の要因になったのである。

 

子牛価格が黒毛を上回る時代もあった

 ところで、 消費者の牛肉の好みは時代とともに大きく移り変わってきた。 昭和
30年代から40年代にかけては経済成長に伴って年々所得が向上したが、 まだ所得
水準はそれほど高くなかった。 牛肉の質への選り好みはいまほど厳しくはなく、 
国の畜産政策も量重視の時代であった。 40年代の終わりころから消費者の好みは
サシ重視へと変わり、 50年代には日本人の所得が一段と高まってその傾向がさら
に強まった。 また、 生産部門でも、 牛肉の自由化が実施された平成に入ると、 輸
入肉との差別化が一番の課題となり、 サシ重視が一段と加速化されたのである。
 
 無角は嗜好の変化と深く絡み合って盛衰をたどってきた。 30年代から40年代初
めにかけての山口県の子牛価格は黒毛よりも無角の方が高かった(図1)。 例えば
42年の1頭当たりの平均価格は無角が13万円、 黒毛は9万4, 000円と、 黒毛に比
べて40%近く高値だった。 無角の全盛期の41年に第一回全国和牛産肉能力共進会
が岡山県で開かれたが、 無角は最優秀賞に輝いている。 早熟早肥、 奥行きのある
体、 粗食に耐えるコストの安さが高く評価されたのである。 無角の飼養頭数は6
千〜9千頭台を維持し、 38年には9,790頭と戦前戦後を通じて最高を記録した。 
つい30年ほど前のことに過ぎない (図2)。
 
 それは黒毛についてもいえた。 和牛の故郷は中国山地で、 但馬、 鳥取、 島根、 
広島、 岡山とそれぞれ特長のある牛が形成されていた。 但馬はサシは入るが小柄
で増体性が悪く、 鳥取は増体性はよいが肉質で劣った。 両者は対照的な牛だった。 
鹿児島県など多くの県は鳥取系を中心に改良を進め、 かつては鳥取系が育種にお
いて全盛の時代だった。 今は但馬の華やかな時代だが、 そのころの評価は高くは
なく、 逆境の中で他県の遺伝子を拒否し続け、 かたくなに閉鎖的な育種を続けて
いた。 肉質として、 但馬が脚光を浴びたのはこの四半世紀程度に過ぎない。 栄枯
盛衰を繰り返すのが肉用牛で、 但馬が永久に尊重されるとは限らない。 その点を
軽く見てはいけない。
 
 無角が衰え始めたのは第一次石油危機の48年頃からだ。 無角と黒毛の子牛価格
がほぼ同じだったのが、 その頃から両者の価格差が開き始めてきた。 サシ重視の
傾向がだんだん強まってきたからで、 それでも50年代は価格差がまだ10〜30%の
範囲内にあった。 だが、 牛肉の自由化が現実になってくる60年代に入ると格差は
一層開き、 平成3年には無角は黒毛の半値近くに、 4年になると無角が平均17万
6,700円に対して黒毛は38万1,600円と半値以下に落ち込んでしまったのである。 

 

いまではわずか250頭に激減

 この価格動向と平行して無角は減少していった。 平成に入ってからはまさにつ
るべ落としだ (図3)。 7年には県全体で258頭へと減ってしまった。 一般的に種
の保存には5千頭、 最低でも1千〜2千頭は必要とされてきたが、 危機ラインを
割ってしまった。 無角の維持・保存に全力をあげている小田徳太郎阿武町長は 
「町や県で振興策を話し合っている最中に、 昨日はあの農家、 今日はこの農家が手
放した…といった具合で、 4年、 5年、 6年は毎年半減を繰り返し、 いま農家が
飼っているのはわずか12頭になってしまった」 というのだった。 むつみ村には7
頭、 川上村6頭、 萩市に3頭、 須佐町1頭といったひどさだ。 かつては牛といえ
ば無角であり、 黒毛のいなかった地帯である。 

  いったん下降をたどると、 とどまるところを知らない。 阿武郡の年寄りは無角
を大事に育て暮らしてきた。 だが、 無角農家の平均年齢は63歳、 高齢化してきた
こともあって町や県の無角を手放さないようにとの呼びかけにもかかわらず次々
と手放していった。 意欲ある農家は黒毛へとどんどん切り替えていった。

  こんなこともあった。 昭和から平成に変わる頃黒毛の受精卵を無角に移植する
動きがでてきた。 黒毛が生まれれば無角を飼う意欲がでるとの期待からだった。 
だが、 黒毛のよいメスが生まれると無角の母牛は二束三文で牛舎を後にしたのだ
った。 中には搬出経費さえ払わされた農家があった。 受精卵移植はかえって無角
衰退を加速化する結果となった。 

 状況が悪化するとすべてが悪い方向へと動く。 そして一定限度を超えると、 種
の維持・保存さえ難しくなって手がつけられなくなる。 無角の激減過程はまた、 
短角や褐毛についても、 もし激しく減り始めるととどめることの難しさを示唆し
ている。 衰え始めたときには一日も早く手を打たないと手遅れになるのだ。 

 無角の将来について阿武郡の町村長や農協長の間にも意見の違いがある。 伝統
のある無角だといっても、 もうからないものを農家に奨励するわけにはいかない。 
それも一つの考えだ。 だが小田町長は先輩が残した貴重な無角をなんとしても維
持したいと念願している。 県も無角の衰退には危機感を抱いていた。 
 


種の保存に無角和種振興公社を設立
 そこで無角和種振興協議会は専門部会を設け対策をねることになった。 この協
議会は無角の全盛期だった43年に阿武郡の町村や農協など関係機関によって設立
されたもので、 その前身は大正時代にできた阿武郡産牛組合である。 県も積極的
に参加して話し合いを進め、 平成5年に2回の答申をしている。 採算がとれない
無角を農家に奨励しても効果は薄いとして、 新たに無角和種振興公社を設立して
、 そこにメス牛を集めて種の保存に乗り出すことになった。 その具体策は次の通
りである。 

  まず、 設立に当たっては県と萩市や阿武郡8町村、 山口県経済連と農協など25
機関が1億6, 000万円を出資、 これを基本財産として6年に設立された。 理事長
には阿武町長が就任した。 また、 補助事業によって無角和種繁殖センターを、 保
存に熱心な阿武町に建設した。 センターには畜舎と堆肥舎、 各種機械が整備され、 
繁殖メス牛57頭が集中管理されるために畜舎につながれたのである。 

 集められた牛は農家が飼育していたはらみ (妊娠牛) で、 福栄村から16頭、 む
つみ村から13頭、 阿武町12頭、 須佐町11頭、 田万川町5頭の合計57頭となってい
る。 現在センター外で飼育されている同郡の無角牛は34頭、 これといった繁殖メ
ス牛はほとんどセンターに集められたといってよい。 「繁殖センターの設立中に
も牛はどんどん減り、 もし畜舎の整備が遅れていたら、 恐らく無角は消えていた
だろう」 (小田阿武町長) というほど際どいところだった。 
  
  それだけに、 これからの無角の振興は並大抵ではない。 繁殖牛4頭を公社に譲
ったむつみ村の飛落博海 (とびおちひろうみ) さんはもう70歳を超えた。 現在無
角4頭と黒毛3頭を飼育している。 無角のメス牛は11産、 9産、 8産、 4産で「
長いこと飼っていたので手放すのはかわいそうだ。 これからも置いておきたい」 
という。 もう一人の農家は無角1頭、 黒毛3頭で 「無角は確かに扱いやすいが、 
採算からみてこれを最後にしたい」 という。 前須佐町長・無角和種振興協議会長
の中村光雄さんも黒毛と無角を1頭ずつ飼っているが、 黒毛の世話をするのは孫
の高校生。 その弟さんの中学生が、 無角のエサやりなどをして細々と飼っている
程度になった。 全体的に生産者の高齢化が進み積極的に増頭しようという意欲は
なくなってきている。 


早熟・連産・赤肉の特性を見直し

 こうしたところから、 無角の維持は公社の今後にかかっているといってよい。 
これからの課題としてまず、 改良方向をきちっとしようとしている。 これまで無
角の肉に少しでもサシが入るのを狙ってきたが、 結果的にはかえって混乱した。 
無角は日本の肉用牛の中では数少ない赤肉の貴重な資源だ。 サシを追わず、 焼き
肉などに仕向けられるB−2、 B−3クラスを中心に早熟・早肥、 連産性の特性
をフルに生かせる方向で改良を考えることとなった。 現在センターにいるメス牛
で純粋種は8頭にすぎない。 飼養頭数が激減すれば近親交配となるが、 県畜産試
験場に幸い種雄牛20頭分の精液が3万本保存されており、 この中に数頭の優良種
雄牛の分が含まれている。 これを活用して、 無角本来の特性がでる方向へ戻して
いくことを考えている。 

 だが、 公社が対策を進めて繁殖牛を増頭しても限界がある。 無角牛がいるとい
う展示場に過ぎない。 振興の決め手は農家に再び生産意欲を高めることだ。 基金
財産の利息、 県の補助金などを加えて、 繁殖農家にできれば1頭5万円くらいの
補償を考えている。 この他に、 子牛価格安定基金からの補てんを加えれば、 いま
の子牛価格でも30万円近くは補償されるだろう。 そうした仕組みを構築しようと
している。 

 さらに、 無角の経営指針を打ち出したい考えだ。 肥育農家は黒毛は高く売れる
ので利益は高いと考えがちだが、 子牛とエサ代が高く、 思ったほど利益が上がっ
ていない場合が多い。 ある農家は、 高額の黒毛の繁殖牛を次々に買い求め借金返
済ができず家屋敷さえ処分してしまった。 無角農家の多くは黒毛も飼っているの
で、 無角を黒毛の肥育方式で管理し無角の特性を発揮していない。 そこで、 公社
では無角の特性をフルに生かした粗飼料中心の肥育経営のモデルづくりを進める
こととし、 20ヘクタールの草地を造成して、 粗飼料中心の飼養体系を農家に展示
したい考えだ。 


産直で価格・流通の安定を

 もう一つ重要な課題は流通の見直しだ。 サシ中心の市場流通では無角は適正に
評価されない。 農家に安心して繁殖・肥育に取り組めるように産直方式による価
格形成システムの構築を考えている。 このため無角和種産直拡大協議会を設け、 
公社や行政、 繁殖農家、 指定肥育農家、 指定販売店などの代表が集まって、 繁殖
、 肥育、 販売の各段階の利益の適正配分をつくろうとしている。 無角の肉を市場
に上場しないで事前に決めた価格で取引できるような仕組みをつくりたいとして
いる。 

 自由化になってからサシ重視の傾向が一段と強まっているが、 消費者には健康
のための赤肉需要が潜在的に強くある。 生協コープやまぐちはヘルシーな赤肉を
会員に届けるために、 かつて無角の契約取引をしていたが、 数量がまとまらなく
なって立ち消えとなった。 「生協の会員は10万人を超える。 最低月10頭ないと会
員への安定供給ができない。 それが可能となれば生協としてもう一度扱いたい」 
と営業企画担当の武永清実さんはいう。 

 こうなれば、 少なくとも常時300頭くらい繁殖牛を飼育しないといけない。 小
売店の需要も考慮すればメス500頭は必要になるだろう。 ここまで減少してしま
うと、 繁殖メス牛を増やすのが精一杯になる。 メス牛を保留して、 オスを肥育に
回しても、 肉として供給されるまでには2年近くかかる。 公社の繁殖が軌道に乗
り、 農家が無角の優れた点を見直して生産意欲を高め、 そして産直による流通の
活性化が進むまでには相当の時間を必要とするだろう。 公社による無角の再生が
失敗すれば無角は消滅する恐れがある。 



貴重な遺伝資源の維持・保存に力を

 今年3月に、 萩市で無角、 褐毛、 短角の和牛地方特定品種全国サミットが開か
れた。 北は北海道から南は熊本県まで8県の関係者約130人ほどが一堂に集まっ
て、 特定品種の維持の難しさや、 振興策などについて話し合った。 もちろんサミ
ットは全国で初めてである。 そこで岩手県九戸郡山形村の小笠原寛村長が58年か
ら東京の消費者グループと交流し、 産直を築き上げて短角を振興した話が披露さ
れた。 56年に3頭でスタートした産直は現在450頭を超えるまでになった。 それ
でも子牛価格の低落で短角の頭数は漸減傾向にある。 青森県の短角は50年には1
万5,000頭いたが平成6年には2, 500頭に減っている。 それほど特定品種は厳し
い。 

 ここ20年の間、 消費者及び流通関係者にサシが異常に評価され、 生産者も、 サ
シを入れるために牛を糖尿病にするほど極限まで食べさせるような、 異常な肥育
を行っている。 この結果、 無角や短角、 褐毛などは斜陽をかこつばかりか、 見捨
てられようとさえしている。 これらの牛は明治から大正にかけて、 在来の貧弱な
牛の改良のために外国種を導入し、 苦労を重ねてできあがった貴重な遺伝資源だ。 

 そのサシ偏重で但馬牛の中にさえ影響がでている。 増体性では劣るがサシがよ
く入る美方郡村岡町の矢田川に沿って形成された 「つる」 中土井系が現在脚光を
浴びているが、 40年代にはサシではやや劣るが増体性のよい同郡温泉町の岸田川
に沿った熊波系がもてはやされた。 このため熊波系の種雄牛が少なくなって、 兵
庫県ではその維持に努めている。 

 肉への嗜好は時代とともに変わる。 不変のものではない。 無角の赤肉が再び見
直されるときがくるだろう。 一時的な嗜好の変化で貴重な遺伝子が失われること
は後世に大きな禍根を残すことになる。 いったん失われてしまうと文化財と同じ
ように復活できない。 そのよい例が鶏だ。 昔のおいしい地鶏は、 白色レグホンに
圧倒されて全部といってよいほど天然記念物になってしまった。 中には絶滅した
品種もある。 野生動物や鳥類の種の絶滅には国民的関心が高まっているが、 われ
われが生存するために必要な牛への関心は驚くほど低い。 無角の衰退をよい教訓
として、 行政など関係機関が種の維持・保存に力を入れる必要があろう。 
(参考)天然記念物となった家畜(地域)・家禽  (抜粋)
見島ウシ産地(山口)

薩摩鶏(地域を定めず) 矮鶏(地域を定めず)
地鶏 (地域を定めず) 比内鶏(地域を定めず)
軍鶏 (地域を定めず) 鳥骨鶏(地域を定めず)
地頭鶏(地域を定めず) 柏鶏(地域を定めず)
他多数

資料:文化庁
 
 
 



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