龍谷大学 国際文化学部教授 ジェームス・R・シンプソン
最近の幾つかの家畜伝染病に関するニュースは、食料安全保障の意味が、「戦 時における食料確保の必要性や主要輸出国による農産物の戦略的使用の影響」と いった従来の範ちゅうにとどまらなくなっていることを示している。さらに、「食 料は国や地域にとって固有のものであり、国にはある一定の食糧自給率を維持す る、道徳的で倫理的な権利(a moral and ethical right)があるかどうか」とい う複雑な議論も絡んでくる。 1997年3月、台湾は深刻な口蹄疫の発生により豚肉の輸出を禁止した。日本の 豚肉輸入の4割は台湾産であり、この事件は、日本のような国にとって、ある食 料の輸入を事実上、唯一の国・地域だけに頼ることが国益にとって最良かどうか、 という問題を提起している。同年4月半ば、米国インディアナ州の農民が、牛海 綿状脳症(BSE)と関連付けられるクロイツフェルト・ヤコブ病の症状を発して死 亡したとの報道が流れた。そして、牛肉の価格だけでなく飼料の価格も大幅に下 落した。4月末には、今度は、豚の価格が急激に上昇しているとのニュースが流 れた。台湾の事件に続いてオランダで豚コレラが発生したからである。年末まで に、950万頭を超える豚がオランダで処分され、他のEU諸国においてもさらに数百 万頭の豚がと畜された。そして、1997年末には香港でトリ・インフルエンザが発 生し、少なくとも 6 人の人命が失われた。 これら4つのケースは、家畜伝染病が貿易に与える様々な影響を示している。 各国政府は、動物や植物の病気が国内に侵入するのを防ぐために多大な注意を払 っており、食品衛生にも多くの関心を払っている。しかし、如何なる国も動植物 の病気の発生から完全に免れることはできず、それに関わる輸出禁止の可能性は 続くのである。 全米科学アカデミーの報告書「世界的な健康問題における米国の国益」は、貿 易と旅行者の大幅な増加は人体の健康に大きな脅威になると警告している。医学、 獣医学、農業関連の報告書には、動物用医薬品の防疫効力の低下と治療効果の減 少などから、世界中で危険な兆候が見られると、随所に緊急の警告が示されてい る。食料の安全性に関するこのような問題は、最低限の食料自給率を維持する各 国の権利と同様、重要であり、国際的に討議されるべきである。 国防という意味での食料安全保障も重要だが、天災のような伝染病問題も国の 政策決定に当たって十分に考慮されるべきである。
自国を賄うだけの基本的な食料生産が可能な国が、その生産量を減らした結果、 家畜伝染病や凶作などの世界的な問題が起きたため、十分な食料の輸入ができな かったり、国民が慣れ親しんだ食料の選択が不可能となるような状況が発生する ことは、世界全体の利益にとって最良だろうか。「食料は工業製品とは異なり、 各国は最小限の食料自給の倫理的な権利を有する」との合意がなければ、このよ うな事態が実際に生じるかもしれないという見方がある。 シンガポールのような国は現状以上に食料を増産する資源的余裕はない。しか し、日本のような国は、実質的に食料自給率を上げることは可能である。日本の 食料問題は、輸入しなければならない石油とは状況が異なる。日本が適切な農業 生産を維持すべき理由は多い。最も切実なものは、天災であり、これには家畜伝 染病問題も含まれる。 日本でよく使われる食料安全保障という言葉には、武力紛争によって食料輸入 が途絶える事態に備えて、食料を貯蔵し、生産を維持するというイメージがある。 日本は何十年にもわたって平和を享受し、世界も、また、比較的、平和な状態に あったので、多くの専門家は現代における日本の食料安全保障の必要性をまとも に取り上げてこなかった。 経済的観点から見て、国境措置がなければ、日本の食料自給率は、生産コスト の高さから、20%を下回るものと試算される。調査によれば、日本人は、現在の 食料自給率40%(カロリー換算)は余りに低すぎ、自給率は60〜65%位であるべき との考えが支配的である(1965年の自給率は73%)。 しかし、政府が強い立場で臨まないと、WTO次期ラウンドで、日本はさらなる市 場開放を強いられる可能性が大きい。それにも関わらず、この問題について、余 り、活発な議論は行われてこなかった。様々な情報が提示された上で、現在の政 策を放棄し、食料自給率の低下を容認すべきかどうか、食料安全保障が国の政策 として有意義かどうかについて、さらに議論が行われるべきである。このような 議論が行われても、スーパーマーケットでパニックが起きることはないと思う。 食料貿易をめぐる議論の中で、「いずれの国も経済的な原則に従い、食料輸入 の国境措置を完全撤廃すべきである」という意見は、倫理的にみて疑問である。 食料とその経済的なプロセスは、生活の手段に過ぎず、それ自体が目的ではない。 重要なのは、それぞれの国で日々安心して暮らせるかどうか、人々が感じる生活 の質(Quality of Life)ある。世界の食料貿易を考える上で、経済合理性だけに 基づく議論、コスト比較だけの議論でよいのだろうか。各国には食料を自給する 倫理的な権利がある。WTO次期ラウンドでは、それぞれの国の社会的な面をも考慮 した議論が望まれる。
James R. Simpson, Ph.D. 1938年米国生まれ。経済学博士、米国フロリダ大学名誉教授。専門は国際農業 経済。 |