◎今月の話題


脳の働きと栄養

静岡県大学食品栄養科学部 教授 横越 英彦








脳研究の方法

 脳は生体内の一つの臓器であり、人間の場合、百億個にものぼる膨大な神経細
胞がたくさん集まって、いわゆる神経回路網を構成している。脳の研究は主に神
経細胞の数や形を顕微鏡学的に解析し、次いで、脳が出す電気信号を電気生理学
的に解析し、また、脳から放出される特殊な物質の調節などといったように、神
経細胞の構造、信号発生、化学的プロセスなどを調べることにより進展してきた。

 一方、脳の働きの面については、相関法と呼ばれる独特の手法で調べられてき
た。すなわち、動物が一定の行動をとっているときに、それと関連して活動を示
している神経細胞を探り、その動きを解析する方法である。その他の方法として、
動物の脳に傷を付けたり、あるいは人間の脳に外傷や腫瘍などの損傷があった場
合に、その部位と機能との相関を調べる研究、あるいは脳の構造分析に基づき、
理論的なモデルを構築し解析する方法などである。


脳と栄養との関わり

 脳の発育やその機能を十分に発揮するためには、栄養が大切な役割を果たす。
脳のエネルギー源や構成成分の素材としての役割、また、高次の情報処理を行う
ための種々の生体調節物質の素材としての役割もある。身体はエネルギー源とし
て、糖質、脂肪、たんぱく質を利用しているが、脳は特別の場合を除き、エネル
ギー源としてブドウ糖しか利用できない。しかも、そのエネルギー生成系は、酸
素を必要とする好気的条件でなされるので、絶えず酸素とブドウ糖を脳に供給す
る必要がある。 1 日 3 度の食事や、朝食を摂ることの重要性はこの面からも十
分に理解することができる。

 一方、脳も他の臓器と同様に、様々な代謝あるいは脳内物質の合成等に全ての
栄養素を必要とし、特定の栄養素不足による脳発育障害などが報告されている。
脳の乾燥重量の約60%は脂質であることから、特に脳の発育期における脂質栄養
(アラキドン酸やドコサヘキサエン酸など)や、神経細胞などの分化のために核
酸などが注目される。

 毎日の食事が摂取するたんぱく質の量的・質的変化により、脳内たんぱく質合
成機能は鋭敏に影響を受けている。ビタミンやミネラルは脳内の代謝調節物質と
して、エネルギー生成系、脳内物質の合成・分解系への関与、酵素反応や情報伝
達物質の放出制御などに関与している。ある種のビタミン欠乏により、うつ病、
情緒不安定、学習行動の障害、知能発育不全、過敏症など一般の行動異常が報告
されている。ミネラルは、細胞内外の物質透過や情報伝達系に関与し、また、金
属酵素などの成分として重要である。特にカルシウムは、生体内のシグナル伝達
物質として、中枢神経系においても重要な役割を担っている。


脳の働きと栄養

 脳機能を考えるとき、重要な調節因子の一つに神経伝達物質がある。これは、
ニューロン(神経細胞)が興奮時に放出する物質で、シナプス(接合部)を隔て
て接続する他のニューロンや筋細胞、分泌細胞に神経の興奮を伝える役割をする。
神経伝達物質は、アミノ酸それ自身が情報物質として機能する場合もあれば、ア
ミノ酸の一部が修飾を受けたり、あるいはペプチドの合成によって作られる場合
がある。

 この神経伝達物質が栄養の影響を受けるならば、これにより制御されている各
種の行動、食欲、睡眠、注意力、記憶、学習、情緒、感受性なども影響を受ける
可能性がある。その結果、栄養の善し悪しが、肥満、不眠症、うつ病(冬期うつ
病、月経前症候群なども)、さらに過剰行動(問題児や犯罪者と食事の関係)と
いった社会問題にまで影響を及ぼすことになる。

 数ある神経伝達物質の中で、その前駆物質(アミノ酸)や栄養条件により影響
を受けるものはそれ程多くはないが、これらが栄養学的には重要な意味を持つ。
例えば、チロシンから合成されるドーパミンなどは、血圧、記憶、情緒などの各
種行動に影響を及ぼすといわれており、トリプトファンから合成されるセロトニ
ンは、睡眠、食欲、情緒、性行動など、またコリンからのアセチルコリンはアル
ツハイマー型の老人性痴呆症などとの関連が注目されており、これらの神経伝達
物質量はいずれも栄養条件により容易に変動する。

 栄養条件の変化に伴い、比較的容易に脳内神経伝達物質が変化し、その際、多
かれ少なかれ脳機能を反映した行動の変化が観察される。脳・神経機能は、かな
り詳細に研究されている一方、栄養学的な側面では、まだ解明されていないこと
がたくさんある。特に、栄養を踏まえた物質からの側面(栄養学、生化学、生理
学、神経化学)と機能からの側面(神経科学、行動科学、心理・精神学)を統括
した「栄養神経科学」とでもいう分野が今後は期待される。


よこごし ひでひこ  昭和45年京都大学農学部卒業。昭和50年名古屋大学大学院農学研究科博士課程 満了。農学博士。栄養学的側面から見た脳・神経機能の研究を進めている。

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