◎専門調査レポート






逆境の中で自然共生型畜産の
本格的展開を目指す
日本短角牛産地

茨城大学農学部
教授 中島 紀一



 「環境に優しい畜産」、「安全性が確保された自然な畜肉」などが強く期待されているにもかかわらず、放牧型畜産の代表格である岩手県北上山系を中心とした日本短角牛の苦境は深まり、いま存亡の危機の中にある。だが、産地を訪ねてみると、生産者や関係業者の方々は、北上山系の風土に溶け込んだ短角牛飼育に誇りと自信をもっており、苦境に屈することなく新しい取り組みにチャレンジする息吹が感じられた。短角牛飼育の拠点である岩手県下閉伊郡岩泉町の最近の状況についてレポートしたい。


日本短角牛とは

 日本短角牛は日本在来種を起源とする4種の和牛(黒毛和種、褐毛和種、無角和種、日本短角種)の一つで、褐毛和種とともに放牧特性に優れていることで知られている。在来の南部牛(あか牛)に明治期に外来のショートホーン種を掛け合わせて改良されたもので、1957年に品種登録されている。

 飼養地域は旧南部藩の岩手県北を中心に秋田県、青森県、北海道などである。これらの地域はかつての馬産地が多く、馬産時代の牧野や周辺の林地を利用した夏山冬里方式の放牧型飼育が続けられてきた。種付けは「まき牛」と呼ばれる放牧地での自然交配で、3〜5月ころに子牛が生まれ、母牛とともに秋まで放牧育成される。放牧地は牧野組合によって管理されており、組合による共同放牧となっている。秋に里に降ろされて、肥育素牛として販売される。肥育期間はその後14〜18カ月で、粗飼料と穀物で育てられ生後22〜26カ月で仕上げる。

 日本短角種の肉質は悪くはなく、放牧依存の粗飼料多給型グラスフェッドとしては相当な可能性があるとされている。しかし、赤身肉系で、黒毛和牛のようなサシが入りにくく、高級和牛市場からは閉め出されてきた。牛肉の輸入自由化(91年)以降は輸入牛肉との競合品種とされ、販売面での困難性が増している。


80年代−日本短角再興の時

 日本短角牛の飼養状況は70年代まではほぼ横ばいであったが、80年代中頃から一つの活性期が作り出される。いわば日本短角牛再興の時であった。自然を活かした飼養形態の優位性に着目した産直方式の開発が再興・活性化の主な内容だった。

 先鞭をつけたのが東京を中心に展開してきた有機農産物販売団体の「大地を守る会」と山形村(岩泉町と隣接)の提携だった。「大地を守る会」はあるべき畜産の姿を放牧主体の日本短角牛に見いだし、山形村における日本短角牛飼育を支援し、繁殖のみの産地に肥育経営を育て、村内一貫体制を構築し、事前契約による一頭買い方式で買い取り、独自の精肉加工を経て、再生産可能な契約価格で全部位を消費者に計画的に供給するというシステムを確立した。

 かねてから短角牛振興を図りたいと考えていた岩手県は、山形村と「大地を守る会」の提携方式に注目し、折から目覚ましい発展を遂げつつあった地域生協に呼びかけて、この方式を他の主要産地にも広げた。地域内に繁殖・育成・肥育一貫生産体制をつくり、特定町村と特定生協等との提携関係を結ぶという方式である。岩泉町については、当初は「盛岡市民生協」と、後に「さいたまコープ生協」との提携となった。

 県が仲介斡旋した、この新方式のポイントは、(1)特定の生協などとの提携、(2)地域内肥育、(3)地域内一貫生産体制の確立、(4)一頭買い、(5)予約方式と契約取引価格、などであった。

図1 日本短角種の繁殖牛飼養状況
資料:家畜改良関係資料(家畜改良事業団・中央畜産会)など


 この新方式に支えられて、岩手県の日本短角牛産地は、繁殖・育成だけの産地から肥育も手掛ける総合一貫生産地への転換が図られた。飼養頭数は増加に転じ、85年頃にピークを迎え、全国で繁殖牛19,598頭、肥育牛13,815頭、計33,413頭(岩手県:繁殖牛10,910頭、肥育牛5,287頭、計16,197頭)となった。

 この時期に放牧牧野の様子も大きく変わった。先にも述べたように日本短角牛の飼養牧野は主としてかつての馬産牧野であった。北上山系は戦前から戦後の時期に木炭の大産地として活況を帯たこともあった。敗戦後、都市生活者の生活エネルギー源がガスや石油になるまでの一時期、岩手木炭は一世を風靡した。炭山として伐採された跡地が短角牛の放牧牧野として利用されたところもあった。いずれも野草地、疎林地、藪地などで、地形等には手が加えられておらず、当然無肥料であった。

 そうした在来牧野と広葉樹林野を対象に70年代には国営北上山系開発が始動し、その一環として牧野改良=人工草地造成が取り組まれた。80年代から90年代には野草地牧野の多くは人工草地に造り替えられた。耕耘、施肥などの機械作業が可能なように地形もある程度改変され、土地は牧草地として耕耘造成され、施肥され、牧草の種子が蒔かれ、毎年の化学肥料施肥と定期的な草地更新が義務づけられた。牧野は自然なものであり、その管理経費はほぼただ、と言う状況から、草の生産力は増したが、その代わりに牧野改良の負担金の支払い、毎年の管理経費など、牧野もかなりの経費のかかる存在となった。

図2 日本短角種の肥育牛飼養状況
資料:家畜改良関係資料(家畜改良事業団・中央畜産会)など



牛肉輸入自由化と飼養頭数激減

図3 子牛価格の推移(全農岩手県本部)

 だが、短角牛再興・活性化はつかの間に終わり、牛肉自由化(91年)以降は輸入肉との競合品種とされ、短角牛飼養の社会的環境は極めて厳しいものとなった。

 日本短角牛の家畜市場の価格(岩手県)は、87年がピークで、春市場が342,229円、秋市場が284,936円で、ほぼこの水準が89年まで続いた。しかし、90年には暴落し、以後01年までは春秋ともに10万円前後の低水準で経緯し、02年はBSE問題もあって春秋ともに21万円台となった。岩手県内の家畜市場への上場頭数は91年がピークで5,695頭、その後は一貫して減少し、02年には815頭にまで落ち込んでいる。95年頃からは黒毛和種とのF1の出荷も始まり、02年には1,286頭が上場出荷されている。

 肥育牛の枝肉の格付けは2等級がほぼ80%、1等級が15%位で悪くはないが、価格は安い。平均枝肉価格は91年が短角1,043円/s、乳雄1,116円、黒毛2,178円、01年は短角797円、乳雄758円、黒毛1,572円であった。

 このような牛肉価格の下落が直接の原因となって、日本短角牛の飼養頭数は激減し、2001年には全国で繁殖牛6,343頭、肥育牛3,794頭、計10,137頭(岩手県:繁殖牛3,704頭、肥育牛1,955頭、計5,659頭)となってしまった。85年対比でみると繁殖牛は32%(岩手県33%)、肥育牛は27%(同36%)、全体30%(同35%)といういわば壊滅的減少である。

 この状況を岩手県内の主要産地(岩泉町、山形村、川井村、安代町、玉山町、浄法寺町)について、91年と02年の対比で見ると、繁殖牛が6,088頭から2,584頭で42%、肥育牛が2147頭から1,279頭で60%、全体で8,235頭から3,863頭で47%となっている。主要産地でも全体と同様に頭数激減の中にあるが、詳しくみれば繁殖牛の減少動向は主要産地とその他産地の動きに大きな違いはないが、肥育牛の減少については主要産地における落ち込みは相対的に小さいことが確認できる。主要産地においては80年代に確立した産直方式と地域内一貫生産体制が強く機能し、激減動向を和らげていると推察されるのである。

 調査地岩泉町の場合は91年には繁殖牛1,233頭、肥育牛518頭、計1,751頭であったものが、02年には繁殖牛567頭、肥育牛470頭、計1,037頭となっている。繁殖牛46%、肥育牛91%、全体59%という減少状態である。産直方式による短角牛飼養の中心地である山形村の場合は繁殖牛が1,044頭から456頭で44%、肥育牛は678頭から612頭で90%、全体で62%となっている。ところが岩泉町と隣接する主要産地の川井村では、繁殖牛は1,286頭から267頭で21%、肥育牛は467頭いたものが0頭となり、全体では15%で、文字通り壊滅状態となっている。川井村では行政、農協、農家が一体となって牧野組合が肥育施設を管理、運営するなど短角牛関連の産業体制を確立してきたのだが、00年にその経営が破綻し、肥育からの完全撤退となってしまったのである。


産直方式の揺るぎ

 以上概観したように、日本短角牛は北上山地の風土に密着した伝統的畜産として続けられてきたが、80年代に牧野利用の放牧方式の優位性に注目した産直方式の開発普及によって、新たな盛り上がりが作り出された。しかし、その後の牛肉輸入自由化の荒波の中で、こうした産直方式だけでは生産体制が維持できず、いま、衰滅さえ予測されるような苦境に陥っているのである。

 こうした現状を打開する処方は、産直方式の更なる強化と高度化ということになるのだが、実はその産直方式自体にも根底的な揺るぎが現れ始めているのである。川井村の肥育センターが倒産し、同村の短角牛生産が壊滅したことは先に触れたが、岩泉町についても、02年には町内の子牛市場は閉鎖となった。町内子牛市場は、産直方式の基盤となる繁殖農家と肥育農家が提携し町内一貫体制をつくる重要な仕組みであったが、出荷頭数の減少のため開設を維持できなくなったのである。しかし、地元家畜市場がなくては岩泉町としての短角牛の一貫生産システムはあり得ない。そこで、地元家畜市場に代わるものとして、町内の繁殖農家と肥育農家の提携による評価購買方式が考案実施されている。取引価格は盛岡市場の平均価格をガイドラインとした集団相対取引である。

 さらに主力出荷先であった「さいたまコープ」との産直取引も03年度で取りやめとなってしまった。生協との産直は88年から開始され、牛肉の取引だけでなく、農家は埼玉の消費者の家庭を訪問し、消費者は岩泉町の農家と放牧牧野を訪ねるという相互交流が積み重ねられてきた。その経過の中で、岩泉町における日本短角牛の飼養管理は改善充実し、消費者の牛肉についての意識も変わっていった。短角牛の良さが幅広い消費者になかなか理解されない、価格や品質などについて産地と生協の意見がなかなか合わないなど難しい問題も含みながらも岩泉町と「さいたまコープ」の産直がいきなり中止となるような状況ではなかった。

 産直取引の中止の理由はもっぱら「さいたまコープ」の政策路線の変更にあった。「さいたまコープ」は「コープとうきょう」と事実上合併し、さらに首都圏の他の4生協(「ちばコープ」、「いばらきコープ」、「とちぎコープ」、「コープぐんま」)と強い事業提携を結ぶという方向を選択したのである。「コープネット事業連合」の抜本的な再編強化である。事業合併はスケールメリットの追求による生協事業の生き残りが最大のモチーフであり、大量・安価・規格化の方向へ商品政策は大幅に変更されていった。

 「さいたまコープ」から取引中止にかかわって問題とされた点は価格とロットであった。価格については従来は800〜1,000円/kg水準で取引されてきたが、肥育素牛価格の高騰のため、この価格水準では肥育経営が維持できないため、02年度に町側は値上げを要請し、03年度は協議の結果1,200円ということになった。しかし、「さいたまコープ」側はこの価格での取引の継続は無理であるとして、価格引き下げを取引継続の条件としてきた。また、ロットについても従来は年間120頭くらいの取引であったが、拡大強化されたコープネットとしてはこれではロットが小さすぎる、大幅なロット拡大が必要だと主張したという。ロット拡大の規模は明示されなかったとのことだが、まずはほぼ倍程度ということのようである。

 取引中止は交渉協議の結果であり、双方とも中止はやむを得ないと納得しての結論であった。しかし、残念なことはこの交渉プロセスでは、岩泉町の短角牛生産をどのように維持発展させるかについては論議の対象とはならず、また、長年岩泉の短角牛を食べ支えてきた消費者の登場参加はなかった点である。この産直方式が組織と組織の商品取引という枠組みを超えられなかったということであろう。


岩泉町の日本短角牛生産の新展開

 「さいたまコープ」との取引中止は岩泉町の短角牛生産の根幹を突き崩しかねない出来事であった。02年度の場合は「さいたまコープ」120頭、大阪の食肉会社50頭、岩泉町ミートセンター40頭、一般市場販売100頭、計310頭という販売実績であり、「さいたまコープ」比率は38%を占めている。最大のしかも安定した取引先を失うことは短角牛関連の地域産業に最後のとどめを刺すような文字通りの危機であった。

 こうした突然の危機に対して、岩泉町の短角牛生産者とそれを支援する行政や農業団体は、短角牛生産からの撤退という方向ではなく、短角牛生産の特質を見つめ直し、それをより良く深め、広げる方向で基本戦略の再構築を図りつつある。もちろん動揺がないわけではないようだが、全体として前向きな意欲が産地には満ちていた。岩泉町がまとめた戦略文書「短角振興策についての考え方」の末尾には次のように記されている。

 「日本短角種の特異性から流通販売対策も大きな課題とされるが、いずれにせよ、産地として一致団結して取り組めば、さまざまな課題を乗り越え、日本短角種の正当な評価を得ることは十分可能と考えており、生産者の皆さんの強い意志を受けて、町としても応分の対応をする考えである」

 第1の課題は、「さいたまコープ」に代わる新しい取引先の開拓であった。そこでの基本的な考え方は、短角牛の良さと生産の維持継続条件の確保についてより深く理解してもらえる取引先を見つけ出すということであった。「さいたまコープ」との産直事業の教訓は、短角牛の販売を単なる商品取引に終わらせたのでは短角牛生産は維持発展させられないということであった。

 幸いなことに04年度からは、有機農産物等の宅配会社である「らでぃしゅぼーや」との取り引きの道が拓かれることになった。


より安全性の高い生産方式への移行

 次の課題は、この新しい取り引きを確保し、安定させるための方策の確立である。この点について前掲の「短角振興策についての考え方」(岩泉町)には次のように記されている。

 「日本短角種の価値をよく理解し、生産可能な価格での取り引きが可能であるのは、らでぃしゅぼーや、大地を守る会など、環境問題に関心が強く、かつ、安心・安全な農産物を真剣に求めている消費者団体や食肉店・レストランなどである。(中略)

 安心・安全な農産物を求めているところでは、

 (1)エサが遺伝子組み換えでないこと

 (2)肥育時の粗飼料の多給

 (3)できるだけ農薬や化学肥料などを使わないこと

 などをに大変こだわっている。(中略)

 また、最近、牛肉のトレーサビリティ法が成立し、基本的な考え方でどのような生産方法をしているかについて、特に関心が高い。従って、基本的な生産履歴にとどまらず、岩泉の日本短角種の生産についての考え方と、それに対応する独自の生産基準をできるだけ早く策定する必要がある」

 このような考え方に基づいて、遺伝子組み換え体ではないトウモロコシ(nonGMOコーン)の導入、農薬や化学肥料を使わない自給飼料生産などの試みが開始されている。肥育技術については、日本短角種でもサシを求めて黒毛和種と類似した濃厚飼料多給型に傾斜していたことを見直し、粗飼料多給の肥育技術の確立が目指されている。コスト問題や飼養・栽培技術の確立などなお課題は残されているが、おおよそこうした方向に生産体制を急速に移行していく流れになっているようであった。直ちに有機畜産へのチャレンジということではないようだが、その方向も強く意識しながら、単なる放牧畜産いうだけではない飼養内容の吟味と高度化が目指され始めている。

牧野利用の見直し

 先に述べたように、日本短角牛の放牧地は、かつては在来牧野、疎林地、藪地などあり、放牧形態としてはむしろ林間放牧と位置づけられるものであった。それらの放牧地の粗飼料生産性は、改良草地ほど高くはなく、したがって単位面積当たりの牛飼養頭数も多くはなかった。こうした北上山地の風土に依存した在来畜産は、飼料移入を前提として生産性向上を至上とする近代畜産とは馴染まず、それは「産業ではなくキノコ取りのようなものだ」とされ、「キノコ取り畜産」という言い方がべつ称的ニュアンスで語られていた。

 時代に取り残されたような短角牛生産を少しでも時代にマッチした形に発展させたい。1980年代頃に、北上山系総合開発に関連した牧野改良、草地造成が広範に進められた背景にはこうした思いがあったのだろう。造成された草地は、林と牧野と自然が融合した場ではなく、林や自然と分離改良された、肉牛生産装置としての放牧草地であった。造成草地は周辺を林地に囲まれており、草地造成がされなかった在来牧野も残されているので、短角牛の放牧草地が完全に人工草地化されたという訳ではないが、在来牧野での放牧とはかなり異なったものとなっている。

 こうした放牧草地の現状に関して、今日の視点からみていくつかの問題点が意識されるようになっている。

 第1は維持経費の問題である。改良牧野の多くは国有林等における借地契約となっている。そこには古くからの入会利用権はあったと思われるのだが、北上総合開発では事業システムとして国有林の場合には賃貸借に切り替えられしてまったようで、毎年かなり多額の使用料(A牧野組合の場合は50ヘクタールで地代は年間76万円)を国に支払わなければならず、また、賃貸借終了時には原状回復、すなわち林地復元が義務づけられている。こうした賃貸借関係の持続はかなり負担となっている。

 この地域は「中山間地域等直接支払制度」の対象地域であり、傾斜地の田畑については「集落協定」で、牧野については牧野組合等との「個別協定」による直接支払いを受けている。岩泉町では「集落協定」が12集落、63ヘクタール、669万円、牧野組合等の「個別協定」が5組合、468ヘクタール、2,494万円の交付であった(02年度)。国有林利用の牧野についてはこの交付金で地代が賄われている。地元評価としては「直接支払制度に助けられている」というものだが、牧野利用によって国有林管理がなされているのだから、本来ならば国は地代の取得ではなく、むしろ管理委託費の支払いをすべきケースではないのか。北上山系は、誰によって、どのように保全管理されるべきなのか、その費用はどのように賄われるべきなのかについての歴史を遡っての再検討が必要だと思われる。

 第2は草地管理のあり方の問題である。「在来牧野よりも生産性の高い人工草地」「トラクター等の機械が使える緩傾斜の草地」これが牧野改良のコンセプトであった。しかし、5〜7年毎の草地更新は現実には実行が難しく、毎年の化学肥料施肥は労力的にも経費的にも負担が大きい。草地更新はエロージョン(土壌侵食)の問題も起こしやすい。化学肥料による水系負荷の問題もある。さらに草地内の樹林地比率が低いため、多様な食物摂取や木陰の休み場確保等による牛の健康維持の面での問題点も指摘されている。こうした中で改良草地からもう一度自然牧野への回帰という問題意識も地元には芽生えつつあるようであった。

 第3は地域の自然景観保全に係わる問題である。北上山系の自然景観は、広葉樹林と短角牛放牧牧野によって構成されていた。広大な在来牧野で、牛たちは草や柴を食べながら美しい景観を形成し、保全してきた。春先にはカタクリや福寿草が咲き、春が深まると水芭蕉やツツジが咲き、秋には鮮やかな紅葉で山が飾られる景観は、広大な牧野での短角牛放牧によって作り出された伝統的な「文化景観」であった。ところが人工草地化によって、林地と草地が分離され、牛の放牧は改良草地に集中されるようになると、次第にかつての牧野景観は失われてしまう。

 改良草地はそれとして否定はしないが、放牧基盤を改良草地だけに絞り込むのではなく、在来牧野の利用も復活させ、牧野景観を維持していきたいとする地元の取り組みも広がりつつある。


北上山地の風土と暮らしを愛して

 今後の展開に関する以上3つの戦略は、自然と共にある短角牛という商品コンセプト内容の高度化、牛を飼うことによって自然を創り育てるという枠組みの再建というものであった。しかし、岩泉の方々は、短角牛だけで生きている訳でもなく、牧野景観が生きる目的だという言うわけでもない。岩泉の方々は改めてなぜ牛を飼うのか、なぜ牧野を大切にするのか、さらにはなぜ岩泉で暮らし続けていくのかを静かに問い直しつつあるように感じられた。その答えは北上山地の風土と暮らしを愛するということなのだろう。岩泉には岩泉の風土があり、暮らし方がある。その風土と暮らし方が私たちは好きなのだ。広大な牧野での短角牛の飼養もその暮らし方の一つなのだ。そんな声があちこちから聞こえてくるようだった。

 岩泉町の地域産業振興の戦略としては、短角牛振興も含む地域資源の掘り起こしと商品化が重点的に取り組まれている。行政出資の第三セクター「岩泉町産業開発」では「龍泉洞の水」の全国販売を手がけて、ある程度の成功を収めている。短角牛については産直販売だけでなく、地元での加工、地元消費、盛岡などでの消費拡大など多面的な取り組みが広がっている。

 しかし、何といっても岩泉の風土と暮らしの根幹にあったのはヒエ、キビ、モロコシ、エゴマなどの雑穀と大豆、小豆などの豆類だろう。雑穀など時代遅れだとの風潮の中でも、岩泉のお年寄りたちは傾斜畑に少しずつ雑穀や豆や地野菜を作り続けてきた。この営みを途絶えさせず大切にしたい、お年寄りたちがいつまでも続けられる農業の仕組みを作りたい、という気持ちから「産業開発」では、雑穀などの契約栽培と商品化が手掛けられている。これらの生産は、栽培内容としては有機栽培なので99年に「岩泉町有機農産物生産者協議会」が設立され、現在では165名の生産者が登録され、雑穀、豆、野菜などの契約栽培に取り組んでいる。地元特産の「安家地ダイコン」の栽培拡大と商品開発も成功しつつある。

 さらにこれらの取り組みは大きく見ればスローフード運動として総括できるのではないかとの考えから隣の山形村と協力して岩手県スローフード協会を設立し、盛岡に短角牛も食べられるレストランのあるアンテナショップを開設した。町内の道の駅では雑穀などの販売のほか、レストランでは短角牛やドングリを使ったメニューが用意されている。地場産品の加工研究に取り組んできた女性たちは「食と農を考える岩泉女性の会」を設立し、地元産品を使った薬膳料理の農家レストランを開設している。

 まず、北上山系岩泉町の風土と暮らしを見つめ直し、それを誇りに思う町民の気持ちを育てる。それらの取り組みを、自然景観の保全、伝統の食文化の掘り起こし、雑穀などの在来農業の組織化を進める。そして牧野利用の日本短角牛振興などのように、岩泉の風土と岩泉らしい暮らし方として誰にでも見える形に育て上げる。さらにその取り組みに都市の人々の参加を呼びかけ、広く受け入れていく。こんな方向が危機にさらされた日本短角牛の中心産地岩泉町で今取り組まれている21世紀戦略のようであった。短角牛生産者たちは、危機の中で改めて岩泉町にとっての短角牛放牧の大切さを再認識し、そこから風土を育てる放牧畜産への新しい取り組みが広がりつつあるようであった。


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