◎今月の話題


畜産学教育の進むべき方向

京都大学大学院農学研究科
教授 広岡 博之

 近年、大学における学科改組に伴って、多くの大学において学科名や講座名から「畜産」という文字が消えた。このことは単に名称の変化にとどまらず、カリキュラム内容にも大きな影響を与え、従来の畜産学教育の視点から見れば、大いに教育内容が後退してしまったように感じられる。そこで本稿では、その背景と畜産学教育の進むべき方向について私見を述べたい。

1.畜産学教育の現状

 そもそも畜産学とは、家畜を対象として生物学から社会科学までさまざまな学問体系のもとで畜産の問題に取り組む応用科学である。実際、欧米の畜産学関連分野では、家畜を実験動物として用い、畜産業の問題の解決をめざして研究・教育が行われている。「Journal of Animal Science」をはじめとする畜産学関連の国際学術雑誌では、ほとんどの場合、研究の対象は家畜である。しかし、日本では、かなり以前からラットやマウスなどの実験動物を使った基礎科学が畜産学分野で行われ、最近では新しい動物生命科学として、むしろ従来型の畜産学に取って代わって主流となりつつある。現在の畜産学の潮流は、従来型畜産学から動物生命科学への移行と見ることができる。

2.動物生命科学への移行の背景

 動物生命科学への移行の背景には、第一に研究資金の問題がある。欧米では通常、畜産現場や関連企業から大学への資金援助があり、大学からは新しい生産のノウハウや人的資源が提供される。すなわち、生産現場と大学との間には健全なフィードバックが形成されている。しかし、日本の場合、生産現場からの研究援助はほとんどなく、一方で製薬会社や医療関係企業から大学に多額の研究支援が期待できる。その結果、実験動物を使った生命科学の教育・研究が中心になるのは当然の成り行きである。

 第二に、現在、大学研究者の評価が投稿する学術雑誌のインパクトファクターや引用件数によって決められる傾向にあり、それゆえ生命科学系で評価の高い雑誌に掲載される可能性の高い研究が好まれて実施されることになる。そのため、特に大学の若いスタッフは、畜産学よりも動物生命科学の研究をめざすようになり、そのようなスタッフの行う講義は、畜産に関する内容はほとんどなく、実験動物学が中心となる。

 第三は学生の意識とニーズである。アンケート調査結果などを見ると、大学入学時の学生は家畜よりも実験動物や野生動物に興味を持ち、畜産業や家畜にマイナスのイメージを持っていることが分かる。また、卒業後の進路としては、畜産関連の研究機関や企業は極めて少なく、製薬会社や医療関連企業の方が多いのが現状である。このことは、従来型の畜産学の軽視と動物生命科学への移行に拍車をかけている。

3.今後の方向性

 今後、畜産学教育はどうあるべきか。従来型畜産学の研究と教育は衰退し、動物生命科学だけが残るのは正しい方向なのであろうか。

 今後の方向性の一つとして、動物生命科学を研究・教育することは時代の要請や学生のニーズを考えれば必要なことと考えられる。しかし、同時に畜産業や家畜を対象とした教育研究は継続してゆくべきと考える。もし、教育・研究から家畜に関する視点を排除するならば、医学や薬学との区別がなくなり、農学の中でわれわれが教育研究することのアイデンティティーが失われ、畜産学、ひいては農学の衰退につながると予測される。理想的な状況をいえば、家畜を対象とした畜産学が、ほかの分野をリードできるような状況を造り出せればベストである。事実、人工授精や体外受精などを開発した家畜繁殖学の研究が産婦人科分野をはじめとする医学分野に大きく貢献し、また体細胞クローン技術は畜産学分野の成果である。家畜育種学で開発された多くの理論は統計学分野で高く評価されている。欧米では、畜産学は今も昔も農学の中心分野である。

 第二に、いかにして、学生が家畜を対象とした研究に興味を持つ方向に誘導するかである。その一つの方法として、できる限り早期に畜産業の全体像を紹介し、日ごろ食している肉や乳、卵がどのように生産されているかを、興味深い話題を盛り込みながら講義することである。畜産業や家畜が身近な存在であることを知り、また自分の所属している分野の研究が、家畜生産や畜産物の量と質の向上に大きく寄与していることを知れば、学生たちは自分の所属している畜産学分野に自信を持ち、研究の励みにもなると推察される。またもう一つの工夫として、できるだけ多く、畜産の生産現場を見せ、家畜に触れさせることも大切であろう。それと同時に、畜産業に関係する研究機関や企業が、畜産学に興味を持つ学生を就職先として積極的に受入れてくれることが肝要である。

 第三に、大学に入学する以前の初等教育において、畜産物や家畜生産に興味が沸くような内容を盛り込むことである。家畜を取り上げた生物学の実例や最先端技術の紹介、畜産物の栄養価など、できる限り多くの教科書や副読本に取り上げられることをめざすべきである。たとえば、情報科学やコンピュータサイエンスは新しい分野でありながら、すでに小中高等学校のカリキュラムに入っている。現在、子どもたちは、家畜に触れる機会はめったになく、毎日畜産物は食べていてもそれがどのように生産されているかを知らない。そのような状況では、畜産学関連の大学や学部に入学したいと思わないのは当然である。今後、畜産物の自給を欧米並みに高め、畜産物の国内生産を重視すべきと考えるならば、それを支える畜産学と畜産学教育の重要性と必要性を世の中に主張することこそが、われわれがいま最もすべきことではないかと考える。


ひろおか ひろゆき

プロフィール

京都大学大学院農学研究科 教授
京都大学農学研究科博士課程修了(畜産学)1988年農学博士
龍谷大学経済学部講師、助教授を経て2001年より現職。専門は畜産システム学、家畜育種学


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