モンゴル遊牧民の乳利用 |
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酪農学園大学農食環境学群 教授 石井 智美 |
はじめに 我が国は世界でも類のない速度で高齢社会に入りました。増加する高齢者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ:人生・生活の質)を維持するために、食と栄養の役割が大きいとされています。良質なタンパク質と十分な量のカルシウムの摂取は、高齢期にも重要ですが、高齢期の栄養摂取に関する研究は、健康、身体面にこれまでの食事・食習慣が反映されること、さらには個人差が大きいこともあって、まさにこれからです。思えば我々が生きる上で不可欠な食は、先祖たちが身近なものの中から食用となるものを選抜してきた無数の歴史の積み重ねによって成立しています。 モンゴル遊牧民の食は、家畜由来の乳肉の占める割合が高く、野菜や果物の摂取がほとんどありません。近代栄養学の説くところとは対極に位置する特異な食です。そうした食で有史以来の遊牧生活を今日まで続けてきました。その秘密の一端をご紹介します。 遊牧生活と食 厳しい自然環境下で営まれる遊牧の構成員は、健康であることが求められてきました。加齢に抗することが出来ませんが、家畜を相手にする毎日の生活は屋外での運動量が多く、飽食してはいません。高齢の遊牧民も、生き生きとして何らかの仕事を担い、誇り高く暮らしています。 その食事は通年、朝は乳茶と自家製乳製品、夜は小麦粉を使った温かい料理の繰り返しです。我々が思うほど多くの肉を食べているのではありません。乳の豊かな夏季は自家製乳製品を摂る割合が高く、冬季は寒さに耐えるため肉を食べる割合が高くなるという明確な季節性があります。家畜を 遊牧民は子畜が飢えない範囲でその乳をいただくという、財産である家畜を減らさず乳を活かした乳加工法を編み出しました。モンゴロイドに離乳後多く発現する「乳糖不耐症」であることも有利に働いたのです。乳加工は最初に乳脂肪を抽出し、脱脂した乳を微生物の発酵によって発酵乳とした後、各種乳製品をつくります。廃棄される成分はありません。この乳加工は、特別な道具も使わず無造作に行われていますが、再現性があり乳の特性を経験的に熟知してきた遊牧民ならではの高度な技術なのです。 遊牧民は夏季に新鮮な乳製品を摂る事を、「お腹の中を白くする」と表現します。冬季の肉食で疲れた胃腸を乳製品中の微生物の働きにより洗濯をするわけで、遊牧民はプロバイオティクスを経験的に熟知していたのです。筆者が継続的に訪問している遊牧世帯の成人男性では、夏季の各種乳製品由来のエネルギー摂取は約70%です。その多くを次に紹介する馬乳酒の飲用が支えています。以前この世帯では小麦粉の消費量はわずかでした。しかし1999年より3年連続した寒雪害以降消費が増え、雪害前の1997年と2008年では単純計算で2倍となり、遊牧の食には、これまでに無い変化が起きているのです。 馬乳酒の飲用効果 遊牧民は健康に良いとして、ウマの生乳を乳酸菌と酵母で発酵させた馬乳酒を大切にしてきました。馬乳酒は2.5%前後のアルコールを含んだ濁酒状の飲みもので、夏季の夕方、発酵が進んだ馬乳酒が2割ほど入っている専用の発酵容器にウマ乳を加え、3,000回程度攪拌し連続してつくられています。 「夏季に乳製品の摂取が多い」という遊牧の食の特徴は、この馬乳酒の大量飲用によってもたらされてきました。飲用量は成人男性で平均1日4Lです。馬乳酒のエネルギー量は1Lあたり約400 kcalで、エネルギー量が低いゆえ、大量飲用が可能になったとも言えます。成人男性1日4Lの飲用によって、約1,600 kcal摂取していることになり、成人男子における基礎代謝量が賄えるのです。夏季の間、馬乳酒のみで過ごし食事をほとんど取らない人もいて、馬乳酒は遊牧民にとってまさに「液体の食べもの」なのです。馬乳酒は飲用後、体外に排泄される速度が速いことも、大量飲用を可能にした要因の1つでしょう。そして馬乳酒にはビタミンCが100 mlあたり8〜11 mg含まれ、馬乳酒を500 ml飲むと「日本の食事摂取基準(2010年版)」における、成人のビタミンC摂取量がカバー出来るのです。馬乳酒は野菜や果物摂取がほとんど無い遊牧民にとって、貴重なビタミンC供給源だったのです。 そのうえ馬乳酒の大量飲用によって、膨大な量の菌体が腸管に入ります。それらは消化液等により死菌となっても、遊離アミノ酸が菌体外へ溶出し、菌体自体が腸管中の身体に良くない働きをする物質を吸着して排出するという食物繊維の代用をも果たしてきました。 近年「第二の脳」とも形容される腸は、身体における免疫装置の約60%を備える器官として注目されています。この腸にすむ腸内細菌の増殖を助け、餌となるのが乳糖です。その乳糖が乳製品や馬乳酒に含まれていることは、限られた食材を活用してきた遊牧民にとって幸運であり、健康維持に大きな役割を果たしてきたのです。 こうして肉のみならず乳製品からタンパク質、カルシウムなどを十分に摂取してきたことで、遊牧という生業が今日まで継続されてきました。我々のように、食において歴史的に乳と接するところの少なかった民族は、米や魚からタンパク質を、小魚や野菜等からカルシウムを摂取してきました。今、身近な食材からの栄養摂取について、自らの遺伝子の持つ消化吸収能と共に改めて考えることが必要なのではないでしょうか。そして冷涼なモンゴルで選抜されてきた発酵に関与する微生物は、有用な機能を持っている可能性がありそうです。 おわりに モンゴルの遊牧生活では、生き物が食糧となる過程が当然のこととして、日々目の前で展開しています。こうした食の姿から、我々の豊かと思える食の抱える脆さがくっきりと逆照射されてきます。 モンゴルに行くたび、「豊かさとは何か」を考えさせられてきました。質素ですが地に足のついた遊牧の食から、我々が学ぶことは多い気がします。身体を積極的に動かすことを心がけ、毎日の食にヨーグルトなど乳製品を加え、生涯現役を目指しましょう。
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