九州大学大学院農学研究院 教授 甲斐 諭
私は、数年前に、英国、アイルランド等のBSE汚染国のレンダリング工場(肉 骨粉工場)を調査したが、そのことを聞いた地元の新聞社やテレビ局から取材攻 勢を受けた。それらの社会部担当の記者(経済部ではない)による取材を通して 感じたことは、「狂牛病という言葉の魔力がマスコミを過剰に刺激し、それが消 費者の冷静な購買行動を阻害している」ということであった。「狂牛病」という 言葉が、マスコミを介して、消費者を「恐牛病」に陥れているように思われた。 私は、当局が率先して「狂牛病」から「BSE」に表現を転換する必要があると 思う。それは、決してマスコミや消費者を欺くという意味ではなく、「狂牛病」 という言葉が一人歩きして、国民に不安をあおるのを回避させるためである。 他の例では、「エイズ」は「HIV」と表現され、非遺伝子組み換え作物は「No n-GMO」と呼ばれて、一般化している。処理施設で2重に検査され合格した牛肉 は、「BSEフリー」とか、「Non-BSE」とかと表現し、シールを貼って、消費者 に安心感を与えることが最も重要であると思っている。
各社の新聞やテレビの「狂牛病特集」を見たが、BSEに感染した牛の肉を食 べると新型クロイツフェルト・ヤコブ病に必ずかかると思った人が多かったので はなかろうか。英国で発症している新型クロイツフェルト・ヤコブ病にかかって いる方は、どの地方に多く、どのようにしてBSEにかかった牛のどの部位の肉を 食べたのか、特集では不明であった。 何れにしても、新型クロイツフェルト・ヤコブ病にかかっている方の食生活を 調査し、結果が正確に報道されることが必要である。それによって消費者の牛肉 需要の回復が期待される。 日本では、時々、魚のフグを食べて中毒(死)する人がいるが、フグはどの部 位が危険であるか、既に、判明しているので、万一、どこかで不幸にして中毒 (死)事故が発生し、それが報道されても、フグの需要が全国的に減退するとい うことはない。猛毒を持つフグも適切に処理すれば、安全でおいしい食品である ことを国民が知っているからである。
九州のある農協の肥育牛生産の労働費と償却費を除いた物財費を計算すると黒 毛和種で1キログラム当たり1,625円になり、乳用種で901円になる。一方、大 阪市場の黒毛和牛の1キログラム当たり枝肉価格(A4)は9月10日が1,721円 であったものが、10月5日には1,535円に下落している。同市場の乳用種(B3) は、同期間に854円から455円に下落している。 BSE発生以来、卸売市場の枝肉価格は急落し、すでに労働費と償却費はおろか、 物財費までも負担しきれない水準まで下落している。このような状態が続けば、 肥育牛経営の倒産が続出し、農協の経営も困難に直面する。肥育牛経営の倒産は、 繁殖牛と子牛の価格を下落させ、繁殖牛飼養を放棄させる危険性が高い。そうな れば中山間地域での耕作放棄が増加し、多面的機能も失われる。肥育牛の価格下 落分を補てんし、再生産を維持できるようにすることは、国土を守り、ひいては 国民・消費者の厚生に役立つ。
私は、BSE騒動が発生するとは知らず、8月上旬に、南九州のレンダリング工 場を調査していた。いま求められている循環型社会構築に大きく貢献している肉 骨粉生産現場の課題を知るためであった。レンダリング工場の閉鎖や肉骨粉の焼 却は、リサイクルの輪の切断であり、循環型社会構築にとってはマイナスである。 安全性の確保と循環型社会の構築とをいかに両立させていくかが今後の課題であ ろう。 家畜の生体重の約半分は不可食部分であり、それを飼料や肥料にリサイクルし てきたのが、レンダリング産業である。現在、豚、牛由来の肉骨粉の利用が禁止 されているが、少なくとも豚の肉骨粉の肥料などへの再利用が早急に検討される べきであろう。そうしなければ消費者に人気の高い野菜や果実の有機農産物の生 産に支障をきたしかねないからである。 (注:政府は11月1日から豚および馬に由来する血粉、血しょうたんぱくなら びに家きんに由来するチキンミール等の供給を豚・鶏・肥料・ペットフード向け に限り解禁した。) 安全性を確保した循環型社会の構築には、豚と牛の両ラインを持たないレンダ リング工場が多いので、将来は肉骨粉の輸入禁止を持続しつつ、独立した両ライ ンを持ち、豚と牛の肉骨粉が混合しない工場に転換できるように支援することが 不可欠である。牛肉骨粉の燃料としての利用も検討すべきである。
食肉産業には、実に多くの人が関係している。繁殖牛経営、肥育牛経営、飼料 製造業、飼料や牛の輸送産業、食肉の卸・小売業、食肉加工業、レンダラー、肥 料製造業、農協関係者など枚挙にいとまがない。 これらの関係者が地域経済を支えている地域も多いので、食の安全性を確保し つつ、これらの関係者が活力を回復し、地域経済を活性化できるような総合的な 施策の展開が望まれる。
かい さとし昭和48年九州大学農学部博士課程修了 農学博士、同年九州大学農学部助手、 63年 同助教授を経て平成10年から現職。 日本農業経済学会副会長、農林水産省「食料・農業・農村政策審議会委員」。