浜松医科大学 名誉教授 高田明和
最近米国で痛ましいテロがあり、6,000人近い人が行方不明になったとされる。 このように一時に大量の人が亡くなると、恐怖とともに報道されるが、少しずつ 亡くなった場合には意外に見逃される。 日本では平成9年までは自殺者は2万2千人くらいであった。しかし10、11、 12年と3万人を超えている。しかも遺書などが残されている場合に分かることは 経済の厳しさで、生命を絶つ人が多いということである。 実はこの数はテロの犠牲者の5倍であり、しかもこの犠牲が毎年起こるという ことである。 日本の自殺の特徴は30代、40代、50代で60%を占めていることである。欧米 では60歳以上の人が圧倒的に多い。さらに日本の自殺率は先進国では最も高く、 米国の2倍になっている。 自殺は「うつ病」の最も恐ろしい「症状」である。「うつ病」には環境の因子 が大きく作用し、ストレスやトラウマ(心的外傷)があると「うつ」になり、さ らにひどい場合には自殺にまで追い込まれるのである。
現在のうつ病の治療にはSSRI(注:SEROTONIN SPECIFICREUPTAKE INHIBITOR) といって、神経の連絡をするシナプスの伝達物質であるセロトニンが長くとどま るような薬を用いる。セロトニンは神経伝達物質の1つで神経の末端から出され て、次の神経の受容体と結合し、その神経を刺激する物質である。セロトニンが 出されて、次の神経が刺激されると、この神経は精神を安定化する前頭葉の細胞 を刺激し、喜びを起こし、さらに不安を無くす脳の部分である側坐核とか線条体 という部分を刺激する。 しかしセロトニンはトリプトファンというアミノ酸からしかできない。トリプ トファンは必須アミノ酸と言って、私たちの体では作ることができない。従って 原料のトリプトファンを食べ物として摂る必要がある。特にトリプトファンは食 肉や魚の赤身に多く含まれていることからこれらの肉を食べる以外に効果的にト リプトファンを体に取り込む方法はないのだ。 実際トリプトファンを摂らないようにさせると、血液と脳内のトリプトファン、 セロトニンが減り、人は「うつ」状態になる。 現在「うつ病」や不安神経症の治療に用いられているSSRIという薬は脳内のセ ロトニンの量を増やしているのではなく、分解されないように、神経末端から放 出後長くそこにとどまるようにする薬である。しかし、この薬も脳内にセロトニ ンが存在しなくては効果がない。そのためには原料となるトリプトファンを肉か ら摂取して供給する必要があるのだ。
最近「うつ病」の薬としてはほとんどSSRIが用いられるが、ひきこもりのよう な不安神経症の社会恐怖という異常に分類される場合にもSSRIは効果がある。 実はSSRIを用いるということは肉のエキスを注射したり、飲んだりするのと同 じなのだ。 しかも最近ではSSRIの副作用として、中止した場合の再発、禁断症状、性的不 能、さらに首などがピクピク動く「チック」というような症状を起こすことが指 摘されている。つまりこのような薬は危険であり、薬を飲むくらいなら、その原 料の肉を摂取してセロトニンを増やすべきなのである。 食肉は心筋梗塞や糖尿病などからいえば危険な食べ物に分類する人もいる。し かし食肉を食べなければ心臓は大丈夫でも精神が不安定になるのである。 さらに肉には脂肪、コレステロールの議論がつきものになっているが、最近、 日本でもコレステロールの正常値の上限が、今までの220から240ミリグラム/10 0ミリリットルと上げられた。その理由はコレステロールの摂取を控えれば、体 のさまざまな働きに異常が起きるからである。 例えばコレステロールが低いとがんの発症率、脳梗塞の発症率が増すのだ。さ らにコレステロールは女性ホルモンやコルチゾル(副腎皮質ホルモン)の原料に なる。女性ホルモンは脳細胞を刺激し、ボケを予防し、骨粗鬆症を防ぎ、心臓疾 患を予防する。つまりコレステロールを摂取しない場合には人は長生きできない のである。 また脳の固形成分の70%は脂肪と言われるが、コレステロールなどは脳の正常 な機能を営むのに必要な成分なのだ。コレステロールの濃度が下がれば、不安、 「うつ病」が引き起こされ、自殺の率も増すのだ。脳の安定のためにはコレステ ロール、脂肪は欠かせない。その素材として食肉は最適なのである。
こうしたことは、ちょうど景気政策に似ている。社会の経済状態が厳しくない 場合には、緊縮財政で構造改革をする案に異論を挟む人はいない。事実、小泉改 革には民主党から共産党まで賛成した。しかし、株が下がり、倒産、解雇が多く なると補正による景気回復を叫ぶ声も出てきた。 もちろん、大型補正が良いだけなら、だれもこれに依存はない。しかし、借金 を増し、構造改革を遅らせるから小泉総理も踏み切れないのである。 これと同じように、社会が安定し、右肩上がりの場合には、体の生活習慣病を 考えて食べないようにすることに異存はない。しかし、このように社会が厳しく なると脳を守る栄養が必要になる。つまりどちらの危険をとるかという決断は各 人に任されているのだ。「栄養学は時代とともに変わる」を主張する理由である。
たかだ あきかず昭和36年慶応大学医学部卒、41年同大学院修了、医学博士。47年ニューヨーク 州立大学助教授、50年浜松医科大学第二生理学教授、平成13年浜松医科大学名誉 教授。 日本生理学会、日本血液学会、日本臨床血液学会、日本血栓止血学会評議員。 「脳・神経研究のための分子生物学技術講座」(光文堂)、「脳の動態をみる −記憶とその障害の分子機構」(医学書院)等著書多数。