◎専門調査レポート
独走する大分・久住町の和牛増頭
農政ジャーナリスト 山本 文二郎
念願の3,000頭突破を達成
「今年3月、繁殖雌牛の飼養頭数が3,008頭、とうとう念願だった3,000頭を突破
しました」と笑みを満面に浮かべながら語るのは大分県久住町畜産センターの左
右田保所長である。昭和57年の春、同畜産センターができると初代所長へ就任し
た。それからもう20年近くになる。76歳になる左右田さんは年に似合わずすこぶ
る元気、肩の荷を降ろしたような明るさで、もう一踏ん張り頑張ろうという表情
だった。
九州本土の最高峰・中岳の南面に広がる久住高原からは寝仏といわれる阿蘇山
の雄大な姿が真っ正面に見える。標高450〜900メートルに展開するこの高原から
阿蘇外輪山にかけて広大な草原が広がっている。久住町は昔から夏山冬里方式の
放牧が行われていた。昭和50年代に入ると、600戸近くあった飼養農家のうち高
齢化や後継者難から、1、2頭飼いの零細農家が減り始めていった。危機感を持
った農家が和牛を振興しようと、55年に550人ほどで自主的に久住町和牛振興会
を立ち上げた。それをバックアップする形で、57年に町と農協、農業共済の3者
が第三セクター方式による久住町畜産センターを発足させたのである。
町役場からは農政課の畜産行政関係、農協からは畜産指導関係の職員をセンタ
ーに出向させ、施策の調整・統一を図りながら事業を推進していった。和牛振興
会とタイアップして、行政面からは補助事業を活用しての草地や里山放牧地の整
備、簡易牛舎など各種施設の建設…が進められた。指導面では和牛の改良、人工
授精、育成管理、良質サイレージづくりのための指導、削蹄などの技術指導…な
どを強力に進めていった。
和牛振興会ができたころの繁殖雌牛の飼養頭数は1,900頭弱。畜産センターの
発足もあって農家は元気づき、58年には農家数が500戸を割るようになったが、
1戸当たりの飼養頭数が3頭から4頭へと増加し、2,200頭近くに増えた。だが、
牛肉自由化は避けられないとのムードが強まって減少に転じ、61年には1,700頭
近くまで急激に落ち込んだ。
そこで、久住町では農家の生産意欲をたかめようと63年に第1回和牛振興大会
を開いた。繁殖牛の増頭目標を3,000頭に置き、畜産センターを中心に組織的に
振興策に取り組んだ。その結果、平成に入るころには、過去最高の2,200頭を上
回って2,300頭へ、5年には2,600頭を超え、その後3〜4年の停滞期を経て上昇
に転じ、ついにこの春3,000頭の目標を達成したのであった。この間、繁殖雌牛
の飼養頭数は全国的に停滞し、ここ数年は10%近くも減少してきている。大分県
も全国的傾向ほどではないが、漸減傾向をたどっていることを考えると、久住町
の突出した健闘ぶりが目立つ。
ところで、久住町の躍進の推進力となったのは畜産センターであった。当時は
第三セクターばやりのころ。畜産分野で久住町畜産センターは大分県で最初では
なく、その前にもいくつかつくられていた。現に、久住町は設立に当たって先進
事例を視察・研究して実行に移している。だが、既に多くは解散し、あるいは事
実上活動していない。第三セクターといえば、観光など他の分野で華々しくスタ
ートしながら、巨大な負債を抱えて倒産、県民の大きな負担とさえなっていると
ころもある。最近は一転して第三セクター批判が強まっているが、久住畜産セン
ターはささやかな組織ながら、なぜ沈滞する和牛繁殖で大きな成果を挙げえたの
か。その答えは運営するリーダーの姿勢にあった。
◇図:久住町における肉用牛の動向◇
飛躍の推進役は左右田畜産センター所長
衛藤龍天久住町長は畜産センターが設立された年に町長に就任した。その前は
20年近く久住町農協の専務をしていて、和牛振興会の設立など和牛の活性化に取
り組んでいた。一方、左右田畜産センター所長は家畜保健衛生所に転出する前、
久住町にある大分県畜産試験場で主として和牛の育種・改良に18年も取り組んで
きた。町長は前々から左右田さんの「仕事にじっくり取り組み、決して威張らず、
温厚で誠実、えこひいきのない」人柄をよく知っていて、玖珠家畜保健衛生所長
を退職するのを待ちかねるようにして、センター所長への就任を要請した。就任
に当たって、町長は左右田さんが働きやすいように「カネは出すが、口は出さな
い」と約束、牛の振興を左右田さんに全面的に任せて今日に及んでいる。センタ
ーの行政事務は町からの出向職員が処理し、雑事で煩わせないようにして和牛振
興に専念できる体制をとった。
左右田さんは愛知県吉良町の出身で、戦後北朝鮮から引き揚げ、麻布獣医科大
学を卒業して大分県畜産試験場に勤める。8代の場長に仕え、中でも初代の衛藤
新一場長、2代目の寺尾正二場長に鍛えられた。ともに育種・改良が専門だ。衛
藤場長にはかわいがられて、カバン持ちをしながら優れた種牛を訪ね、精液を分
けてもらうなど全国を歩いたという。「ここにつながれている種牛の特性を覚え
ろ」と言われて、毎日夜遅くまで牛舎で牛を観察、「1カ月ほどしてどの牛がど
のような素質を持っているか分かるようになった」そうだ。
寺尾場長は名だたる酒豪、夜を徹して飲み明かすことがよくあった。種牛づく
りの名人で、育種した第2さかえが45年、鹿児島の全国和牛能力共進会で天皇賞
を受賞した。島根県の畜産課長に転出した後、一世を風靡した名牛・第7糸桜を
つくっている。そのころは各県ともモンロー主義で、優秀な種牛の精液は原則と
して県外不出だった。左右田さんは昔のよしみを頼って何回か寺尾さんを訪ね、
第7糸桜のタネをとうとう特別に分けてもらった。
それによって生まれたのが糸福と糸竜だった。糸竜は死んだが、糸福は健在で
もう16歳になり、余生を静かに送っている。豊後の牛は戦後、増体性のよい鳥取
系で改良が進められた結果、肉質でいま一歩、その欠点を糸福によって補い、豊
後牛の肉質が向上するきっかけをつくっている。「門前小僧ではないが、この2
人に牛を見る目とよい牛を育種する力をつけてもらったことが、久住町での和牛
振興にどれほど役立ったことか」と振り返る。
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【久住町畜産センター、大分み
どり農協営農部・畜産部がある
久住町総合営農指導拠点施設
(12年4月完成)。】
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所長の指導姿勢は徹底した現場主義
左右田所長の指導姿勢の優れた点は徹底した現場主義にある。農家は理屈もさ
ることながら、リーダーの姿勢や熱意を肌でくみ取る。所長になって以来、「原
則として毎日農家を回ることにしている」と日課のように牛舎を見て回っている。
左右田さんが健脚なのもここから。「やり甲斐のある仕事で、苦労だと思ったこ
とはない」。自宅は大分市にあって、少し前から奥さんが体調を崩しているので
土帰月来で、大分から帰るときには一週間分の食料を持参する。こうした生活を
続けながら、農家とお茶を飲みながらよもやま話しをし、ときには「ビールを飲
みながら打ち解けて話をする」農家指導を続けていると言う。
「農家に自信を持たせ、やる気を起こさせるには、全国に通用する優れた牛を
つくることだ」。こう考える所長は農家と話をするとき「あの牛は保留しておき
なさいよ」「このタネを付けなさい」と指導する。「指導」と一口で言うが、農
家がその牛を保留し、また、タネを付けたとき、その成果が確実に上がらなけれ
ば、その後は聞き流してしまうだろう。信用されなくなれば、その後の指導もう
まくいかない。「この牛を残しなさい」の一言には責任を伴う。だからこそ、左
右田さんは日課のように農家の牛舎を巡回し、一頭一頭の父牛、母牛を頭に入れ、
系統を知り尽くそうと努力している。
また、センターの職員といっしょに毎年3月と9月の2回、10日間かけて全戸
を回り、全繁殖牛を調べる。そのときにも、所長が農家にこの牛にはこのタネを
かけよ、と指示するのだ。「私は牛の仲人よ」と笑うが、衛藤、寺尾両場長に長
年にわたって鍛えられた牛を見る目、交配の理論が生きてくる。農家指導は過去
の経験の集積の上に成り立っている。
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【農家を巡回指導する左右田保
久住町畜産センター所長】
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牛の改良は農家にとっても大変
だが、所長就任当時は農家への育種・改良の普及に苦労した。「共進会に出展
できるような牛は1頭もいなかったし、農家も関心がなかった」。当時は優秀な
子牛をつくろうなどという意欲が乏しく、生まれた子牛を何となく育てて売れば
よかった。次の共進会に「一応、出展したが、『こんなかっこの悪い牛をよう出
したなあ』と笑われたものだ」と苦笑する。農家を回りながら、改良の重要性を
説き、改良された子牛が高く売れるのを目の当たりにして、農家の関心もようや
く高まってきたのである。
一方で、「この子牛を残しなさい」といわれることは農家にとって大変なのだ。
センターが発足したころの1戸当たりの飼養頭数は平均で4頭弱だった。「残し
なさい」と言われる牛は市場に出せば高く売れる。わずかしか飼っていない農家
にとっては、その1頭は大切な収入になる。将来、優れた牛が増頭されていけば、
それが収入増加につながることが分かっていても、なかなか踏み切れない。そう
した農家に保留を説得する一方で、どうしても売りたいというときには、買手の
農家を探し、子牛市場で競り落とすまで、セリボタンを押し続けさせ、町内保留
に努めてきた。
また、高齢で牛の世話ができなくなる農家がだんだん増えてくる。センターが
発足したころから平成の初めにかけては、毎年20戸以上のテンポで農家が牛飼い
に見切りをつけていった。座談会などで「牛を手放すときは必ずセンターに相談
してください」と話しかけ、農家を巡回するときにも年寄りにそう語りかけてき
た。一方で、増頭意欲を持っている農家を知っているので、必ず牛の橋渡しをす
ることにしてきた。
こうした所長が先頭に立った取り組みは、職員にも大きな刺激となってセンタ
ーに活気を与え、組織的な振興策を展開していった。農協の出向者が担当する指
導面では、削蹄・毛刈りの講習会や子牛市場が開かれる前には上場予定の子牛の
巡回指導を必ず実施、そこで所長が残す牛、出荷する牛を決めていく。また良質
粗飼料生産のために年1回サイレージコンクールを行っている。牛の改良を促進
するために、旧村単位の3地区で品評会を開き、技術の向上に努めている。地区
ごとに品評会を開くのは久住町だけだ。また、小組合が46あるが、小組合ごとに
研修会を開いて、夫婦同伴で出席させ総合的な指導を実施し、視察研修やヘルパ
ー事業も手がけている。
一方、町からの出向者は各種補助事業を担当している。センター設立前に、52
年から国の久住飯田広域農業開発事業が始まり、開発・改良された草地は1,200
ヘクタールに達する。この草地基盤の強化が和牛振興会の結成の一つの背景とな
った。補助事業を活用しての草地改良を続ける一方、さらに自給飼料の向上を図
るために転作田での飼料作を推進している。転作面積380ヘクタールのうち飼料
作は160ヘクタールと40%を超えている。農家のコストダウンを図るために大分
県独自の補助事業で低コスト牛舎の建設も進めている。そのほかいろいろな事業
が取り込まれているが、センター発足当時には補助事業は事実上ゼロだったが、
今年度は1億7,000万円に達する見込みだ。
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【スタンチョン(左側)が設置された
低コスト牛舎】
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進む改良、飼養形態、施設の質的変化
こうしたセンターの活動実績から、竹田市に本部を置く大分みどり農協は、こ
の春畜産部を新設し、営農部とともに昨年4月に新築された久住町総合営農指導
拠点施設に移転、同農協の営農指導活動を久住町に集中した。同じ建物の中に久
住町畜産センターがあって、農協出向者による畜産指導課とタイアップし、本格
的に畜産指導に取り組む体制を整えた。農協が合併すると、合理化の対象に営農
指導が挙げられ、指導員の減員など営農指導の手抜きが進みやすい。そうした中
で、大分みどり農協が営農部と畜産部を本店から切り離して久住町に置いたこと
は異色で、そのバックには久住町の和牛振興の盛んな活動がある。
こうした所長を先頭とする和牛振興策の結果が3,000頭突破を実現し、1農家平
均飼養頭数が13頭弱に達するまでになったのである。一口で3,000頭、13頭と言う
が、それには数字では表せない飼養形態、技術体系、牛舎など施設における質的
変化を伴っている。昔からの慣行としての牛飼いから近代的な畜産経営への脱皮
の過程でもある。
農家にとっては飼養頭数が10頭を超えるまでが大変で、そこが一つの分かれ目
になるという。10頭くらいまでだと、良い牛の生まれる割合が少ない上に、保留
すると家計に響く。15〜20頭を超えると、系統の良い牛がそろってくるし、1頭
くらい保留しても家計にはそう響かない。それに、飼養技術も向上して増頭も軌
道に乗ってくる。久住町ではこれからも高齢農家の和牛からの撤退は続くであろ
うが、一つの峠を越えたと言えそうだ。
そして、町全体として飼養頭数が増えることは、増加頭数で計算するほど単純
なものではない。例えば、13年3月に3,000頭を突破したが、1年間の増加頭数
は数字の上では220頭となっている。だが、この数は結果なのである。この1年
間に死亡したり耐用年数がきて廃牛になった牛が合計56頭に達する。このほかに
市場に売られる牛もある。一方で農家が保留したのが222頭、さらに外から導入
したりして差が220頭になった。これまでの増頭の裏で、優良牛の入れ替わりが
進み、町全体としての和牛のレベルアップが進んでいることを意味する。センタ
ー発足時の2,000頭と現在の3,000頭では、増加数の1,000頭より中身の変化に注目
しなければならない。
その一つの現れが、種雄牛の生産地になったことである。久住町はかつての共
進会に出品する牛さえなかったのに、今では県内の有力な豊後牛改良基地となっ
てきた。その代表が久住町生まれの糸藤である。糸藤は県の種雄牛「糸福」の子
だ。9年に岩手県で開かれた第7回全国和牛能力共進会で農林水産大臣賞を受賞
した。優れた種雄牛は偶然に生まれることもあるが、久住町では、これまで例え
ば糸福の子が900頭近くも町内に保留されていて、優れた母牛が層厚くそろって
きたことが和牛改良の基礎となっている。
しかし、糸福、糸竜を基礎に長年、改良を重ねてきた結果、近親交配による弊
害も心配されるようになってきた。このため、他県から優良牛の導入を進めてい
る。今年に入って所長は農家4人を連れて、宮崎県都城市の家畜市場に繁殖牛を
買い付けに行った。事前に牛の下見をして選定し、セリに臨んだ。「セリは必ず
農家にやらせる。自分がセリ落とすと、その後の飼育が真剣になる」。セリ落と
した農家は「セリボタンを押すときは本当に緊張した」という。子牛買い付けに
は所長は必ず同行するようにしている。
こうした改良と増頭に平行して、農家の飼養形態も大きく変わってきた。繁殖
牛専業はすでに80頭を超える大型経営が現れる一方で、20〜30頭クラスの他作目
との複合経営に分かれてきている。複合経営ではトマトが中心だが、トマトは最
盛期には相当の労働力を必要とし、専業、複合ともに省力化が農業経営安定のカ
ギとなってきている。
酪農を追いかけ和牛も技術体系に変化が
この一つの解決策として、子牛の早期離乳が進められるようになった。繁殖牛
82頭を飼う植木三雄さんは、手間を省くために昨年ほ乳ロボットを設置した。ほ
乳ロボットで自動的に人工乳が調整され、そこへ飲みに入った子牛は首につけら
たセンサーで自動的に乳量が調整される。一定量を飲むと、給じが止まる。乳が
出なくなって、まだ欲しそうに離れなかった子牛の顔が思い出される。
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【早期に母牛から離して、子牛
を集中ほ育】
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【子牛へのほ乳−ほ乳ロボット
で1頭ごとに乳量が自動調整さ
れる。】
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朝昼晩と子牛のほ乳に追われていたが、ほとんど手がかからなくなった。子牛
の育成には初乳が大切で、その後の発育の成績が良くなった。親牛は近くにある
30ヘクタールの共同放牧地に周年放牧される。手間がかからなくなったので、取
りあえず100頭へ、さらに規模拡大を進めて年間3,000万円の売り上げを目指して
いる。植木さんは昨年12月の市場に22頭を出荷し、総売上高が800万円を超えた。
「技術は本当に日進月歩ですよ」と言うのだった。
麻生 丹さんは和牛振興会の会長をしていて、繁殖牛14頭とトマト20アールの
複合経営である。この春の子牛市場で糸藤の子を57万7,000円で販売した。初め
30万円くらいに売れればと思っていたので、大変なご機嫌だ。自分の山の木を利
用して簡易牛舎を建て、和牛ではまだ普及していないスタンチョン方式にして省
力化を図っている。舎内が明るく風通しもよいので、牛はストレスを受けない。
牛舎前の田を放牧場にし、転作田にはたい肥を十分に入れて粗飼料の増収を図っ
ている。自家保留でできるだけ早く20頭規模に拡大し、トマトから繁殖牛に重点
を移す考えだ。こうした農家が主流を占めるようになってきた。
多頭化や複合部門の拡大のために、夏山冬里方式から周年放牧が増え、久住町
では放牧地の利用率が大変に高い。放牧が限界に達したところでは、隣接する熊
本県阿蘇地方の放牧場を借りる農家も出ている。草地は維持管理をしないと、雑
木が繁り荒れてくる。久住町に広がる高原は年間200万人を超える観光客が入る
が、牛の放牧によって美しい自然が維持されているからだ。また、先にもふれた
ように、久住町では粗飼料の確保と放牧利用のために転作田の利用が活発だ。
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【転作田に放牧された繁殖雌牛】
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こうした技術・飼養形態の変化で、一つは子牛の発育が良くなってきた。人工
ほ乳しながら、栄養不足分を濃厚飼料で補い、次第に濃厚飼料に重点を移すこと
で、発育が改善されてきた。かつて子牛の1日の増体重は0.5キログラム程度で
あったが、この方式で1キログラムくらいまで向上してきた。その結果、子牛の
販売価格が上がり農家収入が良くなってきている。かつて放牧主体でやせていた
子牛は、竹田市にある豊肥家畜市場で平均価格の30〜40%安だったが、現在は改
良が進んだこともあり、平均価格がそれを上回るまでになってきた。「子牛価格
が上がれば農家の生産意欲も盛り上がる」。その上、母牛の耐用年数が伸びてい
る。一般に舎飼では7産前後とされているが、久住町では放牧で足腰を鍛えてい
るので12〜13産くらいまで使う。それだけコスト削減につながっている。
このようにして、久住町の和牛は昔ながらの牛飼いから畜産経営者へと意識変
革を伴いながら着実に増えてきた。これからは一層の増頭とともに「もうかる子
牛生産」を目標に、センターは経営指導に取り組んでいる。経営管理を徹底する
ためパソコンの導入が増えている。また、農協が子牛育成施設としてキャトルス
テーションを今年度末に竣工する予定となっている。農家が3カ月ほど育てた後、
市場に出荷するまで集中して育成することになる。子牛の育成の分業体制をとる
ことによって手が省け、空いたスペースでより多く飼うことができる。振興会の
婦人部ではこれまで研修のための国内旅行をしてきたが、今年は海外旅行を実施
することになった。
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【左右田所長(右)と久住町和
牛振興会の麻生丹会長(左)
(麻生会長の牛舎にて)。】
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久住町の和牛振興の核となった畜産センターの歩みを見ると、畜産の振興対策
を第三セクターの畜産センターに集中したことが成果を挙げたのではなく、それ
を運営指導するリーダーに人材を得たことが成功のカギとなったことが分かる。
第三セクターは人の寄せ集めで内部対立を招きやすく、無責任体制に陥って行き
詰まるケースが多い。組織も大切だが、それを効果的に運営するためにはリーダ
ーの選定がいかに大切かを改めて知らされた。70歳を過ぎれば、もう所長交替と
いう声が出てもよいが、そうした声は一言も聞かれない。「大変だろうが、続け
て欲しい」という農家の声に励まされて、左右田さんは明日も歩き続けることだ
ろう。
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