ヤクルト本社 中央研究所 所長代理 田中 隆一郎
ミルクがいつの時代でも人にとって最良の栄養源であることは論を待たない。 しかし、IDF(国際酪農連盟)加盟諸国の共通の悩みはミルク消費の低迷であり、 新たなミルク需要の喚起のための方策が模索されている。今日、ミルクおよび乳 製品の生体機能調整作用、すなわち機能性食品として、またプロバイオテックス としての付加価値追求の研究がこの突破口になると国内外で期待されている。
21世紀はプロバイオテックスの時代と言われる。プロバイオテックス(Pro biotics)とはアンチバイオテックス(Anitibiotics)に対比される概念で、共 生を意味する生態学的用語プロバイオシス(Probiosis)に起源する。プロバイ オテックスの定義は、「腸内フローラのバランスを改善することにより、宿主に 有益な作用をもたらす生きた微生物(Fuller,1989)」とされる。20世紀のフレ ミングのペニシリンの発見(1929)に始まる抗生物質の進歩は、人類を苦しめて きた多くの感染症の治療に圧倒的な力を発揮した。しかしその影の部分として、 薬剤耐性菌の問題を生じ、今日のMRSA(メチシリン耐性ブドウ球菌)やVRE(バ ンコマイシン耐性腸球菌)等の抗生物質療法の限界を示す深刻な問題を抱えるに 至った。 21世紀は予防医学の比重が増し、生体固有の防御システムの見直しとその強化 が課題となる。生体防御システムとしての免疫と腸内フローラの意義を捉えたも のがプロバイオテックスであり、また食への発展が機能性食品である。また、米 国ではこの概念がニュートラシューチカルズ(Nutraceuticals ; Nutrition + Pharmaceuticals、栄養プラス薬品)に発展している。
人がミルクの保存のためにはっ酵乳を考え出したのはキリスト以前である。こ のはっ酵乳が単にミルクの保存技術にとどまらず、健康に寄与することは十分予 見されていたと思われる。このはっ酵乳の価値を近代科学の俎上に載せたのはロ シアのメチニコフである(1907)。「人の消化管下部には自家中毒の原因となる たんぱく質分解性の菌が生息している。これらの菌による腸内腐敗防止のために、 酸乳(ヨーグルト)から糖質分解性の乳酸菌を摂取することによって自家中毒を 抑制することが長寿につながる」とのいわゆる不老長寿説を唱えた。高名なノー ベル賞学者であった彼自身がヨーグルトを常用し、当時のヨーロッパの食生活の ファッションとなっている。この仮説は今日の腸内細菌学の原点であり、プロバ イオテックスの原点でもある。国内においてもメチニコフの仮説は、ヤクルトの 創業者である代田稔(京都大、医、細菌学)により、腸内フローラの改善を通し た予防医学、「健腸長寿」の思想で発展継承され今日の基盤を作った。 近年、ミルクの付加価値を上げる有力商品として各種乳酸菌、ビフィズス菌を ベースとするはっ酵乳製品が典型的なプロバイオテックス食品として注目を集め ている。このプロバイオテックスの研究は腸内フローラの改善を基礎として、@ いわゆる整腸作用としての下痢,便秘等の予防と治療、A乳糖不耐症,高コレス テロール血症、高アンモニア血症等の消化器疾患の予防と治療、B発がんリスク 低減の観点からの腸内腐敗代謝産物あるいは発がん関連微生物酵素活性の抑制、 各種変異原物質の変換と吸収阻害、C生体防御機能の維持、亢進のための免疫賦 活に大別され、有力な証拠が蓄積されている。また、このようなプロバイオテッ クス研究の流れから、素材としてのミルク自身の機能の見直しと付加価値追求の ための研究が再興しつつある。
高齢化社会の宿命である生活習慣病(高血圧、がん、糖尿病、高脂血症、骨粗 しょう症など)の予防が国民医療の最大の関心事であり、消費者はいまや食と栄 養に関する多くの健康情報を有している。近年のIDFで筆者が関係する栄養ウ イークのシンポジウムのメインテーマも、酪農製品と健康(1998、ニュージーラ ンド、ウエリントン)、酪農製品と心血管系の健康(1999、アメリカ、サンフラ ンシスコ)、将来の健康に対する酪農製品の栄養学的役割(2000、アイルランド、 ダブリン)、ミルクと免疫およびマーケティングにおける酪農製品の栄養訴求 (2000、ドイツ、ドレスデン)であり、一貫して乳および乳製品の付加価値を科 学的に検証することに焦点が置かれている。 最近の国内報告でも、乳酸菌飲料の習慣的摂取が膀胱がんの再発抑制のみなら ず発がんの低減作用があること(Aso Y et al. 1995, Ohashi Y et al.1999)、 はっ酵乳中のミルク由来ペプチドに血圧降下作用があること、オリゴ糖が腸内有 用菌のビフィズス菌の増殖因子であるだけでなく、カルシウム、マグネシウムの 収促進効果を有すること等が示され、高血圧症や骨粗しょう症の予防に効果が期 待されている。さらにミルクおよびはっ酵乳製品の摂取が大腸がんリスク低減効 果を有する可能性があること等も明らかにされつつある。一方、これら新しい研 究成果をいかにマーケットに還元すべきかが21世紀の酪農マーケティングのテー マでもあり、また新しい酪農ビジネスの萌芽でもある。
たなか りゅういちろう昭和40年水産大学校卒業。41年ヤクルト本社中央研究所入所。43〜44年農林省 家畜衛生試験場にて研修。60年金沢大学医学部微生物教室にて医学博士取得。平 成5年首席研究員、11年ヤクルト本社取締役、中央研究所所長代理。