放送大学京都学習センター
所長 宮崎 昭
農畜産業を取り囲む環境は自然的にも、社会的にも、経済的にも、戦後大きく 変化した。しかし経営が必ずしもこの変化にうまく対応したとは限らない。農地 の拡大が望めないまま生産の大幅増大が必要となって、農畜産業は集約化に活路 を求めるようになった。特に畜産業においてはそれが畜産環境問題を発生させる ことになり、その対応も後手後手と周囲から言われ、気分的に暗い中での生産を 余儀なくされている。このあたりで今、政治の世界でブームとなった変革を起こ そうではないか。
農畜産業は人類の生存に最も基本となる衣食住に関する生産物を作るため、直 接自然に働きかける産業であるからこそ、古くから第一次産業と呼ばれてきた。 これがなければ加工などの第二次、流通などの第三次産業は成立しないのである。 農畜産業に従事する人々はまずこれを再認識して、自信をもって己の生き方を誇 りに思い、生産に喜びをもって当たり、明るい日々を過ごすべきである。 筆者はドイツの農村で名刺に農夫と肩書した自信あふれる人と会って握手した とき、その力強さに感激したものであった。
20世紀に世界的に農畜産物が多く生産されるようになって、経済的に発展した 国々はそれを輸入して、あり余る物質を消費する生活を始めた。日本もそういっ た国の1つで、農畜産物を日常潤沢に消費することになった。そのような生活が 当たり前になると、ありがたみを忘れてしまう。今、学生食堂をのぞくと、若者 の多くは食前、食べものに手を合わせているが、それは単なる習慣になっている ようで、平気で食べものを残している。大人の世界ではダイエットのために食べ ものを残すのが当たり前になっている。日本人が食べものを粗末にするようにな ったのは変な社会現象である。中国では水を使うとき井戸を掘った先人へ感謝す るというが、食べものが作られた過程への感謝をもって消費が行われる社会を取 り戻さなければならない。
今日、農畜産物がどのように生産され、商品化され、流通しているかを知らな い人々が多くなった。食べものを残すこと1つを例にとっても別に悪気があって のことでなく、無意識にそうしているだけである。農畜産物が日本であり余る日 常の中で、それは空気をありがたいと思わないのと同じレベルで進んできた現象 である。 しかし、事態はそんなに甘いものではない。今でも世界の食糧は配分のアンバ ランスもあって、人口を養いきれないのである。日本で食糧が不足する可能性は、 食糧の公平な再配分を求める声が世界的に強くなったり、人口の爆発的増加が予 測されたり、食糧増産に投入されるエネルギー資源の大きさが地球規模で環境問 題を拡大したりするとき、現実味をおびることであろう。食べもののありがたみ を知る世代が多いうちに、食べものについて考え方を改めようではないか。
農畜産業を知らない人が多くなっている現在、農畜産業関係者は肩身の狭い思 いをすることも多い。しかし、われわれその関係者はもっとその産業の重要性を 国民に知ってもらうための努力をしてきたであろうか。遅きに失する感もあるが、 身近な人から理解者を増やそうではないか。そのため農業のこと、畜産のこと、 そして家畜のことをもっと話してみよう。 畜産業に詳しい人は家畜がいることで人類の衣食住がどんなに快適になったか を具体的に話そう。朝、羽毛ぶとんから抜け出し、朝食に牛乳とバターつきのト ースト、そしてハムエッグやベーコンを食べるとき、それを生産した家畜のこと、 出勤時背広を着る人は羊を、カバンを持ったり靴をはいたりするとき、牛のこと を国民の多くが思うようにしなければならない。
畜産関係者は畜産業の現場でどのような喜びと苦しみがあるのかを国民に知ら せよう。そうでないと多くの人は畜産物はお金さえ出せば買えるものと思いがち になる。その点、20年以上も前にアメリカのアイオワ州農業祭を案内して下さっ た農業改良普及員の言葉は忘れ難い。 「この州は畜産の盛んなところだが、州民の多くは都会で生活しているので、 スーパーへ行ってコインを投入すれば、牛乳パックがひとりでに出てくるものと 思いがちである。われわれは牛乳を生産するとき、どのような喜びと苦労がある のかを州民に知らせる義務があると考えている。ここで乳牛を展示し搾乳を体験 してもらったり、加工処理を知ってもらうとともに、畜産物のおいしさを覚えて もらうことは畜産関係者の義務と思っています」。 最近ようやくわが国でもこうした気運が高まり、これからの農業を教育と結び つけて、都市住民を味方につけることが重要と認識されるようになった。農政局 の職員も小、中、高校へ出向いて農業の話をしたり、子牛に触れさせる努力を始 めた。これからの農畜産業は守りにばかり向かわず、もっと国民に夢を売ってほ しいものである。
みやざき あきら 昭和36年京都大学農学部卒業、40年京都大学助手(農学部)、49年同助教授、 平成元年同教授、6年文部省農学視学委員、10年京都大学大学院農学研究科長・ 農学部長、11年京都大学副学長を経て、13年4月より現職、京都大学名誉教授。