◎今月の話題


自給自立の遊牧民たち

茨城大学 農学部 教授 中島 紀一






 ここ数年、夏になると中国西域に遊牧民を訪ねる旅をしている。この夏には
アフガニスタン国境近くのタジク族とキルギス族の夏営地を訪ねた。「草原で
生きる誇り高き自給自立の民」というのが遊牧民についての私の印象だ。カザ
フ族が中国でもっとも数の多い遊牧民族だが、「カザフ」とは馬上の人という
意味だそうで、彼らはその民族名と草原での生活様式に大変誇りを持っている。
中国の経済成長政策、遊牧民に対する定住化政策によって、遊牧という生活様
式は急速に崩れつつあるようだが、なおそこには数千年にわたる草と家畜の共
生に依存した穏やかな暮らしぶりが息づいている。

 「種を蒔かず耕さない」「主に乳を食す」「自然の摂理に順応して生きる」

 これが遊牧文化の根本のようだった。


遊牧こそが自然を守る

 「遊牧民の過放牧が沙漠化を加速させている」という意見をよく耳にする。
だがこの認識は根本的に間違っているように思える。もちろん遊牧民の営みの
中には自然を壊し、沙漠化を促進してしまっているケースもあるだろうが、沙
漠化促進の最大の原因は恐らく乾燥地域における農耕と定着畜産であって、遊
牧ではない。

 乾燥地域における植生を根本的に破壊するような遊牧は一般的にはあり得な
い。乾燥地域では乾燥条件に適応した自生植生の方が、山羊や羊など放牧家畜
の食草力よりも強い。短期的、局所的には山羊や羊は草が乏しくなれば根をけ
ずるようにして草を食すこともあるだろうが、少しの時間的距離をおいてみれ
ば、そんな植生条件のもとでは畜群の維持はできない。植生の根本的劣化より
以前に畜群は衰退してしまう。遊牧民はだからこそ草を求めて遊牧するのであ
って、原理的には遊牧畜群の規模は地域の植生力の範囲内に規制されざるを得
ないのだ。地域の植生力を無視して無理に家畜を飼おうとするのが定着畜産で
あり、乾燥地域における乏しい植生とわずかな土壌を耕耘によって壊すのが農
耕だという認識こそが正しいのではないか。

 乾燥地域において遊牧がある場合とない場合ではもちろん植生の状態は違っ
てくる。だが遊牧は乾燥地域の草原型植生の形成と維持にすぐれて共生的であ
り、乾燥地域という過酷な条件の下で遊牧は大変安定した生態系を作り出すこ
とに成功した驚嘆すべき営みである。沙漠的環境は地球上では、あるいは地球
史的には異常現象ではなく、だから沙漠は普遍的存在と理解すべきなのだ。遊
牧はそうした沙漠的な地球誌において、人類が作り上げ、継承してきたとても
すぐれた共生的文化様式だと思われる。


乳を主食とする遊牧民

 「遊牧民の文化は肉食文化だ」との意見もよく耳にする。この認識も恐らく
根本的に違っている。中国西域の乾燥地域についてみれば、もっとも肉食的な
のはオアシスに住むウイグル族とそこに移住してきた漢民族である。ウイグル
族も漢民族も主な生業は農耕と商業である。農耕の主体は小麦などの穀作であ
って畜産ではない。彼らはたいへん好んで羊肉や山羊肉を食べる。その肉は主
として遊牧民から供給されている。

 他方、遊牧民は案に相違して日常的にはあまり肉を食べない。冬がくる前に
越冬家畜を残して家畜は販売され、あるいは食用にと畜される。このと畜分は
寒さの中で貯蔵され冬営地の遊牧民の食に供されるが、遊牧時には彼ら彼女ら
はほとんど肉を食べない。肉食は特別なお祝いなどの時に限られるようだ。彼
らの伝統的主食は乳であり、それを加工したチーズとヨーグルトである。現在
ではナンなどの小麦食も重要になっているが、小麦は家畜の販売代金で購入す
るのであって、この意味でも遊牧民は肉食文化の民ではない。


遊牧民は騎馬民族か

 「遊牧民=騎馬民族」というのもわれわれの常識である。ユーラシアの草原
に展開するジンギスハーンの英雄譚はまことに魅力的だし、江上波夫さんの日
本人騎馬民族説も引き続き人気を得ている。日本人には騎馬民族ファンが多い
ようで、騎馬民族はモンゴル族で、モンゴル族は遊牧民なので、騎馬民族=遊
牧民という常識が成立しやすいのだろう。

 モンゴル族や冒頭で紹介したカザフ族が騎馬民族であることは確かだが、こ
の夏に訪ねたキルギス族やタジク族は馬ではなく主にロバを使っていた。彼ら
の土地は標高が高く冬の寒さに馬は耐えられないためとのことだった。その意
味では「遊牧民=騎馬民族」とは簡単には言い切れないようである。

 人間の移動には馬やロバが使われるが、野営地の移動の時には駱駝が大活躍
する。駱駝の所有者は決まっているが、いつもはまったくの放任放牧で、移動
の時だけ集められて荷物を背負わされるとのことだった。

 舎飼い中心に発展してきた日本の畜産にも、今放牧の機運が広がっている。
林地や荒廃農地まで視野を広げれば放牧畜産の可能性はあるのではないか。

 中央アジアの遊牧民にも学びつつ、自然と共にある日本畜産の展開を期待し
たい。

なかじま きいち

総合農学 農業戦略論
東京教育大学農学部卒 鯉淵学園教授を経て2001年茨城大学農学部教授
(緑環境システム科学担当)

主な共著書:『有機農業』(コモンズ、2001)、
      『生協青果物事業の革新的再構築への提言』(コープ出版、1998)、
      『伝統市と地域社会農業』(農政調査委員会、1991)、
      『田畑輪換の耕地構造』(農政調査委員会、1986)


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