早稲田大学大学院アジア太平洋研究科
教授 原 剛
念願かない2001(平成13)年11月10日、中国は世界貿易機関(WT O)に加盟した。1億3,000万ヘクタールの農地と8億7,000万人の農民を擁する世 界一の農業大国のWTOの加盟でどのような変化が予測されうるであろうか。 中国の穀物生産量は2002年現在年間5億トンを超え、在庫も史上最高の5億トン 強に達している。中国は宿願の食糧供給不足の問題を解決した。政府が生産者へ の保護価格で食糧を買い付けてきたため、需給を超えて生産を刺激し、豊作も重 なったため、余剰穀物への財政負担が重くなっている。さらに、倉庫が足りなく なるなど、さまざまな新しい問題に直面している。このような背景の下で、中国 政府は畜産業の振興を戦略的に打ち出してきた。畜産業を発展させることで、人 口の圧力と資源の制約が大きい農地の地力を有機質肥料の投入によって向上させ、 飼料穀物の生産を促進できるのではないかと考えている。畜産業の発展に伴い、 より多量の穀物が消費され、市場価格が上昇するため、農民の飼料穀物生産の意 欲を刺激して、過剰な食糧穀物の生産を飼料穀物に転換、拡大しようとする戦略 でもある。また、畜産業から発生する大量の有機肥料を農地に投入すれば地力が 高まり、単位面積の収量が向上すると期待されている。
畜産業はまた、中国農村の1億5,000万人とみられる余剰労働力を吸収する政策 とみられている。さらに、畜産物加工の拠点は、農村社会安定の柱とされる「小 城鎮」、すなわち農村近辺で上下水道、電気網、交通網を整備し、郷鎮企業(町 村に根付いた中小企業)を集めた農村市街地の育成策の礎としても位置付けられ ている。このように畜産業は、農業の構造改革の中核を成す重要な政策とされて いる。 農民、殊に農村余剰労働力を郷鎮企業と小城鎮に移転させて北京、上海などへ の流入人口(民工潮)の圧力の受け皿とし、就業の機会を拡大しようとする重要 な国策の一環を畜産業は担っている。 中国の畜産業の総生産高は農業GDPの28.6%にとどまっており、先進国の畜産 業が農業GDPに占める平均割合55%を大きく下回っている。 これまでは農村部の郷鎮企業の発展が、農民の収入向上に貢献してきたが、市 場経済への移行に伴い、近年、企業の所有権改革が進められ、郷鎮企業の生産も 伸び悩んでいる。中国の経済全体の成長率も、90年代初期のGNP成長率11.8%か ら、98年の7.8%、99年の7.1%と毎年下がってきている。このような状況下で、 農民の収入増加を図るため、農産物の中では加工のチェーンが最も長く、雇用と ともに高収益が期待できる畜産とその加工産業の育成策がとられつつある。 中国の畜産政策で注目されるのは「生態農業」の導入である。中国の「生態農 業」は生態学の原理に従い、伝統農業の精髄を取り入れた、地域の自然条件にふ さわしい農業である。政府は80年代初期から小規模な実験を始め、その後広範な トレーニングコースを開設、技術者を育成し、実験・展示を通じて各省・市へ 「生態農業」の概念と方法を普及している。1993年から98年にかけ中国政府農業 部、国家計画委員会、国家環境保護総局など7つの中央官庁の共催で、全国50の 県で生態農業の実験農場を大規模に拓くプロジェクトを展開してきた。 たとえば江西省など南方地域では「養豚−メタンガス−果樹」のモデル、北方 地域では「ビニールハウス−野菜−養豚−メタンガス」のモデルが広域に普及し 始めている。 「養豚−メタンガス−果樹」モデルは、江西省の中山間地から始まった。この 地域では農地の開墾で荒れた生態系を回復するため、果樹の栽培に特化している が、経済性はあるものの肥料が不足しており、山間地域なので電気も整備されて いない。そこで養豚場にメタンガス・タンクを設け、生ごみと豚のふん尿などの 廃棄物を発酵させてメタンガスを造り、それを燃料と発電、照明に使い、カスは 果樹の有機肥料に循環させている。果物の不良品は豚の飼料にされ、果実と豚肉 はよい換金物になり、地域経済が発展するきっかけとなった。 「ビニールハウス−野菜−養豚−メタンガス」のモデルは北方で普及している。 北方地域の冬は寒く、家畜が成長しないため、畜産業は遅れをとってきた。そこ で豚を暖かいビニールハウスに入れて飼育することで成長を早め、排せつ物から 発生するメタンガスをタンクに集めて発電燃料とし、温水と照明の熱源にしてい る。ハウスでは野菜を栽培して、メタンガス発電のカスを野菜の有機肥料に回し ている。 中国農業6000年の英知を「接続可能な畜産」に蘇らせる試みであるといえよう。
WTO加盟により、中国は農業への補助の削減を求められる。問題は農業の公 益的機能を市場経済の中でどう定量化していくかである。農村地域内部の効率の 改善と農業の多角的経営によって農村の自立を目指し、生態農業や退耕還林(傾 斜25度以上の耕地に植林する)などの新政策により、接続可能な農業を試みるこ とが当面の政策となるだろう。
はら たけし昭和37年毎日新聞社入社、社会部記者、科学部長、編集委員、論説委員、平成10 年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授 現在に至る。 毎日新聞客員編集委員、東京農業大学客員教授、 「新・地球環境読本」(福武書店 平成4年) 「日本の農業」(岩波書店 6年) 「農から環境を考える」(集英社 13年) 等著書多数