農林水産政策研究所 研究員 木下 順子
九州大学大学院 農学研究院 助教授 鈴木 宣弘
わが国のノンブランド牛乳販売促進事業は、主に全国牛乳普及協会(以下、全 普協)および中央酪農会議により実施されているが、これらは関係者からの拠出 金と事業団補助金によってまかなわれており、2000年度の事業規模は全普協で約 73億円、中央酪農会議で約7億円となっている。 これらの拠出金を拠出している関係者だけでなく、事業団補助金において税金 を投入している一般国民にとって、投じた費用が十分に見返りのあるものかどう かをチェックすることが従来以上に要求されつつあるのが今日の情勢である。 とりわけ、ここ数年の飲用乳需要停滞傾向は、事業の効果に対する関心を高め ている。 このような要請に応える上で、飲用乳需要の停滞という転換期を既に迎えた欧 米先進国における分析事例から学べる点は多いと考えられる。 中でも飲用消費割合が高い英国(注1)において、どのような牛乳販売促進活動 が行われ、その事業効果がどのように評価されているのかを調査することによっ て、大きなヒントが得られるものと期待される。 しかし、英国の牛乳販売促進事業に関する調査分析は、これまでわが国ではほ とんど行われていない。そこで、本稿では、英国におけるノンブランド牛乳販売 促進事業の概要および事業効果の評価分析事例について調査を行った。 調査方法は、英国のノンブランド牛乳販売促進事業を実施しているNDC(Natio nal Dairy Council;全国酪農評議会)における聞き取り調査、およびその際の人 的つながりを活用したEメール、郵送等による情報収集である。
NDCの組織と財源 NDCは、1920年に乳業および酪農生産者からの拠出により設立され、酪農製品の 消費促進や酪農業界全体へのイメージを向上するための広告事業、調査事業等を 実施している組織である。 広告事業の財源は、酪農家からMilk Development Council(牛乳開発評議会) へ拠出される生乳1リットル当たり0.05ペンスの一部およびDairy Industry Fede ration(乳業連合会)からの拠出金である。予算規模は、1980年代後半には年間 2,000〜2,500万ポンドであったが、1994年11月のミルク・マーケティング・ボー ド廃止に伴う生乳取引自由化以降は大幅に削減されている。現在では、年間約11 0万ポンドの通常事業費に加えて、18カ月の特別キャンペーン事業費として約900 万ポンドとなっている。 事業効果の評価分析については、ミルク・マーケティング・ボード時代には10 年毎に実施され、予算も10年以上の長期にわたって保証されてきたが、生乳取引 自由化以降はより短期的に成果が求められるようになり、現在では18カ月毎に評 価報告が行われている。 広告のコンセプト NDCの広告事業は、テレビ、ポスター、新聞、ラジオ等のマスメディア広告事業 がほぼすべてを占めており、テレビCMには全事業費の80〜90%が投入されている (注2)。2000年6月から18カ月間の特別キャンペーン(White Stuff キャンペー ンという)では、3種類のCMが放映され、図1のような大判の街頭ポスターも作成 された。同キャンペーンの主なコンセプトは次のとおりである。 図1 「White Stuff キャンペーン」ポスター (a)「白いまま飲もう」というメッセージが前面に出されたポスター(b)かなり大判のポスターで人目を引いた
大人の飲物としてのイメージの普及 今回のキャンペーンのターゲットは、子供よりも、主に大人(特に子を持つ親 )に置かれ、牛乳は子供の飲物であるという従来の認識に代えて、大人の飲物と してのイメージを普及させることが1つの目標とされた。 これは、親が牛乳を飲む家庭では子も牛乳を飲み、その子供が将来家庭をもっ た時に、同様の好循環が形成されるという長期的な効果をねらったものである。 白いまま飲もう 英国において牛乳はコーヒーや紅茶に「加えて飲むもの」としてとらえられて おり、のどが渇いたときや食事の際にそのまま飲むものとしてはあまりとらえら れていない。従って、白いまま飲む習慣が普及すれば、大いに消費拡大につなが ると考えられる。 ただし、加える量としては日本におけるコーヒー用クリームの感覚よりもずっ と多い。筆者の一人が英国の列車の中でコーヒーを注文した際に、ウェイターが コーヒーとミルクのポットを左右の手に持ち、カップに同時に注ぐ光景を見て、 英国でのミルクの飲み方を実感した。 牛乳の乳脂肪率を正しく知ってもらうこと 乳脂肪を肥満の原因と考えて消費を控える人が多く、NDCが2000年に実施した英 国の消費者800名に対するアンケート調査では、約1割の消費者が、乳脂肪率がも っと低ければもっとたくさん飲むだろうと回答している。 しかし、牛乳の乳脂肪率がどのくらいだと思うかという質問に対しては、全乳 25%、低脂肪乳11%が平均的な回答であった(正しい回答は、全乳4%、低脂肪乳 1.8%)ように、実際の乳脂肪率よりも極めて高く誤解されているのである。 牛乳の総合的な栄養価が「美容と健康」に良いことを知ってもらうこと 牛乳が骨のために良いことは過去のキャンペーンで十分に消費者に浸透してお り、これ以上アピールしても消費拡大にはつながらないと考えられるため、カル シウム以外の総合的な栄養面にアピールのポイントが移されてきた。 また、牛乳による総合的な栄養摂取と「美容と健康」との関係を強調すること によって、牛乳を「飲まなければならない」という以前の認識から「飲みたい」 という認識へと、消費者の姿勢を変革することも1つのねらいとなっている。 事業効果の定量分析 以上のようなNDCによる広告事業の効果について、どのような評価分析が行われ ているのだろうか。 ここでは、MMD Ltd.により実施された評価分析事例を紹介する。 MMDとは、1986年に創設され、英国酪農業界と連携して定期的に牛乳市場の分析 を行ってきたシンクタンクであり、ここでは2001年1月に報告された評価分析(注 3)について概要を紹介する。 表1には、分析モデル、1989〜98年の四半期データを用いた最小二乗法による計 測結果が示されている。 また、近年英国において牛乳消費が減少してきた主要な影響要因が示されてお り、最大の要因はスーパーマーケットの台頭と関係していることがわかる。 すなわち、食品をスーパーマーケットで購入する傾向が強まるほど、家庭内の 牛乳消費量は減少してきたのである。 第2の要因は、牛乳宅配価格の上昇である。なお、牛乳の小売価格が1%上昇し たときの需要量変化(自己価格弾力性)は −0.040%と極めて低く計測されているが、これは、スーパー等において価格が引 き上げ(下げ)られても需要はそれほど減少(増加)しないことを意味し、必需 品としての特徴を示している。 テレビ広告による牛乳消費押し上げ効果については比較的小さく、テレビ広告 投入量1%の増加に対する牛乳消費量の増加は0.015%と計測されている。 また、その効果はCM放映月から12カ月後まで持続する(有意水準10%)。 さらに、仮に1993年から現在まで広告事業が全く行われなかった場合をシミュ レーションすると、図2のようになり、広告があった場合よりも、牛乳消費量は累 積して2億8,600万リットル損失していただろうと推計されている。 表1 MMDの分析モデルおよび計測結果の概要
図2 牛乳の家庭内消費量 −広告があった場合となかった場合の比較−
資料:MMD Ltd. による試算結果
最後に、日本の場合と比較する視点から、英国NDCのノンブランド牛乳販売促進 事業とその評価分析事例の特徴をまとめてみた。 英国では、牛乳はコーヒーや紅茶に加えて飲まれることが多いので、「白いま ま飲もう」というメッセージによって、直接飲用する習慣の普及による需要拡大 が期待される。 一方、日本の場合、家庭内における牛乳消費量の約8割が直接飲用されている( 全普協アンケート調査より)ように、牛乳は飲料としてそのまま飲まれる場合が ほとんどであり、英国の場合とは逆である。 しかし、近年日本で牛乳消費が低迷してきた要因の1つとして、果汁飲料や茶系 飲料などのドリンク類との競合関係が指摘されている。 そこで、日本では、飲料としてだけでなく、需要が伸びているコーヒーなどに 加えて飲んでもらうことが、牛乳販売促進のポイントとして重要になってきてい るのである。 また、牛乳飲用の歴史が長い英国において、多くの消費者が乳脂肪率を正しく 知らないという事実は意外であった。 一方、日本の消費者も同様に、乳脂肪率に対する認知度は極めて低い。全普協 による消費者アンケート(2000年)で、「乳脂肪率は20%以上」と非常に高く誤 解している消費者および「分からない」と回答した消費者を合計すると、全体の 約5割にのぼったように(注4)、英国の場合よりいっそう認知度は低いと言える。 このことは、日本の乳業メーカー等が「3.5」等の表示にこだわり、乳脂肪率3 .5%を満たさない生乳を受け入れないなどの取り組みをしてきたことが、消費拡 大のためにどれほど効果があったのかを問われる調査結果と考えられる。 MMDの分析事例を見ると、NDCの広告事業の効果は0.015%と極めて小さく計測さ れているが、広告効果があまり発揮されない背景の1つとして、英国において牛乳 が非常に必需性の高い食品である(自己価格弾力性が−0.040%と極めて非弾力的 である)という点には注目すべきと思われる。 一方、日本における牛乳需要は、英国の場合ほど必需性が高いとは一般に考え られず、基本的な需要特性が異なれば、広告事業のあり方や広告効果も異なって くると考えられる。参考までに、日本の全普協の広告事業の評価分析事例(注5) を紹介すると、広告事業費の1%の増加に対して白牛乳総需要の増加は0.09%と計 測されており、英国の計測例と比較して非常に高い。 (注1)牛乳と乳製品(バター、脱脂粉乳、チーズ)の1人当たり消費量の比率は、 日本および英国9:1、フランス7:3、ドイツ8:2、また、国内生乳生産量 を分母とする飲用乳消費量の割合は、日本59%、イギリス48%、フランス およびドイツ18%、アメリカ35%である。ただし、年間1人当たり飲用乳 消費量は、日本40kg、英国120kg、フランス70kg、ドイツ65kg、アメリカ 100kgと、英国は非常に多い(データはUSDA「World Market and Trade」 2000年)。 (注2)日本の全普協による事業費支出の内訳(2000年度)は、マスメディア広告 事業費は全体の約35%の20億円(うち半分以上がテレビCM)、学乳供給事 業費および集団飲用促進事業費として約17億円、その他事業費として約18 億円となっている。 (注3)MMD Ltd.『The Generic Marketing of Milk』NDC発行、2001年1月。 (注4)全普協の消費者アンケートでは、「普通の牛乳に含まれている乳脂肪分は およそ何%だと思いますか?」という質問に選択肢から選んでもらった結 果、選択肢(「 」内)および回答率の順に、「5%未満」19.0%、「5〜10 %未満」16.1%、「10〜20%未満」15.3%、「20〜30%未満」10.0%、「 30%以上」5.2%、「分からない」34.1%となった。 (注5)木下順子・鈴木宣弘「牛乳販売促進事業の費用対効果分析研究報告書」全 国牛乳普及協会、2001年3月。ただし、本分析と英国の分析事例とでは計 測手法等が異なるため、あくまで参考としての比較である。なお、同分析 では日本の牛乳需要の自己価格弾力性について−1.59という弾力的な値が 計測されている。自己価格弾力性の絶対値が1を上回ることは、自己価格 の変化に伴う需要の変動幅が大きいことを意味し、し好品の特徴である。